「たのもー!!」
博麗神社の境内に、闇色の服の少女の叫び声が鳴り響く。
その声を聞いて、境内の掃除をしていた巫女が怪訝な表情で顔を上げた。
「……何の用?」
霊夢はルーミアを警戒しながら声をかける。
そんな霊夢に、ルーミアは首を横に振った。
「私が用なのは貴女じゃないわ。銀月は何処?」
「銀月なら仕事よ。で、銀月に何の用なの?」
「姉の威厳を取り戻しに来たのよ」
「はあ?」
「銀月と戦って、勝ったら私が好きなようにするの。うふふふふ……どうしてくれようかな~?」
ルーミアは銀月に勝った後のことを考えて、ニヤニヤと笑う。
何を考えているのかは定かではないが、ろくでもないことを考えているのは確かなようである。
そんなルーミアの考えを汲み取って、霊夢はすっと眼を細めた。
「……そう。そう言うこと」
「仕事ってことは、紅魔館に居るのね。それじゃ紅魔館に……うわっ!?」
踵を返して紅魔館に向かおうとするルーミアの肩を霊力の篭った札が直撃し、バランスを崩してよろける。
そしてそのルーミアの前に霊夢が立ちはだかった。
「あんなことを聞いて素直に行かせると思う訳? うちの食事係にこれ以上仕事を増やさないでくれる?」
霊夢はルーミアを完全に敵とみなし、冷たい視線を向ける。
元より銀月が紅魔館に行くことすら快く思っていなかった霊夢である。
その上に銀の霊峰の用事であるならばともかく、ルーミア個人が訳の分からないことを言い出したのだから当然の結果である。
そんな霊夢の主張を聞いて、ルーミアは笑みを浮かべた。
「あら、貴女の食事係である前に私の弟分よ? 銀月ならきっと家族を優先してくれると思うわ」
「……意地でも行かせないわ」
霊夢は手にした御幣を握り締めて身構える。
ルーミアの言うことを全く否定できないので、ここで食い止めるしかないのだ。
戦闘態勢で睨みつけてくる霊夢に、ルーミアは不敵に笑って闇色の大剣を呼び出した。
「そう……うふふ、いいわ。銀月の前に、貴女と遊んであげるわ!」
ルーミアがそう言った瞬間、激しい戦いが始まった。
「……何だか異様な寒気を感じましたが、気のせいでしょうか……」
一方、紅魔館の図書館で作業していた赤い執事服の少年は嫌な予感を感じて体を震わせた。
彼の手にはボタンを押した回数が記録されているカウンターと、本のリストがあった。
今行っているのは本の整理整頓の様である。
「銀月さ~ん! 集計終わりましたよ~!」
そんな銀月に、一緒に作業をしていた小悪魔が声をかけた。
その声を聞いて、銀月はその方を向いた。
「終わりましたか。それで、何冊減っていますか?」
「一ヶ月前と比べて二十冊減ってます……」
「はあ……魔理沙さんの強盗被害が洒落になりませんね……金額に直せば幾らになるのやら……」
小悪魔はそう言って暗い表情を浮かべ、銀月も深々とため息をついた。
何故銀月が普段の業務外の図書館の仕事をしているのかと言うと、この魔理沙による本の持ち出しによる被害対策を練るためにパチュリーに呼び出されたためである。
今回の本の整理は、その被害状況の確認のためのものであった。
「銀月、何とか取り戻せないかしら?」
「取り戻すこと自体は出来るでしょう。問題は如何にして再犯を防ぐかですね。一番手っ取り早いのは、パチュリー様が魔理沙さんに勝てれば良いのですが……」
「ええ……正直、魔理沙の能力を甘く見てたわ。彼女、弾幕はパワーと言うだけあって生半可な攻撃じゃ押し切られてしまうわ。それに彼女には戦闘指南役でも居るのか、どんどん力をつけていくし……」
パチュリーはそう言うと苦い表情を浮かべる。
実際問題、パチュリーは魔理沙との弾幕ごっこで負けが込み始めている。
その理由として、パチュリーが喘息のせいで調子に波があることと、魔理沙がどんどん成長していることがあげられる。
特に魔理沙の成長の度合いは著しく、回を重ねるごとに次々と強力になっているのだった。
