……
真っ赤な海。真っ白な砂浜。真っ黒な空。
こうして見ると、やはり赤一色ってわけではないんだね。この世界も。
だからって、この強烈なコントラストは好きになれないけど。
目の前に広がるのは、はるか昔の記憶と寸分違わぬ風景。
よもや、一炊の夢だったのだろうか?
【葛城ミサト】として生きた13年間は幻だったのだろうか?
胸元で握りしめた左手がむなしく空を掴んで、思わず視線をやる。
そこに、銀色のロザリオはない。
だが、昔はなかったその癖が、この心に刻まれた軌跡を教えてくれた。
それはまた、あの十字架が枷であること以上に、心の支えでもあったことを痛感させてくれたが。
そう。いつだって自分は、あの人に護られていたんだ。幻影の日々のさなかだったとしても。
とても哀しいのに、なぜか涙は流れない。
ミサトさんの体で居た時は、本当にちょっとしたことで泣いてしまったのに。
感情を素直に表すという基本的なことですら、彼女の助けがないと出来ないのだろうか……? 自分は……
ようやく……、ようやく。搾り出すようにしてひとすじ、涙が流れた。
……
「…おかえりなさい」
顔を上げると、第壱中学の制服姿。遠くに見える海の色を透かしてか、薊色に見える髪。
「あっ綾波?」
見下ろし確認する自分の姿も、第壱中学の制服。どうやら、本当の……僕の体。
「…おかえりなさい」
あれ? 今、綾波の機嫌が悪くなったような。
「…おかえりなさい」
このパーソナリティは最初に会った綾波じゃない気がする。
もしかして、リリスを殲滅したことで、あのままサードインパクトが起こってしまったのだろうか?
それにしては、おかえりなさいと言われるのは場違いのような気がするけど……
「…おかえりなさい」
あっ、これ以上怒らせるのはマズいんじゃないかな。
「たっ、ただいま」
「…おかえりなさい。碇君」
よかった。機嫌が直ったみたいだ。
第壱中学の制服。浅縹の淡い青色は、この世界で唯一の優しい色だから。嬉しい。
「その制服。よく似合ってるね」
「…何を言うのよ」
ぽっ、と綾波が頬を染める。両手で頬を押さえ、恥らうように視線をそらした。
やはり、このパーソナリティは最初に会った綾波じゃない気がするんだけど……
「綾波。ここは?」
「…サードインパクトの後」
「僕は時間を遡ったんじゃないの? それともまたサードインパクトを起こしてしまったの?」
「…時間を遡ることは不可能だわ」
「……じゃあ、あれは夢?」
ふるふると綾波がかぶりを振る。
「…世界は一株の紫陽花」
その紫陽花。どこから出したの? 綾波。
「…この宇宙は、その株の中でもっとも早く咲き、あっという間に枯れた一つの花弁」
見れば、つぼみばかりで咲ききってない株の中、花弁が一つだけ枯れている。
「僕が枯らしたんだね」
ふるふると再び。
「…碇君に会いたい一心で、自らの姿も省みずに貴方の元に向かった私がいけなかったの」
…あの時の碇君の叫び…、…私のココロまで揺るがした。と綾波がその赤い瞳を伏せる。
「…ごめんなさい」
ぶんぶんとかぶりを振った。
「僕の方こそ受け入れてあげられなくて、ごめん」
ふるふると三たび。
「…いいえ、碇君は受け入れてくれた。あの宇宙で、迎え入れてくれた。…たくさん与えてくれたわ」
…あの子は私じゃないけど、あの子の喜びは私の歓び。呟く綾波の、頬がほころんだ。ぎこちなさなど微塵もない、ごく自然な微笑み。
心の底から喜んでくれていることが解かったから、少し涙ぐんでしまった。
……
「あれは、夢じゃなかったの?」
「…説明の途中だったわ」
そういえば話の腰を折ったんだったか。
「ごめん」
「…いい」
気を取り直した綾波が、再び紫陽花を差し上げる。
「…花が枯れれば、種が生ずるわ」
枯れた花弁の中に、かすかなふくらみがあった。
「…この宇宙が育んだ種。それは礎となった碇君の心」
微妙にずらされる株。一つだけ鮮やかに咲いた花弁に気付く。
「…宇宙は別個の存在。でも、同じ世界の存在として繋がっている」
綾波はその細い指先で、枯れた花弁と咲いてる花弁をつなぐ茎をたどってみせた。
「…碇君の心は、咲く直前のこの花弁に伝わった」
「それが、あの世界?」
…ええ。と頷く綾波。
綺麗に咲いた蒼い花弁。
「あのあと、どうなったんだろう?」
「…見たい?」
「見られるの?」
…ええ。と再び頷く綾波。
「どうなったか気になるんだ。見せてよ綾波」
…そう。じゃあ。と綾波が瞼を伏せる。心持ち顎を上げて。
「ゑ?」
これは、この態勢はもしや…… ∵
「あっ綾波?」
……
片目だけ開けて。
「…見たくないの?」
「じょ、冗談だよね?」
