夏の暑い日ざしが降り注ぐ中、永遠亭の庭には不自然な光景が広がっていた。
まだ夏だと言うのに、庭に植えられた大きな柿の樹には熟れた果実がたわわに実っているのだ。
その樹の下に、小豆色の胴衣と紺色の袴を着けた銀髪の青年が銀の槍を持って座っていた。
「……せっ!」
将志は座したまま眼を閉じ、肘打ちで樹を揺らす。
妖怪の強烈な力で揺らされた樹は、つけた果実を地面に落とし始めた。
「……はあっ」
将志は眼を閉じたまま、落ちてくる柿の実に槍を放つ。
放たれた突きは目標を捉えたり捉えなかったりで、安定していない。
「……ぐっ!?」
そんな中、柿の実の一つが将志の頭を直撃した。
衝撃を受け、将志は地に伏せる。
「あ、また倒れた」
その様子を永遠亭の住人が眺めていた。
輝夜は地面に倒れた将志を見て、暢気な声でそう呟く。
その横では、永琳が少し痛ましいものを見る眼で将志を見ていた。
「将志……そんなに自分を追い込まなくても……」
「くっ……そういう訳にはいかん。次もまたあのような失態を犯して、主を傷つけでもしたら俺は死んでも死に切れん」
将志は兎に水を掛けられて眼を覚ますと、そう言いながら柿の樹に注射器を刺す。
薬剤が注入されると、柿の樹には再びたわわに実がなった。
「だからって、またこんな自分を痛めつけるようなことを……」
永琳は心配そうにそういう。
修行自体はそれほど厳しいものには見えないが、将志はこの時点で既に四十八時間ぶっ続けで修行に励んでいるのだ。
そんな永琳の言葉に、将志は首を横に振った。
「……修行というものは大体が厳しいものだ。この程度の修行など、温い部類に入るだろう。それよりも、俺は一刻も早く自らの弱点を克服しなければならないのだ」
「やめなさい。いくらあなたが妖怪だからといって、疲れを知らないわけではないでしょう? 私達の身に何かあったとき、あなたが疲れのせいで失態を起こしたらどうするつもりかしら?」
「……くっ……確かにその通りだ」
永琳の言葉を聞いて、将志は苦々しい表情でそう呟いた。
その様子を見て、永琳は深々とため息をついた。
「はあ……将志も銀月のことをとやかく言えないわね。あなたも十分無茶をしているわよ」
「……返す言葉もないな。だが、一刻も早く危険の芽を摘まなければならんのも事実。難しいものだ」
「ねえ、そういえば将志って『悪意を感じ取る程度の能力』を手に入れるのにどれくらい時間をかけたの?」
永琳と将志が話をしている間に、輝夜がそう言って割ってはいる。
それを受けて、将志は顎に手を当てて考え込んだ。
「……大昔のことで良くは覚えていないが……ただひたすらに修行を積んで何十年か、何百年か……」
「それじゃあ、また何百年も掛けて修行するつもりなの?」
「……いや、これは感覚的なものなのだが……その時よりは早く糸口が見つかりそうだ。何しろ、掴むべきものは分かっているのだからな」
「掴むべきものって何よ?」
「……動くものには全て気配がある。それは空気の流れや音、温度等、様々な感覚で知ることが出来る。つまり、それを全て感じ取ることが出来れば対応することも出来るだろう」
将志は輝夜に自分の考えを説明する。
すると、輝夜は呆れ果てたと言った表情を浮かべた。
「また滅茶苦茶なことを……」
「姫様、こいつは罠に残された悪意を感じとる化け物よ。むしろそれが出来るのに今まで気配を感じられなかった事の方が不思議よ」
「……そう言われてみれば、確かにそうね」
誰か居るという程度の気配を感じることならば、誰でも経験したことがあるかもしれない。
しかし、仕掛けられた罠に籠もった思念を読み取ることは、どう考えても気配を読むより難しい。
てゐの意見を聞いて、輝夜は納得したように頷いた。
その横で、鈴仙が口を開いた。
「それにしても、将志さんって本当に努力の人だったんですね……」
「将志は結構完璧主義だからね。初めの頃なんて、自分の出せる最高のお茶が出せなかったからって捨てようとするほどだったわよ」
