『 今回の事件の、唯一の当事者である葛城三佐だな 』
正面から聞こえてきたのは、年月の積み重ねを感じさせる低い声。
「はい」
『 では訊こう。被験者、葛城三佐 』
右手から、張りのあるテノール。
『 先の事件、使徒が我々人類にコンタクトを試みたのではないのかね? 』
カン高い神経質そうな声は、左手奥から。
「コンタクトなどというソフトな印象は受けませんでした」
『 君の記憶が正しいとすればな 』
暗闇の中で査問とは、威圧のつもりなのだろうか?
「記憶の外的操作は認めらないそうですが」
『 発令所の記録は存在するが、確認できることではない 』
『 使徒は人間の精神、心に興味を持ったのかね? 』
左手手前から新たな声の主。比較的若そうな、雑味のあるリリコテノール。
「その返答は出来かねます。
はたして使徒に心の概念があるのか、人間の思考が理解できるのか、まったく不明ですから。
単に、第3新東京市を防衛する物の中枢とみなして解析を試みただけかも知れません」
使徒に狙われたのは、自分の特殊性ゆえかもしれないと考えないでもないが。
『 今回の事件には、使徒がエヴァを無視したという新たな要素がある。
これが予測されうる第16使徒以降とリンクする可能性は? 』
再び正面から。この声の主がこの場の主導権を握っているようだ。
「これまでのパターンから、使徒同士の組織的なつながりは否定されます」
もし、そんなものがあるのなら、どうしてあの落下使徒が何度も試射を行うものか。
光鞭使徒や要塞使徒のように重力を遮断して、ATフィールドをスピードブレーキに使えば、大気圏突入なぞ朝飯前だったというのに。
『 さよう、単独行動であることは明らかだ。これまではな 』
きんきんと右の奥歯に響く声だ。
「それは、どう云うことなのでしょうか?」
『 君の質問は許されない 』
正面から。
「はい」
『 以上だ。下がりたまえ 』
「はい」
接続が切れた瞬間。気が抜けてくずおれた。
人類補完委員会による査問。
一介の作戦課長を救うために使われたロンギヌスの槍。
精神汚染使徒を貫いたロンギヌスの槍は、軌道を修正、再加速して第10使徒たる落下使徒をも殲滅。
結果、第三宇宙速度をはるかに超えて太陽系から離脱するコースを取っているという。
いまの人類の技術では、とても回収できないだろう。
その責任の追及先として、もっと具体的に根掘り葉掘り訊かれると思って身構えていた分、別の意味で気が抜けたといってもいい。
憶測や印象を聞いて、どうすると云うのだ。
世界7箇所でエヴァ拾参号機まで建造中と聞いていたから、危機感に溢れているとばかり思っていたのだが、どうにも緊張感に欠ける。
9体ものエヴァの建造と、この連中の雰囲気が余りにもそぐわない。
使徒の脅威におびえてエヴァを造らせているようには思えないのだ。
非公式だということも考え併せて、やはり、真の狙いは人類補完計画とやらなのだろう。
****
自分の執務室で、昨日の査問に関しての報告書を作成している最中だった。
「ちょっと、いいかい?」
「加持…君。珍しいわね、どうしたの?」
あけすけな彼女の性格をなぞるべく、ドアの設定はフリーになっている。前に立っただけで開く仕様だ。
もっとも、この人にかかってはロックをかけていても無意味だろうけど。
「今晩差し入れに行くって、アスカに約束してたんだが……」
差し出しされたのはメモパット。すでに何か書き込んである。
【 ゼーレが冬月副司令の拉致を画策している 】
「……仕事が入りそうなんだ」
身内であるはずのネルフに対して、ゼーレがこんな乱暴な手段を講じてくるとは。
これが脅迫だとすれば、その対象はもちろん父さんだ。
それはつまり、父さんを御しきれる手札がゼーレに乏しいことの証左でもある。
「アスカ…ちゃん、楽しみにしていたわよ。
そのことを聞いたら、仕事なんか【止めさせようとするでしょうね】」
含みのある言葉を話す間だけ、人差し指を立ててみた。
「だからこうして、葛城に相談しに来たんじゃないか」
ぱらぱら。と2枚ほど捲られるメモ用紙。
【 正確な日時、実行犯の規模は不明 事前の阻止は難しい 】
「そう言われたって…… 【あとで埋め合わせする】くらいしかないんじゃない?
来週、2回来るとか」
「確かに、そうなんだがな…」
ぱらぱらぱら。今度は3枚ほど纏めて捲っている。
【 副司令を監視して、実行後に救出する 】
回答を予め用意してあるらしい。
「アスカのご機嫌取りねぇ……、私【1人でできる】かしら?」
「葛城なら【なんとかなる】と踏んでるんだがな」
真似をするのはいいんだけど、ウインクってのはどうかなぁ。
それはそれとして……
その口ぶりから察するに、もとから加持さん自身も副司令を救出する気でいるようだ。
どんな腹積もりかは判らないが、任せておくしかないだろう。
頷いてみせる。
「買い被りすぎよ、あの年頃って難しいんだから……
明日のホーム【パーティ】で機嫌直してくれるといいんだけど……」
「パーティ、明日かい?」
パーティとは、ターミナルドグマへ潜入することを示す符牒だ。
それとは別に、明日ホームパーティを開くことも事実だが。上手くいけば、ちょっとした記念日になるだろうし。
「ええ、加持…君も来てくれるでしょ?」
「仕事終わるかなぁ……、野暮用もありそうだし……」
天井を見上げて、加持さんが顎をしごく。
「野暮用?」
「ああ、特殊監察部は委員会の直轄だからな。【今回の仕事がらみ】で無理難題を押し付けられそうなんだ」
口元で立てられる人差し指。口外無用…… いや、詮索不要……かな?
