「アスカちゃん。弐号機の動きを止めることに専念して」 「わかった」 弐号機の両手に護られるように、カヲル君の姿。見上げる笑顔が、やさしい。 「 待っていたよ 」 やはり、止められることを望んでいるのか。 ≪ エヴァ両機、最下層に到達 ≫ お互いの手を掴みあって、初号機と弐号機が力比べ。 ≪ 目標、ターミナルドグマまで、あと20… ≫ ≪ エヴァ両機、降下中。現在第7マ…≫ 繋ぎっぱなしだった通信ウィンドウが、唐突に砂嵐になった。カヲル君がATフィールドを、外界を隔絶させるために使ったのだろう。 遮られていた重力が戻ってきて、急に落下速度が上がる。 代わりに重力軽減ATフィールドを展開して、弐号機ともどもターミナルドグマに降下した。 ヘブンズドアへと向かうカヲル君を尻目に、まずは弐号機の相手だ。 「このっ暴れんじゃ、…ないわよ」 シンクロ率が低い分、初号機のほうが動きが鈍い。それを先読みとパワーで補って、何とか抑え込んでいる。 弐号機の左肩ウェポンラックが開いたのを見て取って、アスカがその右手を開放した。弐号機がナイフを手にした瞬間、その手をナイフごとウェポンラックに押し付けて固定。そのまま力ずくで左腕をねじり上げながら、弐号機の背後へと廻り込んだ。もちろんそこで終わらない。左腕の固定を胸部装甲に任せてフリーにした右手で、弐号機の右肘を掴む。腕の力を完全にそいだこの体勢からは、参号機のような真似事をしでかさないかぎり抜け出せないだろう。 やはり、エヴァの操縦はアスカが一番だ。 ATフィールドを展開して、その内側に弐号機を取り込む。カヲル君の支配力が遮られて、弐号機の動きがあきらかに鈍くなった。 もっとフィールドの強度を上げれば、完全に支配下から奪い取ることも可能だろう。だが、範囲外に出てしまえば効力を失うから意味はない。 …では、どうすればいいか。その答えは、ほかならぬカヲル君が教えてくれていた。 ― エヴァは僕と同じ体でできている。僕もアダムより生まれしものだからね。魂さえなければ同化できるさ。この弐号機の魂は、今自ら閉じ篭っているから ― 「ATフィールド、反転」 かつて、エヴァ侵蝕使徒と対峙したときに、綾波が行った手段。なんぴとをも受け入れる光の天蓋。…いや、なんぴとたりとも逃さぬ、光の牢獄。が正しいか。 実体のある弐号機そのものはさすがに融合できないだろうが、その心を引き寄せることはできるはずだ。 … 心の裡に見えるのは、オレンジ色の水面と赤い空。不自然なまでにまっすぐな、水平線。 目の前に、アスカ。状況が把握できず、ちょっときょろきょろ。 「ユイ。…ここは?」 それには答えず、アスカの背後を指差してみせる。釣られて振り返った先に、若い女性の姿。…悠久なる存在に捕らわれると、変化することを許されないのかも知れない。おそらくは、10年前の姿のままで。 『 アスカちゃん 』 惣流・キョウコ・ツェッペリンは、一目で娘を見分けたのだろう。弐号機の中からずっと見守ってきたからか、それが母親ということなのか。 しかし、アスカのほうは俄かには認識できなかったらしい。あきらかに戸惑っていた。 「ほら、アスカちゃん」 促されてようやく、夢じゃないと思ったのだろう。アスカがゆっくりと歩み寄っていく。水面を掻き分ける足取りが、夢遊病患者のようにおぼつかないが。 こちら側の水面にはさざなみが連なり、こころなしかアスカを後押ししているように見えた。境界を乗り越えたアスカの足を、鏡のように静かな水面が拒んでるように見える。その意味を直感したらしいアスカが、体をこわばらせた。 … じっと水面を見下ろしていたアスカが、視線を上げて確かめたのは、キョウコさんの表情だろう。