「自分に厳しい人なんですね……」
将志のエピソードを聴いて、鈴仙は興味深そうに将志を見やる。
それを受けて、将志は小さくため息をついた。
「……それは主のためと言うのもあったからな。やはり主には自分の出せる最高のものを出したいものだ」
「そう思ってくれるのは嬉しいけど、私はあなたの弱いところも見ていたいものなのよ?」
「……そこは男としての意地だ、察してくれ……」
永琳の言葉に、将志は呟くようにそう言った。
それを聞いて、永琳は笑みを浮かべながら将志に抱きついた。
「ふふふ……そういうところは可愛いわね」
「……やめてくれ、そう言われるのは慣れていないのだ……」
将志はそう言いながら、永琳から眼を逸らす。
顔には赤みが差しており、気恥ずかしそうな表情を浮かべていた。
そんな将志を見て、永琳はその頬を愛しげに撫でる。
「……やっぱり、可愛いわ」
「……くっ……」
永琳の言動に、将志は完全に沈黙した。
永琳は将志に抱きついたまま、照れる将志を笑顔で見つめている。
「銀月ーーーー!! ちょっとこーーーーーい!!」
「このバカップルの片割れ引き取れーーーーー!!」
二人の世界を構築する将志と永琳に、輝夜とてゐが空に向けて大声で叫んだ。
甘ったるい空気に耐えられず、もうやってられないと言った表情である。
そんな二人を見て、鈴仙が乾いた笑みを浮かべた。
「あはははは……銀月くんのコーヒー飲みたいな……」
「はいどうぞ」
「きゃあ!?」
突如として後ろから掛けられた涼やかな少年の声に、鈴仙は驚き飛びのいた。
その声のほうを振り返ると、そこにはコーヒーを持った白装束の少年が立っていた。
「おや、驚かせてしまったかな?」
「ぎ、銀月くん、何でここに居るの!?」
「何でも何も、父さんの様子を見に来たんだけど?」
「それじゃ、このコーヒーは?」
「毎度毎度来るたびに淹れてるから、どうせどこかでいるだろうと思って淹れておいたんだ」
「そ、そうなんだ……」
鈴仙の問いかけに、銀月は答えていく。
すると、銀月のことに気がついて輝夜とてゐがやってきた。
「あ、銀月。私にもコーヒーちょうだい。ブラックで」
「私ももらうわよ。当然ブラックでね」
「はいはい」
銀月は輝夜とてゐの注文を受けてコーヒーを取りにいく。
「はいどうぞ」
「「ごくごくごく……ぷは~っ!!」」
コーヒーを差し出すと、輝夜とてゐはそれを腰に手を当てて豪快に飲み干した。
どうやら将志と永琳の醸し出す甘ったるい空気に耐え切れなかったようである。
その様子を、銀月は唖然とした表情で見つめる。
「……えっと……お替り、いる?」
「いただくわ」
「私ももらうわ」
二人の注文を受けて、銀月はコーヒーを再び取りにいく。
銀月が再びコーヒーを持っていくと、今度は落ち着いて飲み始めた。
「そういえば銀月、あんたこの前の異変の解決に関わったんだって?」
コーヒーを飲みながら、輝夜が銀月に問いかける。
それを聞いて、銀月が答えた。
「ん~まあ成り行きでね。で、どこまで聞いてるのさ?」
「将志の口から大体聞いてるわよ。博麗の巫女と一緒に異変を解決したってこと」
「俺がしたのは道中の手伝いだけさ。最後は全部霊夢がやったよ」
「霊夢って、博麗の巫女さんのこと?」
霊夢の名前を聞いて、今度は鈴仙が質問をする。
銀月はそれを聞いてキョトンとした表情を浮かべる。
「ん、そうだけど……って、そうか。よく考えたら霊夢の名前を出すのは初めてだったね」
「どんな関係なの?」
「どんな関係って……試食係と料理人?」
投げかけられる質問に、銀月はおどけた様子でそう答える。
それを聞いて、質問の主である鈴仙は首を傾げた。
「あれ? 一緒に異変を解決するくらいなのに、そんな関係なの?」
そう話す鈴仙の表情は、どこか拍子抜けしたと言った表情であった。
そんな鈴仙を見て、銀月は笑い声を上げた。
「ははは、冗談だよ。そんな関係でもあるけど、れっきとした友人だよ。付き合った時間は一番長いんじゃないかな?」
