「ミサトさん。綾波に何を言ったんですか」
待ち構えていたのか、帰宅した途端に問い詰められた。
「なっ、何?」
「とぼけないで下さい。
一日中つきまとって世話を焼こうとするんですよ。ミサトさんの差し金でしょ」
興奮していて、客の存在にも気付かないらしい。
それは何気ない思い付きだった。
光鞭使徒戦で両掌に火傷を負った彼の助けになるかもしれないと、綾波に声をかけたのは。
…………
「それは命令?」
「いいえ、「お願い」よ」
「…お願い。他人に対し、こうしてほしいと頼む。
自分の気持ちとして、こうなってほしいと強く思う。望む。
…そう。葛城一尉は私に望むのね。
…望み。叶えられるとは限らない思い。
叶えるかどうかは私次第。
…そう。私が選ぶのね」
…………
ぽつぽつと呟きながら歩み去る綾波を呆然と見送ったものだが、まさか聞き入れてくれていたとは思わなかった。
「弁当は手ずから食べさせようとするし、自分のノート放っといて僕のノートを書き込むし、体育で僕の代わりにバスケの試合でようとするし、とうとうトイレまでついてこようとしたんですよ!」
よほど恥ずかしかったんだろう。触れなんばかりに詰め寄ってくる。
かつて、彼女と自分の距離は微妙だった。
近しいところと遠いところが複雑に同居した、陣取り合戦の末期みたいな関係と言えようか。
肉親の愛情に恵まれないまま反抗期を迎えてしまった自分側の屈折もあるが、多分にそれは彼女の問題だったろう。
作戦部長として、保護者として。様々な自己矛盾と苦悩の結果、よそよそしさと押し付けがましさの乱雑なブレンドとして彼女は在った。
その中途半端さに祐けられ、あるいは傷つけられて暮らした日々を否定するわけではない。
ただ、幼い頃に夢想した家族というものを実現して、彼に与えたかっただけ。
そういう意味では、自分に苦悩のない現在。彼との関係は「ブラコン気味の姉と、姉は嫌いじゃないが疎ましく感じつつある弟」というシンプルな構図に納まりつつある。
「『命令じゃない。これは葛城一尉の望み。私の自由意志に委ねられた彼女の思い。やぶさかじゃないわ』とか呟いて、ワケ解かんないよ」
文句を言うのに遠慮がなく、皮肉がない。好ましい変化だろう。
「呆れた。
ATフィールド実験中に何を話しかけてるかと思ったら、そんなお節介焼いてたの?」
「ホントお節介ですよ ……って、リツコさん。いらしてたんですか?」
「ええ、お邪魔しているわ」
「すみません、取り乱しちゃってて……。どうぞお上がりください」
これ幸いとキッチンまで撤退したが、声による追撃を防ぐ手立てはなかった。
「それじゃあ……レイちゃんには私から話すとして……」
「当然ですよ」
リツコさんを招く。ということで多少気合を入れた料理の数々と、デザートのシュークリームにカモミールティーの尽力によって、ようやく彼の不機嫌が殲滅された。
仕上げのカスタードクリームを詰める作業を、目の前でして見せたのが良かったのかもしれない。
「それにしても、なんで…レイちゃんは、そんなにかいがいしかったのかしら?
シンジ君に身に覚えはある?」
「あるわけないですよ。綾波のことよく知らないし……」
つい先日まで自身も不自由な思いをしていたから、同情したとか? ……綾波に限ってそれは無いか。
「リツコ…は、どう?」
「相変わらずね、貴女。なんで私を呼ぶときドモるのよ」
これ見よがしに嘆息される。
「別に貴女だけってわけじゃ、ないじゃない。仕方ないでしょ。癖なのよ癖」
言える訳がない。「当時、あなたははるかに年上だったからです」とか、「つい敬称をつけそうになるからです」などと。
「それよりも、…レイちゃんのことよ」
「そう言われてもね。
私はレイの健康面の管理者ってだけだから、なんとも言えないわ」
まあ、リツコさんが一筋縄でいくとは自分も思ってない。ここは気長に構えておくべきだろう。
そっと、猫の肉球型の灰皿を、リツコさんの視界に入るように置く。
自分が呑まないので自宅での喫煙は許してないのだが、灰皿を出した時は別。というのが、学生時代からの暗黙の了解だった。
若干ためらったようだが、ニコチンの誘惑に勝てずに灰皿を引き寄せている。
あ、いや。熱い視線は灰皿に釘付けで……。
あのぉ、リツコさん?
