もし、この一連の流れが俺たちを主人公に置いた物語のようなものだとするならば。
きっと始まりはあの現象、ゲームのプレイ中に異世界に来てしまったなどという荒唐無稽なことがあった日なのだろう。
ノイズと共にこの地に降り立ち、ギリアムやフィオナとの出会いを経て、混乱しつつもなんとかこちら側での日常に慣れてきた辺りまでが起承転結で言う起の部分。少々地味で、長い期間だったが、後から振り返ってみるとそう思う。
そして――話が動き出す承の部分。
始まりはとある晴れた日の事だった。
雲一つなく澄み渡った青い空。季節的に陽射しは厳しいものの、地理的な関係なのか元の世界の都心と比べればまだ耐えられる暑さ。風による空気の流れもあり、清々しい気分になれそうだったあのとき。
俺は、未だかつて経験したことのないほど最低な気分で背中の剣柄を握っていた。
小さな争い。しかし今思えば、承はあの日からだった。あれを境に物語は変化を見せ、そして最大の山場である転へと展開していったのだ。
午前十時。
日の出と共に活動を開始するものもいる冒険者の中では、やや遅いとされるであろうその時間。
いつものように会館で討伐の仕事を引き受けた俺は、さっそく街の外へと出るべく活気にあふれた中央通の石畳を歩いていた。
以前フィオナが言っていたが、辺境とはいえかなりの規模を持つこの街の人口は多い。何かの祭りかと思うほどの人混みが恒常的にできている。その中を縫うようにして進み門を目指す。他人とぶつからないようにする術は繰り返すうちに自然と身につけた。
ずいぶんとまあ、この街での生活にも慣れたものである。
正直、複雑な心境だ。今後のことを思えばこの適応は喜ぶべきものなのだが、それはつまり慣れてしまうほどの長期間〈こちら側〉に居座ってしまっていることの証明でもある。
ここと、元の世界における時間の流れは高確率で同一だ。ここで一年を過ごせば向こうでも一年が経過する。帰ったら行方不明になっていたときから数時間しか経っていませんでしたなどと都合のいい事態にはならない。
両親、兄、友人たちの顔が頭に浮かぶ。
二人の人間が突然消えた現象を彼らはどう思っているだろうか。
「……早いとこ帰らないとな」
最近明らかに多くなった溜息を吐きつつ、呟く。
現状に慣れてきたことでこの地での生活を楽しむ余裕も出てきた。しかし、さすがに心配してくれているだろう人々の思いを踏みにじってまでここに留まろうとは考えられない。
やはり帰りたい、帰らなくてはいけないというのが俺たちの結論だ。
だから――今日は隣にクロノの姿はない。
「役割分担、か」
隣に誰もいない、そのことに何となく違和感を覚えるのは、ここに来てからずっと行動を共にしていたからだろうか。
つい先日までは単独で行動しているのが当たり前だったのに、本当に慣れとは恐ろしいものだ。
苦笑しつつ、昨夜、提案があると部屋に押しかけられた時のことを思い返す。
――――明らかにオーバーキルだと思うんだよね。
片手を顎に添えながら、クロノはそんなことを言った。
戦いに慣れてきた今、この地域に出現するモンスター相手に二人で当たるのは非効率以外の何物でもないと。
どちらか片方が依頼をこなし資金集めを、もう片方が帰還のための情報収集を行った方がいいのではないか。もっともな話だったので特に渋ることなく同意。話し合いの結果ゲームでもソロでの活動を行っていた俺が前者を担当することになった訳だ。
多分、クロノは方々の書店でも巡って本を読み散らかすのだろう。
目に見える成果が出るかは分からないが、何もしなければ何も得られない。今の俺たちにできるのは、ただ全力で取り組むことだけ。
俺の担当がひたすらモンスを狩るだけの単純作業――こんなことを口にすれば同業者たちから本気で殴られかねないが――に対し、クロノがあるかもわからない手掛かり探しという不平等さはあるものの。その辺りはまあ、とっとと討伐を終えて補助に回ればいい。
少し急ぐかなと微妙に歩調を早める。大した意味のない自己満足的な行為だが、そのせいもあって目的地、ハイムズの内外を繋ぐ門へはさほど時間が掛からずに着くことができた。
