ストレッチャーに載せられてアンビリカルブリッジまで運ばれると、学生服を着た成長途上の男のヒトが立っていた。 このヒト知ってる。碇シンジ。この世界の、碇シンジ。 意図しないのに、勝手に口元が綻びそうになる。これは、うれしいと云う感情。 ブリッジの反対側のたもとまで運ばれて放置されたから、ストレッチャーを降りた。 この身体は、心臓の拍動にして196万5643回ほど前に行なわれた零号機機動実験の失敗で重傷を負っている。傷ついた右の角膜の回復はともかく、右橈骨と右第七肋骨から第九肋骨の開放性骨折が癒合するまでには、あと271万5439回ほどの拍動が必要だろう。 しかし、自分にとって痛みを遮断することなど造作もない。あのヒトのためならば、なおのこと。 ブリッジの真ん中でうなだれるあのヒトのもとへ踏み出そうとした途端に、ケィジがひどく揺れた。自分の制御下にあるこの身体は、この程度で倒れたりはしない。肋骨の骨折があと1本少なかったら、尻餅をついたあのヒトを抱え起こしに行っただろうに。 振り回される照明器具の過重に耐え切れず、ワイヤーが音を立てて千切れる。 「危ないっ!」 「うわぁっ!」 葛城一尉の言葉に上を見たあのヒトが、両腕をかかげて頭部をかばう。 落下してくる照明器具。あの勢いでぶつかれば、ヒトの肉体などひとたまりもないだろう。 LCLを断ち割って跳ね上がる、巨大な手。弾き飛ばされた照明器具がケィジの各所にぶつかって、盛大な音と破片を撒き散らす。 そうなると知っていて、なのに胸の底が冷えた。…これが、心配という情動? … 身構えてた両腕の隙間を、少し開いて、あのヒトが様子を窺っている。 『 エヴァが動いた!どういうことだ!? 』 『 右腕の拘束具を、引きちぎっています! 』 「まさか、ありえないわ!エントリープラグも挿入していないのよ。動くはずないわ!」 ブリッジの反対側のたもとで叫んでいるのは、金色の頭髪の女のヒト。このヒト知ってる。赤木博士。ときおり、ひどく冷たい目でこの身体を見るヒト。 「インターフェースもなしに反応している。と云うより、護ったの? 彼を。 …いける」 背後で呟いたのは、きっと赤いジャケットの女のヒト。このヒト知ってる。葛城一尉。 でも、その言葉どおりにはさせたくなかったから、尻餅をついたままのあのヒトに歩み寄った。傷に障らぬよう、慎重に。 … このヒトはうつむいて、自分を見てくれない。あの優しい眼差しで見て、欲しかったのだけど。 この世界のこのヒトは、まだ弱いのだ。だから仕方ない。 「…はじめまして」 この世界に来て学んだ、初めて逢ったときの言葉。邂逅の言葉。記憶の中にはあったけれど、使ってくれたのは葛城一尉。使うように強要したのも、葛城一尉。 自分に向けられた視線は弱々しくて、胸が締め付けられるよう。…これが、悲しいという感情? 「…心配いらないわ。貴方は、私が守るもの」 振り返り、赤いジャケットの女のヒトに視線を移す。 「…葛城一尉。このヒトを安全なところにお願いします」 「レイ。大丈夫なの?」 「…問題ありません」 ちらりと戻した視界の中ではもう、このヒトの視線が自分に向いていなかった。うつむき、床を見ている。 護ってあげれば、代わりに戦ってあげれば、このヒトの笑顔を得られると思っていた。…でも、それではダメなのだろう。 だけど、今はそれしかしてあげられることがないから。 「…行きます」 …自分がヒトの心というものを理解できるようになるのは、いつのことになるのだろうか。 *** ≪ 冷却終了 ≫ ≪ 右腕の再固定完了 ≫ ≪ ケイジ内、すべてドッキング位置 ≫ 『了解』 このエヴァンゲリオンのことを初号機と呼ぶのは、抵抗がある。 それは、自分の名前だから。あのヒトが付けてくれた、自分の名前だったから。 『停止信号プラグ、排出終了』 ≪ 了解。エントリープラグ挿入 ≫ ≪ 脊髄連動システムを開放。接続準備 ≫ だけど、このエヴァンゲリオンが初号機と名付けられたのも事実。受け入れるしかない。 自分は今、綾波レイなのだから。 ≪ プラグ固定、終了 ≫ ≪ 第一次接続開始 ≫ タブリスの奨めで自分はしばらく、手遅れ寸前の宇宙のサードインパクトを阻止して回った。 