更に言えば、単純な魔法合戦ならまだパチュリーに分があるのだが、弾幕ごっことなると一気に差がなくなってしまうこともパチュリーが押されている原因であった。
とどめにパチュリーの喘息の症状が最近悪化しており、思うように力が出せていないのも要因の一つである。
パチュリーの言葉に、銀月は小さく息を吐いた。
「魔理沙さんにはギルバートさんが付いていますからね……よくお互いに弾幕ごっこで切磋琢磨しているのを見かけますよ?」
「そう……成長の影に努力有りってことね。ところで銀月、貴方は魔理沙を迎撃出来ないのかしら?」
「出来ない事はございませんが、私も咲夜さんと同様にお嬢様の付き人と言う役割がございます。更に申しますと、それは銀の霊峰の指示でもございます故、どうしてもそちらが優先されてしまうのです」
そう言った瞬間、低く澄んだベルの音が聞こえてきた。
紅魔館全体に響く魔法のベルの音は天井の上から響いており、不思議と耳に入ってくる音であった。
その音を聞いて銀月は顔を引き締めた。
「……お話の途中ですが、レミリア様がお呼びのようですのでこれで失礼させて頂きます」
「ええ。ご苦労様」
「そのお言葉に感謝します。それでは失礼致しました」
銀月はパチュリーに礼をすると、急いでレミリアの部屋へと向かう。
自身の能力を使って人間とは思えない速度で、広い大理石の廊下を何人ものメイド妖精とすれ違いながら飛んでいく。
そして目的地のドアの前に立つと、銀月は身だしなみを整えてからドアを四回ノックした。
「入って良いわよ」
中から声が聞こえてきたことを確認してからドアを開ける。
するとレミリアは椅子から立ち上がって銀月の到着を受け入れた。
「失礼致します。お待たせ致しました、レミリア様」
銀月はレミリアの目の前まで近づくと、跪いた。
そんな銀月に、レミリアは思わず苦笑いを浮かべた。
「そんなにかしこまる必要は無いわよ。この程度で目くじらを立てていたら、当主の器が知れるわ。それから、膝が汚れるから立ちなさい」
銀月はそれを聞いて小さく礼をして立ち上がった。
「ありがとうございます。して、いかがなさいましたか?」
「今日はフランに少し勉強させて欲しいのよ。そのために、今日の食事当番からお前を外すわ」
レミリアは銀月に優雅な表情で用件を話した。
それを聞いて、銀月は少しだけ眉をしかめた。
「……申し訳ございませんが、お嬢様の教育と私の食事当番の関連が分からないのですが……」
「銀月。私達の種族は何だったかしら?」
「吸血鬼でございます」
「なら、分かるでしょう? フランの勉強と食事の関係が」
レミリアは試すような口調でそう言うと、銀月を見つめる。
銀月はその意味するところがすぐに分かったようで、小さく眼を伏せた。
「……そう言うことですか」
「そう。恐らくそれが終わったらお前は仕事どころじゃなくなるだろうから、この後の仕事は外してあるわ。だから、全力でフランに当たりなさい」
「かしこまりました」
レミリアの指示を聞いて、銀月は胸に手を当てて恭しく礼をした。
そんな銀月を見て、レミリアは不意にニヤリと口をゆがめた。
「それにしても……」
「っ!?」
突如としてレミリアは銀月に飛び掛った。
礼をしていて一瞬反応が遅れた銀月は避け損ねて押し倒される。
銀月が頭を打たないようにかろうじて受身を取ると、レミリアはその両手を左手でまとめて掴んで銀月の胸に押し付け、顔を首筋に近づけた。
「ふふふ……お前は本当に美味しそうね。何、この甘い匂い? 私を誘ってるのかしら?」
レミリアは銀月の耳元をくすぐるような声でささやく。
それを聞いて、銀月は小さく息を吐いた。
「……父から聞いていれば、この匂いの正体が分かるのではないのですか?」
「……そうやって強がっても、お前が私に畏怖の念を持っているのは分かるわ。貴方は人間。捕食者たる吸血鬼が怖くて当然ですもの」