「準備ばっかりで、本番に参加しないなんて詰まんないでしょ。それに……加持…君が来てくれないと、寂しいわ」
「寂しい……ねぇ。俺にまだ気があるのかい?」
「あるわ」
加持さんが目を見開いた。
遊んでいるように見えて、その実、この人はこう云ったストレートな物言いをされるのが苦手なのだ。
いつもの調子で茶化したつもりだろうが、加持さんを死なせたくないという一点で自分は常に真剣だった。そう何度もはぐらかされたりはしない。
「そうは見えなかったがね……」
「一度敗戦してるもの。負ける戦は仕掛けない主義なの」
「そいつぁ同意見だが……」
「……わだかまりは、あるわよ? でも、あの時の思いは嘘じゃないわ」
加持さんが胸ポケットに手をやった。まさか、あのカードキー、肌身離さずに持ち歩いているんじゃあ……
……
そうだったな。と顔を上げた加持さんは、にやけ面を取り戻している。
「真摯に聴いとくよ。
明日のパーティは、開始時間を見合わせといてくれると嬉しい」
「ええ、待ってるわ」
踵を返した加持さんが、右手を差し上げるだけで応じた。
ヒト1人送り出して、ドアが閉まる。
嘆息して、執務室を見渡した。
恋愛にうつつを抜かしてるほうが人間としてリアルだろうから、少しは欺けるだろう。
誰が聞いているのかは、知らないけれど。
****
ターミナルドグマ。
【人工進化研究所 第三分室】と掲げられたプレートを見上げ、待つことしばし。
そろそろのはず。懐からIDカードを取り出し、リーダーに通した振りをする。
……
「なにしてるの、葛城三佐!」
保安部も連れずに一人で来た。その優しさと甘さに、安堵と後ろめたさを覚えて嘆息。
「ちょっと社会見学にね。ちょうど良かったわ、ここ開けてよリツコ…」
そんな必要はない。それどころか、リツコさんに気取られることなく侵入することも出来るのだが。
「貴女に、この施設へ立ち入る権限はなくてよ」
もたもたと、慣れぬ手つきで拳銃を取り出している。
「今なら見なかったことにしてあげられるから、早く立ち去りなさい」
ろくに照準も合わせず、ただ銃口を向けているだけの構え。セィフティも外してない。
「ありがとう……と言いたいところだけど」
リツコさんの背後に、浮かび上がる人影。
「美人には似合わないから、その無粋なものをくれないか? りっちゃん」
「その声は……、加持君?」
振り返らないのは、背中に銃身でも突きつけられているからだろう。
「貴方、生きていたの?」
ゆっくりと差し上げられた拳銃を、加持さんが無造作に受け取った。
「真摯に聴いとく。そう言ったろ?」
副司令の救出ごくろうさま。という自分の加持さんへの労いも、答えの一部になるだろう。
将を欲すれば、まず馬を。父さんを陥とすのための外堀に、冬月副司令には恩を売っておきたかったのだ。
うながされて、リツコさんが渋々カードリーダーに歩み寄る。
「一体、何を企んでるの?」
「言ったじゃない。社会見学だって」
スリットにカードを通した後のことだろう。光の加減で見えない位置に立っていた者の存在に気付いたのは。
「レイ……、それにシンジ君!」
****
綾波が前に住んでた部屋みたいだ。 …そう、私の生まれ育った場所。
エヴァの……墓場? …ただのゴミ棄て場。
通り過ぎる様々な施設。ついてくる子供たちの会話。
考え直しなさい。 ……ごめん。そうもいかないの。
私を巻き込む必要、あったの? ……それも、ごめん。
先行する大人たちの会話。
リニアエレベーターを降りた時点で、見張りを口実に加持さんは置いてきた。下手に口出しされたくなかったので。
おとなしく留守番してくれてるとは思えないが、しゃしゃり出てくるほど野暮でもあるまい。
ほどなく目的地に到着。かつてのリツコさんが、綾波たちを壊したところ。
入り口で立ち止まってしまった綾波を、彼が不思議そうに振り返った。
あらかじめ綾波にはこのことを話してあるが、今はそっとしてやりたい。
問い質すような表情で向き直った彼を、手招き。
視線でうながすと、リツコさんが携帯端末を取り出した。
……
ためらい。見せつけるために自分を呼び出した前回とは違う。
今のリツコさんに、これを彼に見せる理由はないのだろう。
よかった。かつてのリツコさんの行為にも、それなりの意義があった証拠に思えた。
しかし、おそらく八つ当たりに過ぎなかったであろう行動は、どのような意味であれ彼女のためにはならなかったのだろう。
気が晴れるどころか却って落ち込んで死すら望み、さらには消息不明になったのだから。
リツコさんが綾波たちを壊す気になったきっかけが判らない以上、その根本的な防止は難しい。
だが、無益な行為を思い止まらせることは出来るはずだ。
あるいは、たとえトリガーが引かれても、銃弾が飛び出さない程度にまで火薬の量を減らすことも可能なはず。
どうやら、その撃鉄が起こされる前にお膳立てを整えることができたのだろう。こちらの顔色をうかがって、諦めとともにスイッチが押された。
照明が灯され、照らし出される水槽の中身。
綾波レイ。綾波レイ。綾波レイ。綾波レイ。綾波レイ。綾波レイ。綾波レイ。綾波レイ。綾波レイ…
