ゲヒルン・ジャパンの翌年度採用者名簿に、葛城ミサトの名前がなかった。研究職ではないのだから、採用基準を充たさなかったと云うわけではないと思うのだが。 リツコさんの時のように第2新東京市まで行こうかと考えて、そうすべき理由がないことに気付く。リツコさんならともかく、葛城ミサトにこだわる理由がないのだ。…碇ユイにとっては。 なにかこじつけてでも様子を見に行きたいところだったが、それでミサトさんを迎え入れることになった場合、この時期からでは人事部に余計な干渉を行うことになる。 昨年リツコさんの採用で無理を押し通したばかりだし、人事にも目を光らせているらしいゼーレの関心を惹きたくない。なにより、もしミサトさんが使徒への復讐をあきらめたと言うのなら、敢えて巻き込む必要はないではないか。 様子を窺うために書き始めたメールを、本来なら知らないはずのアドレスへ送信する直前に、消した。 …こういう時、自分が薄情なんだと思い知らされる。 **** 「…なんだ、あれは」 ゲンドウさんの声に振り向くと、その視線はガラス戸越しにベランダの床のほうへ。 「…プランターですか? ミニトマト、ですわ」 「それは、見れば判る」 食糧事情はかなり改善されてきているとはいえ、生鮮食料品はまだまだ高価い。育成が容易なミニトマトはベランダ栽培されることも多いのだが、これまで我が家では手を出していなかった。トマト嫌いが2人も居たし、1人は現在進行形で見るのも嫌がるからだ。 子供と違って、大人の好き嫌いは治しづらい。教育に良くないから、子供にそういう姿を見せずにすむよう気をつけてはいるけれど。 「【壱年ノ科學】の教材なんですよ。ミニトマトの栽培セット」 「…そうか」 ガラス戸に映りこんだその目が、据わったような気がする。瞳だけで見下ろして、…ああ云うときのゲンドウさんは、良くないことを企んでるに違いない。 それが何かは判らないが、とりあえずその矛先は逸らしておいた方がよさそうだ。忙しい人だから、目先の危機を回避するので手一杯になるだろう。 「熟したらケーキに、と申し付かってますわ。お父さんにも食べて欲しいそうですよ」 「…ああ」 鋭い視線を途端にさまよわせて、ゲンドウさんの応えは呻くようだ。 夜闇に、まだ青い実が照り映えて見えることだろう。ゲンドウさんが微妙に後退った。 **** - AD2009 - **** ありえないと知りつつ、使徒への復讐をあきらめていて欲しいと願わずに入られなかった。…虚しい願いだったけれど。 ミサトさんの消息は、意外なところからもたらされた。ドイツに出向中のリツコさんからだ。 どうやら、直接ゲヒルン・ドイツに就職したらしい。自分が葛城ミサトであった時代は、ゲヒルン・ジャパンに採用されてドイツの勤務に廻されたのだが…。 その差異が気になって、リツコさんにそれとなく確認してもらった。 それによると、以前リツコさんを勧誘した時の私の言葉とリツコさんが出向していることから、エヴァ開発の本場がドイツだと勘違いしたらしい。それで直接ゲヒルン・ドイツの採用試験を受けたようだ。 いずれ日本に向かわせることが判ってるアスカのための採用。と云うことなのだろう。 エヴァを見せてくれと、毎日のようにせがまれて辟易している。とメールが結ばれていた。 将来の作戦部長候補ということで、それなりの任地に廻すようドイツに要請しておくべきだろうか? せめて、使徒殲滅の最前線に立てるようにするために。 **** E計画責任者の、帰宅は早い。 仕事を持ち帰ることを前提にして、18:00には研究所を後にするのだ。 人工進化研究所が運営している保育所は、就学児の学童保育も実施している。つまり、放課後の面倒を見てくれるわけだ。そのまま泊り込んで、そこから通学する児童も居るのだとか。 だが、後付けの都市計画に則っているわけはないから、行政区画と折り合いがつかない。平たく言えば、第壱小学校から遠かったのだ。 なので、シンジが小学校に入学してからは、地域で運営している児童館で面倒を見てもらうことにした。19:00までしか見てもらえないから、早く帰宅できるように工夫が要る。 「来て…ないんですか?」 ええ。と頷くのは、今日の当番らしい非常勤の指導員。 毎朝、集団登校とはいえ歩いて通っている道だから、自力で帰ることもできるだろう。万が一のために、家の鍵も持たせている。 しかし、一人きりで留守番させることになるから児童館に預けることにしたのに… 指導員さんにお礼を言って、児童館を辞する。 一方レイはといえば、1歳の誕生日を機に保育所に預けることにした。手元に置けないのは寂しいが、社交性を養うには同世代とのふれあいが必要なのだ。 もしや。と思いつつ保育所の門をくぐる。 