「……それにしても、あの付き合い方はどうかとも思うがな」
銀月が話していると、その後ろからやや低めのテノールの声が聞こえてきた。
その声に反応して、銀月は振り返った。
「あ、父さん」
「あの付き合い方って、なんですか?」
「……はっきり言って、見た目は友人関係と言うよりは主従関係だ。それも、かなり一方的なものだ」
「酷いんですか?」
「……割とな。この間の宴会の時など、いつの間にか手伝いをさせられていたな」
鈴仙の質問に将志は額を手で押さえながら答えていく。
その様子から、銀月の今の状況をよく思っていないことが良く分かった。
それを受けて、鈴仙も心配そうな視線を銀月に送った。
「え~……駄目だよ、銀月くん。嫌なときは嫌って言わないと……」
「それが別にそうでもないからなぁ……むしろやる事が無い方が落ち着かないって言うか……」
鈴仙の言葉に、銀月はそう言いながら頬を掻いた。
その言葉に、将志は深々とため息をついた。
「……ワーカーホリックか……」
「そうね。将志と同じ病気ね」
将志の呟きに、永琳がその隣でそう返した。
それを聞いて、将志は心外そうに永琳を見た。
「……そうか? 俺はそんなことは無いと思うのだが……」
「ワーカーホリックの患者は大体そういうものよ。自分がそうだと思っていないから、余計に悪化していくのよ」
「……とは言え、俺は一時期に比べればだいぶ改善したと思うのだが……」
「まだまだ、私からすれば働きすぎよ。もう少しこまめにここに来るくらいの時間があって良いと思うわ」
永琳はそう言いながら将志に少しずつ寄っていく。
その言葉を聞いて、将志は小さくため息をついた。
「……そこまで来ると、もはや主が俺に会いたいだけだと疑いたくなるぞ?」
「仕方ないわ。だって私はそう言っているんだもの」
永琳はそう言うと、将志の胸にしなだれかかった。
「……やれやれ。他ならぬ主のためなら、もう少し努力をしてみようか」
それに対して、将志は微笑を浮かべながら永琳を抱きしめるのだった。
「銀月、あんたの父さん何とかしてよ」
「隙あらば惚気るから、私達の胃がストレスで大変なのよ」
「流石に私もここまで来るとちょっと……」
再び二人の世界に突入した将志と永琳に、輝夜とてゐと鈴仙の三人はうんざりした表情で銀月に詰め寄った。
「ここで俺に言われても困るんだけど……」
そんな三人に、銀月は乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
要するに、全員が匙を投げたのである。
その現状を受けて、鈴仙がため息をついた。
「まあ、あの二人は放っておきましょう。それよりも銀月くん、そのままいくと気がついたら大変なことになってるかも知れないよ。何とかしないと……」
「……鈴仙、あんたやけに銀月に構うじゃない。どうかしたの?」
銀月に説教をする鈴仙に、てゐが横からにやにやと笑いながらそう話しかけた。
「え?」
その言葉に、鈴仙はキョトンとした表情を浮かべた。
そんな鈴仙を尻目に、輝夜もにやにやと笑いながらてゐに話しかけた。
「てゐ。もうすぐ逆光源氏計画が成功するって時に、横から掠め取ろうとする泥棒猫が出てきたらどうする?」
「あ~、そういうこと。焦っちゃダメよ、鈴仙。そこは手堅くいって……」
輝夜の言葉を聞いて、てゐはわざとらしく大げさに納得した仕草をして鈴仙にアドバイスを始めた。
もちろん、二人ともにやけた表情のままである。
そんな二人の反応に、鈴仙の顔が爆発したかのように一気に赤くなった。
「な、何言ってるのよ、てゐ! 姫様も、そういうわけじゃありませんから!!」
「え……そうなのかい?」
鈴仙が必死になって否定すると、横から悲しげな声が聞こえてきた。
「え?」
それを聞いて、鈴仙はその方向を見る。
するとそこには、悲しげに俯く銀月の姿があった。
「……酷いや……俺の……僕の心に入り込んでおいて……」