「綾波……、レイ」
呟いた彼に反応して、視線を向ける綾波たち。
……
「シンジ君。彼女たちが……怖い?」
驚いて言葉が続かない様子。
少なくとも3人は居ることを知っていた自分より、はるかに衝撃があることだろう。
この間隙に、毒を練る。彼の心に流し込む、劇薬を紡ぐ。
虚実を取り混ぜて醸した、禍々しく優しい麻薬を。
「彼女は……、彼女たちは被害者なの」
「……被害者……、ですか?」
ええ。と頷いて。
「シンジ君。
碇司令が、あなたのお父さんが、あなたをエヴァに乗せたがっていない。と言ったら、信じる?」
「……父さんが?」
信じられません。と、かぶりを振る彼。
「あなたをぎりぎりになって第3新東京市に呼んだのは、そもそもエヴァに乗せるつもりがなかったから」
彼の前を横切る。
「もし最初から乗せる気だったのなら、アスカ…ちゃんのように幼い頃から訓練させたはず」
できるだけゆっくりと、靴音高く。
「司令は、あなたを予備、と呼んでいた。
零号機の暴走事故がなければ、予定通り…レイちゃんが出撃したでしょうね」
カツ、カツとヒールを鳴らして、その視界から外れる。
「エヴァ参号機を乗っ取った第13使徒戦のあと、司令はあなたを解任しようとした」
足音を消す。
「それはダミーシステムが完成して、実用性が証明された直後のこと。もうあなたを乗せずに済むと、思ったから」
遠回りして、背後から近づく。
「あなたの友達をわざと傷つけたのも、あなたの方からエヴァを降りたいと言わせるためだったのかも」
臆病者は帰れ。彼が聞くことのなかったこの言葉には、父さんの裏腹な想いが込められていたのではなかったか?
満身創痍の綾波を見せつけたのは、逃げ帰らせたかったからではないか?
「碇司令は、あなたのお父さんは、あなたをエヴァに乗せたがってないわ」
父さんが、僕を……。承服し難いのか、何度も呟く彼の左肩に、手を置いた。
自分自身、信じてるとはいえない戯言だ。彼が受け入れられるかどうかは、まさしく彼次第だろう。
ただ、その答えがいずれであろうと、じっくり考える時間を与えるつもりは毛頭ない。
それらは、これから与える大嘘の前提。下準備に過ぎないのだから。
「そのために、あなたをエヴァに乗せないために造られたのがダミープラグ。そして、その材料として造られた彼女たち」
彼の肩越しに指差す水槽。綾波たち。
「……僕の……ために?」
「そう。
彼女たちは、あなたのために造られた身代わり。もちろん、彼女も……」
視線を誘導すべく、タメをもって指先を右へ。
指し示す先に、綾波。顔をそむけている。
……
「……その割には……大切にされていたように…」
見えましたが。という語尾は濁して。
「 それは、彼女が代用品でもあるから 」
ささやく。
彼とリツコさんにしか聞こえない程度に。綾波には、届かぬように。
何の? と問いかける視線は落ち着かない。
「……あなたの」
「……僕の? どうして?」
驚いたのは彼だけではなかった。
違う答えを聞かされると思っていただろうリツコさんも、また。
「生きるのが不器用な人だと、リツコ…が言っていたでしょう。
ヒトが生きることに不器用というのは、人づきあいが不得手だということなの。
碇司令は他人が怖い。サングラスも髭もあのポーズも全て他人から己を守る鎧。
そして、一番怖いのはあなた、シンジ君よ」
「……どういうことです?」
父さんの言動を推し量れるようになって気付いたのは、自分との類似だった。父子なのだから当然なのかも知れないが、自分がその立場だったらと考えると驚くほどその心の裡が解かるのだ。
立ち位置を変えて、彼の視界から綾波を隠した。
「あなたを……、愛しているから」
「嘘だ!」
嘘じゃないわ。とかぶりを振る。
「ヤマアラシのジレンマって言葉があるの。
ぬくもりを分かち合いたいのに、身を寄せるとお互いを傷つけてしまう。だからヤマアラシは微妙な距離を保とうとする。
愛してるから傍に置きたい。でも愛し方を知らない自分の傍らでは、傷つけるばかり。
愛してるから、傷つけることが怖い。だから遠ざける。
あの怖がりの司令があなたに嫌われることを厭わないのは、自分が傷つくことよりあなたが傷つく方を厭うから」
それもまた、相手を傷つけるのにね。と、これは自嘲。
他人を傷つけるくらいなら自分が傷ついた方がマシだ。かつてそう考えた自分の、それは相似形だった。
なんのために人の心に壁があるのか、2人してそこに思い至らないのは親子ゆえだろうか。
心の壁がいかに自在なものか、使徒が指し示してくれているというのに。
ATフィールドの有り様が、心の壁の真実を体現して見せているというのに。
なぜATフィールドは不意を討たれると間に合わないのか。
なぜATフィールドは展開解消が容易なのか。
なぜATフィールドは眼に見えないのか。
なぜATフィールドは中和できるのか。
すべては心の問題なのだ。
心は心で理解できる。心は心で破壊できる。心は心で象ることができる。だから中和できる。侵蝕できる。相殺できる。
心は目に見えない。厭うのは傷つけられることだけ、相手の姿を見たくないほどにまで拒んでいるわけではない。なにより拒絶していることを知られたくない。