今にも泣きだしそうな、だけど満面の笑顔。 「…ママ、そこに居たのね」 こくり。とキョウコさんが頷いた。その目尻はもう涙で縁取られている。 「…ずっと、見てくれてたのね」 ええ。と、やさしい眼差しで。 「ママは、ママを辞めたんだと思ってた」 「ママは、死にたかったんだと思ってた」 「ママは、ワタシも殺したいんだと思ってた」 かぶりを振りつづけるキョウコさんの姿を目にしてか、アスカの声音が湿り気を増していく。 「…ワタシ、ずっと誤解してた」 今まさに抱き合おうと母子が歩み寄った瞬間、キョウコさんの体を葉脈のごとき錯綜が駆け登った。 「ママっ!」 同時に、現実の世界では弐号機が暴れだす。関節を極められていることなどお構いなしに、初号機を振り払おうとする。コアに封じられた人格を奪われて、狂乱しだしたのだろう。…最初から無ければ、気にもしまい。だが、与えられてから奪われることは、耐え難いものだ。それが、心を知らぬ使徒であろうとも。 アスカが差し出した手を払いのけて、キョウコさんが哀しげにかぶりを振った。 ごめんね、アスカちゃん。と言い終えることもできず、LCLと化して崩れ落ちる。 … 「ママっ!? ママっ!!」 我に返ったアスカがオレンジ色の水面を掻き分けるが、何か見つかるわけもない。 現実の世界では、弐号機が徐々に落ち着いてきていた。引き戻されたキョウコさんが宥めているのだろう。 もう、その心を閉ざすことはないと確信して、ATフィールドの反転を解く。心を開いていれば、易々とカヲル君に操られることもない。 … 視界が現実に戻ってきたことに途惑って、アスカがもがいた。夢で階段を踏み外して、動いた体に目を覚まされたかのように。 呆然としているのだろう。弛緩しきっているのが後ろからでも判った。 肩が跳ねたと見えた途端、唐突に体ごと振り返ろうとする。が、シートが放さない。圧着ロックを解除することすら忘れて、懸命に顔を向けてきた。 「ママは!?」 「そこに、居るわ」 指さした先、釣られて向き戻ったアスカの視界は、弐号機の赤で染まっただろう。 … ワタシ…。嗚咽に喉を詰まらせて、アスカが弐号機へと手を差し出す。 ワタシ…。圧着ロックが体を放してくれないのを、なんと違えたか、いやぁ…。と力なくうなだれて。 シートのロックを両方とも外し、アスカの方へと泳ぎ寄る。 その頭を肩に預けるように抱きしめてやると、ためらいがちに抱き返されるのが判った。 ワタシ、…ワタシ。 ワタシっ! …ママに、ママを…、ママとっ うわごとめいた呟きは意味をなさず、泡のような虚しさで潰れて消える。出口を見つけられないアスカの懊悩が、その裡に膨れ上がっていくようで、哀しい。 そっと、頭をなでてやった。 … 落ち着くのを待って、やさしく引き剥がす。 「お母さんを、取り戻したい?」 えっ。と合わせてくる視線は、涙に縁取られてかLCLを薄くし。 「私に弐号機をくれるなら、お母さんを取り戻してあげる」 「…できるの?」 頷いた。舞台が整い、役者が揃った今なら。いや、今だからこそ。 「お母さんを取り戻せば、どのみち弐号機は使い物にならなくなる。だから、弐号機をちょうだい?」 かつて天秤にかけた自分と母親を、今また秤に載せて。その蒼い瞳が揺れた。 受け皿に分銅を置く時のように静かに、ささやく。 「さっき会ったお母さん。弐号機の中に居るお母さんこそが、アスカちゃんの本当のお母さんなの。 アスカちゃんの置き去りにしたのは、ただの抜け殻だったのよ」 目を見開くアスカを、再び抱きしめる。 「…いいえ、違うわね。 