「最終安全装置解除。エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ」
前面ホリゾントスクリーンの中、拘束を解かれた巨人が猫背になる。
使徒はまだ、姿も見せていない。
時間を浪費する要素が少なかったので、まだ第3新東京市に辿り着いてないのだ。
「シンジ君。あらかじめ言ったとおり、エヴァは思考で動く兵器よ。
したいことを考えながら自分の本当の体は動かしてはならない。そこがちょっと難しいの。
まずは歩くことだけを考えて」
ヘッドセットインカムのマイクに向かって話す。エヴァへの直通ラインだ。
語っているのは体験談。
あの独特な感覚を言葉で表現して伝えるのは難しいが。
別ウインドウの中で、ぎこちなく彼が頷いた。緊張しているのだろう。無理もない。
「歩いた」
初号機が1歩を踏みだすと、リツコさんが身を乗り出して呟いた。
発令所に拡がる職員の嘆声も、彼の耳には届かない。
そのためのインカム、そのための直通ラインだ。
指揮系統の明確化。それを建前に急遽作らせたシステム。
つまらないことを彼の耳に入れて、エヴァへの疑念、不審を抱かせたくない。
彼の不安を煽りたくないのだ。
歩いただけで奇蹟のような代物に乗っていると、悟らせてはならなかった。
「上出来よ、シンジ君」
深く息を吸う。自分も緊張している。
なにしろ、かつてのこの使徒との戦闘では、その最中に自分は気を失って、経過と結果を知らない。気付いたら、知らない天井だった。
だから、予め考えておいた手立ては全て推測の産物なのだ。
どうすれば彼を同じ目に遭わせずに済むか。まったくの手探り。
緊張がほぐれない。もう一度、深呼吸する。
自分が戦った方が、よほど気が楽だろう。
代われるものなら代わってやりたい。
彼女も、こんな心持ちで見守っていたのだろうか?
『……歩く』
続いて2歩目を踏み出そうとした初号機は、左脚がついてこずにバランスを崩した。
受身も取れず、無防備に顔から倒れこむ。
…
『うっ…くくっ』
やはり倒れてしまったか。かつて自分も、ここで気を抜いたのだ。
あらかじめアドバイスしたかったが、こればかりは体得するしかないだろう。
「シンジ君、大丈夫?」
『……とても痛いです』
画面の中、彼が額を押さえている。
これは乗ったことのある者にしか実感できないが、エヴァで転ぶとかなり痛い。
エヴァとパイロットはシンクロし、その感覚はフィードバックされるわけだが、その際に問題となるのがその体格差だった。
厳密に検証したわけではないので推測に過ぎないけれど、例えばフィードバック係数が100%のときに、エヴァが切り傷を負ったとしよう。
その痛みは、パイロットが生身で負った場合と同じ痛みとして感じるはずだ。
では、倒れた時も同じか? というと、そうはいかない。
エヴァは人間の20倍以上の身長だ、倒れた時に受ける衝撃は単純計算で400倍。スケール比でも20倍に及ぶ。
もちろん、その衝撃にエヴァは耐えられる。
だが、パイロットは堪らない。20倍の衝撃を、痛みとして感じさせられるのだから。
実に自然な動作で、初号機が立ち上がった。
痛みのせいで、却って無意識に動かしているのだろう。怪我の功名と言っていいものかどうか。
「自分を包む、もう一つの大きな体が在るようだと言われているわ。
その大きな体に自分を預けるような気持ちで、もう一歩」
これも体験談。
だが、弐号機シンクロ実験で得られた言葉でもある。
「シンクロ率、8.26ポイント上昇。微増傾向です」
報告するマヤさんの向こう。スクリーンの中で、初号機があらためて2歩目を成功させた。
「使徒到着まで、まだ時間はあるわ。
シンジ君に任せるから、初号機に慣れておいて」
『……はい』
手を挙げたり、周りを見回したりしだした初号機を視界の片隅に収めながら、各種モニターの内容を確認する。
「シンジ君、そのまま続けながら聞いて。
使徒の武装は、さっきも見た光の槍。
それに、増えた顔の「そうそれ」その目から怪光線を発射するみたい」
絶妙のタイミングで、エントリープラグ内に解説つきの使徒の模式図が投影された。日向さんの操作だろう。別枠で怪光線を発射する使徒の映像も送られているようだ。
プラグ内の表示内容は全て、こちらでも確認できるようになっている。
他に指示はないかと振り向いた日向さんにグッジョブとばかりにウインクを返すと、顔をそむけられてしまった。
彼女らしい仕種をうまく再現できたと思ったのに、日向さんは顔を真っ赤にするほど怒ったようだ。
やはり不謹慎だっただろうか?