心に形はない。自在に変わることができる。状況に応じて合わせることができる。壁の高さも堅さも扉の有無すら自在なのだ。
心の壁は、殻ではない。いかに頑なな人の心も、常に鎧われているわけではない。
それに気付けば、人はもっと、人の傍に歩み寄れる。優しくなれる。相手の棘などいくらでも防げる。自分の棘などいくらでもとどめられるのだから。
「自分よりも相手を思う。それは愛なの。間違っていようと、どんなに捻くれていようと」
いや、つまるところ愛なんてものは一方的なものでしかありえないのかもしれないが。
「私の父親の話をしたでしょう。愛し方を知らない人たちなのよ」
「……そうだとしても、受け入れられません」
当然だろう。たとえそれが事実だったとしても、自分だって受け入れ難い。
「受け入れなくてもいいの。赦す必要もない。そういうことだと知っていてくれれば充分」
そう。それが目的ではないのだから。
「 ただ、…レイちゃんは赦してあげて欲しいの 」
「綾波……を?」
よく判らない、という顔。自身の裡に眠るわだかまりに、彼はまだ気付いてないのだろう。
「 ええ……
だって、彼女が大切にされてるように見えたことは、彼女の責任ではないから 」
ことさらに小さな声で。
「 碇司令のことが理解できたのは、彼女が造られた存在だと知ったときだったわ 」
もちろん大嘘だ。自分が父さんの心を理解できることの対外的な理由に過ぎない。
彼が心持ち身を乗り出してくる。気のない振りをしてリツコさんも耳をそばだてているようだ。
「 碇司令がもっとも屈託なく接してる相手が…レイちゃんだわ。
それは彼女が造られた存在だから。司令が造った存在だから。逆らうことのない存在だから。
碇司令が他人を恐れているのが解かったのは、造った存在である…レイちゃんにだけ打ち解けていたからなの 」
一息。視線を落とす。
「 ……もっと打ち解けて然るべきヒトが、すぐ傍に居るというのにね 」
それが誰か、などと明言はしない。受け取った者が、受け取りたいように解釈するだろう。
「 ことさら…レイちゃんを大切にしているように見えるのは、司令もやはり愛に飢えているから。自分なんかを愛してくれる人間は居ないと思っているから。
紛い物でも無いよりはまし。人形でも居ないよりはましだと。
……でも、それしかないと思っているから大切にするの 」
嘘、ほのめかしと続けて、次は隠し事だ。
わざわざ母さんの事なんか口にしない。綾波と母さんの関係を教えるにしても、まだ先のこと。
「それは代用品に注ぐ愛。紛い物への愛。本当はあなたに与えたい愛が捩じれた結果なのよ」
そして、すり替え。
零号機の暴走の顛末を聞けば、父さんが綾波を道具として扱いきれなかったことがわかる。おそらくは綾波に母さんの面影を見ているのだろう。不器用な人なのだ。
もちろん、そんなことがらはおくびにも出さずに続ける、心の狩り。
まがりなりにも愛されていると、彼に錯覚させるために用意した詰め将棋。
「 想像してみて。
あの結晶のような形の第5使徒戦前に…レイちゃんに話しかけてたように、あなたに話しかけていたらどうだろうか、と 」
問いかける言葉とは裏腹に、自由な想像など許さない。
「 あんな酷い代物に乗り込まねばならない息子に、とても喜ばしそうな顔で語りかける父親 」
落とすように視線を逸らして、さも独り言かのように呟く。
届いたかどうか、確かめるまでもない。その顔を見なくとも、その表情を見なくとも、これだけ近しければ。
……
……
「……ありえないわね」
リツコさんの感想に後押しされたような、彼の頷きが見て取れた。
「 あなたに対する愛がなければ、そうなっていたわ。
…レイちゃんへの愛が紛い物だから、そうなった 」
もし、寸毫でも父さんを赦せたら、それは容易に綾波への同情に変わる。これはそのための罠だ。
一歩、二歩。綾波のほうへ。
顔をそむけているのは、結果が怖いからだろうか。
拒絶されることへの恐怖。それは社会性が芽生えたことの裏返しでもある。成長……、したんだね。綾波。
……
体をずらすようにして振り返った。再び現れた綾波の姿は、彼の目に小さく見えるだろう。
「シンジ君、もう一度訊くわ……」
声のトーンを戻した。彼のためだけの嘘は終わり、続くのは……
「彼女たちが……、怖い?」
彼のための嘘。綾波のための嘘。二人のための嘘。
結局、この口からは嘘しか紡がれない。
そうして仕立てられるのは、虚偽の布地にわずかな事実で刺繍を施し、憶測の糸で縫い合わせた、裸の王様の服。
見たい者だけに見える服。真実とはそういうものだ。事実と違って肌触りすら、ない。
……
「……怖いというより、……驚きました。いきなりだったんで」
前もって言ってくれればよかったのに。との抗議に、ごめんね。とだけ返す。
衝撃を受けている間に刷り込みを行う。洗脳の常套手段だから、などと言えるはずもない。
「…レイちゃんのこと、好き?」
「ミ、ミサトさん!?」
「嫌いになってないか? って意味だったんだけど、答え聞かなくても判ったわ」
