帯刃使徒を斃したあと、精神汚染使徒が現れるまで時間があることに、今回ほど救われた思いになったことはないだろう。 おかげで、左腕の治療の目処が立つのだから。 組織の癒合が確認されて、昨日ようやくギプスが外された。まだ動かせないし当分はサポーターのお世話になるだろうが、開放感が違う。 リツコさん曰く、リハビリに入るこれからが地獄らしい。断裂した筋繊維は、再生の過程で周辺の部位に癒着する。それをむりやり、引き剥がさねばならないそうだ。 …手術後、神経の接合を確認するために4日間も麻酔無しで過ごした私に、それ以上の地獄があるとも思えないが。 来客がドアをノックしたのは、朝ご飯前の一仕事に、備品購入の申請をしていたところだった。…もっとも、承認するのも私なのだけど。 購入するのは、超音波振動カッター。 昨日、ギプスを外す時に使っていたギプスカッターは、刃こそ小さいが電動丸ノコそのもので、けっこう恐かった。ホッケーマスクの怪人に襲われた人の気持ちを、理解できたと思う。 たまたま見学していたアスカは、ワタシにやらせて。と、わがまま言い出すし… 「本日、わたくし霧島マナは、午前6時に起きてこの制服を着てまいりました♪」 似合いますか? と、一回転してみせるマナちゃんの隣りに、やはり第壱中学の制服姿のムサシ君。今日から学校に通うことを報告するのに、こうして病室に寄ってくれたのだ。 「ええ、とっても」 えへへ♪と、はにかむマナちゃんを尻目に、ムサシ君はそれほど嬉しそうでないのが気にかかる。 第2新東京市で加療中の浅利ケイタ君は、意識を取り戻したそうだ。とはいえ、退院できるのはもっと先になるから、当然ここには居ない。そのことを、気にかけているのだろうか? 一時的にユニセフの監督下に置かれていた戦自奨学育英会は、少年兵の除隊が任意に行なえることを条件に存続することになった。 さすがに国連といえど、主権国家の内政に強く干渉するわけには行かない。それに、日本政府への嫌がらせ程度と云うことなら、この辺が限度でもあるのだろう。 ムサシ君と浅利ケイタ君は本来脱走兵として引き渡さなければならないはずなのだが、ゲンドウさんは彼らを亡命者だと言い張って国連の保護下に置いてしまった。 不思議なのは、日本政府がこのことについて「まことに遺憾」と表明したきり、特に行動を起こさなかったことだ。まさか、日本政府がタダで引き下がったはずはないだろう。いったいどのような裏取引を行なったのか、ゲンドウさんは話してくれない。 マナちゃんの回復は順調そのもの。ファンデーションなどで隠さなくても、そうと知らなければ判らない程度に黄疸も薄れている。そうとなればこんな所に閉じ込めておいてもいいことは何もないから、リツコさんのお墨付きが貰え次第、学校に行けるよう手配しておいたのだ。病は気からとも言うし、学校生活を楽しめれば回復もより早まるだろう。 それでは行ってきます。と、やはり敬礼しそうになった手を泳がせたマナちゃんが、誤魔化すようにムサシ君の襟を掴んだ。 「こら、マナ。引っぱんじゃねぇ」 文句を言うムサシ君を問答無用で曳っぱって、マナちゃんが退室する。見かけ以上にマナちゃんが力持ちなのか、言葉とは裏腹にムサシ君が無抵抗なのか、さてはて? **** その日、ネルフに潜りこんでいたスパイは驚いたことだろう。 全員が全員。まとめて閑職に左遷されたのだから。 イジメ対策としてMAGIが行っている学内監視は、その副産物として不審者括出システムを産み出していた。 監視カメラの映像から、イレギュラーな行動を起こしている人物をピックアップするのだ。 もちろんセクハラや横領など、スパイとは関係のない単なる不正行為も多く見受けられた。だが来歴や通信記録、溶解液使徒戦時の行動などを併せて洗わせることで、高い蓋然性でスパイを炙り出すことができたと思う。 その筆頭に載っていた加持さんの名を、苦笑しながら削除したものだ。 スパイへの最終処分を委員会へ依頼する一文で、報告書を締めた。 当然、ゼーレからのスパイも沢山いるだろう。そのことをそらとぼけていけしゃあしゃあと処分のお伺いを立てる自分も、ずいぶんと性格が悪くなったような気がする。 ともかくこれで、数日後に行われるはずだった冬月副司令の拉致事件は防げると思う。もちろん、しばらくの間は警護を厳にするつもりだが。 **** 「聞こえる? アスカ。シンクロ率8も低下よ。いつも通り、余計な事は考えずに」 『やってるわよ!』 インターフォンを切りたかったけれど、とても間に合わなかった。ギプスが外れてけっこう経つが、左腕を庇う癖がついていて、とっさの行動が遅い。 較べる相手が居なかったから特にシンクロ率に対する通達を出していなかったが、考えが甘かったようだ。今からでは遅いが、やらないよりはマシだろう。明日にでも回覧しなくては。 何か声をかけてやろうとして、やめる。