『 今回の事故の、唯一の被害者である碇ユイ主任だな 』 正面に座るのはバイザーをかけた老齢のドイツ人。キール・ローレンツだったか。 「はい」 『 では訊こう。被験者、碇ユイ主任 』 翌朝、目を覚ました自分を待っていたのは、ゼーレによる査問だった。衛星回線を用いた多元ホログラム会議システムらしいが、立体映像とは思えない存在感がある。 『 先の事故、エヴァが君の魂を欲したのではないのかね? 』 カン高い神経質そうな声は、左手奥の鷲鼻のフランス人。 「残念ながら記憶にございません」 『 君の証言が正しいとすればな 』 「ポリグラフ検査では虚偽は認められませんでしたが?」 『 誤魔化しようは幾らでもある。確認は取れまい 』 その通りだ。葛城ミサトであった時代、軍人のたしなみとして習得しておいた。 『 エヴァには人間の精神、心を与えねば制御できないと思うかね? 』 左手手前に座るのはイントネーションからしてアメリカ人か。雑味のあるリリコテノール。 「その返答は出来かねます。ほかに類例がなく、比較検証が出来ませんから」 YESと答えてやる義理はない。 『 今回の事故は、自我境界線を失った人体が量子状態から復元した実例でもある。これが予測されうるサードインパクトを無効化する可能性は?』 「南極の調査結果を鑑みるに、楽観論は否定されます」 『 さよう。取り払われた心の壁を再構築するのは容易ではない。それだけではな 』 「それはどう云うことなのでしょうか?」 『 君の質問は許されない 』 「はい」 『 以上だ。下がりたまえ 』 「はい」 接続が切れた瞬間。気が抜けてくずおれた。 病み上がりに立ちっぱなしで査問は、ちょっときつい。覚醒直後に呼び出されなかっただけマシなのかもしれないが、やはりこちらの都合などお構いなしか。 白人至上主義の宗教結社だと母さんの記憶に寸評があったが、黄色人種の健康状態など眼中にないのだろう。 背後で、ドアの開く音がした。 「ユイ君!大丈夫かね!?」 「ええ、冬月副…所長。少々疲れただけです」 見上げると、冬月副司令は眉根を寄せてなんだか残念そうだ。 差し出された手を取って立ち上がる。皺の多い手のひらは意外な力強さを優しく押し隠して、不思議な安心感があった。 あれ? 父さんはどこへ行ったのだろう? 来るときには居たのに。 「碇のヤツなら、君の後を継いで査問中だよ。君の査問にも付き添うと喰い下がっていたのだが、受け入れられなくてね」 さまよわせた視線の意味など、副司令にはお見通しらしい。 「時間がかかるだろうから、先に帰すように碇にも言われている。車を待たせてあるよ」 「あの…冬月副…所長」 「どうしたかね?」 先に立って歩き出そうとしていた副司令が怪訝顔で振り返る。 「…私の、…子供というのは…どちらに?」 「憶えてなくとも、やはり、気になるかね」 … 「…正直、よく判りません」 嘘だ。後悔のあまり、昨夜はほとんど眠れなかった。何のために自分がここに来たのかと、どれほど己自身をなじったことか。 「…でも、その子がどんな想いで過ごしているかと思うと…」 … 「何か良い刺激になるかもしれないね。保育所の方に寄ってみようか」 「お願いします」 **** セカンドインパクト以降、女性の社会進出はめざましい。深刻な人手不足なのだから当然だが。 有名無実化していた男女雇用機会均等法も実情に合わせて見直し、拡充が図られて、働く女性を支援しているそうだ。 企業の多くも、保育園を併設するなどの企業努力で優秀な女性社員の獲得・確保に励んでいた。 人工進化研究所も御多分に洩れず、24時間体制の保育所を運営して女性職員の便宜を図っている。研究職に従事している職員になると、1週間以上預けっぱなしもザラだとか。 …母さんの記憶の受け売りだけど。 警備員に会釈して門を抜けたら、勝手が判らない振りをしてきょろきょろ。 冬月副司令は本当に勝手が判らないご様子。 「今の時間なら中庭だと思いますよ」 気の利く警備員さんだ。この人なら子供たちの安全を任せて大丈夫だろう。 御礼を言って、指し示された方へ向かった。 