銀月は泣き出しそうなのをこらえる声でそう言った。
俯いた彼の表情は見えないが、涙の雫を白い袴に零している。
「あ、え、銀月くん?」
その銀月の反応に、鈴仙はあたふたとし始める。
頭の中は真っ白になり、どうすれば良いのか分からなくなる。
そんな中、銀月は涙を袖で拭い顔を上げた。
「この際だから言うよ……鈴仙さん、ううん、鈴仙……僕は、君が好きだ……」
銀月は茶色い瞳で鈴仙の赤い瞳を見つめながら、真剣な表情でそう言った。
その言葉は、胸に深く突き刺さるような、強い感情が込められた言葉であった。
銀月は鈴仙にゆっくりと顔を近づけていく。
「あ……」
鈴仙はとっさに眼を閉じた。
鈴仙の鼓動は激しくなり、胸を強く叩いている。
段々と近づいていく両者の唇。
「えいっ」
それが触れ合う瞬間、銀月は鈴仙の口に角砂糖を押し込んだ。
「……あれ?」
口の中にざらりとした感触と共に甘みが広がった瞬間、鈴仙は呆然とした表情でそう呟いた。
「あはは、びっくりした? ちょっと演技してみたんだけど」
「え……え?」
目の前にいるのは、先程の真剣な表情とは打って変わって悪戯が成功した子供の様な笑顔を浮かべる銀月。
そのあまりの変化に、鈴仙は思わず辺りを見回した。
すると、輝夜とてゐもぽかーんと口を開けたまま固まっているのが見えた。
「……ちょっと銀月。びっくりしたのはこっちよ。一瞬本気で成功してたのかと思ったわよ」
「ホントよ。いきなり心臓に悪いわ」
我に返った輝夜とてゐは、銀月に抗議の視線を送る。
それに対して、銀月は楽しそうに笑った。
「そう思わせられたのなら俺の勝ちだよ。俺の演技を見抜けなかったってことなんだから」
「あんた、将来役者になりなさい。受けるだろうから」
「それはどうも」
騙されて面白くなさそうなてゐの皮肉に、銀月は嬉しそうにそう言って返した。
銀月は実際に役者になるつもりなのだから、全く皮肉になっていない。
そうとは知らず、てゐは悔しげに小さく鼻を鳴らした。
「それにしても……キスされそうになったのに抵抗しなかったわね、あんた」
「そうよね~……案外本当にまんざらでもなかったりして」
二人は話の矛先を変え、再びにやけた表情で鈴仙を見やった。
その瞬間、鈴仙はビクッと肩を震わせた。
「え、あ、その……これはですね?」
鈴仙はしどろもどろになりながら、助けを求めるように銀月を見た。
すると銀月はにっこり笑って、
「ふふふ……可愛かったよ、鈴仙さんのキス顔」
と、のたまった。
「は、はうう~……」
それを聞いて、鈴仙は顔から火を噴いて小さくなった。
そんな鈴仙を見て、将志が銀月に声を掛けた。
「……銀月、少々悪ふざけが過ぎるのではないか?」
「そうかな? 俺、確かに演技はしたけど、嘘は一つも言っていないよ。俺の心の中に鈴仙さんがいるのは確かだし、鈴仙さんのことは好きだよ」
将志の質問に、銀月はそう言って答える。
その言葉に嘘は無い様で、将志の眼をしっかりと見て答えていた。
それを聞いて、鈴仙が顔を上げた。
「ほ、本当に?」
「ああ。本当だよ」
「そ、そうなんだ……」
銀月の回答を聞いて、鈴仙は照れくさそうに笑いながらそう呟いた。
そんな鈴仙の肩を、永琳がにこやかな笑みを浮かべて叩いた。
「良かったわね、うどんげ。可能性はあるわよ?」
「イナバ、医務室なら空いてるわよ」
「二人っきりにしてあげるから、一気に畳み掛けちゃいなさいよ」
女性陣は笑みを浮かべて鈴仙に口々にそう言った。
どうやら、からかいの矛先が完全に鈴仙に向いているようである。
「うう……みんなして酷い……」
そんな周囲の反応に、鈴仙はしゃがみこんで床にのの字を書き始めた。
「あ、いじけた」
「ほら銀月、慰めてあげなさいよ」
「からかってごめんね、鈴仙さん。お詫びに何か一つ、言うことを聞くよ。何かして欲しいことはあるかな?」
銀月がそう言って声をかけると、鈴仙は動きを止めてしばらく考える仕草をした。
そして、俯いたまま願いを口にした。