ここに来ると道行く人々の数も大分減ってくる。何しろ外は化け物どもの闊歩する危険地帯なのだ。たとえ初期のマップ、出没するのが雑魚中の雑魚といえども戦闘訓練を積んでいない一般人にとっては十分以上の脅威であり、ピクニック感覚で気軽に出歩くわけにはいかない。
よって門を利用する人間は大体二種類。俺と同じような冒険者か、あるいは金儲けのため各地を回っている商人だ。丈夫そうな、しかし戦闘を考慮していない布服に身を包んでいるのは後者だろう。その傍に張り付くように立っている護衛を見て、ゲームから引き継いだ能力を隠すという事情がなければ、わざわざ個人用の馬車を買わなくとも護衛の仕事を引き受ける手もあったのになと考える。
そうすれば移動もできて、ついでに金も稼げて。一石二鳥である。
もし、などといった可能性は考えるべきではないのだが、ついつい後ろ向きな思いに囚われてしまう。
「……まあ、そう都合よく行きたい所への護衛依頼が出ているとも限らないし」
そんなことを呟いて自分を誤魔化してみるものの、馬車とそれに付随する細々な道具の購入費用を計算するとどうしても視線は下向きになってしまう。地面と、動くブーツの足先をぼんやりと眺めながら、俺は眩暈を堪えてふらふらと歩いた。
そんな不安定な姿勢がいけなかったのだろう。
どんっ、という軽い衝撃。頭を上げると高級そうな白銀の鎧が目に入る。どうやら俯いていたせいで前方から歩いてきた人に気が付かなかったらしい。
「っと、すいませ――――」
慌てて姿勢を正し、謝罪の言葉を述べようとして、俺は凍りついたかのように止まった。
なぜならぶつかった相手の顔が見覚えのあるものだったからだ。何よりも実用性を優先する冒険者には珍しい、豪奢なつくりの軽装鎧。腰に差した細長い片手剣。長い金髪と翡翠色の瞳を持つ、苛つくほどに整った顔立ちの男。
邂逅自体は一度きりだが、その特異さから奴の事は強く印象に残っている。
ハイムズのエースなどとも呼ばれる高レベル剣士。誰もが憧れる立場にある男で、しかしその性格故にフィオナから絶対に関わらないようにと忠告された相手。名前は確か、ウェスリーだったか。
どうやら向こうも隣に立つ仲間らしき冒険者と話しており、前方に注意を払っていなかったらしい。何事だと、不快そうに顔を顰めて俺を見てくる。
やばい、どうする、ちくしょう、面倒臭い、思考が泡のごとく弾け消えていく。
「あ、はは……」
強張った笑みを浮かべながら、俺は、落ち着けと必死に自分に言い聞かせた。奴と会ったのはもう二週間も前の話、こちらにとってあの言い草は衝撃的だったが、向こうまでそうとは限らない。ただの日常的な出来事として忘れられている可能性も――……
そんな、淡い希望は見事に裏切られた。
「その顔は……」
ウェスリーは何かを思い出そうとするように眉を顰め、やがて「ああ」と納得の声を上げた。口元に浮かぶのは嘲笑。他人を見下し慣れた表情で言葉を紡ぐ。
「あの時の身の程知らずか」
「……どーも」
一瞬頭に血が上りかけたが、理性でもって制止する。
ここで喧嘩を買うことには何のメリットもない。目立たないと決めた以上はそれを貫き通すべきだ。
思考を巡らせ、この場から切り抜ける方法を考える。何も特別話すことがある間柄でもあるまいし、愛想笑いでも浮かべつつとっとと去るのが一番なのだが、何故だかこの男は俺に絡みたいらしい。
舐めるように俺の体を上から下まで眺め――あまりの気持ち悪さに寒気がした――腰の辺りで止まる。何かを確認するように目を細めると、ウェスリーは笑みを深めた。
「買わなかったみたいだな」
唐突な言葉。
理解できずに首を傾げる。
「あのときの短剣だ」
「ああ……」
そういえばそんな物もあったか。
こいつとの諍いの原因は道具屋で同じものを取ろうとし、指がぶつかり合ったことなのだ。
「くくっ、いい判断だな。魔法の刻まれた武器など貴様にはもったいない。使いこなせずにガラクタとなるのが関の山だろう。ああ、それとも、そもそも金が足りなかったか?」
魔法具は高いからな、と。
言外にお前のような貧乏人は買えないだろうと小馬鹿にしてくる。