あのような抜け殻になってしまっても、アスカちゃんのお母さんであることだけは忘れなかったのね、キョウコさんは」 それでもまだ天秤は定まらず、アスカの葛藤が瘧となってその体を震わせていた。 … 「…世界で一番でなくても、ママはワタシのこと…」 「もちろんよ」 あまりにも哀しすぎるから、皆まで言わせない。 「そうでなかったら、弐号機は動かなかったわ」 すとん。と、アスカの体から力が抜けて、二人して漂う。 … … 何度も口を開いて、そして閉ざした気配。 … 「…おねがい」 こぽり。と泡の立ち昇る音は、まるでアスカが胸の奥から想いを搾り出したかのように。 「ええ、まかせて」 抱きしめるその腕に、力を篭めた。 **** ヘブンズドアを抜けると、リリスの前でカヲル君が待っていた。ズボンのポケットに両手を入れ、あのひどく優しい笑顔を浮かべて。 両腕で抱えていた弐号機をそっと降ろした初号機が、宙に浮いたカヲル君に掴みかかる。 アスカっ!! 今しもカヲル君を握り潰さんとした初号機の右手は、直前で強引に軌道を変え、その足元の空間を握り潰した。 …あまりのスピードとパワーに、逃げそこなった空気が手の中で熱い。 「判ってる。アンタに任せるって決めたもの」 こちらが声をかける前に、アスカ。 「でも、あのニヤケ面を見たら、なんだか腹が立って…ゴメン」 アスカにしてみれば、大切な弐号機を強奪した犯人なのだから仕方がないとは思う。だけど、なんだか乾いた笑いしか出て来なかった。 … 「コントロール、貰うわね?」 頷くのを見て取って、アスカとのシンクロを解除。繋がりを失うこの瞬間は、いつも言い知れない寂しさに見舞われる。何度やっても慣れないけれど、だからと云って絆そのものが要らないなどとは、もう思わない。 まず、初号機を跪かせた。エントリーを解除するから、立たせたままでは倒れてしまう。 固く握られたこぶしをゆっくりと解き、いざなうように右手を差し出す。 意外だったのか、そのアルカイックスマイルを一瞬崩して、カヲル君が降り立った。 その右手を、左の肩口にひきつけておいてホールド。エントリープラグを排出して、初号機の肩へと渡る。 何が始まるのか見届けようと顔を出したアスカが、ハッチの縁に腰掛けた。呼ぶまで待つようにお願いしておいたから、そこで待つつもりなのだろう。 カヲル君を見る目つきは険しいが、とりあえず口を挟むつもりはないようだ。 「おはよう、カヲル君。挨拶もなしに抜け出すなんて、みずくさいわ」 「別れが辛くなるからね。気に障ったなら謝るよ」 それには及ばないわ。と、かぶりを振ると、その赤い瞳がほころんだような気がする。 「昨夜の歓待は、リリンからの手向けだと思っていたけど…」 着任したカヲル君を我が家に招待し、シンジやレイに引き合わせた。精一杯の手料理でもてなし、給湯器の調子が悪いと嘯いて銭湯に行かせた。 シンジと2人して夜遅くまで起きていたようだが、いったいなにを語らったのだろう。 「貴女には覚悟が見えた。いまさら僕を殲滅することをためらうようには思えないよ」 だから、安心してここまで来たのだけれど。と肩をすくめている。 「君に、可能性を見せようと思って」 「どういう…ことだい?」 きょとん。とした顔のカヲル君は、初めて見たかもしれない。 「ヒトを滅ぼさず、君を消さず。多くのヒトの心と触れて、シトを救って進む道を」 プラグスーツの左腕部を、肩の辺りから引き抜いた。左腕を治療中に使っていたスーツに、切り取っていた左腕部分を付け足すようにして着て来たのだ。 「なにを…、ユイさん…貴女がなにを言っているのか解からないよ」 「提言よ」 左の手のひらを開き、視線を落とす。