両目を開けて、上目遣い。
「…どうしてそう云うこと言うの?」
「ふっ不自然だよ!」
「…なぜ? これは最低限の形」
「だからって……、そんな」
「…そう、ダメなのね」
なんだか寂しそうだ。僕が悪いの? これ。
右手で左腕を抱え、切なげな視線は地面をさまよっている。
シアワセって何。とか呟いちゃって。
逃げちゃ……ダメなんだろうな……
そう。僕には、あの世界の行く末を見届ける義務があるんだ。
ええい、逃げちゃダメだ。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
……
逃げたい。
「…そうやって、嫌なことから逃げているのね」
そういう言い方はやめてよ。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
初めて初号機に乗ったときよりも時間をかけて、ようやく綾波の肩に手を伸ばした。
「…続きは私が……」
綾波。君が何を言っているのか解からないよ。
「…なぜ解かろうとしないの? 碇君は解かろうとしたの?」
綾波。僕の独白に突っ込むのはやめてよ。
「…絆だから」
ヤだよ。そんな絆。
やっぱりこのパーソナリティは最初に会った綾波じゃない気がする。
****
病室のベッドの上で【 葛城ミサト 】は膝を抱えて座っていた。
何も映すことのない、虚ろな瞳。
『……アダムが殲滅されて、張り詰めていたものが緩んだのね。
精神的にセカンドインパクトの頃まで戻っているかもしれないわ』
リツコさんが解説している。
『…私の……せい?』
『違うと思うよ。
ミサトさんはこの時のために頑張ってきたんだ。だから、ちょっと気が抜けたんだよ』
『ほんとバカなんだから。
アンタが居なくて、誰がワタシたちの指揮をとるって言うのよ』
その可能性を考えなかったわけではないのに、こうしてみんなを置き去りにしてしまったことが、つらい。
一生を【葛城ミサト】として生きることを決意したから、みんなに余計な苦悩を与えたくなかったから選んだ、全てを隠しとおす覚悟。
今となっては、その選択が、みんなを見捨ててしまったことになる。無責任にも。
……
誰が活けてくれたのか、たくさんの紫陽花。……それが少し哀しかった。
****
還ってきた視界にちょっと安堵してしまった、この心根が疎ましい。
「……これだけ?」
「…ふれあいが足りないから」
あっ、地雷踏んだ気分。見届ける義務はあるけれど、正直この方法はちょっと……
「あ~……えっと、なんで僕あの時点で帰ってきたんだろう?」
「…リリスを殲滅したから」
即答だ。この調子で答えてくれれば、もう……しなくても済むかな?
次の質問、次の質問。
「向こうのミサトさん、大丈夫かな?」
「…あの宇宙の葛城三佐は最後まで心を開かない」
「じゃあ……」
ふるふると四たび。
「…碇君の心に触れて、貴方の行動を知って、壁は溶け始めている」
「ということは……?」
…ええ。と三たび頷く綾波。
「…心を開くわ。少し、時間はかかるけど」
「よかった」
そう、よかったわね。と、そっけない。
……
背丈は同じくらいのはずなのに、何故か見上げるように覗き込んでくる、赤い瞳。
「…白いエヴァがどうなったか、知りたい?」
「そうだ。綾波、教えてくれる?」
ふるふると五たび。
「…いや」
瞼を伏せた綾波が、心持ち顎を上げる。微妙に小首までかしげて。
しまった。誘導訊問だったのか。
「いや……その…… 教えてくれるだけで充分だから……」
「…百聞は一見にしかず……だもの」
やっぱり、見透かされているか……
「…これは私の心、碇君と一つになりたい……」
綾波。君が何を言っているのか解からないよ。
****
第3新東京市を取り囲むように、6体の白いエヴァが輪を描いて飛んでいる。
3体はウイングキャリアーからのドッキングアウト前に、起動すらさせてもらえずに狙撃されたようだ。
また1体、陽電子の一撃に叩き落されたところだった。
…………
突如発令されたA-801。
MAGIオリジナルに対するハッキングに対し、リツコさんはおとなしく降伏するように見せかけて、土壇場で回線を微細群使徒の眠る模擬体につないだ。
MAGIとの休戦状態にあった第11の使徒は、これを自身に対する攻撃と判断、自衛のために猛然と反撃を開始する。
MAGIオリジナルの支援を受けた微細群使徒は、MAGIコピーの天敵だった。
ロジックモードを変更することすら思いつかず、5台のMAGIコピーはあっという間に支配下に組み敷かれる。
敢えて自爆させなかったのは使徒なりの進化の証なのだろうか?
