弓に矢をつがえ、弦を引き、射る。
長年の訓練と実践により身に染みついたその作業を狂いなく繰り返す姿とは裏腹に、銀髪蒼眼の少女――フィオナの心中はかつてないほどに焦りに満ちていた。
「足だ、足を狙え! 体勢を崩して機動力を奪え!!」
余裕のない声でウェスリーが指示を飛ばす。
もうやっていると苛立ちが募るが言い返す暇はない、この未知の強敵を前に仲間内で争っている場合ではなかった。
性格に難はあるもののレベル30を超える、間違いなく一流の剣士とその仲間が全力を出しているにも関わらず戦況は不利だった。普段はなるべく温存する、コストのかさむ魔法矢を惜しみなく使ってもまるで効いている気がしない。
幾多の斬撃、射撃、魔法を浴びてなお平然としている《それ》を、フィオナは整った顔立ちに似合わない荒々しい舌打ちをしながら睨みつけた。
二足歩行の、しかし人間とは比較にならない巨大な体。
黒い皮膚と血のように赤く凶悪に輝く瞳。
全長四メートル程もある巨人が体躯に相応しい大きさの棍を振るう迫力の前では、この近辺で最も危険とされるヴァイスすら霞んでしまう。
彼女の記憶の中にそのモンスターの姿に一致する情報はなかったが、あえて言うなら話にだけ聞いたことのあるオーガ種に似ているかもしれない。
食人鬼の異名を取る、遭遇した時点で死を覚悟しなければならないとまで言われる最悪の敵に。
「くそっ……!」
鬼の分厚い筋肉に放った矢が弾かれる光景を見て、屈辱に歯を噛みしめる。
弓矢は攻撃力の固定された道具だ。いかに使い手の技量が並外れていたところで急所を狙う以外にダメージ量を増やす術はない。
前衛に敵の注意がいかないよう牽制に集中しつつ、ここぞという瞬間のみ威力の高い矢を撃つ。
せめてあの二人が居れば――そんな思いを抱く。
ユトとクロノ、ギリアムが拾った胡散臭いながらも腕のいいあの冒険者たち。しかし彼らは何か妙なものが見えたなどと言って森の奥へと行ってしまった。
今の森を少数で歩く危険性は知っているだろうからそこまで遠くへ行くとは思えないのだが……事実として、二人は未だ戻ってきていない。
戻ってきたが、この惨状を見て彼らだけで逃げたのか? それも考えたが、何となく違う気がした。クロノと名乗った魔術師はともかく、ユトに自分たちを見捨てる選択ができるとは思えなかったのだ。
ウェスリーを残して帰還する、そう言ったときに彼の顔が僅かに歪んだのをフィオナは知っていた。冒険者としてはどうかと思ったが、その甘さは人間的に好ましく、微笑ましかったものだ。
「となると……向こうにもイレギュラーが出たとか……」
目の前のこれが一体だけという保証はない。同じようなものに捕まって戦っているか、あるいは、すでに敗れて死んでいるか。数で勝る自分たちがすでに全滅の憂き目に遭っていることを考えると、残念ながら後者である可能性は非常に高い。
援軍は期待できない。もちろん無事でいてほしいとは思うものの、定石的には、この場では彼らは居ないものとして考えるべきだった。ギルドの方も同じ。緊急用の発煙筒はすでに点火したものの、ここに来るまでどれだけ時間が掛かることか。ついでに言えば仮に援軍が間に合ったとして、生半可な戦力ではただ死者が増えるだけだった。
どうにか現状に希望を見出そうと思考を巡らせる度に絶望が深まる。
「っちぃ、埒が明かん……!」
果敢にも巨人と正面から切り結んでいたウェスリーが、額に血と汗を滲ませながら悪態を吐いた。雑魚相手ではあまり使っていなかったポーションを胃に流し込み、半分まで減っていたHPバーを少しずつだが元に戻す。
対し、敵のバーは未だ二割程度しか削れていない。分かってはいたが、こうして改めて力量差を見せつけられると武器を持つ手から力が抜けそうになる。
本来なら尻尾を巻いて逃げるべき相手。それをしないのは、逃走のコマンドを選ばないのはウェスリーのプライドが高く敗北を認めないから……ではない。むしろそうであった方が良かったとフィオナは思う。それならばとっとと彼を見限って一人離脱することができるから。
では何故か? 単純に、逃げられそうな隙がないのだ。今の不利な状況すらフィオナと、ウェスリーら六人のパーティーが何とか支えているだけに過ぎない。誰か一人でも欠ければあっという間に全滅への道筋を辿ることになる。
メンバーの様子を見る。前衛、ウェスリーの他に壁役の重装戦士が一人と盾と片手剣を装備したベーシックな剣士の二人はHPにあまり余裕がなさそうだ。後衛の魔術師はMPが、弓使いはフィオナと同じく残弾が不安になる頃だろう。
レベルが低く、特化したステータスもなかったが故、アイテムでの支援に徹していたシーフに尋ねる。
「道具の残りはっ」
