ぞんざいに置かれたトレィを見て洩れかけた溜息を、呑み下す。
それがどんな反応であれ、してみせれば、背後でニヤついてる将兵たちに付け入る口実を与えることになる。
こういった状況をやり過ごすには、莫迦になるしかない。
屈辱に耐える姿ですら、彼らを煽り立てるだろう。自分たちが何を仕掛けても無駄だと悟ってくれるまで、柳に風と受け流すのみ。
トレィを手にして、見世物小屋よろしく空けられていた真ん中のテーブルにつく。
足を引っ掛けられなかっただけ、今日はマシだ。
メインディッシュの泥団子。もとい、ミートボールを、さも美味しそうに咀嚼、嚥下した。
ちょっと味が薄いかしら。と嘯いて、せめてもの慰めにコショウとケチャップを多めにかける。……マスタードも、足しておこうか。
ミサトさんが味音痴になった理由を、味付けになりそうなものなら何でも放り込んでしまう癖の理由を、ここに来て知った。
いや、薄情な自分は、あのミサトさんがここに来ていたかどうか知らない。訊いたこともない。だから、おそらくそうだったのではないか? と思えるというだけのことだが。
ここインド・パキスタン国境はセカンドインパクト以前からの、最古の紛争地域だ。そのぶん駐留している国連軍も本格的で、設備も充実している。
問題は、ネルフから出向してきた自分に向けられる目だった。
調査研究組織であるゲヒルンから再編成されたばかりのネルフは、当然軍隊とは見做されていない。そこからやってきた肩書きばかり三尉の自分は、組織構成の都合で一尉待遇だ。
ネルフがどれだけ国連軍の予算を横取りしているか知っている将官と、学者や官僚ごときに上官面されることを快く思っていない兵士たちの世界に飛び込んで、もう一年になる。
最初のうちは何かされるたびに悩み、落ち込んでいたけれど、今ではもうすっかり慣れてしまった。これも自分への罰のうちだと思えば、むしろ歓迎したくなるほどだ。
***
「ここでスプレッド。自分と曹長がこちらを担当するわ」
自分が指し示した方向を確認した部下たちが、唇を動かした。形だけイエスと言ったのだろう。
軍人としての訓練を受けて良かったことが、一つだけある。自らを指して「自分」という呼び方ができることだ。
僕でも私でもなく、自分と呼ぶことで自分は、心と体が遊離しそうなこの現状を受け入れることができたように思う。
国境を越えようとして国連軍に塞き止められた難民たちは、緩衝地帯ぎりぎりに居着いて難民キャンプを形成している。
ゲリラやテロリストが潜伏する危険のある難民キャンプをパトロールすることは、治安維持軍にとって重要なルーチンワークの一つだった。
UNHCRやNGO団体から配給されたらしいテントで構成される街並みを、部下として割り当てられた曹長と歩く。
出向組の自分には直接の部下は居ず、その時折で割り当てられるのだ。まず間違いなく牽制、ついでに嫌がらせだろう。
自分の斜め後方についたこのアフリカ系の曹長はもちろん、広いパトロール区域を分担するために別行動している部下たちも、全員初対面だった。
まとわりついてこようとする難民の子供たちを、アサルトライフルの一振りで牽制する。必要なら威嚇射撃も辞さない。心苦しいけれど、子供にまとわりつかれて身動きが取れなくなったところに手榴弾を投げ込まれた例もあるのだ。
痩せぎすでお腹ばかりが大きい子供たちが、もの欲しそうについてくる。なかには、どこで摘んで来たのか花を手にした子供も居た。
初めてここに来た時には、私財をなげうってこの子たちに食べ物を配ろうかと考えたこともある。
しかし、子供だけで1万人近く居るらしいこのキャンプでそんなことをしても、焼け石に水だった。公平に分配できたとして、それぞれの子供たちのお腹にどれだけのものが納まるというのか。
結局、自分にできたことは、NGO団体へのわずかばかりの寄付ぐらいだった。
ふと、通りの向こうを歩くその少女に視線を捕られたのは、その長い髪がなんとなくアスカを彷彿とさせたからかもしれない。
自分を取り囲む子供たちより幾分か栄養状態の良さそうな体は、彼女が何らかの手段で食料を手にしているのだろうと推し量れる。納得はできないが、理解は……しなければならない。世界は優しくないのだから。
少女の歩いていく先に、武装した兵士。
今日割り当てられた部下で、早いうちに分遣した中の1人だった。にこやかに手を振っているところなど見ると、どうやら旧知の仲らしい。
最低限ツーマンセルのはずなのに兵士が単独行動するのは、今に始まったことではない。もう1人は今頃どこかのテントの中、だろうか?