とはいえ実際それは正しい。収入がある程度安定してきた今ならばともかく、当時の俺の財布はギリアムからの借金を除けば空だった。無一文だった。購入しようとしてもできなかっただろう。
だから、特に反論することなく俺は頷いた。
そうですねと、苛立ちを込めないよう、なるべく平淡で無感情な声を意識して出す。そしてそのまま、仕事があることを理由に脇をすり抜けようとした。
「待て」
しかし、それが逆に癇に障ったのか、背後から怒りを押し殺したようにして呼び止められてしまった。無視しても良かったのだがそうすると更なる確執を生みそうだ。俺はしぶしぶながら振り返った。
「まだ何か?」
目に入ったのは怒りに歪んだ形相だ。
勝手な推測だが、この様に、適当にあしらわれた経験がないのだろう。30レベルを超えるような冒険者はそれだけで上位者として見られる。それが日常的だったからこそ、ただ一度会っただけの俺に対してこうも執着する。
もう少し柔らかく対応すべきだったかなと少し後悔。しかしもう遅い。せめてこれ以上の関係の悪化は防ごうと、人を呼び止めておいて黙り込んだウェスリーに、何もないならこれでと声を掛け足早にこの場を去ろうとする。
「……君はまだ、ギリアム殿の世話になっているのかい?」
一歩目を踏み出した瞬間、問われる。
先程までとは打って変わり、愉悦を含んだ声色に疑問を覚えつつも、俺は曖昧に頷いた。
「ええ、そうですが」
「そうか……ふっ……」
嘲笑。いい加減見飽きたその表情に、もはや怒りは感じない。ただひたすら面倒に思うだけである。早く仕事を終わらせてクロノの補助に回りたい、そう切実に思う。
しかし――次の一言で、俺の感情は再び激しく高ぶった。
「かつて国内最強とまで言われた戦士が、ずいぶんとまあ堕ちたものだ」
「……お前」
蔑みの対象は俺ではなかった。恩人への侮辱に、自然と目が細められる。
「才能のない人間は、どれだけ努力しようと無駄。そんなことも理解せずに落ちこぼれを教育など……耄碌したか」
その言葉に、今までただ周りに立っているだけだった奴の仲間も追従する。類は友を呼ぶのか、エースとまで呼ばれる人間の所属するパーティーとは思えない、下劣な笑い声を上げて口々にギリアムへの蔑みの言葉を吐き出してゆく。
――――案外わかっててやってるんじゃないのか。
――――そういやアレが引退直前に受けた依頼、結構な死者が出たらしいな。
――――はっ、怖気づいて隠居か。それでいて偉そうに新人教育とか抜かしてんのかよ。
――――戦場には出たくないけど威張り散らしたいってか。
粘着質な、不快な言葉が俺の耳に入ってくる。平静を保とうとして失敗し、抑えられなかった激情が拳を握りしめ目つきを険しくさせた。
だが、その反応は相手を喜ばせるだけのものでしかない。所詮俺は平和な世界で生きてきただけの人間なのだ。多少剣の扱いに慣れた程度で人を怯ませるような殺気を出せるはずもなく、睨みを受けた彼らはただ愉悦に浸る。
にやにやとした、不快な笑み。
歯を、強く噛み締める。
目を瞑り、深呼吸を行う。挑発に乗ってはいけない。ここで剣を抜き、感情に任せて振ってしまえば、それはきっと俺とクロノの都合に収まらない不都合が生じる。
ギリアムやフィオナに、迷惑が掛かる。
だから落ち着け、落ち着くんだと、何度も自分に言い聞かせる。
けれど、
「娘も優秀だって聞くが、こうなるとそれも怪しいよなあ。あれか、体売って他の冒険者の手柄を自分のものにしてんのかねえ」
何かが、頭の奥で千切れた気がした。
「お前ら――――」
視界が赤く染まり、手が、背中の剣へと伸びた。
その柄を強く、強く、強く強く握りしめる。
「――――少し黙れ」
俺の言葉に、ウェスリーが唇を醜悪に歪める。
その表情に怒気に対する怯えなど一片も見られない。ただ挑発に乗ってきた馬鹿を嗤う気持ちがあるだけだ。
そしてそれは取り巻き共も同じ。
数人の集団から一際軽薄そうなシーフ風の男が歩み出てくる。腰から小ぶりのナイフを抜出し、気障ったらしくくるくると回してから握る。
「オイオイオイ、なんだそりゃあ? やる気か? 決闘かぁオイ!!」
明らかにこちらを舐めきった態度。恫喝に、こちらがすぐに怯えると確信した目。まるでチンピラ、いや、事実そのものなのだろう。