努めて冷静に答えを返そうとする銀月に、レミリアは愉悦を孕んだ声で言葉を重ねる。
指先で銀月の首筋を優しくなぞり、吐息が掛かる位置まで口を近づける。
それを受けて銀月は眼を閉じ、大きく息を吐き出した。
「……今の私はフランドールお嬢様の従者です。何故お嬢様のお姉様を怖がる必要があるのでしょうか?」
必要以上に無機質な声。
一切の感情を殺したその声に、レミリアは愛おしそうに銀月の頬を撫でた。
「ふふっ、強情ね……一番はフランに譲るわ。さあ、行きなさい」
レミリアはそう言うと、銀月の上から体を退けた。
銀月はゆっくりと体を起こし、立ち上がって身だしなみを整えた。
「……失礼致しました」
銀月は一礼してレミリアの部屋を出る。
そして外に出ると大きなため息をつき、今更ながらにあふれ出てきた冷や汗を拭った。
どうやら緊張感が解けたようである。
「……洗礼を受けたようね、銀月」
そこに、銀の髪のメイド長が苦笑混じりに声をかけてきた。
銀月は持っていたハンカチをしまい、その方を見た。
「咲夜さん、見たんですか?」
「ええ。物音が聞こえたから、時間を止めて覗かせてもらったわよ。私も最初の頃に同じことをされたわ。あの時のお嬢様は怖かったわね」
「そりゃ怖いはずだよ……殺す気は無くても、本気で襲うつもりで来てるんだもの」
「そうね。それで、実際に私は襲われちゃったし」
咲夜はそう言いながら首筋をさする。
それを見て、銀月は硬い表情を浮かべた。
「……血を吸われたのかい?」
「ええ。でもお嬢様は小食だから、せいぜい貧血になるだけで済むんだけど。貴方は吸われなかったの?」
「……一番はフランドールお嬢様に譲るってさ」
「つまり、妹様の後に召し上がるって訳ね」
「あ、やっぱりそうなる?」
「それ以外に聞こえる?」
咲夜がそう言って首をかしげると、銀月はがっくりと肩を落とした。
そしてしばらくすると、首を横に激しく振った。
「……いや、それよりも今日をどうするか……お嬢様に殺されないと良いけど……」
「妹様がどうかしたの?」
突然頭を抱えて焦燥を含んだ声でぶつぶつと呟き始めた銀月に、咲夜は首をかしげた。
そんな咲夜に、銀月は大きく三回深呼吸をして心を静めてから答えを返した。
「……今日は俺がお嬢様の食卓に並ぶんだってさ。それと、人間を捕まえる練習相手をしろと」
「まあ、貴方なら生きて帰れるわよ。根拠は無いけど私が保証するわ」
咲夜はそう言いながら銀月の頭に手を置き、左右に動かした。
銀月はしばらくそれを黙って受け入れると、再び大きく深呼吸をした。
「……分かった。その言葉、信じてみるよ」
「ええ。頑張ってね」
咲夜がそう言うと、会話が途絶える。
咲夜の手の下で髪の擦れる音だけが聞こえている。
そしてしばらくして、銀月は困った表情で咲夜に話しかけた。
「……あの、いつまで撫でてるので?」
「あら、ごめんなさい」
咲夜はふと我に返ると、銀月を撫でる手を退けた。
地下へと伸びる螺旋階段の終点。
たいまつの炎で薄暗く照らされたそこにある扉を銀月は四回ノックした。
「あ、早く入って!」
「失礼致します」
急かすような幼い声に促され、銀月は中へ入る。
すると宝石の下がった枝のような翼を持つ幼い外見の少女が銀月の元へと駆け寄ってきた。
銀月は胸に手を当てて一礼し、手を体の横にぴったりつけて直立した。
「ねえ、さっきお姉様に呼ばれてたみたいだけど、何があったの?」
「今日の仕事内容について、少々お話を伺いました」
「銀月に直接頼んだってことは、私絡みだよね?」
「はい。ご察しの通り、お嬢様に関することでございます」
「やっぱり。で、何を言われたの?」
「お嬢様の教育に関することでございます」
「あ、お勉強の話なんだ。ねえねえ、今日は何を教えてくれるの?」