父さんの手によって、使徒侵入の事実は無かったことにされていたはずだ――緘口令が敷かれた憶えがある――。何も知らないMAGIコピーの運用担当者たちの対策が間に合わないのもむべなるかな。
思い起こしてみればこの使徒は、模擬体からMAGIにハッキング・リプログラムしていただけで、自らMAGIに侵入していたわけではなかった。
MAGIのデータ・思考ルーチンを手にした使徒は、送り込まれた進化促進プログラムの意図に気付き、自滅を嫌って引き篭もったのだ。
そうやってMAGIの思考ルーチンを手放せば、それを利用した進化促進プログラムも無効化できる。
つまり無害化されただけで、殲滅されたわけではない。あの時リツコさんが言いかけてたのは、そのことだったのだろう。
案外、群れという形態をとったこの使徒にとって、MAGI的多数決・民主主義制度が肌に合ったのかもしれない。最終的にはヒトとも共存できうると考えた微細群使徒は、共栄のために一旦その身を引いてみせたのではないだろうか?
科学者の合理性と母親の愛情を知って、使徒も変わったのかもしれない。
「……首相、これはネルフ司令としてではなくて、大学の後輩としての忠告です」
驚いたことに、父さんが陣頭に立って指揮していた。
今は日本政府へのホットラインを開き、脅し、透かし、宥め、誑かし、煽り、惑わして、総理大臣の動揺を誘っている。
「……このままでは日本だけが、バスに乗り遅れますよ」
なぜか、その右手がないのが気にかかった。
父さんの背後、冬月副司令と対になるような位置に加持さんが立っている。こちらもどこかへ電話中で、なにやら裏工作に余念がないようだ。
結果、出撃する時期を逸した戦略自衛隊は、2体のエヴァが展開した広域ATフィールドの前に進軍すら出来ないでいた。
苦し紛れに使ったであろうN2爆雷も大陸間弾道弾も、エヴァの前では癇癪玉ほどにも役に立たない。どうせ使うなら、綺麗なぶんだけ花火の方がましだっただろう。
…………
そうして今、荒れ狂う鮮紅の颶風と化した弐号機と、無慈悲な女王の如く君臨する零号機の連携の前に、白いエヴァたちが殲滅されようとしている。
『…それ、ロンギヌスの槍と同じ感じがする』
あの妙な武器も、ロンギヌスの槍なのだろうか? だとすれば1本やそこら失っても問題なかったのかも。
≪ それがロンギヌスの槍だとすれば、第15使徒戦時の記録分析から、ATフィールドに誘引される性質が確認されているわ。気をつけなさい ≫
『いざという時は囮のATフィールドで誘導するよ』
小規模遠隔展開。もうモノにしたのかな。
『任せたわ……、ワタシは…… これで! ラストォ!!』
リツコさんにお願いしておいた白いエヴァ戦への布石。
それは、弐号機のタンデムエントリープラグだった。
流石にインテリアを新調するのは間に合わなかったらしく、括りつけられたシートに納まった彼が追加されたスティックを握り締めていたが。
ほとんど並列にならんでいて、タンデムというよりサイド・バイ・サイドだったけど。
『…見ている?』
『僕も、見守られているような感じがする』
『アンタ達も?
でも、まっ、戦いだしたらミサトは口出ししないから。そんな気がするだけかもよ?』
『…そう?』
『そうかなぁ……』
大丈夫だ。この3人が揃っている限り、白いエヴァなんかに負けたりしない。
でも、そいつらは再生するみたいだったから気をつけてね、みんな……
****
……!