からかわないでよ、もう。と拗ねる彼の呟きはやさしく無視して。
「よかったわね、…レイちゃん。あなたを、あなたのままで、受け入れてくれる人が居るわ」
「…はい」
ゆっくりと近寄ってきた綾波が、上目遣いに見上げてくる。
……
「…葛城三佐は?」
……
「訊かないと判らない?」
……
「…聴きたいから」
そうね、きちんと伝えないとね……。と微笑。
……
「レイちゃん。あなたのことが好きよ」
嘘だらけの言葉の中で、初めて自分が心から想っていることを口にできたのだろう。
だからか、そのひとことは思ったより素直に口をついた。
ドモらなかった。
「…葛城三……」
呼びかけようとした綾波が、かぶりを振る。
いや。いや。いや。いや。いや。いや。いや。いや。いや。いや。いや。いや。いや。いや。いや。いや。いや。いや…
「ミサトさん。って呼べばいいと思うよ」
与えられた好意に返す、ぎこちない微笑み。かつて自分に与えられた笑顔が、今、自発的に彼に向けられている。
照れる顔を観察する余裕はなかった。
…ミサトさん。との呟きとともに飛び込んできた綾波に驚かされたから。
綾波をなだめるのに、少し時間がかかった。
胸元が濡れて、ちょっと冷たい。
頭をなでてやっていた手をとめ、抱きしめなおす。
「彼女たちを、どうしてあげたい? レイちゃん」
息を呑む気配。おそらく、考えたこともない命題。
「…わからない」
「彼女たちを外に出してやって、あなたと同じように生活を与えてあげられるとしたら?」
……
「…彼女たちは、私と同じ株の、私とは違う花。同じように咲く権利がある?」
頷いてやる。
「…私に決める権利が……?」
「それは判らないわ。
でもお腹の中の胎児に「生まれて来たいか?」と親は訊くことはできないものよ。
あの子たちも同じだと思うの」
…なら。と腕の中で頷く気配。
「…出てきてから、自分で決めればいい」
そうね。と頷いてやる。
「勝手にそんなこと決めないで! 出来るわけないでしょう」
ちょっと待ってね、怖いお姉さんと話しをつけてくるから。と抱擁を解く。
つかつかと詰め寄ってくるリツコさんに向き直って。
「どうして?」
「魂がないもの!」
「なぜ?」
「ガフの部屋は空っぽだった! 魂が宿ったのは一人だけよ」
「本当に?」
「嘘ついてどうするのよ!」
はあはあと、リツコさんの息が荒い。
……
「……じゃあ、1人目は? 魂なかったの?」
これは賭け。
「葛城ミサト」の知らない事実だから。加持さんですら掴んでいなかった情報だから。
ダミープラグの正体より、はるかに知り難い秘密のはずだ。
でも、そのために加持さんの姿を見せておいた。なによりここに綾波が居る。
リツコさんはそのことを、勝手に結び付けてくれるだろう。
……
「……魂を移した。と聞いてるわ」
よかった。「秘密は漏れるものだ」なんて陳腐な言葉で誤魔化さずにすんで。
「死体から移せるものなの?」
「いいえ。
その装置で取っていたバックアップを与えたそうよ」
指差す先に、人間の脳幹のごとき器械。
「バックアップが取れるなら、書き込めば魂が生じるんじゃないの?」
「……無駄だと聞いていたから」
試したことないのね。と水槽に手が届く位置まで。
「子供ってね。胎児のうちから色々な経験をするの。
母親に話しかけられたり、外の物音を聞いたり、ホルモン量の変化から母親の情動を慮ることすらできるらしいわ……
だから生まれた時にはすでに、それなりの経験を蓄積しているのよ」
ガラスに手を置くと、近くの綾波が視線を寄せる。
「それに、脳のシナプス形成に乳幼児期の接触刺激は必要不可欠だわ。
……でも、人工子宮の中で促成培養では、そんなもの望めない」
見分けはつかないが、この中に3人目の綾波も居るのだろう。
「この子たちは、そんな経験すら与えられぬまま大きくなった胎児なの。
だから魂がないように見える」
振り返り、見つめるのは無機物の脳髄。
「この世に魂があるかなんて、判らないわ。
でも、ガフの部屋とやらが空っぽだったなら、レイちゃんよりあとに生まれた子供たちにも魂がないの?」
かつて、綾波たちの破壊を見せつけられた時から、魂というものについて考えてきた。綾波だけに生じ、綾波たちには生じなかったと言うモノ。
1人だけにしか生じなかったというのなら、自分の知っている2人のうち、どちらが魂を持つ綾波だったのだろう。
それとも、存在したはずの1人目だけが持っていたのだろうか?
ほぼ同じ記憶を有しながら、温度差を感じさせた2人の綾波。その温度差が魂だろうかと、そう考えたこともあった。
自分なりの結論に至る。その糸口を与えられたのは、他ならぬリツコさんから聞いたMAGIの話。微細群使徒戦の時だ。
人格が揮発する。という言葉が、なぜか3人目の綾波のことを思い出させた。
一応の記憶はあるが、それに伴う実感や情動が見られなかったように思う。無機質とでも言えばいいのだろうか? その3人目に対する自分の印象は、自らが経験せずに記憶だけを与えられたからこそ抱かせたのではないか。
貰い物の記憶しかなかったから、「私は3人目」などと、突き放したように告白できてしまうのではないか?