もっと気の利いた対応があるのだろう。こういうところは彼女に及ばない。努力はしているつもりなんだけど。
『怪光線なんて、どうしたらいいんですかっ!』
日向さんに目配せしてコンソール前のカメラを見据えると、間を置かずしてエントリープラグ内に自分の顔が映し出される。
「避けることは難しいわ。
でも、1万2千枚の特殊装甲があなたを守ってくれる」
目前のディスプレイに、彼の様子が転送されてきた。
『……痛いんですよね?』
おろおろと周りを見渡している。今頃になって恐怖が現実味を帯びてきたのだろう。
倒れた時の痛みを思い起こし、怪光線の苦痛を想像しているに違いない。
「ええ、多分。 とても……」
そういう意味では、考える暇もなかったあの時の方が幸せだったのだろう。じっくりと恐怖に向きあわせている今回の方がよほど残酷だった。
『どうにかならないんですかっ!』
「ごめんなさい。
それは、シンジ君が優秀なパイロットだということの裏返しなの」
だが、大人の思惑に弄ばれていると思われるよりはマシだ、と己に言い聞かせる。
どうせ解からないからと碌な説明もなく放り出されたあの時、欲しかったのは親身な対応だった。
『そんな……』
「もちろん、最善は尽くすわ」
横を向いて、金髪の技術部長の顔をうかがう。
「赤木部長。フィードバック係数を下げることは可能でしょうか?」
「……そうね。このシンクロ率なら、少し下げても問題ないわ」
「お願いします」
リツコさんがマヤさんに指示するのを確認して、カメラに向き直る。
ここまでの会話は敢えて、カットしていない。
「シンジ君、聞こえていた通りよ。
これで少しはマシになると思うわ。
その分ちょっとエヴァから返ってくる感覚が鈍くなったかもしれないけど……、どう?」
『……なんだかぼやけてます』
何かを確認するかのように、初号機が手を握り締めた。
エヴァは、パイロットのもう一つの体になる。
それを動かすには、機体からのフィードバックが不可欠だ。たとえば、三半規管の感覚が伝わらなければエヴァを立たせておくことすら難しい。
フィードバック係数を下げたことで、痛覚を含めたそれらの感覚が伝わりにくくなるのだ。
しかし、それが根本的な解決ではないことを、彼なら気付くだろう。
『ミっミサトさん!』
はぐらかされたかと勘違いして、怒っただろうか?
「なに? シンジ君」
ことさら冷静に返事をして、「残念ながら操縦に支障が出るからそれ以上フィードバック係数は下げられないの。ごめんなさい。酷い物に乗せてしまって」と続けるつもりだった。
『まっ街に子供が居ます!』
「なんですってぇ! ……女の子? 小学生!?」
ディスプレイに回ってくる、監視システムとエヴァ視点の映像。ポップアップされた個人情報には『鈴原ナツミ 8歳』とある。
しまった! トウジの妹を失念していた。
「大至急、保安部を遣って!