下手な慰めはアスカの神経を逆なでするだけだ。 「最近のアスカのシンクロ率、下がる一方ですね」 それは、深淵使徒戦以降のことだった。エヴァが使徒のコピーだと知ったアスカの煩悶が、シンクロ率となって現れているのだと思う。 こうなることが予測できなかったわけではない。いや、むしろ望んでいたといってもいいだろう。このままアスカがエヴァから離れてくれるなら。 なのに、苦悩しているアスカを見ると、心苦しくて仕方ないのだ。 こういう時、自分が偽善者だと思い知らされる。 **** 実に久しぶりに立ったキッチンで、やはり久しぶりにシフォンケーキを作っていた。 リハビリにちょうど良いと選んだシフォンケーキは、バターなどが手に入りづらかった復興期には良く作ったものだ。 「それで、誰に教えてもらっているの?」 「 …アスカ 」 リビングからシンジの返事。いつの間にか、呼び方が変わっているみたいだが…? 「マナちゃんじゃなくて?」 「 マナは…、スパルタなんだ 」 思い出したくない。といった風情で、シンジの声音が震えていた。いったい、どんな仕打ちを受けたのだろう。 「それで、泳げるようになったの?」 「 …顔をつけて浮いていられるようにはなったけど 」 たいした進歩だ。幼少時から様々な訓練を施されたアスカは、正しいトレーニングの仕方を知っている。無理のないステップで丁寧に教えてくれたのだろう。 「 アスカとマナが水泳対決を始めちゃったりして、放っぽっとかれることもあるけどね 」 因みに私は、と云うと、葛城ミサトであった時代にその記憶を受け継いだので泳げるようになった。カンニングみたいで、ちょっと気が引ける。 攪拌した卵黄に米糠オイルをなじませていく。食糧事情の悪かった復興期、サラダ油といえば米糠オイルだった。最近あまり見かけなくなってきたが、ビタミン類が豊富で優れた抗酸化作用を持つ米糠オイルは子供のおやつ作りには最適だと思う。 水、薄力粉と混ぜていく横では、レイが卵白を泡立ててくれている。電動泡立て器もあるのに、なにが気に入ったのか手作業で。うっすらと額に汗まで浮かべ、真剣さのあまり口がへの字になっていた。…まあ、楽しんでいるのなら、それがなによりだけれど。 「レイは、今日どうする?」 シンジは今日これから、みんなと市民プールで水泳の練習だそうで、リビングで準備中。 集まるメンバーはその都度違っていて、前回などトウジやケンスケにナツミちゃん、洞木さんにその妹と、総勢10人だったとか。 因みに、その帰りがけにミサトさんと出会って、そのまま夕食に招かれたそうだ。インスタントやレトルトかと思っていたら特製カレーライスだったと言うので、聞いた途端に冷汗が出た。 だけど意外なことに、3回もの作り直しでさんざん待たされたカレーライスは、なかなか美味しかったらしい。 「…いい」 答えるために上げた顔の、その鼻先にメレンゲが付いている。どうしてやろうかと見ていたら、視線に気付いたレイが慌てて拭い取ってしまった。 どうやらレイも、微妙な年頃らしい。 **** 衛星軌道上の精神汚染使徒に対して、なまじっかな攻撃など何の役にも立たないことは判っている。かと云って初号機の実力は見せたくない。 だから、光波遮断ATフィールドで防御している間に、弐号機がロンギヌスの槍で殲滅することにした。サードインパクトを防ぐために、早めに処分しておくに越したことはないし。 ただし、いきなり槍を使っては猜疑を招くので、最初は通常兵器で攻撃を行う。それが、光の鳥のごとき使徒に対して立案し、今また実行中の作戦だ。 ≪ 初号機、ライフル残弾ゼロ! ≫ 予想外だったのは、精神汚染使徒がミサトさんにまでその食指を伸ばしてきたことだった。 「自分に絶望なんて、とっくにしてるわよ!」 「落ち着いて、葛城さん!」 直接制御下の初号機が展開する光波遮断ATフィールドは、間接制御時より緻密で強力なはずなのに、精神汚染使徒の光を防ぎきれない。 おそらく、あの光は使徒にとって攻撃手段ではないのだろう。害意がないから完全には拒絶し難いのだと、初号機と一心同体の今なら解かる。 「そうよ、選んだわけじゃないわ。ただ、逃げてただけ」 使徒はやはり、人の心を知ろうとしているのだと思う。今回も私を標的にしたのは、この世界ではイレギュラー的な存在で、サンプルとして面白いのかもしれない。 てっきり母さんが現れるかと思っていたが、アスカが、私の望むままに私を罵倒している。つまりは、その人が最も怖れているモノに向き合せて、その反応をこそ観察しているのだろう。 だが、それで打ちのめされるような可愛げが、今の自分には残っていなかったのだ。いや、それが誰であれ、望んでいた結果を恐れたりはすまい。見たくて観たホラー映画が怖かったからといって、文句を言う人間が居ないように。 