「……それじゃあ、キスしてください」
「「「「……え?」」」」
鈴仙の願いを聞いて、一同は間の抜けた声を上げる。
彼らにとって、この鈴仙の願いは完全に想定外であったようだ。
一方、銀月は少し考える動作をした。
「……うん、わかった」
「「「「……ええっ!?」」」」
鈴仙の願いに頷いた銀月に、一同は驚きの声を上げる。
そして彼らが立ち直る前に、銀月は鈴仙を抱き寄せた。
「……っ!?」
鈴仙が一瞬驚きの表情を浮かべると同時に、銀月の唇が触れる。
唇が離れると、銀月は鈴仙に微笑みかけた。
「……これで良いかな?」
「あ……」
銀月が問いかけるも、鈴仙は放心状態で動かない。
「「「「……」」」」
銀月が周りを見回すと、見ていた観衆も完全に固まっていた。
それを見て、銀月はポリポリと頭を掻いた。
「う~ん、ちょっとやりすぎたかな? みんな固まっちゃってるや。鈴仙さん、大丈夫?」
銀月は鈴仙にそう話しかけながら肩を叩く。
すると、鈴仙の顔が一瞬で朱に染まった。
「は、はわわわわ、い、今、銀月くん私にキスを……」
「うん、したよ。口のすぐ横辺りに。安心して、唇には触れてないから」
慌てふためく鈴仙に、銀月は笑顔でそう語りかける。
それを聞いて、鈴仙は両手で顔を覆った。
「はうう……そうじゃないよ……私は銀月くんをびっくりさせるつもりだったのに……これじゃ逆だよ~……」
「『唇にキスして』って言われたら困っただろうね。でも、キスするだけなら手の甲でも頬でも良いだろ?」
銀月はしたり顔で鈴仙にそう言い放つ。
そんな銀月に、輝夜が質問をぶつける。
「……ちょっと銀月、あんた随分手馴れてるわね。何でそんなに慣れてるわけ?」
「知り合いにちょっとした課題を出されててね。それをこなしているうちに自然と」
知り合いのちょっとした課題とは、もちろん紫の男性に対する苦手意識を克服する手伝いのことである。
日頃からそれをしている銀月にとって、この程度のことならば楽なものなのであった。
「つまり、その歳にして百戦錬磨ってこと……銀月……恐ろしい子!!」
それを知って、てゐが驚きの声を上げた。
夜も更けて全員が寝静まった頃、永遠亭の庭では槍が風を切る音が響いていた。
青白い月に照らされ、槍が銀の軌跡を夜の闇に描いていく。
「…………」
将志は無心で槍を振るい、流れるような動作で舞い踊る。
長い年月をかけて洗練されたその舞は、月明かりを受けてより一層幻想的に映る。
「……ふっ」
将志は最後に残心を取ると、槍を収めた。
ふと縁側を見てみると、そこには己が主の姿があった。
どうやら、ずっと将志の鍛錬の様子を見ていたようである。
「お疲れ様。また修行をしてたのね」
「……ああ。あの修行ばかりをして、基本を忘れてはいけないからな。その確認をしていたのだ」
将志はそう言いながら永琳の隣に腰を下ろす。
すると永琳は将志との間にあった僅かな隙間を詰めて密着した。
「それにしても、久しぶりにあなたがこんなに修行するのを見たわ」
「……そうだな……主の前でこんなに修行をするのは何時ぶりか……」
将志がそう呟くと、永琳はため息をついた。
そして将志の頬を両手で掴み、自分の方に向けた。
「……あなた、いつも忘れるわね。私から呼んであげないと分からないかしら、鏡月?」
「……む、すまない。いつもの癖でな……これでいいか、××」
不機嫌そうな顔で自分の本来の名前を呼ぶ永琳に、将志は永琳の本名を呼ぶことで返した。
すると、永琳は満足そうに笑って頷いた。
「宜しい。それで、修行の成果は出そうかしら?」
「……大体は掴めた。だが、どうにも何かが足らん気がしてならん。一体何が足りないのやら……」
将志はそう言いながら考え込む。
修行の成果は着実に出始めている。しかし、自分が望むような完璧な形にはまだ何かが足りない。
将志のその考えを聞いて、永琳は頷いた。
「そう……そういう時の鏡月の勘はすごいものね。それなら、確かに何かが足りないんでしょうね」