表皮がひきつれているように見えるが、火傷の痕ではない。 「百聞は一見にしかずだから、騙されたと思ってこれを受け取ってくれない?」 偽装用のクローン皮膚を引き剥がし、カヲル君に見せる。 「アダムっ!!」 かぶりを振った。 「アダムはセカンドインパクトで失われたわ」 正しくは、完全に消滅したというわけではない。いつかは、復活するだろう。 だが、それは何十億年も先のことだ。 月を形成するほどの勢いで地球に衝突したアダムは、おそらく損傷したのだろう。人類が起こそうとするまで、45億年も目を覚まさなかった。 35億年前にファーストインパクトを起こしたリリスは、上半身しか回復していなかった。さらには、ロンギヌスの槍を刺すまで半ば眠っていた。 重大な損傷をきたすか、インパクトを起こすか。いずれにせよ、その眠りは永い。 「だからこそ君たちは、リリスをアダムと勘違いして、ここに来た」 1つの惑星に2つの【月】が降臨するなんて、本来ありえないことだったのだろう。案外、そのイレギュラーを修正するためのロンギヌスの槍、裏死海文書だったのかも知れない。 「これは、アダムのかけら」 この手のひらにアダムを植え込んだのは、ギプスが取れたその夜のことだった。 いくらネルフの医療レベルが高いとはいえ、腕一本を繋ぎ治すのは容易ではない。リツコさんの見立てでは、リハビリを含めて全治7ヶ月だった。 一般的な医療レベルからすれば、それでも驚異的な早さだろう。比較的治療しやすい鋭利切断ですら、完治まで1年以上を要するというのだから。 だが、私の快復を待っていられるような情勢ではなかった。 初号機の負傷が私の負傷であるのと同様に、初号機もまた私の状態に影響を受ける。 光鞭使徒戦後に、その負傷をただちに修復された初号機は、なぜか握力が低下した。原因不明のまま自然に回復したのは、私の手のひらから疼痛が消えたその日だったのだ。 憑依使徒戦で失った初号機の左腕は、帯刃使徒戦後に修復された。だが、私の左腕が完治するまでは、やはり使い物にならなかっただろう。使徒戦はまだしも、その状態で量産機と戦うのは自殺行為に等しい。 だからこうして、アダムの欠片の力を借りることにしたのだ。生き残ろうとする本能が宿主たるこの体を保全しようとしたお陰で、リハビリ期間をほとんど必要としなかった。 初号機の手のひらに、跳び移る。 「…しかし、貴女にそんな気配は…、今だって」 …ちょっと勢いがつきすぎて、カヲル君の顔が近い。 「それは、私の方が訊きたいわ」 着任したカヲル君を、エスカレーターの上で待ち伏せて、我が家に招待した。夜遅くまでリビングで待っていた。 その機会はいくらでもあったのに、結局カヲル君はそのことに言及してこなかったのだ。 …本当なら、弐号機を強奪するような真似事など、させるつもりはなかったのだけれど。 「いったい…」 カヲル君が、この手に眠るアダムに視線を落とした。 …ひとつ、気になっているのは。左腕が完治した頃には、手のひらにアダムがほとんど埋まりこんでいたこと。そして、それがまだ進行しているらしいことだった。 そうか…。と振り返ったカヲル君の、視線の先はリリスか。 「あれがリリスなら… その波動は、地に満ちたリリンたちで…」 見上げるのはターミナルドグマの天井。いや、どこまで見透かしていることだろう。 戻ってきた視線が、初号機に注がれる。 「そして、アダムの分身ならざるエヴァ。さらには自我境界線を踏み越えて、そこから還ってきた貴女…」 赤い瞳が、やさしい。 「それに、あまりにもひ弱なアダムの波動…」 最後にアダムを見下ろして、カヲル君が溜息をついた。 