「ああ、あそこに居るな。ほら、向こうの砂場で、独りで山を作っているようだ」 言われるまでもなく、一目で見分けられたのは、母さんの体が覚えているからだろう。それを表に出すような真似はしないが。 作りかけの砂山は、ピラミッドだろうか。 額の汗を手の甲で拭った彼が、こちらに気付く。ぽとりと落ちるスコップ。 砂山を蹴り崩して駆け寄ってくる彼に、ふんわりと微笑んでやる。副司令に見られないように、母さんの体が憶えているままに。 満面の笑みを途端に泣き崩して、体当たりするように抱きついてくる。3歳児の突進力は侮れない。双手刈りの要領で倒されそうになったのを副司令がささえてくれた。 「…申し訳ありません」 「構わんよ。それより、シンジ君を」 「はい」 しゃがみこみ、かかえるようにして抱きしめてやる。途端に、火がついたように泣き出す。 … 一緒になって泣き出してしまいたかった。たくさんたくさん謝りたかった。 子供には、無償の愛を与えてやらねばならない時期が存在する。今まさにその盛りの彼に接する機会を与えられたというのに、自分の身勝手で反故にするところだったのだ。 … 彼と、自分の心の両方が泣き止むまで、随分とかかった。 **** 「もういいの? …そう、よかったわね」 まだアイスクリームの残っている器を押しのけたので、口元をおしぼりで拭ってやる。にぱっと笑顔に。 母さんの記憶によると、自分は随分と言葉が遅いらしい。そのため、その仕種や態度から色々と読み取れるようになったようだ。今の言葉も、彼の「もうお腹いっぱい、美味しかった」を表情から読み取っての会話だった。 保育所近くの喫茶店。 ここで引き離すのはあまりに可哀想だからと、冬月副司令の提案で彼を保育所から引き取ってきた。 「君が、コーヒーをストレートで飲んでいるのは違和感があるね」 「そうですか?」 いつ好みが変わったんでしょう? 出産前かしら。と嘯く。つい自分の嗜好でトアルコトラジャなんか注文してしまったけれど、母さんは紅茶党だった。 なるほどな。と副司令が顎をつまむようにして黙考。何とかごまかせたようだ。 … 「それで、どうだね? 何か思い出せたかな」 ふるふるとかぶりを振る。 やはり、父さんの配偶者としてやっていける自信が湧かなかった。 だが、彼を…、この子を放り出すつもりは毛頭ない。 「…ですけれど、なんだか放って置けないんです。この子も気付いてないようですし、できれば」 「母親として面倒を見る。かね?」 頷いた。 「出来るのかね?」 「料理を作ったり、機器を操作したりといった手続き記憶はどうやら残っているようなのです。ですから…」 手続き記憶は体が憶えるモノだからね。と、またもや顎をつまむような仕種。 「この子が1週間。どんな思いで居たかと想うと、とても見捨てられなくて…」 「君さえよければ、まあ問題はあるまい」 「ありがとうございます」 お礼を言われるようなことじゃないよ。と、照れ隠しか副司令がコーヒーをすすった。 「それよりも、君自身の去就の方が問題だろうね」 お腹がくちて眠くなったらしい彼を抱きかかえながら、目顔で問いかえす。 「順当に行けば碇のヤツと同居ということになるが、今の君では抵抗があるのではないかね?」 頷いた。偽っても仕方ない。 「別居するなら住宅の手配をするし、落ち着き先が決まるまで私のマンションを提供してもいい」 考える、振り。なぜなら、結論は昨夜のうちに出していたから。 加持さんとの関係を10年以上迷った自分に、父さんの配偶者という役割は荷が重すぎる。 だが、母さんの裡の父さんへの想いを知り、父さんの見せた母さんへの想いを見た今。いかに自分が薄情であっても、父さんを見捨てることは難しい。 「国連機関の所長が別居。となると、スキャンダルになりかねませんよね。 痛くもない腹を探られたくはないですし、あまり波風を立てないほうがいいように思えます」 なにより、思ってたほど拒絶感が湧かないのだ。 それはおそらく、あの世界で父子ではなく、第三者として接しえたからだと思う。