男は答えない。理不尽すぎる現状を前に、青ざめた顔で立ちつくしていた。
苛立ちを覚えながら、もう一度怒鳴る。
「聞いてるの!? アイテムはあとどれだけ残ってるのか答えなさい!!」
「ひっ!」
ユトと揉めたそのシーフはウェスリーとしても仕方がなく、補充要員としてメンバーに加えたと聞いている。
決闘のときは偉そうなことを言っていたものの、おそらく実戦経験はそれほどでもないのだろう。低位モンスター相手ならば多少は活躍していたのだが想定外の強敵の出現にはただただ恐怖しているだけだった。
気持ちは分からないでもないが、生憎とそんな事情を考慮しているような余裕はない。
睨みつけると、男は何とか金切り声で叫び返してきた。
「か、回復用のポーションがあと五つと、煙玉が二つだ! 他の奴らも同じくらいのはず……」
「…………そう」
随分と消費したものだ、と顔を顰める。ここまでの戦いでは負傷率が低くほとんど使っていなかったため、実質持ち込んだすべての回復薬をこの敵だけに減らされたようなものである。
本当に、でたらめだ。
「あんたはどうなんだ、弾はあと何発ある!?」
「普通の木の矢ならそれなりに。でも普通に射っても弾かれるだけみたいだから、実質、魔法加工されたやつが十数本あるだけね」
爆炎系の魔法が刻み込まれている弾ならばそれなりのダメージを与えられる。
全てを神経の集中する爪先にでも当てられれば、倒すことは出来なくとも撤退の時間稼ぎくらいはとフィオナは考えていた。
可能性は低いが確かに存在する希望。
しかし、シーフは異なる捉え方をしたようだった。
「ふ、ふ、ふざけんなっ! 絶望的じゃねえか!!」
半狂乱になって喚き、そして、
「オレは楽して金が稼げるからってここに入ったんだぞ!? こんなの聞いてねえ、やってられるか!!」
フィオナと巨人に背を向け逃げ出した。
男の役割はさほど重要ではないとはいえ、今はまずかった。慌てて制止するが聞く耳を持つはずもなく、壊れたような笑い声を上げながら走って行く。
その動きを見て、巨人が嫌らしく口角を吊り上げたことに彼は気が付かない。
初めに異変に気が付いたのは至近で戦っていたウェスリーだった。大きく息を吸い込むモーションに反応し、素早く耳を塞ぐように指示を出す。性格に難があるとはいえ経験豊富であることは間違いない冒険者たちは即座に何が起きるかを察し、シーフだけがそれを無視して足を動かし続けた。
巨人が――――吠えた。
ゲームでは《ハウリング》と呼ばれるその技は、多くのモンスターが持つ威嚇手段だ。
大声を上げ、自分よりも低レベルの相手に限って動きを一時的に止める。
そして巨人は、この場にいる誰よりも高位の存在だった。
耳を塞いでいてなお鼓膜が破れそうな衝撃。音の暴力が周辺を蹂躙し、物理的に草木を揺らし土を捲る。逃げていたシーフはそれを全身に叩きつけられた。
物理的ダメージはなく、せいぜい倒れたときに体を地面に打ち付けた程度だ。
しかし三半規管の機能を奪われ、まともに立つことすらできなくなった男の命運はそこで尽きていた。
巨人が持っていた棍を振りかぶる。
「あ…………」
それは誰が漏らした声だったか。
勢いよく投擲されたそれは止まった的――シーフへと真っ直ぐに飛んで行った。着弾と同時に水袋の破裂するような、湿り気を帯びた音が響く。
土煙のせいで様子を伺うことはできないが即死だろう。
「ちくしょう!」
誰かが叫ぶ。
仲間が死んだことではなく、均衡が崩れてしまったことに対する焦り故に。
冷静に考えれば巨人も武器を失い戦闘力を低下させているのだが、そんな思考を巡らせる余裕がある者は少ない。
硬直している間に軽戦士が一人殴り飛ばされ、後方に転がってくる。
何とか死んではいないものの重症を負っており、復帰は絶望的だった。
そこから先の瓦解は早かった。
まず魔術師の魔力が完全に底を尽き、魔法の支援がなくなる。
剣士が剣と共に戦う意思を折られ、その場に虚脱して座り込む。
壁役の重戦士がその頑強な鎧ごと吹き飛ばされ、後衛の人間を巻き込んで気絶する。
「う、おおおおおおおおおお!!」
吠え声。
フィオナ以外で唯一戦える体であるウェスリーが、最後の力を振り絞ってスキルを発動させる。全身を黄金の輝きに包むそれは、防御を捨てた突進技。
弓兵として動体視力には自信を持つフィオナでさえ、追うのが難しいほどの速度。
巨人の反応も追い付かず、懐に潜り込んだウェスリーが勝利を確信した笑みを浮かべる。
黄金の剣が黒色の表皮に触れる。皮を破り、肉を抉り、体内に侵入する刃。心の臓を貫かんと突き出されるそれを巨人は――鬱陶しそうに、胸部に力を込め筋肉を絞ることで止めた。
「お……?」