ころころと楽しそうに表情が変わるフランドールに対し、視線を外さずに淡々と返答を続ける銀月。
そしてフランドールの質問を聞くと、銀月は小さく息を整えて先を述べた。
「……先に申し上げます。本日、私は食事当番から外されております。加えて、今日は食堂に行かれてもお嬢様の分のお食事は用意されません」
「えーっ!? ねえ、それどういうこと!?」
何処までも無機質な銀月の返答。
それを聞いて、フランドールは不満そうな声を上げた。
何も心当たりが無いのに突然自分の食事が無くなったとなれば当然の反応である。
そんなフランドールに、なおも銀月は機械的に説明を続ける。
「レミリア様は私に、お嬢様を一人前の吸血鬼にするように命じられました。これから行うのは、そのために最も重要なものでございます」
「……ひょっとして」
「……はい。本日の夕食は私めでございます。これからお嬢様には、人間として逃げる私を追跡して捕らえ、吸血していただくことになります」
自分も関わっているというのに、淡々と話す銀月。
フランドールは興味深そうな眼でそれを聞く。
「そっか……ねえ、銀月の血って美味しいのかなぁ?」
フランドールはそう言いながら銀月の首筋を眺める。
本当は一度舐めた事があるので味が分かっているのだが、銀月に嫌われないためにもそれを知られたくないようである。
「さぁ……私は血の味の良し悪しなど分かりませんので……」
「それもそっか。うふふ……銀月と鬼ごっこかぁ……楽しみだなぁ~♪」
フランドールはそう言って笑う。
普段とは違う遊び相手と遊べることが楽しみな様で、とても嬉しそうである。
その横で、銀月は左腕につけた自動巻きの腕時計に眼を落として時間を確認し、小さく深呼吸をした。
「……それでは日も十分に暮れたことですし、外に向かいましょう」
「は~い♪」
二人は連れ立って紅魔館の外に向かって歩く。
軽やかな足取りで歩くフランドールの後ろを、少し離れて銀月が追いかける。
広い庭の広場に出ると、銀月はフランドールから距離を取ったまま口を開いた。
「では、私は走って逃げますので、お嬢様は追いかけてきてください」
「うん!」
銀月の言葉に、フランドールは嬉しそうに頷く。
どこかそわそわとしており、早く始めたいという気持ちが表れていた。
それを見て、銀月は大きく深呼吸をした。
「……それでは、始めさせていただきます」
銀月はそう言うと、フランドールに背を向けて走り始めた。
その速さは、せいぜいが運動神経の良い人間のもの。
そこには銀月の能力も、将志から借りられる力も存在しなかった。
そして、それはあっさりとフランドールに先回りをされてしまった。
「ねえ、銀月……本気で逃げてくれないとつまんないよ」
フランドールはつまらなさそうに口を尖らせてそう言った。
彼女がしたかったのは銀月との本気の鬼ごっこだったため、今の動きは期待はずれのものであった。
そんなフランドールに、銀月は忠告をする。
「お嬢様。私や咲夜さんのような能力を持つ人間など、滅多に居ないのです。実際の人間など、この程度のものなのです。ですから、我慢して追いかけてください」
銀月はそう言うと、素早くバックステップを踏んでフランドールから離れようとする。
「そんなの簡単だよ。やあっ!」
「っ!」
フランドールが銀月を捕まえようとした瞬間、銀月は体がぶれて見える程の速度でそれを回避した。
その速度は、普通の人間が出せるようなものではなかった。
銀月を捕まえ損ねたフランドールは、足で着地して地面を滑った。
「ちょっと銀月! いきなり本気出すなんてずるいよ!」
フランドールは不満そうに頬を膨らませ、突然能力を使った銀月に抗議する。
さっき言っていたことと違うことをしているのだから、フランドールの言っていることは正しく見える。
それに対して、銀月は一礼して理由を説明した。