子供心に巨大な敵に見えたあの父さんは、違う立場から見れば憐れむべき1人の男でもあった。 「それに、出来るかぎり元の生活を維持した方が記憶も戻りやすいのではないかと」 「…ふむ。道理ではある」 やはり、顎をつまむような仕種。縦にした握りこぶしを顎に当てて親指で挟んでいる。そんな姿を可愛い。なんて思ってしまうのは、母さんの記憶の悪影響だろうか? …あぅ。上下のまぶたが仲良くなりだして、彼がぐずりだした。 「あらあら、寝やご?」 優しくゆすって、寝かしつける。午睡には少し早いが。 「…君の郷里の言葉かね?」 「…いえ、そういうわけではないのですけど、気に入ってまして」 すっと口をついて出てきたのだから、母さんはよほどこの言葉を気に入っていたのだろう。 「解かる気がするよ。優しい言葉だからね」 ええ。と答えて、寝入ってしまった彼の頭を肩に載せる。 その様子を目を細めて見ていた副司令が、コーヒーを飲み干した。 「シェスタを人生の一大事と捉えている委員も居るから、そろそろ碇のヤツも開放された頃合だろう」 手を上げて、ウェイターを呼んでいる。 「話し合うというなら研究所に車を廻すが、どうするかね?」 「お願いします」 うむ。と頷いた副司令が、ウェイターに勘定書きを渡す。 恭しく下がろうとしたウェイターを身振りで押しとどめて、 「副所長、おねだりしてもよろしいですか?」 … 「なにをかね?」 意表を突かれたのか、副司令の問いには間があった。母さんの記憶から、それらしい頼み方を試してみたのだけど、違和感があっただろうか? 「時間が時間ですから、差し入れを」 病院から直接引き回されたので、手持ちが無いのだ。 「ふむ。そういうことなら構わんとも」 ありがとうございます。と涼やかな笑み。母さんの笑い方、こんな感じかな。 アイスコーヒーとアメリカンクラブハウスサンドを2人分、テイクアウトでウェイターに頼む。 「…2人前かね?」 「ひとつは運転手さんの分です」 悪びれもせずに笑顔で返す。こんな反応の仕方は自分では思いもつかないから、つくづく自分が父さん似であると実感する。 「記憶を失っても、ユイ君はユイ君だね。人の本質はそうは変わらないということかな」 差し入れは自分の考えだけど、副司令が違和感を持たなかったのなら、母さんもそういう人だと認識されているのだろう。 それはまた、自分の中にもしっかりと母さんが息づいているように思えて、少し嬉しかった。 **** 「それは、家庭内別居だと受け取っていいか?」 無駄に広い所長室。いつものポーズで座る父さんの背後に、窓枠の影が十字架のよう。 「…わがままを申します」 急遽、持ち込まれたパイプ椅子。寝入ってしまっているので、彼を抱きかかえたままで腰をおろしていた。 … 折角の差し入れは、まだ手もつけられていない。…当然かもしれないが。 「…歓ぶべき、だろうな」 「所長?」 唐突に目を見開いた父さんが、耐え切れなくなったのか視線を逸らす。 「冬月が言ったとおり、今の君にとって私は他人だ。シンジごと捨てられても文句は言えん」 口を挟もうとしたら、身振りで遮られた。 「だが君はシンジの母親として振る舞い、夫婦としての体裁を維持してくれるという」 視線を、合わせてくれない。 「…感謝すべきだろう」 「…申し訳ありません」 「君のせいではない。謝らないでくれ」 慢性的な寝不足なのだろう。目の下のくまは刻まれたように濃く、無精ひげもひどい。 本当に母さんを心配していた父さんを、自分はぬか喜びさせるだけさせておいて再び突き落としたのだ。 そのことが解かっていながら、母さんになりきることを選択できない。自分はやはり薄情な人間だった。 「…二つ。条件がある」 「おふたつ、ですか?」 ああ。と頷いた父さんが、ようやく視線を向けてくれる。 … 「ユイ。と呼んでいいか?」 間髪入れずに頷いた。 「…ユイ。人目のないところだけで構わん。…ゲンドウ、と呼んでくれ」 今、父さんが頬を赫らめなかった? …ちょっと、可愛かったかも。 … 「…ゲンドウ…さん?」 とても気恥ずかしかったけど、せめて母さんの記憶のとおりに呼んであげた。 つづく