無事に帰還した彼をケィジに迎えに行き、労い、褒め、お礼を言って休ませた後、向かったのは保安部管理下の会議室だった。
「いい? ナツミちゃん。
今度サイレンが鳴ったら、すぐにシェルターに避難するのよ。
はぐれたお兄ちゃんが心配だからって、捜しに出ちゃダメ」
ナツミちゃんは、トウジの妹とは思えないほど可愛らしい女の子だった。
つまり、これが初対面。以前にはお見舞いにも行ってないのだ。
「来ないでいい」とトウジには言われてはいたが、自分がどれだけ自己中心的で、いかに薄情だったか、突きつけられているようで心苦しい。
こんな自分とわだかまりなく友達づきあいしてくれたトウジを、自分は……
「ほんまに、すまんこってす」
「せやかて、ウチんくのニィやん。ホンにチョロコイんやしぃ」
「なんやてぇ」
どうやら避難先のシェルターから走って駆けつけてきたらしいトウジは、まだ息があがっていて言い返す口調も力ない。
「はいはい。ケンカはダメよ。
今回はシンジ君が見つけてくれたから大事には至らなかったけど、次も大丈夫とは限らないわ」
目線の高さを合わすために屈んでいたのを立ち上がり、上から覆い被さるように精一杯いかめしい顔をする。
「今度から、ちゃんと避難するのよ」
しおらしく頷いてはいるが、あまり堪えた様子ではなさそうだ。やはり自分では、彼女に及ばないのだろう。
「とこいで、そのシンジっちゅうのんがナツミの命の恩人でっか?」
「ええそうよ。……って、これは機密事項だから内緒ね」
唇に人差し指を当てる。
これが彼女なら「よン♪」と語尾をつけてウインクまでしただろうが……、流石にそこまでは自分には無理だ。
だが、トウジはあらぬ方向に視線をそらした。
人の話、ちゃんと聞いてる?
釘を刺してるんだよ。今度出てこられちゃ困るんだから。
****
「おっ、おじゃまします」
「はい、いらっしゃい。
でも、出来るだけ早く「ただいま」って言ってくれると嬉しいわ。
ここは、あなたの家になるのだもの」
彼を引き取るかどうかは、随分と迷った。
あの時、強引に同居を決めた彼女を疎ましく思ったのは事実だ。構わないで欲しかった。
死地に放り込まれる者と、それを強要する者。
それらが家族面して同居することの欺瞞に気付かなかったわけではない。
気まずさが増すだけだと、当時でも思ったものだ。
しかし、彼女と演じた家族ごっこが苦痛だけと云うことはなかった。
家族というものをよく知らない自分が素直に楽しめなかっただけで、その温もりに救われていた面が、確かにあった。
それに、よく知る相手とはいえ、離れて暮らして上手くやっていける自信がない。
自分はそれほど毅くも、器用でもないのだ。
もちろん手元に置いたからといって上手くいく保証など、あるはずもないが。
「私も引っ越してきたばかりで、まだ散らかっているんだけど……」
これは謙遜だ。
あの腐海がトラウマにでもなったのか、散らかすのは性分に合わなくなった。整理整頓が身についたのはいいが、彼女のお陰と感謝して良いものかどうか。
むろん彼には関係ないことだから、無意識に押し付けないよう気をつけなければ。
「今晩の献立は、カレーライスにしたのだけど……、」
一昨日から煮込んでおいたのだ。第二東京大学伝統の、レポート白紙提出対策の裏書き用レシピで。
「シンジ君、食べられない物ってある?」
たとえ返事がわかっていても、きちんと訊ねるのが大切だった。
かぶりを振る彼に、笑顔を返す。
「良かった。万が一シンジ君がカレー嫌いだったらどうしようかと思って」
さすがにカレーは彼女直伝ってわけにはいかない。再現不可能だし。
支度らしい支度も必要なく夕食を始めて、牛肉を頬張っていて思い起こしたのは、カレーの具材をどうしようかと迷ったこと。
そして、迷った理由の一因である肉嫌いの少女のことだった。
彼を引き取ることを決めたあと、綾波もそうすべきか悩んだ。
彼に優しくしてやりたいと思う気持ちに負けないほど、綾波に色々な物を与えたかった。