案の定、シンジがレイを迎えに来たそうだ。今日は私が遅くなるからと、嘘までついて。卒園生ということもあって、保育士の先生がシンジの言うことを鵜呑みにしたらしい。 それにしても、小学校から保育所経由で我が家まで、子供の足では小1時間はかかるだろうに。 ただいま。と靴を脱ぐのももどかしく駆け込んだリビングで、シンジがレイに絵本を読み聞かせてやっていた。 … 思わず、へたり込んでしまう。 「あっ、お母さん。おかえりなさい」 こちらに気付いたらしいシンジが、能天気に。 「…」 レイは、言葉が遅いのか無口なのか、まだよく判らない。 「…ただいま」 気をとりなおして立ち上がる。ダイニングのテーブルの上に、食べ散らかしたお菓子の空き袋。 「シンジ。お母さんちょっとお話があるの、こっちに来てくれる?」 手招きすると、バッタが跳ねるような勢いでソファから降りた。 「レイはちょっと待っててね」 こくん。と頷くレイを確認して、シンジを連れてリビングを後にする。 奥の6畳間に入り、扉を閉めた。 「どうして、レイを連れて帰ってきたの?」 ひざまずいて、目線の高さを合わす。 「…かわいそうだと、おもったの」 かわいそう? と小首を傾げると、うん。と応え。 「…ほいくしょに行ってたとき、お母さんをまっているの、ぼく、さびしかった…」 だから。と続けるシンジの目元が、たちまち潤んで。 「レイも寂しがってると、思ったのね」 頷いたはずみで流れ出した涙に驚いたのか、目を見開いて。 ひくっ。と、しゃくりあげたシンジを抱きしめた。 … こんな、声を押し殺すような泣き方を、この子はいつ憶えたのだろう。 おそらくは、守るべき存在があると自覚をした、その後のことだろうが。 … ようやく落ち着いてきたシンジの体を、優しく引き剥がす。 「…シンジは、本当に優しいお兄ちゃんね」 もし、自分に妹ができたとして、この子のようにこんなに優しくなれるだろうか? 「…保育所まで迎えに行って、家まできちんと連れて帰って。とっても偉いわ」 守るべき者ができたくらいで、こんなに毅くなれただろうか? 「おやつもきちんと食べさせて、一緒に良い子にして、お留守番してくれていたのね」 うん。と頷く姿は、照れながらも誇らしげで。 本当に自分は、この子と同じ可能性を持った存在だったのだろうか? …とてもそうは思えない。 確かに、その行動の端々に、当時の自分の姿を見ることができる。だが、それ以上に自分との違いを見て取れた。 今日の、この行動のように。 … 自分との同一面よりも、そうした自分との違いのほうが愛しい。と感じていることに、気付く。 この感情は、母さんの記憶に有った。己の一部を受け継いでなおかつ、己とは違う可能性を秘めた存在を言祝ぐ気持ち。…親の愛。 いま自分は、過去の自分への憐憫ではなく、一人の親としてこの子を…見ている? 同情ではなく、愛を与えようとしている? 騙ることのない、愛を…? … 「お母さん!どうして、ないてるの!?」 涙? 私、泣いてるの? 「なにが、かなしいの?」 いいえ。とかぶりを振る。 「…嬉しくても、涙が出ることがあるのよ」 サマーセーターの袖で涙を拭う。 「うれしくても、なくの…?」 ええ。と応えた。 「シンジが妹思いの良い子に育ってくれて。お母さん、本当に嬉しかったもの」 そのことを、心底から嬉しいと思えたから、嬉しいのだけれど。 … 親の自覚ができたから、次にやるべきことも判った。 「だけど、お母さんに相談せずにこんなことをして」 …優しいだけが、親の愛じゃないから。 「保育所の先生に、嘘までついて」 シンジの体を引き倒し、膝の上にうつ伏せにする。 「お母さんが、どれだけシンジのことを心配したか…」 振り上げた右手を、容赦なくそのお尻にたたきつけた。 ぴっ!と悲鳴を漏らしたシンジの、表情は見えない。 「途中で事故に遭ってないか」 手加減なしに、もう一撃。 「ごめんなさい!ごめんなさい!おかあちゃん、もうしません!ごめんなさい」 2年生になってしばらくして、ある日突然、お母さんと変わった呼び方が、戻っている。 「知らない人に着いて行ったりしてないか」 ズボン越しの打撃音は鈍く、ばすん。と… … 盛大に泣き叫ぶシンジをかかえ起こした。 「お母さんがどれだけシンジのことを心配したか…」 わんわんと、なにものも憚らぬ子供らしい泣き方に、なぜか安堵する。 ごめんなさいぃ。と、しゃくりあげるシンジを、思い切り抱きしめた。 嘘いつわりのない涙の、目尻から溢れるままに。 **** 結局、翌週からシンジも、放課後に人工進化研究所運営の保育所で預かってもらうことにした。 夕方に迎えに行くのを、レイと一緒になって待っている。 つづく