シンジ君、そこでは彼女を巻き込むわ。通りを三つ、むかって右に移動して!」
『はいっ!』
おそるおそる移動する初号機に、しかし危なげな様子はない。随分とエヴァに慣れたようだ。
保安部の出動を確認。まだかかりそう。
「シンジ君。電源供給用のケーブルを替えるわ。
左手10メートル先のビルにあるケーブルと、今背中に付いているケーブルを交換。できる?」
初号機がビルと背中を交互に見た。
プラグ内の映像では目的のビルが点滅している。おそらく、初号機背面をとらえた映像も転送されていることだろう。
『……やってみます』
突発事態に気をとられて余計なことを考えられなくなったのか、『どうやって』とも訊かずに初号機が歩き出す。
保安部が現着。女の子に接触した。もう少し。
慣れない作業に途惑いながらもケーブルの交換を終えた直後、日向さんが振り向いた。
「今、女の子を保護したわ。
シンジ君、ありがとう。あなたのお陰で人の命が一人救われたのよ」
『そんな……』
「本当のことよ、誇っていいの…… ごめんね、時間切れみたい。 奴さんがおいでなすったわ」
外輪山の稜線に変化。使徒はもう間近だ。
「シンジ君、よく聞いて。
使徒を観察していて推測されるのは、アレに敵を認識する能力がないかもしれない。ということなの」
『どういうことですか?』
「アレは、自分から先に攻撃するということをしていないわ。
攻撃されたから反応しただけ。その程度の知能しかないと推測できるの。
つまり、エヴァを敵だと認識していない可能性があるわけね」
ディスプレイの中で彼が頷いた。
「その証拠に、とっくに怪光線の射程距離内だと思われるのに撃ってきてないわ」
言われてみればそうだ。という表情をしたのが彼以外にもたくさん居たのはどうかと思う。
まあ、彼らにしても初めてのことだ。致し方ない。
「だから採るべき作戦は一つ。待ち伏せよ」
『待ち伏せって…… 思いっきりバレてると思いますけど?』
初号機が使徒を指さす様子は妙に人間くさくて、なんだか滑稽だ。
「アレはエヴァを障害物の一つくらいにしか思ってないわ。だから待ち伏せになるの」
『はぁ……』
その瞬間、スクリーンがホワイトアウトした。
即座に防眩補正されて映し出される、十字の爆炎。
一拍遅れて、揺れが発令所を見舞う。衝撃で天井部が剥落してきただろうことを、過去の記憶が教えてくれた。
「ヤツめ、ここに気付いたか」
発令所トップ・ダイアスから、呟き声が転げ落ちてくる。
父さんはいつものポーズだろう。わざわざ振り仰いでまで、見たいとは思わないけど。
「シンジ君、今の見た? やはりエヴァは眼中にないわ」
日向さんに目配せして、自分の左肩を指す。途端に初号機の左肩ウェポンラックが開いた。
「今、ナイフを出したわ。両手で構えて。
……そう。右手で握って、左手を添える。ナイフの柄尻を左の掌で支えるの。
……うん、様になっているわ」
ぎりぎりまで使徒の気を惹きたくない。
日向さんのコンソールに視線を遣って、まだナイフへの電源供給が行われてないのを確認する。
「いい? シンジ君がすべきことは一つ。
使徒が目の前に来るのを待って、そのナイフを突き立てる。それだけよ」
『どこを狙えば……』
「ナイスな質問ね。
使徒の弱点と推測されるのは2ヶ所。顔に見える部分と、赤い球体よ」
プラグ内の使徒の投影図に、解説が増えた。
「でも、ほいほいと増えるような部分に重要な器官はないわ。
従って、使徒の弱点は赤い球体部分。そこを狙って」
コアが弱点なのは知っているが、言えるはずもない。
彼がうつむいた。
深く息を吐いたのか、口元から泡が立ちのぼってLCLに溶けてゆく。
『僕に……、僕なんかに出来るでしょうか?』
「シンジ君、気付いてる?
あなた、エヴァを自分の手足のように使いこなしているわ。今も一緒になってうつむいている」
顔を上げ、見つめてくる。
カメラとディスプレイの位置差の分だけ視線が合わないから、構わずにカメラを見つめ返す。
「あなたにしか出来ないの。 お願い、シンジ君。 戦って」
その瞬間、スクリーンの中の第3新東京市をまたも十字の爆炎が襲った。
つづく
2006.07.18 PUBLISHED
..2006.10.06 REVISED