「申し訳ございません。ですが、今のに当たるわけには行かなかったのです。人間とは脆いもの。吸血鬼の力を受けてしまっては、容易にバラバラになってしまうのです。吸血鬼は血を吸うまで相手を殺してはなりません。ですので、お嬢様は私を殺さないように手加減しながら捕まえなければならないのです。今の速度で飛びつかれれば、普通の人間は唯では済まないでしょう。これ以降、私が能力を使った際は力が強すぎるものと思ってください」
「む~……手加減したんだけどなぁ」
「それでも強すぎるということです。では、続きと参りましょう」
銀月はそう言うと、再び走って逃げ始めた。
フランドールはそれを手加減を考えながら追いかける。
「このっ!!」
「まだ力が強すぎます」
あるときは、捕まえようと伸ばした手を能力を使って避けられる。
「あ、あれ!?」
「今度は慎重になりすぎです。それでは人間にも避けきられてしまいますよ」
あるときは、加減をして捕まえようとしたものの、フェイントを受けて逃げられる。
「とうっ!!」
「そんなに速度を出してしまっては人間は壊れてしまいます。もう少し抑えてください」
あるときは、追い掛け回しているうちに力が入ってしまい、また注意を受ける。
銀月はフランドールが仕掛けてくる攻撃を見て、その強さを見極めて能力のON/OFFを切り替える。
力が入りすぎていれば能力を使って素早く脱出し、力が適正以下であれば動きに緩急をつけて巧みに躱していく。
その結果、フランドールは銀月に全く触らせてもらえない状態が続くことになった。
そしてしばらくして、フランドールは地面に大の字に倒れた。
「……はぁ、はぁ……あ~! 手加減するの疲れたぁ!」
イライラとした大声でフランドールはそう叫んだ。
もうすっかり拗ねてしまっており、すっかりやる気を無くしてしまっている様であった。
そんなフランドールに、銀月は近づいて声をかけた。
「お嬢様、今日はここまでにしておきましょう。あまりやりすぎて練習が嫌になってはいけませんからね」
「む~……人間を捕まえるのって難しいんだね」
銀月が近づくと、フランドールはむくりと体を起こした。
その表情は難しい表情をしており、人間を捕まえることの難しさを痛感しているようであった。
「と言うよりも、今の私はかなり厳しく採点させていただいております。実際のところ、私は素の運動能力は一般の人間よりも高いと自負しておりますし、普通の人間なら昏倒する程度の攻撃も避けさせていただきました。つまり、私でなければ何人か捕獲に成功していた可能性があります」
「え、じゃあ何で捕まってくれなかったの?」
「それは、鍛えた人間であれば私と同等の運動能力を得ることも可能ですし、一般人が昏倒するような攻撃で死んでしまう人間も居るからです。一人前の吸血鬼になるには、これらの相手を全て捕まえられるようになっていて欲しいのです。ですから、今回私は逃げ切らせていただきました」
銀月は眼を閉じ、逃げ切った理由を説明した。
それを聞いて、フランドールは不服そうな表情を浮かべて唸った。
「う~……納得いかない……」
「ですが、これも一つの事実として認めていただかなければなりません」
「はあ……頑張るしかないんだね……」
「そう言うことです。さて、そろそろお部屋に戻りましょう。休める場所でお食事を取っていただいたほうが良いですからね」
銀月は乱れた服装を整えながらフランドールにそう言った。
ずれたジャケットの位置を揃え、袖の位置をきちんと合わせる。
そんな銀月の言葉に、フランドールは首をかしげた。
「え、お部屋でお食事って……」
「どの道お嬢様の分のお食事は用意されておりません。ですので、演習の成否にかかわらずお食事は私の血液となります」
「そうなんだ……」
フランドールはそう言うと、銀月をじっと眺めた。
その表情は何か言いたそうであり、視線は銀月の眼と手元に注がれている。
そんな主人の様子に、銀月はわずかに首をかしげた。