「ちょっと待って、綾波。まだ知りたいことがあるんだ」
突然戻ってきた視界に慌てて、思わず強引に綾波の唇を奪ってしまった。
これがシアワセ? と、口移しに呟かれる。
綾波。君が何を言っているのか解からないよ。
****
「レイ……」
声に遅れること数拍。見えてきたのはターミナルドグマの一画。
「やはり、ここに居たか」
ぐるり。周囲を水槽に取り囲まれたオレンジ色の闇の中に、新たな影が加わる。
あの日から綾波は、時間を見つけてはここに来て、水槽の中の姉妹たちに話しかけていた。
その習慣は続いているらしい。
「話は聞いた」
入ってきた父さんの後ろに、リツコさんと加持さんの姿。
「約束の時だ。
……
……と言いたいところだが、初号機はおろかリリスも槍もない以上、補完計画は断念せざるを得ん。
レイ。お前の役目も、もはやない」
こくん。と頷く綾波。無表情に見えるが、嬉しそうなのが判る。
父さんの傍らに寄り添うように、リツコさんが進み出た。
二人の間で交わされる視線。アイコンタクト。
父さんもリツコさんも、目元が優しい。
「この娘たちの処遇もきちんと対応するわ。
もちろん、今ダミープラグに入っている娘もね」
ついでにマヤさんへのフォローも行ってくれると、嬉しいんだけど。
「その代わり、最後の頼みがあるの」
その赤い瞳が、ひたとリツコさんを見据えた。
「お願い。と言い換えた方がいいか?」
にやり。と口の端をゆがめる父さん。
右手の手袋を外し、掌を綾波に向ける。
胎児のようなその姿は、加持さんに貰った情報の中に画像データとして存在していた。
アダム。そのサンプルだということだが、そんなところにあったとは。
「これを零号機で殲滅して欲しい。
レイにしか頼めん作業だ。お願いする」
アダムを殲滅するということは、父さんは完全に委員会と袂を分かったのだろう。
委員会に対する対策、プランSeは託すまでもなく父さんが遂行してくれそうだ。
あまりに最適な人選は、加持さんの差し金なんだろうか?
……
「…お願い。他人に対し、こうしてほしいと頼む。
自分の気持ちとして、こうなってほしいと強く思う。望む。
…そう。碇司令が私に望む。
…望み。叶えられるとは限らない思い。
叶えるかどうかは私次第。
…そう。私が選ぶ」
呟いていた綾波が、視線をめぐらせる。水槽の中の姉妹たち。
その視線が一瞬、僕を捕らえたような気がした。
…あなたたちのために…、…私にできること。綾波の呟きはひどく小さい。
「…いつ?」
「我々に与えられた時間はもう残り少ない。今すぐにでも」
綾波が頷いた。
…………
……視界が暗転したのでてっきり終わりかと思っていたら、まだ続きがあるようだ。
風景は変わらず、ターミナルドグマ。
周囲を水槽に取り囲まれたオレンジ色の闇の中に、人影が二つ。
「この娘たちを外に出す……んですか?」
怯えを隠そうともせずにマヤさんが、告げられた内容を繰り返した。
「そうよ、マヤ」
ひっ。とあげた悲鳴は、水槽を見渡そうとして中の綾波たちと眼でもあったのだろう。
かたかたと、歯の根が合わない様子だ。
「でっでも、この娘たちには魂がないって、人工子宮から出せば朽ちてしまう存在だって、ただの素体だって、先輩が仰ったじゃないですか!」
手にしたクリップボードごと己の体を抱きしめて、マヤさんの悲鳴はもはや慟哭だった。
「だから、だから私、気が進まないけど、先輩の仰ったことを信じて、この娘を、この娘たちを!」
崩れるように座り込んだマヤさんが、口元を手で押さえる。懸命に吐き気をこらえているようだ。
歩み寄ったリツコさんが、マヤさんの背中に手をかけてやった。
「吐いてしまいなさい。楽になるわ」
リツコさんの言葉がなにを突き崩したのか、背中を丸めたマヤさんが胃の内容物をぶちまける。
その背中を撫でさするリツコさんの眼差しも優しい。
……
吐くものがなくなったのを見て取って、リツコさんがハンカチを取り出した。
マヤさんの顔を上げさせ、まず両頬を伝う涙を、次いで口元を拭ってあげている。
「落ち着いた? マヤ」
「……はい。でも……」
マヤさんは、リツコさんと眼をあわそうとしない。
「勘違いしないで。この娘たちに魂がないことに変わりはないわ」
え?……と、ようやく向けられた視線。