「何も無い」と言い切る綾波のために。逃げ出してしまった償いのために。
異様な光景に怯えて綾波との絆を捨ててしまったが、あんな事態を引き起こし、時を遡って他人の体を乗っ取るような存在が、何を怖がることがあるのか。
けれど、ここへの赴任時には綾波は入院中で、うまく引き取る口実を作れなかった。
その時はうじうじと己を責めたりしたが、こうして彼を迎え入れてみて、結果としてそれで良かったのではないかと思う。
彼に「碇シンジだから迎え入れた」のではなく、「チルドレンだから引き取った」と誤解されかねないのだから。
流石にそれは本末転倒だった。
子供には、無償の愛を与えてやらねばならない時期が存在する。
無論、もっと幼いうちにだが。
かつての自分は、そのせいか自我の形成が未発達だったように思う。
だから、エヴァにすがりつき『僕がここに居ていい理由。僕を支えている全て』などと存在理由を欲した。
―― もちろん中学生ともなれば、自身の存在理由を模索するなど当然の過程ではある――
しかし、それがエヴァ1点に絞られていたところに自分のいびつさが現れていたのではないだろうか?
そして、それは実に、脆い。
エヴァによって支えられた存在理由は、他ならぬエヴァによって叩き壊されたのだ。
己そのものではなく、その付随する要素に基づく存在理由なぞ、儚くて当然だった。
……自分自身で、証明済みだ。
彼にその轍を踏ませたくはない。
そのために引き取った。そのために手元に置くことにした。彼に、無償の愛を注ぐために。
エヴァだけを…… いや、エヴァなんかを拠りどころとさせないために。
……
だが、自分にできるだろうか?
実の親ですら難しい、無償の愛を与えることが。しかも、作戦部長の立場で。
……
いや、彼は自分なのだ。自分自身だからこそ、無私の愛情を注ぎこめるはず。
そう、言い聞かせる。
何度もたどり着いたはずの結論を、再び己に言い聞かせる。
だから、
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
「……さん。ミサトさん!」
「はっはい!逃げちゃダっ……」
危ない危ない。口に出すところだった。
「……ごめんなさい、何かしら」
ニゲチャダってなんだろう。との彼の呟きはつとめて無視して。
「あっ、カレーのお替わり?」
「はい。いいですか?」
「ええ、もちろん。お口にあったみたいで嬉しいわ」
彼が差し出すカレー皿を受け取って、そそくさとキッチンへ向かう。
「……美味しいですから」
自ら進んで気持ちを打ち明けることなど、少なくともこの時期の自分にはありえなかったことだ。
彼は着実に変わりつつある。
嬉しさにゆるむ頬はそのままに、そっと目頭を押さえた。
****
「碇司令の居ぬ間に第4の使徒襲来……。意外と早かったわね」
かつてのこの時期、慣れない環境と孤独感で1日が長く感じられたものだ。
忙しくて、あっという間の3週間だった今回の、それが正直な感想だった。
「前は15年のブランク、今回はたったの3週間ですからね」
光槍使徒戦での被害が段違いだったかつての時はさらに忙しかったのだろうと思うと、彼女の苦労がしのばれる。
「こっちの都合はお構いなしか。女性に嫌われるタイプね」
だからだろう。
彼女なら言いそうなセリフがすんなりと口を突いて出ても、驚きが少なかったのは。
「委員会から、再びエヴァンゲリオンの出動要請が来ています」
「要請を受諾、と返答。作戦の要旨を説明の上で、実行中と伝えて」
了解。と青葉さん。
作戦中ならともかく、通常時の作戦部長の権限はそれほど高くない。
第一種戦闘配置時のほぼ無制限ともいえる権限の高さを、そうやって牽制しているのだろう。
それは解かるし、自分としても権力が欲しいわけではないから否やはない。
ただ、シェルターの整備・運用に口出しできる権限は欲しかった。