「僕には分からないよ、こんなに騒々しくては…」 様々な条件が重なった結果、その気配が掻き消されていたと云うことだろうか? その可能性を、考えなかったわけではない。ドイツからの移送中、あきらかに無防備だったアダムを、海中使徒以外は誰も狙わなかった。その海中使徒にしても、艦隊内を探し回ってずいぶんと迷走していたような気がする。 セカンドインパクト以降初めての使徒である光槍使徒は、アダムのあるドイツではなく、ここ第3新東京市を目指した。その時点でゼーレは、アダムの欠片に利用価値がないと判断したのかもしれない。防備の必要がなくなって放出した弐号機と共に持ち出されたのは、ゼーレにとって渡りに船だったのだろう。 よもや、人気の少ないところへ持ち出すことで使徒を誘導できる。…などと狙っていたわけではないと、思うのだけれど… カヲル君の気配に、目を覚ましたらしい。アダムが、その目玉をぎょろりとカヲル君に向けた。 「アダムが失われた以上、アダムの使徒によるインパクトは起きない。 でも、その欠片を取り込めば、君は限りなくアダムに近くなる」 それは、インパクトならざるインパクト。 「一時でも、リリスを従えることができるわ」 視線は、カヲル君を乗り越えてリリスに。 ゲンドウさんの計画では、このアダムの欠片を以ってリリスを支配下に置くつもりだったそうだ。もっとも、神ならぬヒトの身では、リリスにさせられることなどタカが知れているらしいが。 しかし、こうしてアダムをこの身に宿してこの場に立っているというのに、とてもじゃないがリリスに声が届くようには思えなかった。 その意識が巨大すぎるのか、ヒトとは構造が違うのか。いずれにせよ、ヒトの想いを届けるには、なにか更なる仕掛けが必要だろう。 「それで、僕に何をさせようと言うんだい?」 見つめてくる視線を、見つめ返し。 … 「宇宙の容を、見て」 それだけで、君ならば。 アダムの欠片を見、リリスを振り返り。再びこちらを見つめてきたカヲル君が、ふっ。と息を漏らした。 「アダムより生まれし使徒、人間にとって忌むべき存在。それに何をさせようというのか、僕には解からないよ。 でも、このまま消えるよりは面白いものが見られそうだ」 ポケットから出した右手を、そっとこの手のひらに重ねる。 最初に感じたのは、S2機関を稼動させたときのような熱。ずるずると内臓を引きずり出されるような感覚を、なんと言い表せばいいのだろう。生理的な嫌悪感に、全身が粟立つ。 … 掲げられたカヲル君の手のひらに、アダムの欠片。ぎょろりと目を剥くが、みるみるうちに溶け込んでいった。 私の手のひらには、傷ひとつ残っていない。大きな穴でも開いたらどうしようかと、心配していたのだけれど。 「…なるほど、アダムの欠片ではインパクトは起きない」 確かめるように右手を握り締め、その手をポケットに戻している。 もし、ここにアダムの使徒が来れば、カヲル君とインパクトを起こせたかも知れない。だが、彼は最後の使徒だ。 宇宙のカタチか…。呟いて、カヲル君がリリスを振り仰ぐ。 かつて、葛城ミサトだった時代。リリスを殲滅することで自分は引き戻された。この世界に来たとき、綾波が語りかけてくれた。つまり、この宇宙はリリスによって結ばれているのだろう。 もちろん、大元のリリスにそんな能力があったとは思えない。おそらくはセカンドインパクトで…いや、あの世界のサードインパクトで、変質したのではないだろうか。下手すると、この宇宙ごと。群体の使徒たる人類を産み出したリリスが秘めていた、絆を求める心のままに。滅んでしまった世界の悲しみとともに。 