問題は、私とシンクロしていることで巻き込まれた、ミサトさんの方だった。 「…嫌いで別れたわけじゃないわ、自分の弱さが怖かったから、自分の弱さを認めたくなかったから…」 心の傷を抉られる痛みのままに、ミサトさんが、初号機がのたうち回る。 シンクロを切ろうにも、ミサトさんの心に同調した初号機は半ば暴走状態で、手がつけられない。こんな状態で強引に繋がりを断っては、どのような悪影響があるか知れたものではなかった。 「すべて父親のせいにして、父親を殺した使徒のせいにして、突き放してきたのに。 この手で使徒を斃してみて、初めて解かったのよ。そんなことをしたって、自分が毅くなったわけじゃないって事にっ」 なにより、葛城ミサトであったことのある自分には、その痛みが良く解かる。一緒になって慟哭したいという衝動を、押さえ込むので精一杯だ。 『 弐号機、2番を通過、地上に出ます! 』 待ちに待った報告は、青葉さんの声で。 『ミサト、ユイ。大丈夫?』 「…私は大丈夫。でも葛城さんが保たないわ、急いでアスカちゃん」 『判ってる』 【FROM EVA-02】の通信ウインドウの中で、アスカが決然と頷く。 『 弐号機、投擲体勢! 』 『 目標確認、誤差修正よし! 』 『 カウントダウン入ります。10秒前、8、7、6、5、4、3、2、1、ゼロ! 』 引き絞るように構えた弐号機の腕の中で、ロンギヌスの槍が天を貫く螺旋と化す。 『いっけーーーー!!』 弾かれたか、それとも吸い寄せられたか。おおよそ投擲とはかけ離れた勢いで、ロンギヌスの槍が一直線に。雨雲を吹き飛ばして、もう見えない。 … 『 目標、消滅! 』 『 エヴァ初号機、開放されます 』 使徒殲滅とともに泣き崩れたミサトさんが、その瞬間に何を見たのか。シンクロしている私でも、知りようがなかった。 **** 泣き伏したまま加持さんに連れて行かれるミサトさんを、アスカが眺めていた。更衣室の内壁にもたれかかり、視線だけでその姿を追っている。 その瞳に様々な光を去来させながら、さほど不機嫌そうではない。 「今日は、彼を貸してあげてくれる?」 「別に加持さんは、ワタシのモノじゃないわ」 …でも、と言葉を継いだアスカは、少し寂しげで。 「狙われたのがワタシだったら、あんな風に加持さんは慰めてくれるかしら」 かつて、アスカが狙われた時には、すでに加持さんは行方知れずだったから想像するしかない。慰めてあげるのは間違いないとしても、それがミサトさんと同じ方法ではないだろう。…第一、 「ああいう慰め方を、アスカちゃんは望んでいるの?」 虚を突かれた様子のアスカは、彼らが消えた戸口を見やった。 「…そうね。大人になることは強くなることだと思っていた。だから早く大人になりたかった。 大人になりたくて、大人だと証明したくて、だから、大人の人と…加持さんと、…そういう付き合いが出来れば…と思ってたわ」 言外に、これから彼らが向かうであろう場所を含ませていたのに、アスカは別の捉えかたをしたようだ。 「でも、大人でも弱いのね。弱いからああやって支えあう。 アンタが言ってたヒトの弱さっていうものを、あのミサトを見てようやく解かったような気がするわ」 かつては、縒りを戻した2人を不潔な大人の付き合いだと罵ったのに… 「それが嫌って訳じゃない。自分も弱いって自覚したもの。 でも、弱いからって寄りかかるのは嫌なの。弱いなら弱いなりに、毅くあろうとしたいの」 その言葉に、アスカの本質が在るように思う。 強さを求めて、弱い自分が嫌いで。でも強くなれなくて、壊れるしかなかったアスカ。 そのアスカと、今のアスカに、本質的な違いはないのだろう。ただ、己の弱さを認めることが出来ただけで。 「もし加持さんと付き合うことになったら、ワタシは加持さんにもたれかかっちゃう。 加持さんを支えているつもりになって、無自覚に寄りかかっちゃう」 だけど、たったそれだけのことで、アスカは毅くなった。かつて壊れてしまった時より、しなやかになっている。 「それはイヤ。ワタシのプライドが赦さない」 そのことを素直に喜べないのが、哀しい。 「…加持さんにとって、ミサトこそ支えあいたい相手なんだと思う」 この世界では他ならぬ自分こそが、アスカを放り込んだのだ。毅くなれなければ、壊れるしかない修羅の道に。 だから…。と、ドアから引き剥がした視線が、力なく落ちて。 「ワタシは、ワタシと一緒に成長してくれる相手を探すわ」 毅くなったがゆえの寂しさを満身で感じてか、アスカの体が小さい。 そっと、隙間を埋めるように近づいていく。私の影が視界に入っただろうに、身じろぎ一つしなかった。…だから、遠慮なく抱きしめる。 言葉が要らない場合があることを、今ほど感謝したことはない。 これも失恋かなぁ。と呟くアスカの、頭をそっとなでた。 つづく2007.08.20 PUBLISHED2007.08.22 REVISED