「……だが、その何かが分からないのではな……」
「焦っちゃだめよ。もう少し落ち着いて周りを見なさい。そうすれば、意外なところからアプローチ出来ることがあるわよ?」
思い悩む将志に、永琳はそう言った。
それを聞いて、将志は再び考え込んだ。
「……ふむ、それも一理あるな。となると、俺はどこに手がかりを見つければいいのか……」
「そう考えるからいけないのよ。そうじゃなくて、何気なく周りを見回して、これは使えそうだなって思ったら試してみるくらいの気持ちでいた方が案外上手くいくものよ」
「……そういうものか?」
「そういうものよ」
将志の問いかけに、永琳はそう答える。
それを聞くと、将志は深々とため息をついた。
「……全く、我ながら難儀な身体を持ったものだ。これほどの身体能力を与えるのであれば、もう少し身体を頑強にしても良かっただろうに」
「本当にね。お陰であなたが捕らえられる事態になってしまったものね……」
永琳はそう言うと将志の膝に乗り、首に抱きついた。
突然の行為に、将志は困惑する。
「……××?」
「……これほど悔しい思いをしたのは初めてよ。大切な人が危機に陥っていたのに、私はそれに気付けもしなかった。後で知って、事後報告を受けるだけだった……」
永琳は抱きしめる力を強め、震える声で将志にそう言った。
その声色には将志の危機に何も出来なかった悔しさと、どうすることも出来ないもどかしさが滲んでいた。
「……しかし、それは××の立場や状況からでは仕方が無いのでは……」
「仕方が無いで済ませられるわけ無いじゃない!! 何も出来ないであなたを失ったら、私はどうすれば良いのよ!! 悔やんだってあなたは帰ってこないし、後を追うことも出来ないのよ!?」
将志の言葉に、永琳は激情に駆られるままそう叫んだ。
将志の首筋に、熱い雫が落ちる。永琳の声には嗚咽が混じっていて、泣きじゃくりながら捲くし立てる。
その言葉は、将志の胸に深々と突き刺さった。
「……すまない……」
将志は絞り出すような声で、永琳にそう言った。
許しを請う将志の言葉を聞いて、永琳は涙を拭った。
「っ……ごめんなさい、少し熱くなりすぎたわ……しばらくこうさせてちょうだい」
永琳は将志を抱きしめたまま、軽く深呼吸をしながらそう言った。
それに対して、将志はそっと抱き返しながら答える。
「……××が望むだけそうすれば良いさ」
「ありがとう……」
そうして、二人はしばらく抱き合ったままで時間を過ごした。
月は天蓋の頂上に昇り、夜風が二人を優しく撫ぜる。
そうしているうちに永琳の呼吸が落ち着いたものになり、将志を抱く腕も力強いものから優しいものへと変わっていった。
「……落ち着いたか?」
「ええ……でも、もう少し……」
永琳はそう言うと、再び将志を抱く腕に力を込める。
それは、将志から離れたくないと言う意思の現れであった。
それを受けて、将志は苦笑いを浮かべながら優しく頭を撫でた。
「……あまり遅くなると明日に響くぞ?」
「響いても構わないわ。それよりも、私はあなたとこうしていたい」
「……そうは言うが……夏とは言え、夜風に当たると冷えるぞ? 不老不死とはいえ、夏風邪を引かん訳ではあるまい」
「風邪を引いたら、鏡月が看病してくれるでしょう?」
永琳はそう言うと、将志の顔を覗き込んだ。
一方の将志は何とか説得の言葉を探そうとするが、やがて苦笑と共に首を横に振った。
「……否定出来る要素が皆無だな……」
「だったら風邪を引いても構わないわ。むしろ風邪を引きたいくらいね」
「……こちらとしては心配を掛けさせるのは勘弁して欲しいが……」
「それでも、あなたと過ごす時間には代えられないわ。鏡月には悪いけどね」
頭を掻きながら話す将志に、永琳はそう言いながら笑いかける。
それを聞いて、将志は額に手を当てた。
「……存外に我侭だな、××は」
「あら、こんなこと言うのはあなただけよ? あなたが私を我侭にさせてるのだから」
