サイレンが鳴り止むと、メインブロックのビル群が沈み始める。スクリーンの中だからたいした迫力でもないが、それでも初めてのこととあって、嘆声が発令所を充たした。 第6次建設までが終わって、第3新東京市は迎撃要塞都市としての体裁を整えつつある。本日は、防災訓練と称してその機能試験を行っているのだ。 今頃シンジは学校の、レイは保育所近くのシェルターに避難していることだろう。 ビルが全て沈みきると、兵装ビル、武器庫ビルがシャッターを開く。中身はまだないが。所々でエヴァ用の遮蔽防御壁が起き上がっている。射出口や回収スポットもそれぞれ動作確認中だ。 引き続き第7次建設が行われているが、目に映る町並みはすでに、あの見慣れた第3新東京市だった。 前面ホリゾントスクリーン内に分割表示されている進行状況を睨んで、青葉さんに次の作業を指示する。 今日は、帰りがけにあの高台に寄ってみようと思う。 **** MAGIが収集した各種画像を検分して、シンジがイジメをさほど苦にしてないことを確信した。 「特にこの日、昨年の11月17日から顔つきが違うわね。前日に何かあった?」 ナオコさんに言われて記憶をたどるが、さすがに思い出せない。手懸りを求めて画像の日付表示を睨む。11月17日は…月曜日か。その、前日? 特に何かあったようには… いや、待てよ。前々日の土曜日には珍しくゲンドウさんが昼まで休みを取っていて、その時に… 「15日に、レイの入学の話をしました。今度一緒にランドセルを見に行こうって…」 「シンジ君は、大変な妹思いだって聞いてたけど…」 妹を護らなければならないという思いが、シンジを毅くしたのだろうか? 「この日を境に、イジメの質が変化しているわ。物理的被害が出始めたのもこの後ね」 「シンジが気にしなくなったことで、ムキになってエスカレートした?」 でしょうね。とナオコさん。 いま一度、画像の中のシンジの表情を確認する。積極的に抗うわけではないが、毅然とした態度を崩さず、悠然と事態を受け流していた。 それでも、全くつらくないわけは無いだろう。だが、これから入学する妹に、学校が嫌なところだと思わせたくなかったに違いない。 それにしても… 「護るべき者が居たからといって、小学6年生が、こうまで毅くなれるものでしょうか?」 ふむ。と唸ったナオコさんが、キーボードをたたきながら。 「ネルフのことをシンジ君に話したのはユイさん、貴女だったのよね?」 頷く。保育所に預ける時、泣き縋るシンジを宥めるためにかけた言葉だった。 「なら、シンジ君にとって護る対象はユイさんなのよ。貴女を信じているから、耐えられる」 「私、ですか?」 ディスプレイの表示を追っていた目を、一瞬こちらに寄越して。 「学校では貴女の為に耐え、家庭ではレイちゃんの為に耐えている。と云ったところかしらね」 レイのために、と云うのは解かる。シンジは本当に妹思いだから。だが、 「イジメにもなかなか気付かず、気付いても何もしてやれない親ですよ?」 「気付いただけマシだし、話そうとしないシンジ君の意志を尊重するんでしょ」 その嘆息が、長い。ナオコさんが挙げてくれた具体策を、それを理由にほとんど退けているのだ。呆れられて当然か。 … これが本物の母親なら、なりふり構わず学校に捻じ込んで強引に解決してしまうのだろう。吾が子だけを一途に思いつづける。それが母親の愛というものだ。 だが私には、シンジの意志を踏みにじってまで、自分の愛を押し付けることができない。それが、私が偽者であるが故だとしても、母親としての愛し方ではないとしても。 私の愛し方でそっと見守るしかないのだ。人格は装えても、愛を偽ることは出来ないのだから。 胸元で握りしめていた左手を、そっと開いた。その仕種を読み取ったかのように、ナオコさんがディスプレイを向けてくれる。 「教育委員会のイジメ対策として、MAGIが挙げた方策が5万跳んで384件」 凄い数ですね。と驚きを言葉にすると、ナオコさんがかぶりを振った。 「まだ人間ってモノを解かってないからよ。限度もね。 【イジメをなくそう】なんてお題目を唱えるような無意味なものから、教師の数と報酬を3倍増するなんて無理なものまで有象無象。 提案するということでは、MAGIもまだまだね」 表示された一覧を眺めてみると、「1クラスあたりの定員を3分の1にする」などといった大本のアイデアの単なるバリエーションも多くて、そもそもの有効件数も少なそうだ。 「その中で、比較的マシなのが16824番と、41924番ね」 16824番は、MAGIによる校内の常時監視らしい。エレベータ内の異常を画像から感知するシステムがあるが、その応用で、それらしい兆候を報告するそうだ。イジメのケーススタディが揃わないと精度が上がらないだろうし、どこに報告してどう対処するかが抜けているが。 41924番は、児童および生徒の性格分析を基に、MAGIがクラス編成を行うのか。そのクラス編成が妥当かどうか判断がつかない上に、最長1年は放ったらかしだ。 なにより、いずれもMAGIに頼らなければならないのはどうかと思う。 「人間ってロジックじゃないから、まだまだMAGIの手には負えないのよ」 こちらの表情を読んでか、ナオコさんが溜息。 科学者として、母親として、女として。それぞれの視点だけでは読み解ききれないのかもしれない。ヒト、ことに人間関係は。 