それはおそらく、人格を揮発させてしまった場合のMAGIの姿でもあっただろう。
2人の温度差について考えていて気付いたのは、2人目もまた、ここから出たばかりの頃は同じような状態だったのではないか? ということだ。最期には自爆までして自分を救けてくれた2人目の綾波にも、3人目のような時期があったと思う。
・ イレーザーで消し残された点。過去ログだけを与えられた器。それが3人目の綾波ではなかったのか。水槽から出されたばかりの2人目の綾波ではないだろうか。
だとすれば2人の綾波の決定的な違いは、肉体を得て体験した時間の差しかない。
/ リツコさんがホワイトボードに書いてくれた斜めの線。線そのものは実在しても、それが示すベクトルはそうではなかろう。
もし、そうならば。
魂とはそれ自体のみで存在し得る代物ではなくて、体験の過程と人格形成の軌跡を表す語彙に過ぎないのかもしれない。その抄録が記憶、ということになるのではないか。
そして、なにより。なによりも、……だ。
魂なんてモノがあるなら、この体でも動いてくれたかもしれない初号機。応えてくれたかもしれない、母さん。
【エヴァパイロットとしての適格性なし】との通知を前に、おそらく自分は一度、絶望しているのだろう。こんな姿でも、母さんなら自分を見分けてくれるかもしれないと、心の片隅に希望を抱いていたのだ。
この世に魂なんてない。
その結論は、つまるところ自分の願望の産物なのだ。
それに、そもそも魂の本質を知らないかぎり答えの出ない命題でもある。
だが、解からないなりに自分で考えて出した答えだった。
ゆっくりと歩いていく。
「……この世に魂がないのなら、そもそもこの子たちが外に出ることに何の問題もない」
装置の下、巨大なガラスのシリンダー。
「……この世に魂があるなら、この子たちだけに魂がない理由がないわ。
今この瞬間にも子供たちは生まれ、育っている。私が看取った子供たちにも魂はあった。
この子たちにも魂は、きっとある」
おそらく、この装置は人の記憶を保存し、与える事ができるだけの物に過ぎまい。
「外に出して経験を積ませるのは一人で充分。ダメになれば交換すればいい」
そういうことじゃないかしら。と透明な筒に触れる。
「この前の結婚式の時、レイちゃんは精密検査だと聞いていたわ。
健康面の管理者たるリツコ…が居ないのに」
筒越しに視線をやると、リツコさんと目が合った。
「リツコ…が必要ないほど簡単な検査? それにしては時間をかけすぎてる。
リツコ…も知らないような秘密があるかも。と思ったのはそのときだったわ」
例えばリツコさんはさっき、魂を移した。と言った。
だが、死んだ綾波から魂を移せるのなら、停止したMAGIから人格を移すことなど造作もないだろう。揮発したベクトルごとき、どうにでもできて然り。
そこから導き出せるのは、本当は魂なんか移せないか、父さんがリツコさんを信用してないか、騙してるか、のどれかだ。
そのことの屈辱は、科学者としてのリツコさんを動かす原動力になりえるだろう。
「レイちゃんのこと、前向きに考えるって言ってくれたわよね?
それは、この子たち抜きでは成しえないことよ」
筒を迂回して、リツコさんの方へ歩く。
「初号機がダミープラグを拒絶した今、この子たちの重要性は下落している。
下手をすれば、このまま破棄されかねないわ」
リツコさんが目をそらした。
「せめてもの罪滅ぼしに、この子たちに未来をあげて欲しいの」
すれ違う寸前で、立ち止まる。
「今すぐってわけじゃないわ。全てが終わってからでいい。
だから、考えておいてね」
力なく頷いたリツコさんの肩に手を置いて、子供たちに笑顔。
「レイちゃん。シンジ君を連れて先に帰っててくれる?
大人はこれから悪巧みの相談があるのよ」
「…はい」
「まだなにかあるの!?」
「だって、これだけだとリツコ…にメリットないでしょう? そういうお話もしたほうがいいと思って」
余計なお世話よ。とのお言葉は丁重に無視した。
****
「よくもまあ、あんな大嘘を、べらべらと」
子供たちを帰したあと、せめて椅子が欲しい。ということで3号分室まで戻る道すがら。
リツコさんの機嫌はあまりよくないようだ。
「えぇと、……どれ?」
心当たりが多すぎて……
「ダミープラグの製作意図よ」
エヴァの墓場に向かう階段を無視して、先導していたリツコさんが通路を折れた。こちらを気遣う様子がないのも、不機嫌さの現われだろう。
「事実の表層を撫でれば、そう見える。その見方を教えただけよ」
「たいしたペテン師だこと」
行く手に現れた、ゴンドラ丸出しのリフトに乗り込んでいる。近道だろうか?