それに対し俺は、自分でも驚くほどに冷めた声で答えた。
「ああ……別に、それでも構わないが」
あっさりとした返事が予想外、だったのか。
男はぽかんと間抜けな面を晒した後、格下であるはずの相手から舐めた言動をされた屈辱に顔を紅潮させていった。
「いいぜぇ……後悔すんなよクソガキが……」
震える声でそう言い、男は両手にナイフを構えた。随分とまあ喧嘩っ早いことで、すでに腰を低くしていつでも飛びかかれる体勢を取っている。
決闘――それは、国公認の一対一の戦いだ。主に冒険者が、腕試しや依頼報酬の取り分の決定などのために行う。
やり方は至極簡単で、対象となる両者がそれを受諾し、第三者の立会人を設ける。この場合は不穏な空気に集まってきた野次馬の内の誰かだろう。ウェスリーの仲間が彼らに声を掛け、やがて面白そうに成り行きを見守っていた冒険者風の男が俺たちの間に立った。
審判役となった彼は、咳払いをしてから定められたルールの確認をし始めた。
殺しと、決着後の不要な追撃以外ならば何でもあり。野蛮と思われるかもしれないがこの世界ではそれほど珍しいことではない。むしろ無闇に法で縛ってしまうと、憲兵の目の届かない裏側でもっと酷い殺し合いが行われてしまう可能性がある。
相手の構えるナイフの鈍色の輝きを無感情に眺めつつ、こちらも剣を鞘から抜き払って正眼に構える。
「両者、準備はいいか?」
もっとちゃんとした、闘技場でなどならば何かしらの口上があるのかもしれないが、こんな道端で行われる試合に言葉の装飾は必要ない。立会人の短い問い掛けに俺と奴は同時に頷き、
「――――始め!」
名乗り上げも何もなくあっさりと開幕した。
先に動いたのは相手側だった。未だ名前も知らないそのシーフは、俺を打ち倒し屈服させた時の事でも考えているのか、自信に満ちた凶暴な笑みを浮かべながら突進してくる。
全身をうっすらと赤く発光させているのは武技スキル――武器の熟練度が一定以上になったとき使えるようになる、一種の魔法のようなものの影響だろう。
攻撃に属性を付加する、有効範囲を広げる、幻影を見せて相手を翻弄する……その効果は多岐に渡りとてもではないが個人で全てを把握することなどはできない。
しかし、俺には目の前で繰り出されるスキルがそう複雑なものではない確信があった。
なぜなら、男の動きがあまりにも遅かったからだ。
シーフとして器用さにステータスを割り振っているだろうことを考慮しても10レベル台といった動き。ついでに言えば能力値の関係ない足運びにも無駄が多い。地を蹴るたびにドタドタとうるさい音を立て、前進するための力を拡散させている。
そんな敵が繰り出せるようなものなど高が知れていた。熟練度の低い段階で出せるスキルと言えば、おそらくは単純な威力増加の効果。軽装の身軽さを生かし素早く近づいたところで必殺の一撃を叩き込む、そんな考え。
正直、瞼を閉じていても捌けるような幼稚な攻撃だった。
本人はこれで軽快に走っているつもりなのだろうか。だとしたら、実に滑稽だ。
思い出すのはこの世界に来る直前に戦っていたモンスター、《イビル・レジデント》。
最前線に出没する中でも特に肉体能力に優れた厄介な敵。あの剛腕から繰り出される一撃と比べるとあまりにも遅く、緩慢に、突き出されたナイフが俺の喉元を狙って迫る。
殺しはなし、のはずなのだが。
不慮の事故とでも言い訳するつもりか。
まあ確かに、まさか小手調べの一撃で死ぬとは思わなかったとでも述べれば、批判の対象は実力差を弁えず決闘を受けた馬鹿に逸れるのかもしれない。
こちら微動だにしないことを反応できていないと勘違いしたのか、男は嬉々として進んでくる。
回避行動をとったのは、刃先が体から十センチほどの距離まで迫った時だった。僅かに体を傾け、首を曲げることで突きを躱す。
驚愕の表情。
何が起きたのか理解できないとばかりに間抜けに開けられた口。
無視して長く伸びきった腕を掴むと、攻撃が不発に終わったことでスキル発動を示す燐光がパッと散った。
それを一瞥しつつ相手の体を引き寄せ、前に倒れ込んだところに蹴りを叩き込む。