「その代わり、面白い事例を見つけてきているわ」 身を乗り出してきてキーボードを操作、テキストファイルを表示してくれる。 「…ピア・サポート?」 それは、前世紀のイギリスの事例らしい。児童の中から有志のボランティアを募り、イジメられっ子の相談役に宛てるのだそうだ。子供同士だけに相談しやすく、解決策が押し付けがましくないから効果的だという。 …しかし、 「日本で、ボランティアが根付くでしょうか?」 「その辺はアレンジするしかないでしょうね。内申書が良くなるとか」 それは賛成しかねる。利害が絡むと、それ自体がイジメの温床になりかねないから。だが、純粋なボランティアでは力不足なのは確かだ。 内申書などの報酬を前提にしたとして、システムの悪用・堕落を防ぐ手段か…。 … イギリスでは教師がコーディネートしているようだが、一歩推し進めてみてはどうだろう? 「各学校に専任のカウンセラーを配置して、統轄させてはどうでしょう。 サポートにMAGIの監視を併せれば、不正防止にもなるかも」 ふむ。と頷いたナオコさんが、ノートパソコンを引き戻してキーボードを叩き始める。 専任でカウンセラーを置くとして、コーディネートだけでは勿体ないか。授業時間中は暇だろうし。 「カウンセラーには、イジメに対する啓発セミナーやディスカッションなども開催させましょう。 MAGIの監視情報を提供し、早期にメールなどでケアさせても良いでしょうし」 今回の件で判ったことは、イジメを解決するにはまず顕在化させることが必要だということだ。 シンジのように一人で抱えてしまったり、相談する勇気を持てない子供だって居るだろう。 …とすると、打ち明ける機会は 多く、広い 方がいい? 「学校外にも、相談できる施設を作れれば一番なのですが…」 ナオコさんの眉が寄った。恒久施設の設置は予算的に厳しいか。 「不定期にでも、公民館などでイジメられっ子のための講演会、相談会とか開けないでしょうか? MAGIが見つけたそれらしい子供には、ダイレクトメールを装って招待状を出したり」 「MAGIに分布や閾値を分析させて、それによって臨機に開催日・開催地を決定すれば効果的かもね」 イジメは、人間の本能と社会性に根差した問題だという。 ならば、無くすことは不可能なのだろう。それこそ、補完でもしない限り。だが、他者と同一化し、単一化することで問題そのものを無かったことにするのが最良の解決策とは思えない。 困難があって、それを乗り越えてこその進歩であろう。 それに、多くの生命が生殖を基本とし、群を成すのは、状況などいくらでも変わりうる環境の中にあって、生き延びる可能性を模索しようとするからだ。 いかに強大で、自己進化すら可能であろうと、単体生命に可能性はあるまい。 ならば、人はヒトのまま、努力していくべきなのだ。生き残るために。 イジメは無くせない。 だが、減らすことは可能だと信じて、できることをやっていこう。 **** ぼすぼす。ふすまのノックは間抜けだ。 「シンジ、ちょっといい?」 『…お母さん? いいよ』 ふすまを開ける。 「夜中にごめんね」 ううん。とかぶりを振ったシンジが、ベッドから降りた。 今まさに就寝しようとしていたのだろう、あとは布団を掛けるだけの態勢だったようだ。 歩みより、差し出すのはシンプルなデザインの缶ペンケース。 「寝る前に、これを渡そうと思って」 「これ…」 子供たちの行動範囲内の文具店では品切れで、同じデザインのものを探し出すのは苦労したが。 「たまたまお店で見つけたの。気に入ってたみたいだったから…」 ペンケースを受け取ったシンジは、何か言おうとして果たせず、目を逸らした。 そっと、抱きしめる。 最近は、了承を得ずに抱きしめると嫌がるようになっていたのに、シンジはおとなしく腕の中に納まった。 「つい、こないだ小学校に入ったと思っていたのに、もう中学生になるのね」 背丈もずいぶん伸びて、もう頭ひとつ分ほどの差もない。追い抜かれるのも時間の問題だろう。 「…お母さん」 「なあに? シンジ」 シンジが、抱きしめ返してくる。 「お母さんとお父さんの仕事、世界を守るための大切な仕事なんだよね」 「ええ、そうよ」 きゅっ。と、篭められる力。 「秘密…、なんだよね」 「ええ。人類を狙う未知の敵の存在は秘密にされているわ」 かつては、実際に使徒が襲来し始めても、ネルフの存在が公開されることはなかった。第3新東京市近郊に住んでいなければ、使徒なぞUMA程度の認識だっただろう。 「秘密なのに、僕に話してもいいの?」 「シンジのこと、信じているもの」 腕の中で、シンジの体がぴくりと跳ねた。 かつての自分にはとても言ってやれないような言葉でも、この子になら素直に言ってやれる。いや、言ってやれるような存在に成長してくれたのだ。 もし、この子がエヴァに乗せられたとしても、かつての自分のような破滅の道を選ぶことはあるまい。 すすりあげる仕種を、耳ではなく肌で聴きながら、その頭をそっと撫でる。 いじめられてる。助けてくれと言ってくれれば、何を差し置いてでも守るのに… 子供が毅くなろうとしているときに、親がこれほど無力だとは、思いもしなかった。 徐々に、徐々に激しくなっていく震えを全身で受け止めながら、必死で涙を堪える。理由のない涙は子供に見せられない。 シンジは日々成長している。母親の前で泣くこともなくなるだろう。こうして涙を受け止めてやるのも最後かもしれないと思うと、それがまた鼻腔の奥を熱くした。 つづく