「……やれやれ、喜んでいいのやら悪いのやrんっ」
唐突に、永琳が困ったように笑う将志の唇を奪う。
永琳は吸い付くように将志の唇を味わい、唇を離す。
「ちゅ……ねえ、鏡月……私の我侭、聞いてくれる?」
永琳は甘えるような上目遣いの視線で将志を見ながらそう問いかける。
それに対して、将志は小さくため息をついた。
「……俺で出来ることであれば応えよう」
「あなたの腕の中で眠りたいのよ」
「……それは構わんが……突然どうした?」
「私ね、凄く羨ましく思ってる相手がいるのよ」
永琳がそう言うと、将志は軽く首を傾げた。
そしてしばらくして、思い当たることがあったのか軽く頷いた。
「……成程、アグナのことか」
「ええ……鏡月と蕩けるようなキスをして、寝るときになればあなたの腕の中で眠る。あの子に出来て、私が出来ないなんて不公平よ」
「……それはそうだが……見つかると面倒ではないのか?」
「それならそれで構わないわ。見つかったらいっそ見せ付けてやるわよ」
永琳はそう言うと、将志を抱く腕に力を込める。
どうやら、首を縦に振るまで離れるつもりは無いらしい。
それを理解した将志は、ため息と共に笑みを浮かべた。
「……分かった。ならばその願いを聞こう」
「決まりね。それじゃあ、早速寝室に行きましょう」
「……む、俺はもうしばらく修行をしてから……」
「駄目よ。鏡月は一度修行を始めたらなかなか帰ってこないもの。それに、日中に散々修行をしたじゃない。今日はもう休まないと駄目ね」
永琳はそう言いながら、槍を手に取ろうとする将志の手を握る。
将志はその手を軽く握ったり放したりすると、力なく首を横に振った。
「……やれやれ、銀月もこんな気持ちなのだろうな……」
「似たもの親子ね。二人揃って修行中毒になってるし」
「……流石にああまで酷くはないとは思うがな」
「ふふっ、それはどうかしらね?」
頭を掻く将志に、永琳はそう言って笑う。
将志は楽しそうに笑う永琳を抱き上げると、彼女の部屋へと向かった。
部屋に着くと、将志は永琳を降ろした。
「……さて、俺はどうすれば良い……っ!?」
そう言った瞬間、将志は慌てて後ろを向いた。
「ふふっ、どうしたのかしら?」
そんな将志を見て、永琳は楽しそうに笑みを浮かべる。
「……どうしたもこうしたも、目の前でいきなり着替え始めるのはいかがなものかと思うが?」
将志は永琳に背を向けたまま、ため息をつきながらそう言った。
それを聞いて、永琳は服を脱ぎながら話を続ける。
「あら、別に鏡月になら見られても構わないわよ? 私だって、あなたの裸を何度も見てるじゃない」
「……あれは診察だろう。それに男は別に見られようともそこまで気にすることはないが、女子はそうも行くまい」
布が擦れる音が聞こえてくる中、二人は話を続ける。
背を向けたままの将志に、永琳は生暖かい視線を送り続けている。
「……それだけかしら?」
「……他に何があると言いたいのだ?」
「いいえ? 鏡月のことだから気恥ずかしくて見られないとかそんなことだろうとは思ってないわよ?」
永琳は楽しそうな声で将志にそう言った。
将志はその言葉に、頭を抱えて深々とため息をついた。
「……分かっているなら早くしてくれ」
「もう終わってるわよ」
「……そうか……っ!?」
将志は振り向いて、即座に180度方向転換をした。
「お、終わっていないではないか……」
「うふふ、引っかかったわね」
焦りが滲み出る将志の言葉に、永琳が笑みを浮かべてそう応える。
永琳の服装は下着姿であり、とても扇情的な姿であった。
将志は再び大きくため息をついて永琳に話をする。
「……悪ふざけをしていないで早くしてくれ」
「私の下着の色は何だったかしら?」
「知るかっ!!」
悪戯っぽく笑いながら背中にしなだれかかってくる永琳に、将志は思わずそう叫んだ。
将志の顔は真っ赤であり、声にも全く余裕が無い。
そんな将志に永琳はくすくすと笑う。