「人格移植OSの応用で、綾波レイから記憶と人格を移せば、それが呼び水となって魂が生じる可能性があることをMAGIが指摘したのよ」
「ホント……ですか?」
もちろん嘘だ。
マヤさんに対して用意していたフォロー案、プランMy-d5らしい。かなりアレンジが効かせてあるようだが。
「ええ、なんならバルタザールのログ、確認して御覧なさいな」
いいえ。とマヤさんがかぶりを振っている。
「……先輩の言葉を信じます」
「ありがとう……
それで本題だけど、そのための作業を手伝って欲しいのよ。
手始めにダミープラグに入ってる娘を此処に戻して欲しいの。頼める?」
「はい」
それでは早速取り掛かりますね。と言ったマヤさんが、膝元に視線を移した。吐瀉物の存在を思い出したらしい。
「……その前に、こちらを片付けます」
消え入りそうな声で。
「いいわ。それは私がやっておくから」
「えぇっ! そんなこと先輩にさせられません!」
ぶんぶんと、窓でも拭いてるかのように振られる両手。
「いいのよ……」
珍しいことに、リツコさんが語尾を濁した。何が気に入らなかったのか一瞬、眉をひそめて。
「……いいえ、やらせて頂戴。それくらいしか貴女にしてあげられることがないわ」
「そんな! とんでもありません。先輩は……先輩は、たくさんの事を教えて下さいました」
そう? と傾げられるリツコさんの小首。
「でも、私がそうしたいの。それとも、私なんかには任せたくない?」
顎をひいて心持ち上目遣いに。狙ってやってるんだろうなぁ、リツコさん。
「そそそそそんなことはありませんっ! そのっ嬉しいです。不束者ですが末永くお願いします。それでは、ケィジへ作業に行ってまいります。寄り道しないで帰ってきますから」
一気にまくしたてたマヤさんは、立ち上がるや空でも飛びかねない勢いで退出していった。地に足が着かないとは、ああいうのを云うのだろう。
……
嘆息。独り残されたリツコさんが、周囲を取り巻く水槽に目をやる。
「これで良いのよね、ミサト……」
……リツコさん。
「買い被りすぎよ……、 貴女」
何のことだろう?
ほくろに誘われたように、流れる……リツコさんの涙。
……
ダミープラグ製作に関わった人たちの中で、そのことへのフォローが必要だと考えたのはマヤさんだけだった。
事実、リツコさんへのフォロー案、プランRi-d1には一言しか記していない。【 リツコさんなら大丈夫 】と。
リツコさんは毅い人だからと、深く考えもせずにそう判断してしまっていた。プライドの高い人だから、理性で何もかもねじ伏せてしまうだろうと。
あの、泣き伏す姿を忘れたわけではなかったのに……
やはり、僕は薄情なんだ。
……
「でも……」
見上げたのは脳幹のごとき器械。
「約束は守るわ」
……うん。知ってるよ、リツコさん。
****
「…初めての行為。あの人ともしたことないのに……」
ぽっ、と綾波が頬を染める。
綾波。君が何を言っているのか解からないよ。
「その、綺麗に咲いてる花。それが、あの世界?」
「…そう。あの宇宙の具象化」
小さく可憐な花が、みずみずしい花弁を誇らしげに広げている。
もう僕みたいな異分子がなくとも、やっていけるのだろう。これからは自力で咲き誇れるのだろう。
寂しさは隠しようもないけれど、この心の裡に、その花と同じ大きさの誇らしさが咲いた。
「そうか、あの世界はもう大丈夫なんだね」
でも……
「この世界が滅びたことに変わりはない」
ふるふると六たび。
「…いいえ。碇君は葛城三佐の痛みを感じて、葛城三佐の心を知った。だから……」
ちょっと嫌そうな表情の綾波。
「 は~い、シ~ンちゃ~ん。ひっさっしぶり~♪ 」
驚いて、背後を振り返る。海岸線沿いに歩いてきたらしい、その姿は……
「ミっ、ミサトさん!?」
エレベーターで別れた時と寸分違わぬ出で立ち。胸元にロザリオはない。
脇腹の銃創は治ったのだろうか?
「そっ、葛城ミサト。永遠の29歳。たっだいまシンちゃ~ん♪」
元気に歩いてくる姿に、涙腺が弛む。
そのまま抱きしめられた。
その乱雑な優しさを素直に受け入れられる程度には、僕も成長したのだろう。
いろんな意味で恥ずかしかったけど、今はただ甘えることにした。
……
「……ありがとう、ミサトさん。もう……大丈夫だから」
……何も言わず、泣き止むまで待ってくれていたミサトさんは、しかし身じろぎ一つしない。
…
……
………?