もしかして……その灰皿、欲しいんですか?
……
「……おそらくは「命令じゃない」というのがキーワードね」
「どういうこと?」
未練たっぷりの秋波を灰皿に注ぎながら、煙草に火をつける。
「レイは「命令される」以外の他人との繋がり方を知らないのよ」
リツコさんと彼女も大学時代からの友人だったそうだが、ネルフの秘密ということではかなりの隠し事が在ったのだろう。
今もまた、何を話すべきか、何処まで話すべきか、どう誤魔化すべきか、考えているのではないだろうか。
「聞いた話だけど、レイは幼い時に事故で脳死寸前の重体になったことがあるらしいわ」
紫煙を一吐き。
「奇跡的に回復はしたものの、後遺症で感情表現が不得手に。
以後はネルフの監督下に置かれたそうだから、子供らしい生活は出来なかったでしょうね」
もしかして、綾波が二人目になった時のことなのだろうか?
しかし二人目、三人目と見て、その他大勢を知っていれば、とても一人目が感情表現豊かだったとは考えにくい。
説明づけるためにリツコさんがでっち上げたのか、そう聞かされているのかまでは判らないが、ネルフとしての言い訳がそうだと云うことだろう。
ちらりと視線を遣れば、彼もまた考え込んでいる。綾波という少女について、思いをめぐらせているようだ。
今回、彼と綾波の接点は薄い。光槍使徒戦後に、お見舞いがてらに引き合わせた程度だった。
父親とのにこやかな交流を見せ付けられた彼にとって、綾波の印象が良いはずもないが、これが転機になる可能性はある。
「同じエヴァのパイロットなのに、綾波のことよく解らなくて……」
「いい子よ。貴方のお父さんに似て、とても不器用だけど」
「不器用って、何がですか?」
灰皿のすみで揉み消された煙草。白煙が、最後にひとすじ。
「生きることが」
生きることが不器用、か……。
かつては聞き流した言葉に、どれだけの意味が込められていたのか。
リツコさんの表情を間近に盗み見て、今ようやく解かったような気がした。
****
「何よこれ!」
綾波の部屋だ。
あのあと、綾波に渡してくれと新しいカードを取り出したリツコさんに、車で送るついでに寄ればいいと口実をつけてやって来た。
もちろん綾波を引き取るきっかけになる。と踏んでだ。
「リツコ! どういうこと、説明して!」
「……ドモってない」
リツコさんが緊張するのが判った。
普段は呼び捨てにするのが難しくてためらうのだが、感情が昂ぶった時は別だ。加持さんに指摘されて気付いたこの癖は、怒っていることをアピールするときに便利だった。
この部屋の惨状は知っていたのだから本気で怒っているわけではないが、今後を進め易くするためにもそう思わせたほうが都合がよい。
「だから私は健康面の管理者ってだけで……」
「精神衛生って言葉、知ってる?」
医師免許を持ってる人間に問い質す言葉ではないが、効果は覿面だった。リツコさんがじりじりと後退る。
「こんなところにあと1秒だってレイちゃんを置いとけないわ。私が引き取ります。いいわね、リツコ」
「そんなこと勝手に決めないで!」
「い・い・わ・ね。リツコ?」
リツコさんを玄関の外まで追い詰めておいて、さも今思いついた。という表情をして踵をかえす。追い込みすぎずにはぐらかし、相手に考える時間を与えるのも手管のうちだ。
「ごめんなさい、シンジ君。こんな大事なことを相談なしに決めるところだったわ」
「……いえ、綾波をここに置いとけないのは賛成です」
呆然と部屋の中を、きょとんとする綾波を見つめていた彼は、どう表現していいか判らない。という顔をして振り向いた。
「ありがとう。シンジ君ならそう言ってくれると思ってたわ」
となると本人次第ね。と呟いて、ベッドに腰掛けたままの綾波の前まで進み出る。
見下す視点が嫌で膝立ちになると、赤い瞳とほぼ同じ高さ。
「こんばんわ、…レイちゃん」
「…はい。葛城一尉」
「夜中に突然押しかけて、ごめんなさいね」
「…いえ、問題ありません」
「今日はありがとう。
お陰でシンジ君の具合も随分良くなったみたい。シンジ君も喜んでるわよ」
「なっ!?」
約束が違うとばかりに文句をつけようとした彼を身振りで黙らせ、綾波の両手を包むようにして握る。
「…いえ、私の…自由意志」
ううん。と、かぶりを振って。
「私の「お願い」を叶えてくれたでしょう?