リリスを使うことができれば、世界の外を、宇宙の容を見ることができると思う。 そして、もっとも早く咲き、あっという間に枯れた一つの花弁の存在をも知るだろう。 … その後ろ姿からは、なにものも読み取れない。 力を抜いて自然体で立つカヲル君は、微動だにせずリリスを見上げ。 … そして、唐突に振り返った。 その瞳に理解の色を乗せ、おそらくはこの姿に別の容を見透かして。 「君は…」 唇に人差し指を当てる。それは、言わぬが華だよ。カヲル君。 「…ガラスのように繊細、か…」 あの宇宙の僕は、君を見縊っていたよ。などと我がことの様に自嘲してみせて、僅かにかぶりを振った。 「美しく繊細で、壊れやすいのに永遠だ。 … パート・ド・ヴェールのようだね。君のココロは」 それは、ガラス工芸の技法だったと思う。砕いたガラスの粉を型に詰めて炉で焼成する。壊れても、何度でも作り直せる不屈の形。 そうならざるを得なかったのだけど、後悔はしていない。 「それで?」 促すように小首を傾げ、口元をほころばせている。 「君は、僕に何を望むんだい?」 カヲル君のことだから、僕の言いたいことぐらい、察しはついているだろう。だが、きちんと言葉にして伝えることが大切なのだ。 「アダムに会うことはできない。ヒトや、ほかの使徒を滅ぼしても自分の繁栄につながらないと知ったら、使徒たちも共存の道を考えてくれるんじゃないかしら」 事実、そう選択した使徒が居た。ほかの使徒だって不可能ではないと思う。 「共存が無理でも、相互に不干渉を貫ければ、それで充分」 ふむ。とカヲル君が考え込む。 「私は人類を救う道を歩む。カヲル君には使徒を救う道を進んで欲しいの」 「手を携えあって、皆にやさしい世界を。…かい?」 考えが甘いだろうか? こちらの憂慮を読み取ったか、カヲル君がかぶりを振っている。 本当に君は…。と、あきれたような口調の呟きは、なのにやさしい。 「かつて、君は僕の願いを叶えてくれた。今度は僕の番なんだね」 ポケットから出した両手を広げ、カヲル君が微笑んだ。 *** 「弐号機のコアの中の人格を、取り出すのかい?」 私が犯した罪。 アスカから奪ってしまった母親を取り戻すための算段を、ずっと考えてきた。それを実行できる時が、ようやく巡ってきたのだ。 「ええ、お願いできる?」 ようやく自分に関係する話になったと察して、アスカが身を乗り出してきたのが見えた。初号機の肩まで、伝ってこようとしている。 カヲル君の視線が、横たえられた弐号機の、胸のあたりに。 「それは構わないけど、…いささか足りないんじゃないかい?」 それに、ずいぶんと変質してる。と、カヲル君が眉を顰めた。 それは承知の上だ。だからこそ、この時を待っていたのだから。 「そこで、足りないものを集めてきて欲しいの。ほかの世界から」 葛城ミサトの心を知ることで、ミサトさんは帰還した。足りないものは、他の世界から写すことができるはずだ。火の消えたロウソクに、他のロウソクから炎を移すように。 「なるほど、欠けたる自我を別の宇宙の自分で補うんだね」 それなら。と、初号機の掌の上から踏みだして、カヲル君が宙を進む。 振り返り、無雑作に一瞥を与えると、弐号機が立ち上がる。ゆっくりと、赤い掌がアスカの前に差し出された。 「君の力が要るよ。来てくれないかい?」 窺うような視線に、頷いてやる。 頷き返したアスカが、弐号機の掌に決然と乗り込んでいった。 次の一瞥は、塩の柱を叩き折る。塩の塊はリリスの体液を巻き込みながら上昇し、球状に固まって宙に。 見れば、リリス、弐号機、塩の球が頂点になって三角形をなしていた。 中心に、カヲル君。 「さあ、語りかけるんだよ。