その宇宙のリリスの体液から身体を造り上げ、白いエヴァンゲリオンを薙ぎ倒し、その宇宙の初号機からあのヒトを救い出しコアを奪い、その宇宙のリリスを殺した。 その中には本当に手遅れ寸前で、リリスの教えてくれた時間の数え方で11兆5467億3718万6295カウントしか居なかった宇宙すらあった。 タブリスは3つは救えると言っていたけれど、次にあのヒトに会えた時には、その数は3グレートグロスを越えていたのだ。 『エントリープラグ、注水』 そうした宇宙を6グレートグロスと1グロスと6ダースほど救った後で、リリスが送り出してくれたのは自分自身、初号機の中だった。 …お疲れさま。と、かけてくれたのがねぎらいの言葉だと知ったのは、かなり後のこと。疲れる。という状態を、まだ知らなかったころ。 ≪ 主電源接続 ≫ ≪ 全回路、動力伝達。問題なし ≫ 『了解』 その宇宙で、碇ユイを捕り込むことなく戦い。次の宇宙では赤いエヴァンゲリオンとして惣流・キョウコ・ツェッペリンを捕り込むことなく戦った。黄色いエヴァンゲリオンになった時は、何故か全面改修が行なわれなくて、青くなり損ねた。その次は黒いエヴァンゲリオンとして戦って、人知れずバルディエルを葬った。銀色のエヴァンゲリオンでS2機関を全開にして戦えた時に、久しぶりという感覚と爽快という気分を憶えた。それらを言語として知ったのは、最近。 白いエヴァンゲリオンで戦った時は、かばったはずの赤いエヴァンゲリオンに後ろから殴りかかられて痛かった。痛覚が何も伝えなくなっても、いつまでも痛かった。 もしかすると、あれが、心が痛いと云うことだったのかもしれない。 『第二次コンタクトに入ります』 そうして今回、リリスがこの宇宙に送り出してくれたのだ。 …貴方はまだ、ヒトというものを理解できないだろうから。と、この身体を与えてくれた。 手慣らしにはうってつけだから。と放り込まれた綾波レイの身体は重傷を負ったばかりで、なにもかもが痛かったのだけれど。 『A10神経接続、異常なし』 ≪ LCL転化率は正常 ≫ 『思考形態は、日本語を基礎原則としてフィックス。初期コンタクト、すべて問題なし』 ヒト同然の脆弱な肉体でどこまでできるか、とても不安だった。その気になればATフィールドを張れるとはいえ、それでできるのは己の身を護ることぐらいだ。 ロンギヌスの槍にさえ気をつければ、サードインパクトは起きないわ。とリリスは言うけれど、もう少し教えてくれてもいいと思う。 どうすればいいかと請うた自分を、自分で考えなければダメ。とリリスは突き放した。 このこと知ってる。放任主義。…脆弱な肉体で独りぼっちにされて覚えた、心細いと云う気持ち。 『双方向回線開きます。シンクロ率、58.7%』 『 …零号機のときよりも高い。どういうこと? 』 初号機である自分が、初号機とシンクロできないわけがない。 ただ、コピーであることの餓えを碇ユイという不純物で鎮めているこの初号機を、完全に支配下に置くことはできないようだ。黄色いエヴァンゲリオンほどではないが。 『 ハーモニクス、すべて正常値。暴走、ありません 』 『 いけるわ 』 『発進、準備!』 ≪ 発進準備! ≫ 今の自分には、戦うことしかできない。 ≪ 第一ロックボルト外せ! ≫ ≪ 解除確認、アンビリカルブリッジ、移動開始 ≫ ≪ 第二ロックボルト外せ ≫ ≪ 第一拘束具除去。同じく、第二拘束具を除去 ≫ 悲しいけれど、それしかしてあげられることがないなら、それを為すだけだ。 ≪ 1番から15番までの安全装置を解除 ≫ ≪ 解除確認。現在、初号機の状況はフリー ≫ ≪ 内部電源、充電完了 ≫ ≪ 外部電源送索、異常なし ≫ 『了解、エヴァ初号機、射出口へ』 いつか、ヒトの心というものを理解して、あのヒトを笑顔にしてあげたいと思う。 『進路クリアー、オールグリーン!』 『発進準備完了!』 『了解』 どうか、それまで、待っていて。 『発進!』 「初号機の初号機による初号機のための補完」 おわり2007.11.08 DISTRIBUTED2008.02.18 PUBLISHED【第九回 エヴァ小説2007年作品人気投票】にて、過分なご支持と評価をいただきました。 投票してくださった方々への感謝の気持ちを、この一篇に添えて、御礼申し上げます。ありがとうございました。