「くすくす、幾らなんでも初心すぎないかしら? 私も男性経験は鏡月だけだけど、流石にそこまでは無いわよ?」
「……頼むから早く服を着てくれ」
「はいはい」
永琳がそう言うと、再び布が擦れる音が聞こえてくる。
しばらくすると、その音が止んだ。
「はい、今度こそ終わったわよ」
「……本当だな?」
将志は振り返ることなく、念を押すようにそう問いかける。
そんな将志の様子に、永琳は苦笑した。
「そんなに疑心暗鬼にならなくても良いじゃないの。私が信用できないのかしら?」
「……む」
将志はそう言うと、恐る恐ると言った様子でゆっくり振り返った。
そしてネグリジェ姿の永琳を見て、将志はホッと胸を撫で下ろした。
「……今度は本当に終わっているようだな。それで、俺はどうすれば良い?」
「先に寝てちょうだい。私はその後で入るから」
「……了解した」
永琳に促されて、将志は寝台に横になる。
それに続いて永琳が布団の中に入る。
寝台は一人用なので、かなり詰めて入らなければ二人一緒には眠れない。
よって、永琳と将志の体は密着した状態で眠ることになるのだった。
「それじゃ、身体ごとこっちを向いてくれるかしら?」
「……ああ」
将志はそう言うと身体を横向きし、永琳と向かいあう形を取る。
右腕で永琳の身体を軽く抱くと、将志は永琳に話しかけた。
「……さて、具合はどうだ?」
「とても暖かいわ……それに、何だか安心するわ」
永琳は若干夢見心地で将志にそう答える。
どうやら将志の添い寝はお眼鏡に適ったようである。
それを聞いて、将志は安心したように息を吐いた。
「……そうか、それは良かった」
「……いよいよ持ってアグナが羨ましいわ。アグナは毎日これをしているんでしょう?」
「……まあ、そうだな。大体は俺のところに来るな」
「そう……なら、こっちにいる間は私がこうさせてもらうわ」
「……好きにするといい」
「そうさせてもらうわ……んちゅ……」
永琳はおもむろに将志の唇に吸い付く。
将志は抵抗せず、永琳のしたいようにさせる。
しばらくすると永琳は将志から唇を離し、首に手を回した。
「……今度はどうしたのだ?」
「前に言ったはずよ、私はあなたに関することの全てで一番になりたいって。キスの回数は大きく遅れを取っているのだから、それを取り戻さないとね。それに……んっ」
永琳はそう言うと再び将志の唇に口をつける。
今度は唇を押し付けながら舌で将志の唇をなぞっていく。
それはまるで将志の唇をじっくりを味わっているかの様であった。
しばらくして永琳は口を離すと、将志に微笑みかけた。
「……こんなに美味しそうなものが目の前にあるのに、放っておくわけないでしょう?」
熱に浮かされたような眼で永琳は将志を見やる。
その眼を見て、将志は薄く笑みを浮かべた。
「……その言い方では、俺が食われてしまいそうだな」
「そうね……でも、食べてしまいたい……ちゅっ……」
永琳はそう言うと、将志を押し倒すようにして上に乗って唇を奪った。
将志は再び永琳のしたいようにさせる。
「んちゅ……ちゅ……んむっ……」
永琳は一心不乱に将志の唇を求める。
それはアグナのように快楽をむさぼるものではなく、ただひたすらに将志とのふれあいを求める優しいものであった。
「……やれやれ、これではお互いに眠れそうに無いな」
しばらくすると、将志はそう言って永琳の唇に人差し指をつけて止めた。
すると、永琳は不満そうな表情を浮かべた。
「む……なんで止めるのよ……」
「……そう焦ることもあるまい。俺が添い寝するのはこれっきりと言うわけでもないのだからな」
「そうね……それじゃあ、もう一つお願いして良いかしら?」
永琳は将志の頬を撫でながらそう問いかける。
「……何だ?」
それに対して、将志は永琳の顔に掛かった髪を掻き分けながら聞き入れる。
「寝るときは、私を抱きしめたままでお願いね」
「……言われなくとも、そうさせてもらうよ」
将志は微笑を浮かべてそう言うと、永琳を抱きしめる腕に優しく力を込めた。