還ってきて欲しいと」 頷いたアスカは、弐号機の胸部装甲に手をかけた。 … ぽつぽつと呟く内容は、ここまでは届かない。だけど、切々と訴えかけるその姿は、見ているだけで胸が熱くなる。 その様子を見届けてか、カヲル君がリリスに向き直った。 「…さあ、見せておくれ」 ほのかな燐光が幾つも、リリスの体から立ち昇る。 その中の一つがぴたりと止まったかと思うと、弐号機めがけて飛んだ。 一所懸命に母親に語りかけるアスカは、燐光が弐号機に飛び込んだことにも気付かない。 すぐさま弐号機を飛び出した燐光は、塩の球に。 塩の球をほんのり紅く染めて、燐光がリリスへ戻った。 その燐光に弾かれるように、別の燐光が弐号機へ、そして塩の球へ。時計回りに連鎖を繰り返し、塩の球が紅く、赤さを通り越して玄くなっていく。 「ワタシ!ママのこと誤解してた。そのことを謝りたいの」 訴えかけるうちに激情を抑えきれなくなったのだろう。アスカの声が、ここまで。 「だから、還ってきて。ワタシのもとに還ってきて。ママ、お願い!」 ! 途端、塩の球が十字の爆炎を上げた。 爆圧も爆風もないけれど、その輝きがとてもまぶしい。 「新生の光だよ」 どこか嬉しそうに、カヲル君が教えてくれる。 驚いて振り返ったアスカの頬には、涙の跡がくっきりと。 カヲル君が滑るようにこちらに向かってくる。歩調を合わせて、弐号機と塩の球も。 塩の球から吐き出された女性が、どさりと弐号機の掌の上に頽れた。 「ママっ!」 アスカが、慌てて母親を抱き起こす。私の時のことを考えれば、意識は当分戻らないだろう。 「衣服までは用意できなかったからね。これで我慢してくれるかい?」 着ていたワイシャツを、カヲル君がアスカに差し出した。 思わず受け取ったアスカが、いったん口篭もる。 … 「…その、アリガト」 「礼を言われるほどのことじゃないよ」 ううん。と受け取ったシャツを母親にかけてやって、アスカがカヲル君を見上げた。 「ワタシ、自分が間違っていることに耐えられないの。 こうしてママに謝る機会をくれたことを、とても感謝してる。だからお礼を言わせて」 「そうなのかい?…いや、そうなんだろうね」 アスカを見下ろすその笑顔が、やさしい。 ポケットに手を突っ込んで、カヲル君が視線をこちらに。 弐号機の掌に母子を残して、何気ない足取りで宙を渡ってくる。 … 「ここは、もういいみたいだね。それなら、僕は行くよ」 「ええ、カヲル君。ありがとう」 礼には及ばないよ。と微笑むカヲル君の向こうで、燐光がリリスの中へ戻っていった。屈みこんだ弐号機は、手のひらを岸壁に下ろしている。塩の球は、いつの間に崩れ落ちていたのだろう? 差し出した右手を、すこし不思議そうに見つめて。 「人と触れ合うことを、怖れなくなったんだね」 「おかげさまで」 ポケットから右手を出して、握り返してくる。その手は少し、冷たい。 「ありがとう。君に逢えて、嬉しかったよ」 「こちらこそ、カヲル君」 満足そうに頷いて、カヲル君が、いや、カヲル君の体だったものがLCLと化して雪崩れ落ちた。小さな燐光が、一条の光となってリリスへと飛ぶ。…残された衣服が折り重なって堆い。 …一抹の寂しさが、胸の奥に波紋をたてる。だけど、涙は不要だ。 きっと、また会えるだろうから。 **** こうして、最後の使徒は殲滅された。 使徒に乗っ取られた弐号機は不純物としてそのコアの中身を吐き出し、その結果、惣流・キョウコ・ツェッペリンが帰還した。と報告書を締めくくる。 ゼーレに提出することは、ないような気がするけれど。 つづく2007.08.31 PUBLISHED2007.09.03 REVISED