笑ったままの表情で固まったウェスリーを無造作につかみ、投げる。軽装とはいえ鎧を着こんだ人間一人を簡単に振り回せる筋力、その異常さに背筋を凍らせる。
ウェスリーは何度か地面をバウンドし、転がった。起き上がってくる様子はない。死んでこそいないようだが、どうやら気を失ったらしい。
「……嘘、でしょ」
呆然した呟きが唇から零れる。
時間にして十数秒。たったそれだけの間で、パーティーは完全に壊滅の様相を見せていた。
どうやら最初のシーフ以外は昏倒しているだけのようだが、それは彼らが巨人の攻撃に耐えたという訳ではない。
歯を剥き出しにした醜悪な笑みと粘りつく不愉快な視線から、フィオナは敵の思惑を察した。
――――嬲っている。
奴にとってこれは《戦い》ではないのだ。
奪うものと奪われるものが最初から決まった、《狩猟》に過ぎない。
ふざけるなと、叫びたい。
舐めるなと、腸が煮え返る気分だ。
しかし現実として、力の差は歴然。
すでに行動可能な人間は彼女一人であり、勝ち目などまるでなくなっている。
化け物。
ゆっくりと近づいてくる巨人は、まさにそう形容するのが正しい。
反射的に迎撃をするが当然のごとく通じず、鏃の先端すら刺さらずに弾かれるか、魔法の矢であっても皮膚の一部を剥がすことしかできない。
それでもフィオナが腰から接近戦用のダガーを引き抜いたのは、偏に冒険者としての意地だった。
一点の曇りもなく、白く光る刃。人間相手になら十分な殺傷能力を持つ品だが、本職の剣士が破れているのだ、さすがにこれで勝てるとは思っていない。しかし、こちらを見下した、汚らしい歯を剥き出しにした醜悪な笑み。せめてあの顔にこれを突き立てでもしなければ気が収まらない。
声にならない叫びを上げながら飛び掛かり、慣れないステップを踏み、皮一枚の距離で拳を躱す。少しでも近くへと足を動かし続け――――
ドンッ、と。
大気を震わせ、腹に響く重低音。
足踏み。
地面がひび割れるほどの力で行われたそれにより、足元が揺れる。突然のことに姿勢を崩したフィオナは勢いを殺せずその場に倒れ込んだ。
「しまっ…………」
その衝撃で唯一の希望、最後の武器さえ、手から零れ落ち遠くに転がっていった。
今度こそ、終わった。もはや彼女に抵抗の手段はなく、できる事と言えば徐々に迫ってくる敵の姿を睨みつけることだけ。
この体を握り潰さんと伸ばされる腕を、フィオナは悔しさに歯噛みしながら見ていた。
ステータスのバランスが筋力と体力に偏っているのだろう、どこまでも緩慢な動きだった。ハウリングさえなければ簡単に逃げ出せたのにと益体のないことを考える。
血と土に汚れた黒い指が、産毛の一本一本を視認できるほどまでに近づく。
30センチ、20センチ、10センチ、やがて頬に不快な感触。振り払おうとするが弓使いの筋力でそれができるはずもなく、むしろ巨人はそんなささやかな抵抗を楽しむかのように哂って、
唐突に、張り飛ばされたかのように横方向へと吹き飛んだ。
「――――え?」
理解できない光景だった。
木の折れる激しい音と共に巨人が森の中へと消える。代わりにその場に降り立ったのは赤いコートを着込んだ人間だ。一陣の風のごとく、彼はそこに現れた。
予想の斜め上を行く展開にフィオナが呆然としたまま座り込んでいると、少年――ユトが静かに声を掛けてくる。
「無事か?」
「え? あ、ええ」
一瞬、自分に迫っていた命の危機も忘れてフィオナはユトを見つめた。
今までどこにいたのか、何をしていたのか、何をしたのか、聞きたいことは多々あるものの上手く頭が働かない。
そうこうしている内に、登場人物は増える。
「あー……もうさ、分かってたんだけどさあ何となく。結局こうなるわけだ」
心底面倒臭いといった様子で彼の相棒、汚れで変色したローブに身を包んだクロノが草むらを掻きわけて出てくる。
「悪い。けど、彼女だけは見捨てられない」
「わかった、わかったよまったく。まあ確かに、この状況を見て見ぬ振りするのも目覚めが悪いしね。それで、この惨状をつくったのもさっき潰したのと同じ奴なのかい?」
「ああ。黒い、見慣れないモンスだった。とりあえず蹴り飛ばしといたけど、死んではいないだろうな」
「ステが明らかに体力と防御力に偏ってるもんねえ。おかげで、ずいぶんと長く足止めを食らったよ」
滅茶苦茶な会話の内容がまた混乱を呼ぶ。
さっき潰した、それはつまりあれと同等のものと出会い二人だけで勝利したということだろうか。
そういえば二人からは真新しい血の臭いが漂ってくる。しかしそんなことが可能なのか、というかそもそも蹴り飛ばしたってなんだだとか疑問が尽きない。
しかし、ただ一つだけ。
どうやら自分は助かったらしいと、フィオナは理解した。