トウジとケンスケの件で頭を悩まさずに済んだであろうから。
それとなく関連筋に注意を喚起することも考えたが、ほどなく諦めた。
どれほど言葉を取り繕おうと、二人が脱走するという結果を隠したままでは「あなた方の管理・運用は信用できない」としか受け取ってもらえないだろう。
それは、要らぬ軋轢を生む。
赴任したてで実績が足りないからと、自らの折衝能力の低さを弁護しそうになる自分が、厭わしい。
これが彼女なら、そんなことなど気にせずに即断即決しただろうと思うと、自らの臆病さを恨めしくさえ思う。
だから、せめて2人が脱走する前にカタがつくよう策を練ったのだが。
「作戦はさっき説明したとおり。いいわね? シンジ君」
「はい、ミサトさん」
全面ホリゾントスクリーンの中で頷く彼の姿。
分割表示された初号機は、ハブステーションに固定されたまま儀杖兵のようにプログナイフを捧げ持っていた。
「射出のタイミング取りとルート選定はMAGIが行うから、衝撃に備えて歯を食いしばっておくのよ」
はい。と応えそうになった彼が、慌てて口を閉じる。
彼の声が少しくぐもって、舌っ足らずに聞こえるのは、この作戦のために用意したマウスピースのせいだ。
「使徒、市内に侵入しました」
スクリーン内に分割表示されていた光鞭使徒の姿が拡大されると、途端に初号機が射出された。
浮遊し、胴体下面にコアを持つ光鞭使徒に対して採った作戦。それが、このリニアカタパルトの射出による下方からの奇襲だった。
あらかじめ腕部拘束具を解除された初号機は、光槍使徒戦時と同様の構えでプログナイフを支え持ち、地上到達と同時に肩部拘束具を解除、光鞭使徒に対して攻撃を仕掛けるのだ。
だが、奇襲と呼ぶにはエヴァ発進口のフォースゲート開放は遅すぎた。さらには、自動で展開されたガイドレール。これに気をとられたか、光鞭使徒は戦闘形態へと移行を始める。
そこへ飛び出した初号機は、突き上げたプログナイフを使徒の頭部に掠らせることしかできなかった。
「最終安全装置解除! エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ。拘束台爆破。
シンジ君、使徒から一旦距離をとって!」
初号機の正面にいる使徒から距離を取るには、背後の拘束台が邪魔だ。間髪入れずに爆破されるが、爆煙を掻い潜った初号機の足首には既に光の鞭が絡み付いていた。
ああ、なるほど。
自分はあの時、あんな風に飛ばされたんだな。と妙な感慨を抱けるほどにゆっくりと放り投げられた初号機が、小高い丘へとたたきつけられる。
「シンジ君、大丈夫? シンジ君!?」
しかし彼の返事はなく、その視線から導き出された位置をMAGIが映し出す。
「シンジ君のクラスメイト!?」
ディスプレイに身元照会が回されてくるが、見るまでもない。トウジにケンスケだ。
今回は出て来ないだろうと高をくくっていたために、とっさに指示が出せない。
「なんでこんなところに?」
リツコさんが別のモニターを覗き込んでいる。シェルターの履歴でも閲覧しているのだろうか。
スクリーンの中、滑るように初号機に接近してきた使徒が、宙に浮いたままに光の鞭を振るう。
自分でもやったことがありながら、今また初号機が光の鞭を掴み取ったことに驚いた。
『ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!』
「シンジ君! 大丈夫!」
大丈夫なわけがないことを、誰よりも知っている。
焼け火箸が手の中で暴れるのだ。痛みのあまりキレたことを忘れられるはずがない。
『……なん……とか。どうすればいいんですかミサトさん!』
彼が成長していることを、自分が指揮官として信頼されていることを喜んでいる暇はなかった。
≪ 初号機活動限界まで、あと3分28秒 ≫
……
……見捨てる?
ナツミちゃんを救けたことで、彼らは既に大切な友人になってるのに、できるわけがない。
……エントリープラグに入れる?