「いかが致しましたか?」
「……ううん、なんでもない。それじゃあ、戻ろう?」
「かしこまりました」
銀月は胸に手を当てて礼をすると歩き出した。
二人は揃ってフランドールの部屋へと戻っていく。
部屋に戻ると、銀月は部屋に置かれているロッキングチェアの前に立った。
「それでは、失礼致します」
銀月はそう言うと椅子に座り、着ていた赤いジャケットを脱ぎ、シャツのボタンを外して肌蹴させ、首筋をさらす。
フランドールはその銀月の膝の上に向かい合うように座り、抱き合う格好になった。
「銀月、本当に良いの?」
「はい。貧血になる程度であれば、私の体には問題はございません。危なくなってまいりましたら肩を叩きますので、吸血を止めてください」
「うん。わかった」
事務的な銀月の声に、フランドールはそう言って答えた。
彼女は銀月の首筋に顔を持ってくると、まずはその匂いを存分に吸い込んだ。
「……やっぱり、銀月って甘くて美味しそうな匂いがする」
「レミリア様もそうおっしゃってましたね」
「あ~! お姉様、先に食べちゃったの!?」
銀月の言葉を聴いて、フランドールは思わずそう叫んだ。
耳元で大声を出されて、銀月は顔をしかめる。
そしてしばらくしてから銀月はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、レミリア様は一番はお嬢様に譲るとおっしゃっていました」
「そっか……それじゃあ、私は銀月の初めての相手なんだね。私も初めてだけど」
フランドールは銀月の首に抱きつき、少し明るい声でそう呟いた。
そこには初めて人間から血を吸うことに対する緊張と、自分の執事の初めての相手が自分であるということに対する嬉しさが混ざっていた。
「はい」
それに対して、銀月は短くそう答える。
フランドールとは対照的にこちらは能面のような無表情で、何を考えているか分からない。
「それじゃあ、いただきます」
「っ……」
フランドールはそう言うと銀月の首に自らの牙を突き立てた。
皮膚が裂け、傷口から赤黒い液体が流れ出してくる。
それが唇に触れ口の中にその味が広がると、フランドールは一瞬驚いた表情を浮かべた後で取り憑かれたように銀月の血をすすり始めた。
「はぁ……んっ……ちゅっ……」
「うっ……」
一心不乱に血を吸いだそうとするフランドールに、顔をゆがめる銀月。
吸血鬼の吸血行為は、吸われるものに強い快楽をもたらすものである。
銀月はそれに意識を持っていかれないように耐えようと、歯を強く食いしばる。
「ちゅっ……ちゅっ……美味しいよ、銀月ぅ……ちゅ~……」
フランドールは夢中になって銀月の血を吸い続ける。
頬は赤く紅潮し、瞳は熱に浮かされており、その息遣いは荒い。
彼女は銀月の血の味と、初めての吸血と言う行為に酔いしれていた。
「くっ……お嬢様……」
銀月は貧血と快楽で朦朧とする意識の中で、フランドールの肩を叩いた。
「んっ……はぁ……んっ……」
しかしフランドールはどんどん吸い続ける。
吸血に酔っているフランドールは、肩を叩かれたくらいのことでは止まれなくなってしまっていたのだ。
「うぁ……くっ……!」
銀月は飛びそうな意識を舌を噛んで無理やり引き戻し、フランドールの口が息継ぎで離れたところに手を差し込んだ。
突然表れた障害物に、フランドールはぼんやりした頭で首をかしげた。
「んぁ……あれ……もうお終いなの?」
「……はい……これ以上は、倒れてしまいそうです」
銀月は青白い顔でそう答えながら、ハンカチで首から流れ出す血を押さえる。
その様子を見て、フランドールは銀月の膝の上から降りて手を差し出した。
「立てる?」
「はい……何とか……ですが、今はお嬢様のお役には立てそうもありません……」
銀月はフランドールの手を借りて立ち上がると、手を離して立つ。