いつまで経っても放してくれる気配がないのは、この人のことだから……
「……おかえりなさい。ミサトさん」
「ただいま。シンちゃん♪」
還ってこなくていいのに。との綾波の呟きは聞こえなかったことにしよう。
……
やっと気が済んだらしく、ようやく開放された。それでも両肩には手をかけられたままだったけど。
「そいえばシ~ンちゃ~ん。アタシの体で好き放題やってくれたんだって?」
「いや、その……ごめんなさい」
「いいのよ~、アタシとシンちゃんの仲じゃな~い♪」
んふっ♪ と微笑んでいる。
「体の隅々はおろか、心の隅々まで見られちゃって、もうこれって恋人以上の仲よねぇ♪」
かけてた手を放してくれたかと思えば……
ミサトさん。自分自身を抱きしめてモジモジするのはやめてください。
13年も使えば、自らの体も同然だ。
まるで僕自身がそうしているような気がして、恥ずかしいことこのうえない。
「それじゃあシンちゃん。心置きなくあの時の続きを……」
ミサトさん。あなたが何を言っているのか解かりたくないよ。
13年も女をやってみて、なおかつ目の前の相手の体だったというのに、この人の言動は未だによく解からない。
いや、言ってることは判るのだが、何故そう言いたくなったのか、その動機が解からないのだ。
―― 彼女というのは遥か彼方の女と書く。女性は向こう岸の存在だよ、われわれにとってはね ――
なぜだか、この言葉を思い出してしまった。その意味が実感できるようになってしまいましたよ。加持さん。
「…どいてくれる」
ミサトさんとの間に強引に割り込んできた綾波が、紫陽花を突きつけてきた。眉間に皺が2本も寄っている。なんだか随分と機嫌が悪そうだ。
「…ヒトの数は20億。碇君がその心を知れば、この花弁は甦る」
なによぉレイのいけずぅ。と不満げなミサトさんは完全に無視のご様子。
「ホントに?」
…ええ。と四たび頷く綾波。
「…でも、ほとんどの花弁が枯れる。ここと同様に」
「それは、エヴァに関わりのない人の心を知るためだけにその世界に赴けば、結果としてそこのサードインパクトを防げないからってことかしら?」
「…ええ、そうよ」
ミサトさんのほうを一瞥もせずに……。綾波、話すときは人の顔を見ようよ。
この世界を甦らせるために、ほかの世界を犠牲にする。それは、できない選択だ。とはいえ、この世界を見捨てることも、つらい。
「じゃあ、この世界はこのまま……?」
ふるふると七た……、あれ?八たびだったかな。
「…いつか種が熟して、新たな世界の一株となるべく芽を出すわ」
綾波が手をかざす中、次々と花弁が花開き、この世界だという枯れた花弁が膨らんでいく。
「…他の宇宙が花開けば、そのエナジーは世界を潤す。そうすればこの種も大きく豊かになる」
膨らんだ花弁から、こぼれるように種が落ちた。
手に受けたそれをまじまじと見ながら、紫陽花は株分けの方が一般的だよね。と思ったことは内緒だ。
……
「なら、迷うことはないね。一つでも多く、綺麗に花を咲かそう」
「大丈夫よ、シンちゃん。アタシも手伝ったげるから~♪」
バアさんは用済み。との綾波の呟きは聞かなかったことにしよう。
紫陽花の種を握りしめ、赤い海を見やる。
この世界を直接救えないのは哀しいけれど、ほかの世界を護れるなら、それすら心のささえになるだろう。すべてを心の裡に埋めて、礎にできる。弱さを毅さに変える術を、僕は学んだんだ。
ミサトさんが肩に手をかけてくれた。綾波が寄り添って掌を重ねてくれた。
差し出された紫陽花は弱々しく……
手の中の種はまだ硬くて……
だけど、
この紫陽花の咲き誇る姿を見たい。
この種が芽吹くまで見守ろう。
願いは遥か、果てしないけれど、
この世界のために、ほかの世界のために、何より僕自身のために。
できることを、やりたいことを、なすべきことを。
やりなおす機会をくれた、この世界への感謝の気持ちを持って。
もう一度出会ってくれた、みんなへのまごころを携えて。
まだ見ぬ未来への、希望を胸に。
花を咲かそう
おわり
2006.11.06 PUBLISHED
2006.11.10 REVISED