真面目にパトロールする兵士など、居はしないのだ。そのことを見越して班編成を組んでいる自分も、何かと磨り減ってきているような気がする。
見て見ぬ振りをするのが一番。と視線を逸らしかけて、その少女の左腕が動いてないことに気付いた。まるで、腋の下に何か手挟んでるかのように。
「気をつけて!」
上げた警告に驚きつつも、油断しきった兵士はアサルトライフルに手もかけない。
慌てたその少女が取り出したのが拳銃だと視認した瞬間、自分はトリガーを絞っていた。
銃声に驚いた子供たちが何人か、腰を抜かしてへたり込んだ。照星の先では、側頭部を打ち抜かれた少女が糸の切れた操り人形のように頽れる。
残響が消える頃になって事態を把握したのだろう。子供たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出しだした。
「曹長、バックアップ」
「いっ……イエス、マァム」
ゆっくりと、撃ち殺した少女のもとへと歩く。
兵士は、何を勘違いしたかこちらに銃口を向けようとして、下ろす。少女の落とした拳銃に、今頃気付いたらしい。
「二等兵、損害は?」
残念ながら、碌に紹介されなかった本日限りの部下たちの名前は頭に入ってない。
「……ありません」
「よろしい。本部に連絡して」
イエス、マァム。と無線機を取り出す二等兵から視線を剥がして、見下ろすのは少女の亡骸。
転がっているのは、引き鉄の軽そうなサタデーナイトスペシャル。
落ちたはずみでよく暴発しなかったものだと、内心で胸をなでおろす。
自分の腕前なら、拳銃を狙うことも、手だけを狙うこともできただろう。けれど、それでは部下の命の保障ができなかった。
預かった以上、一日限りでも部下なのだ。護る義務が上官にはある。
正直、この手で少女を撃ち殺すより、この間抜けな二等兵を見殺しにしたかった。だが、それでは軍人ではない。そうして「やはりネルフは」と侮られれば、自分はともかく、他の出向組に迷惑がかかる。
もしかしたら、日向さんもここに来るかもしれないのに。
せめて、そのまぶたを閉ざしてあげたかったが、これから現場検証が行なわれる。軍事法廷への出廷すらありうる自分は、無闇に触れられない。
カタカタとなる音にアサルトライフルを見て、自分が震えていることに気付いた。
グリップから手を放そうとして、上手くできない。
トリガーを絞るまでは居た筈の、冷徹な自分。絞ったあとにも居た、打算的な自分。
どちらも体を震わす恐怖の前には、無力だ。
思い出したのは、カヲル君を手にかけたときのこと。
あの時は、怖くはなかった。とても悲しかったから、ひどく寂しかったから。なにより、それを強いたカヲル君を恨んでいたから。
エヴァに乗っていたときは、知らずに誰かを傷つけていたこともある。例えば、トウジの妹を。
そうと知って申し訳なさは湧いたが、恐怖には至らなかった。想像することが、できなかったから。
こうして自らの手で殺して、初めて実感したのかもしれない。
そのことに安堵した自分に、嫌悪する。
人を殺したことに恐怖を覚える、覚えられる自分が少しは人間らしいのだと、思ってしまった。
こんな時、ミサトさんならどうしただろう。と考えて、それが現実逃避だということに気付く。自分は卑怯だから、現実を見据えられないでいる。
震えつづける体を、なんとか叱り付けた。ここで毅然とした態度を崩せば、周囲から注がれる視線に耐えられなくなる。
涙がこぼれないよう、目頭に力を篭めた。
終劇
2008.7.23 DISTRIBUTED
ボツ事由 ミサトの味音痴の理由を模索してみるも、採用プロットからずれてしまったのでボツ。なにより、重すぎ。