しかし貧血のせいで視界が揺れており、立っているだけでもやっとの状態に陥っていた。
状態がふらついている銀月を見て、フランドールは苦笑いを浮かべた。
「……まあ仕方ないよね。貧血になるほど吸っちゃったんだし……」
「……申し訳ございません。自室で休ませていただけますか……?」
「無理しないでここで休んでもいいのよ?」
「……使用人が主人の部屋を占拠するなどあってはならないことです。自室で休む許可をください」
かなりふらふらの状態であるのもかかわらず、フランドールの申し出を断る銀月。
その言い分を聞いて、フランドールは小さくため息をついた。
「……銀月も頑固者ね。いいよ、休んでも」
「……ありがとうございます」
「でも、部屋までは送らせてね。従者の管理が出来ないご主人様じゃダメでしょ?」
「……かしこまりました」
銀月はそう言うと、壁伝いに歩き始める。
フランドールはそれを支えるように横を歩き、二人はゆっくりと長い螺旋階段を上っていく。
そして階段を上りきってすぐ横にある銀月の部屋に着くと、銀月は鍵を開けて中に入りベッドに腰を下ろした。
「……お送りいただきありがとうございます。何か御用があれば申し付けください」
「そんなことより、今は自分の体調管理が先よ。何かあって倒れたりしてご主人様の手を煩わせる気?」
「……お気遣い、感謝いたします」
銀月はそう言うとベッドに横になった。
しかし、フランドールはじっと銀月を見つめたまま動く気配が無い。
それを不審に思い、銀月は声をかけた。
「……お嬢様? どうかなさいましたか?」
「ねえ、私も一緒に寝ても良い?」
「なっ……いけません、お嬢様。従者と主人であることは元より……」
突然の申し立てを受けて、銀月は思わず眼を丸くした。
フランドールはそれに構わず銀月が横たわるベッドに腰掛ける。
「私は銀月に命を預けてるのよ? 添い寝くらいなんてことないでしょ?」
「そう言う問題ではございません。信頼関係も重要ですが、品格と言うものも大切にしなくてはなりません。女性がみだりに男性と同衾するということは承諾いたしかねます」
「私は貴方が無理をしないように見張らなければならないわ。貴方はよく無理をすると貴方のお父様から聞いているし」
「ならば、横に座って監視をすれば済むことです」
「私は横になりたいの」
「ならば、私はソファーに移りましょう」
「ダメよ、貴方はちゃんとしたベッドで横になってしっかり休まなきゃ」
「ならば……」
「銀月。貴方はこのベッドで休み、私はその横で一緒に寝て貴方を監視する。これは決定事項で、貴方に拒否権はないわ」
反論を続けようとする銀月に、フランドールは少し語気を強めてそう告げた。
あまりに強引なその物言いに、銀月は訳が分からず問いかけた。
「……失礼ですが、お嬢様は何故そうまでなさるのですか?」
「だって、銀月はたぶん私を信用してくれてないもの」
フランドールは少し寂しそうに銀月の問いに答える。
それを聞いて、銀月はしばらく黙り込んだ。
「……何故そう思われるのですか?」
「ジャケットの内ポケットと袖口。自分で気づいてないのかもしれないけど、銀月はいつもそこを気にしてるわ。そこにあるんでしょ? 銀のタロット」
「……」
フランドールの指摘に、銀月は沈黙した。
礼をする際に胸に当てる手、ぴったりと体の横につける手。身だしなみを整える際に袖を直す手。
それは確かに、銀月が銀のタロットの所在を確認するための行為であった。
「いつ襲われるか気にしてる人が私を信用してる訳ないよね? ねえ、そんなに私が怖い?」
フランドールはそう言いながらベッドから立ち上がる。
その問いかけに、銀月は小さく息を吐いて答えた。
「……別に怖いというわけではございません」
「そう……それっ!」
「っ!?」
突然飛び掛ってきたフランドールを、銀月は横に転がって避ける。
フランドールの体はベッドに沈み、中のばねで数回弾む。