それは私の「思い」を受け入れてくれたということ。
私のために尽力することを惜しくないと思ってくれたということ。
絆を結ぶに値すると認めてくれた証。
とても嬉しいわ。
だから、思いを返すの。
ありがとう。感謝の言葉よ」
一言一句聞き逃すまいと真剣に見つめてくる綾波の瞳を見つめ返し、ひと言ひと言を丁寧に。
「…はい ……」
……
「どうしたの?」
もの問いたげな綾波を促す。
「…こういう時、なんて言っていいか知らないの」
「こういう時はね「どういたしまして」って言うのよ」
「…「どういたしまして」?」
ええ。と頷いて、いま一度。
「ありがとう」
「…どういたしまして」
微笑む綾波の姿に、思わず両手に力がこもる。
かつて、初めて見せてくれた不器用な笑顔。
この微笑みを直接彼に向けさせられなかったのは失策かもしれない。
「それでね。これからが本題なんだけれど、…レイちゃん。私たちと一緒に住まない?」
「…何故?」
「ほら、シンジ君の具合。随分と良くなったけれど、まだまだ生活に支障があるのよ」
大嘘である。
確かにフィードバックのせいで掌に痺れが残り、痛みによる暗示で自ら火傷を再現してしまったが、生活に困るほどの大怪我。というわけではない。
そもそも、光鞭使徒戦からかなり経っていて、ほとんど治りかかっている。今更といえば今更なのだ。
「…レイちゃんもやる気みたいだし、ここは一緒に住んで、よりシンジ君のお世話をしてくれると嬉しいなぁって思って」
あきれはてて開いた口が塞がらない様子の彼を指し、嬉しさのあまり口もきけないみたいよ。などと嘯く。
「…それも「お願い」?」
「そうね、お願いではあるけれど……、正確には「提案」かしら」
「…提案。議案・考えなどを出すこと。
より良くするために申し出るアイデア。
そうね。碇君の手助けをするならその方が効率的。
それは、私の行動を支援、補強する助言。
葛城一尉の申し出を支持します。
…
…… 」
ぽつぽつと呟いていた綾波が、何に気付いたのか、悩ましげに眉根を寄せた。
「どうしたの?」
「…ここを離れるには許可が要る」
「それなら大丈夫。
必要な許可や手続きは全て、リツコお姉さんが面倒みてくれるわ」
「ちょっと! 勝手なこと言わないで!」
「面倒、見てくれるわよね。リツコ」
振り返ったりはしない。綾波から視線を外さぬままにリツコさんに話し掛ける。
「セカンドインパクト直後の話、してあげたわよね? こういうの見過ごせないって、知ってるでしょ?」
どういうことかと訝しがる綾波に、そのうちねと微笑みかけて、頭を撫でた。
「あの灰皿。あげるわよ?」
「……わかったわよ」
即答だ。よほど欲しかったらしい。……いや、そんなものは口実に過ぎないだろう。本当は面倒見のいい人だということを、自分はよく知っている。
立ち上がり、膝元を払う。振り返ると、リツコさんが内ポケットを探っていた。
「ありがとう。よろしくね? リツコ…」
不機嫌そうな唇の動きは、さしずめ「またドモってる。現金なヤツ」と云ったところか。
背後でベッドがきしんだ。綾波が立ち上がったのだろう。
「…ありがとうございます。赤木博士」
盛大にため息をついて見せたリツコさんが、踵をかえした。
「期待しないで頂戴」
照れ隠しに煙草を呑みに行ったらしい。
…なぜ赤木博士はどういたしましてと言わなかったの。との綾波の呟きに、どう答えてやったものか……
つづく
2006.07.31 PUBLISHED
2006.09.01 REVISED