「がっ……!?」
無防備に空いた腹への一撃。
しかし男の身につけていたチェーンメイルの防御力と、何より俺が殺さない程度の力加減が分からず必要以上に手を抜いたことが影響し、勝負を決めるほどのものではない。頭上のHPバーの減少もせいぜい全体の一割弱だ。
仕方がなく相手の眼前に向けて剣を振る。
力を込めず、スキルも使用していない、斬撃と呼ぶのもおこがましいような緩やかな動きで刃を滑らせる。反撃を受けた驚きを引きずっているのか、反応の遅れた男は慌ててそれを避けた。
大袈裟な回避運動によってできた隙をつき、一気に接近。
殺さずに無力化を図るならば、やはり体術の方がいいだろう。足を払い、何も握っていない左手で腹を強く押す。できればこのまま一発くらいは本気で殴ってやりたいところなのだが、それをすると比喩でなくこいつの頭が破裂しかねない。
体を傾けることでバランスを崩し、転倒させるだけに留めておく。
「なんっ……」
信じられない、そんな風にして見上げてくる。
その無様な姿に多少溜飲が下がるも、優越感は大して感じなかった。ただ、必要な作業として首筋に剣を添えてやる。いつでも殺せるという意思表示。地味だが、決着には十分だろう。
驚きに目を見開いているウェスリーとその仲間、野次馬、立会人。そんな彼らを無感情に一瞥して声を掛ける。
「審判」
「へ、あ、ああ」
唖然としていた立会人がようやく我に返る。そして勝者の名を高らかに叫ぼうとして――困ったように俺の顔を見た。
「……すまん。俺、君の名前知らないや」
「……ユト、だ」
本日二度目の溜息が出た。
大方、俺が勝つと思っていなかったからだろう。まあ、片や有名パーティーの一員、片やぼろコートに身を包んだガキである以上文句をつけることはできない。
名前を伝えると、再びの謝罪とともに「勝者ユト!」と微妙に恥ずかしい宣言がなされた。その瞬間、それまでの戸惑ったような空気が吹き飛び、ギャラリーがどっと沸いた。
普通の腕試しならばここで握手の一つでも交わし互いの健闘を讃えるのだろうが、当然、そんなことはしない。屈辱に震えるシーフは放っておき、俺は未だに険悪な空気の中でウェスリーと静かに睨み合っていた。
次はこいつが出てくるのだろうか、それとも――――
警戒するが、しかし奴は舌打ちをするとこちらに背を向けた。
確か、連戦はマナー違反だったか。
そんなことを気にするような性質ではないはずだが、さすがに人目が多いと感じたのだろう。
歩き去るウェスリーを見て、仲間たちが慌てて後を追う。決闘相手のシーフも大したダメージは与えていなかったため、最後に憎しみを込めた視線をこちらに送ってくると、逃げるようにしてその姿を消した。
「……やっちまったなあ」
頭を掻き、空を見上げる。
後悔はない。あそこで何もせず、なあなあで済ませることは流石にできなかった。しかしだからといって何も思うところがないかと言えばそうでもない訳で。
悪目立ちは避けるこの世界での活動方針。
ウェスリーと関わり合いになるなというフィオナからの忠告。
諸々を台無しにした罪悪感が酷い。
あくまで倒したのはウェスリーでなくその仲間、おそらくはあの中で最も弱い推定レベル15、6のシーフであるため街中大騒ぎとまではならないと思うのだが。とりあえずどんな風にこの件を皆に伝えればいいかについて悩む。
勝利からくる爽快感など欠片もなく、興味を持って話し掛けてくる野次馬を適当にあしらいながら、俺は憂鬱とした気持ちで本来の目的である門の方へと足早に向かおうとした。
そして、視界の端に陽光に煌めく銀色の髪を見た。
「え?」
ゆっくりと近づいてくる彼女の姿を、俺はただ石のように固まって待っていることしかできなかった。
正面に立ち、頭一つ分ほど違う身長の関係から、フィオナは覗き込むようにして俺の顔を見た。そこに浮かんでいるのは華やかな笑み。なのにどうして背筋が寒くなるのだろうか。
「……見てた?」
「うん。割と最初の方から」
どうやら俺には言い訳を考える時間さえ与えられないらしい。
ただ最後の足掻きとして、お手柔らかにと、今から始まるであろう説教に恐怖しながら強張った顔で口にした。