そして、銀月の方を向いて悲しげな表情を浮かべた。
「……ねえ、何で貴方の手には銀のタロットが握られてるの?」
「…………」
銀月は答えない。
その手には、フランドールの言うとおりに銀のタロットが握られていた。
「突然飛び掛られて避けるのはまだ分かるわ。けど、貴方は私と殺しあうつもりでいたの? 家族や友達だって抱きつくことはあるんでしょう? ご主人様が従者に抱きつくことがあっても良いでしょ?」
「っ……」
フランドールの問いかけに、銀月は気まずそうに眼をそらした。
彼女の言葉に、銀月は一切反論できない。
「やっぱり、銀月は私を怖がってるよ。でも、仕方ないよね。だって、一度私に殺されてるんだもの」
フランドールは自嘲気味にそう言って笑う。
彼女の言うとおり、銀月はフランドールに一度殺されたという事実を知っている。
そのせいで、銀月はフランドールに自分の死を重ねてしまうのだ。
無機質で機械的な銀月の受け答えは、その恐怖を押し殺したためのものであった。
それを指摘されて、銀月は苦い表情を浮かべた。
「……では、どうなさると言うのですか?」
「こうするの」
「うっ……?」
フランドールの紅い瞳が眼をのぞきこんだ瞬間、銀月は強烈な眠気に襲われて意識を手放した。
「……うっ……うん……? 俺は確か……ん?」
しばらくして、銀月は眼を覚ました。
そしてすぐに、左腕に掛かる重みに気がついてそちらに眼を移す。
「すぅ……すぅ……」
するとそこには、銀月の腕を枕にして気持ちよさそうに寝息を立てるフランドールの姿があった。
自分に抱きつくような体勢で眠っている彼女を見て、銀月は困った表情を浮かべた。
「……お嬢様……幾らなんでも強引過ぎませんか? 行動の意図は何となく分かりますが……」
銀月はそう言いながら隣で寝ている主人の行動の意図を考える。
銀月が考える意図は、無防備になっている自分の隣で寝ることによって、自分が危害を加える存在ではないということを示そうとしたというものである。
そのために催眠術まで使ったのは、そうでもしないと自分が拒み続けると思ったからであろう。
そんな少し強引なフランドールの行動に呆れるやら感心するやらしながら、銀月は空いている右手で頬をかく。
「……困りましたね……起こすわけには参りませんし……」
銀月はそう言いながら、隣で無防備な姿を晒しているフランドールを見る。
生憎と自分はこの後の業務から外されており、フランドールもこの後の予定は無い。
お互いに何の予定も無いのに、隣で気持ちよさそうに寝ている主人を起こすことは執事の立場としてためらわれた。
「んっ……」
フランドールは銀月の服を軽く握っている。
長い間閉じ込められていた彼女にとって、銀月は執事であると同時に最も身近で新しい、数少ない知り合いである。
そのため友達付き合いの経験の乏しい彼女は、どう接するべきか分からないなりに銀月との関係を修復しようと努力しているのだ。
一番最初の出会いが特に友好的なものであったため、なおさら諦められないのである。
「はぁ……仕方ありませんね。仕事もないことですし、寝るとしましょう」
銀月は一人そうごちると、全身の力を抜いた。
眼を閉じてまどろむ瞬間、ふと銀月はハッとした表情で眼を開いた。
「……はて、何か忘れているような……気のせいでしょうか」
銀月はそう言いながら忘れている何かを思い出そうとする。
そこに、部屋に置かれたアンティークの柱時計が鐘を鳴らす。
そちらに眼をやると、時計の針は夜の十一時を指していた。
「……あ゛」
それを見て、銀月は自分が忘れていたことを思い出した。
慌てて起きた銀月が最初に見たものは、荒らされた館内とボロボロになって涙眼でいじけているレミリアの姿だった。
恨めしげに睨み付ける彼女の話によれば、襲撃者は紅白の巫女と宵闇の妖怪のタッグだったそうな。