いや、リツコさんがそんな不合理な行動を取るとは思えない。
たぶん往きの道筋の方が遠回りなのだろう。おそらくは、自分の気が変わることを期待して……。
「でも、丸っきりの嘘。というわけでもないでしょ?」
続いて自分が乗り込むと、一つしかない赤いボタンをリツコさんが押した。途中下車はなさそうだ。
「だからリツコ…も口出ししなかった。レイちゃんのときと違って」
……
「……そうね。司令にそのつもりが微塵もないとは言えないわね。
あの呪文、効いたもの」
呪文。エヴァ憑依使徒戦後の助言メールのことだろう。
そうか、効いたのか。
あんな父さんにも可愛いところがあったんだ。案外、頭ナデナデしたら喜ぶかもよ、リツコさん。
少し、リツコさんの雰囲気が柔らかくなった。反面、表情は複雑になる。怒りと哀しみに悔しさを併せて押し隠そうとすれば、あんな顔になるだろうか。
……
ヒトの顔色をうかがう癖、直さないとな……。
視界からリツコさんを外せば、眼下に広がるエヴァの墓場。
「それで、いつ……気付いたの?」
「なにに?」
「私と、あの人の関係に」
見やれば、上目遣いに睨みつけられていた。
柔らかくなっていた雰囲気は微塵もなくて、値踏みするような容赦のない視線。
「ミサトにばれるような、そんな素振りを見せた憶えはないわ」
しまった。あのメールは勇み足だったか。リツコさん相手に、あまりにも迂闊だった。
下手な言い逃れは通用しないだろう。
第一、これからやろうとしていることに、リツコさんの協力は不可欠だ。不信を抱かれては元も子もない。
……
説得力のある理由。説得力のある理由。説得力のある理由。
……
目的地に着いたらしくリフトは止まるが、とてもゴンドラから降りられる雰囲気ではない。
……
「……ゲヒルンの人間関係について、知る機会があったの」
嘘……ではない。
加持さんから貰った情報の中に、それを匂わせる内偵報告があった。
「……それに、カスパーの中で聞いた話を重ね合わせてみたのよ。
それ以来、なんとはなしに…ね?」
「メールは鎌かけも兼ねて? 油断も隙もないわね」
「そういうつもりはなかったけれど…… その、気に障ったなら……、ごめん」
喋りすぎたみたいね……迂闊だったわ。これ見よがしに嘆息したリツコさんが、ゴンドラを降りる。
あとに続こうとしたら、遮るように立ち止まったリツコさんが振り向いた。
「ところで、加持君にフラレたって、本当?」
自分はよほど変な顔をしたのだろう。リツコさんの表情が緩んだ。
今ので帳消しってことにしてあげるわ。とのお言葉を、ありがたく頂戴するしかなかった。
****
ようやく3号分室に到着。……なんだか遠い道のりだったような気がする。
よぅ、遅かったじゃないか。という加持さんに、リツコさんの一瞥。
「加持君の仕業ね。ミサトに要らないことを吹き込んだのは」
「こんちまたご機嫌斜めだねぇ」
攻撃の矛先がそれた。と歓んでは居られない。これからが本題なのだ。
……
「近いうちに、使徒戦にかこつけて初号機を壊すわ」
「なっ! なに考えてるのミサト!」
落ち着いて。と身振りで押しとどめ、傍らの医療用ベッドに腰をおろす。綾波のかな?
「私は、人類補完計画を潰す」
自分の目の前で息をひきとった難民の幼子。
そういった子供たちを少しでも減らすべく努力してきた。
少しでも小さな被害で使徒戦を勝ち抜くことで、多くの地域の負担を減らせると思ったのだ。
しかし、サードインパクトを防ぐだけなら必要ないはずの多額の費用は計上され続け、使徒戦を錦の御旗に、国連予算は難民救援には出し惜しみされた。
表向きは判らぬよう、極秘裏に。
例えば、存在しないマルドゥック機関。
108ものペーパーカンパニーが請求してきた莫大なチルドレン選抜費用は、そのまま委員会の裏金になっただろう。
大義名分を隠れ蓑に自分勝手に進められようとする補完計画を、見過ごすわけにはいかない。
早めにその目論みを挫かねば。
そして、なによりも。本当に仕組まれた子供だったチルドレン。
あんな酷い物に乗るために生まれてくるなどと、そんな理不尽な人生があるなどとは思っていなかった。
だが、綾波は文字通りそのために造り出され、アスカも幼ないうちから辛い訓練に明け暮れたのだ。
二人に較べればマシかもしれないが、自分だって酷い目に遭わされた。
なにが哀しくて、あんな物のために。
人類補完委員会。いや、ゼーレと呼ぶべきか。
その悲願とやらを潰してやることが、仕組まれた子供たちにできる唯一の反抗なのだ。
見やると、見つけておいたらしい椅子を加持さんがリツコさんに勧めている。自身は立ったままらしい。
「司令がこだわる初号機。それこそが補完計画の要でしょう?
初号機を壊して、計画を潰すわ」
あの時、白いエヴァたちは弐号機には眼もくれず、いや、それどころか単なる慰み物としてうち捨てた。
あの狂乱の宴の中心は、初号機に違いない。
「……それで、初号機を失い、計画を絶たれて途方にくれる司令に取り入れ。と、それが私へのメリットというわけ?」
そのつもりだけど、不満? と小首をかしげる。
いいえ。と応え。
「……でも、計画に初号機は関係ないわよ」
懐からシガレットケースを取り出して、一振り。吸っていいか? のジェスチュア。
頷く。
「委員会が計画している儀式は、リリス、ロンギヌスの槍、12体のエヴァで行われる予定だったのよ。
槍がないからすでに破綻しているけど、初号機は関係ないわ」
吐き出される紫煙。
「それでも?」
気のない振りをしながら、上目遣いの視線は何かを探るように。
その心を占めるのは、初号機を葬るという甘美な誘惑に違いない。
唐突にもたらされた啓示をいかに現実となさしめるか、その頭脳を総動員しているのだろう。
作戦課長がどれだけ利用できるか測るための揺さぶり。だからこそ、この情報なのではないか。
態度とは裏腹に、リツコさんこそ初号機を葬りたいのだ。想い人の心を独占しているモノを。
!?