他人の思考が混ざることでこうむる頭痛と、泥の混入で起こる呼吸困難・酸素欠乏、感染症の危険を彼にも体験しろと?
……保安部を差し向けて保護する?
初号機の内部電源が保たない! 動かなくなったエヴァを使徒が放置してくれる保証はない。
……
≪ 初号機活動限界まで、あと3分 ≫
とっさに思いついたのは、どれも彼に苦痛を強いる方法ばかりだ。
ならば、割り切るしかない。
「シンジ君。両手で掴んでいる鞭を左手だけで掴み直して。
大丈夫、宙に浮いてる分だけ鞭のパワーは弱まってる。エヴァなら抑えこめるわ」
はったりだった。
だが根拠がないわけではない。乗っていたから解かる初号機の底力。そして、今の彼のシンクロ率なら。
「いい加減なこと言わないで」
背中に刺さるリツコさんの視線が痛い。
またインカムが役に立った。彼には聞かせられない発言だ。
「プログナイフ装備」
日向さんの操作で、左肩ウェポンラックが開く。
「まだ2分もあるわ。
前の使徒なら、6回は斃せる時間よ。
あなたなら出来るわ、シンジ君」
『……はい』
****
目の前ではトウジが土下座していた。その隣でケンスケがうなだれている。
対峙してから十分あまり。室内は沈黙が支配していた。
怒ってないといえば嘘になる。しかし、内心で自分は泣いていたのだ。
二人が無事であった安堵に。見通しの甘い己のふがいなさに。一瞬とはいえ、見捨てることを考えた自分の薄情さに。
その間に何度、「逃げちゃダメだ」と唱えたことか。
懸命に涙をこらえていた自分の姿を、怒りのあまり声も出ないと勘違いしてか、二人は微動だにしない。
これが彼女なら張り手の一つもかまして、さんざん脅して、そしてからからと笑い飛ばしたことだろう。
想像してみて、それはつまり前回の顛末を確認してなかったからだと気付く。
やはり自分は薄情なのだ。それが、また ……自分を打ち据える。
「ミサトはん。泣いてはるんでっか?」
すすりあげる音に顔を上げたトウジが、驚いて腰を浮かす。
その顔にナツミちゃんの面影を見て。だから次の言葉は自然と口をついた。
「当たり前じゃない……
もしもの時、ナツミちゃんに何て言えばよかったの?
……相田君は、どう? ご家族は?」
言われて初めて思い至ったのだろう。
「父が……居ます」
怒られていると思っているから神妙にしていただけの二人に、ようやく加わる深刻さ。
「すっ、すんまへん」
トウジが、床に頭突きせんばかりの勢いでまた土下座した。
「……ごめんなさい。僕がむりやり誘ったんです……」
ケンスケもまた、うなだれる。
妹の命の恩人の戦いぶりを見届ける義務があるんじゃないか? とか言ってトウジを丸め込んでる情景が、目に浮かぶようだ。
「謝るべきは私じゃないわ。
ナツミちゃんに、お父さんに、ご家族に。
解かっているでしょう?」
二人は応えない。
「それに、私に謝られても困るわ。
私は必要なら、あなたたちを見殺しにしたもの」
息を呑む気配。
酷い言葉だが、二人を戦場に近づけないために必要と割り切る。
「隣りにご家族がおみえだから、今日はもういいわ。無事な姿を見せてあげて」
踵をかえして、ドアのスイッチに手をかけた。
「2度とシェルターから抜け出しちゃダメよ。命を量るような真似を、もうさせないでね」
ドアを開く。立っていた保安部員に頷きかけて、後を任す。
「待ったって下さい!」
トウジの声に、足が止まる。止まって……、しまった。
「ミサトはんに謝るのは間違うてたかもしれまへん。
せやから…… 救けてもうて、ありがトうございました」
救けるために戦うことすらできなかったことがある。とはさすがに言えず。ただ足早にその場を去った。
走り出したいのを懸命にこらえながら。
つづく
2006.07.18 PUBLISHED
.2006.08.04 REVISED