ちょっと待て。槍が儀式に必要だった? 確かに儀式の最中に帰ってきたが、そうなることを父さんは、ゼーレは知っていたのだろうか?
槍が自力で戻ってくることまでシナリオの内だとは、とても思えないのだけど。
……
「もしかして司令は、補完計画を阻止した上で乗っ取ろうとしているの?」
さあね? とリツコさん。
どういうことだ? と加持さん。
「使徒に侵入された時、司令は誤報だと言って隠蔽したわ。
その時は、単なる保身かとも思ったけれど……」
あまりにも不自然だったから、気になっていた事実。
「ゼーレとそのシナリオとやらの存在を知った時に、おかしいと感じたのよ。
補完計画がシナリオとやらに沿って進んでいるなら、隠蔽する必要はないもの。
逆にイレギュラーな事態なら、むしろ報告は必須でしょう?」
さらには、加持さんによるアダムのサンプルの横流しも、明らかにゼーレに対する背信行為だ。
「だから、司令に二心があるんじゃないか、とは思っていたわ。
補完計画に便乗して何かを企んでいるんじゃないか? くらいにはね」
そのこと自体は、ゼーレもまた気付いてはいるのだろう。
さもなくば、身内のはずのネルフに対して、副司令の拉致などといった非常識な手段を採ったりはしない。あれは、ほとんど脅迫だ。
自分が加持さんに頼まなければ、冬月副司令は帰らぬ人になっていた公算が高かった。
「ところが、儀式に必要なロンギヌスの槍を、あっさり使った。
しかも司令が自ら指示して、委員会の許可も取らずにって話じゃない」
自分が行おうとしていたように、衛星軌道へのエヴァ展開は可能だ。当然、司令部にも立案・提出してあった。
エヴァを失う可能性はあるが、儀式を優先するなら槍の使用はありえない。
量産が進んでいる今、エヴァの保全は口実にすらならないだろう。父さんの腹積もりはともかく。
とすれば、積極的にロンギヌスの槍を破棄すべき理由があるのではないだろうか?
「司令にとって、槍は邪魔だったんじゃないかしら?
たかが作戦課長を救うために、計画を放棄してまで使うとは思えないもの。
態よく厄介払いをしたようにしか見えないわ」
槍が邪魔だから計画を阻止することになったのか、計画を阻止したいから槍を破棄したのか、そこまでは判らないが。
「そうならば、もとより司令にゼーレのシナリオを遂行するつもりはない」
もちろん、それだけが目的ではないだろう。でなければ、儀式には関係のない初号機に、あそこまでこだわるとは思えなかった。
結局のところ、父さんの目的は想像するしかない。
だが、便乗するにせよ乗っ取るにせよ、補完計画そのものを潰してしまえば遂行できないはずだ。
なにやら懐手にして、加持さんが歩いてくる。
先んじて訪れた焦げ臭い空気は…… 硝煙の匂いか。
思わず鼻をひくつかせた自分に、加持さんのウインク。
委員会絡みの野暮用があると言っていたが、随分と荒事だったらしい。
もしかして、手を切る決意をしたのだろうか。それが加持さんの身の安全に結びついてくれるなら、嬉しいのだけど。
委員会と云えば……
「委員会に査問された時の印象では、計画が潰えた悲惨さは微塵もなかったけど……」
飲むかい? と差し出された缶コーヒー。加持さん、こんな物どこに隠してたのだろう?
「ロンギヌスの槍がなくても儀式を遂行できる手段があるのかしら?」
受け取った缶は冷たい。UCCオリジナルは熱燗が最高なのに。
常夏の日本で無茶言うな。って顔した加持さんが、もう1本取り出してリツコさんの方へ。
「それは……、判らないわね」
胡散臭げに受け取っている。缶コーヒーは嫌いだったはずだ。
「……となると、ゼーレも司令も、まだ手の内に切り札を隠しているのかもね」
補完計画は、リリス、ロンギヌスの槍、12体のエヴァで行われる予定だったという。
あの時は、初号機、ロンギヌスの槍、9体のエヴァで行われた。
槍の帰還は、父さんにとって予想外だったのではないだろうか?
儀式が始まれば、槍が帰ってくる可能性がある。ならば儀式の発動そのものを阻止しなければならない。
そのために破壊せねばならないのは、リリスと初号機、そして9体のエヴァだ。
アダムのサンプルの存在が気になるが、それ単体で何事かなせるような代物なら、加持さんとて容易に持ち出せはすまい。
所在もわからないし、後回しにするしかなかった。
「司令のこだわりようが気になるから、やはり初号機は潰すわ。
あれを儀式の切り札として使う可能性を否定できないもの」
ちらりとくれたリツコさんの視線を、知らん振り。
「そのためにいくつか、お願いがあるのよ……」
****
エヴァ侵蝕使徒は、融合された初号機を自爆させることで殲滅に成功した。
弐号機が展開したATフィールドのお陰で、第3新東京市に被害はない。
つづく
2006.10.23 PUBLISHED
.2006.10.30 REVISED