「いや、まいったね。ほんと」
レミリアは日本酒を御猪口に並々と注ぎ、ぐいっと飲み干すとそう言った。
「咲夜が死ぬとは思ってなかった」
酒気を口蓋から送り出しながら、レミリアはまた酒をついだ。
美鈴はいつもより早いペースで酒を飲んでいるレミリアを心配そうに見つめていて、けれども何も言えぬ様子で辺りをうろちょろとしている。
パチュリーも珍しく宴会に参加したので、そちらの方に視線をやってみたけれど、彼女は何時も通り宴会の席だというのに魔導書を読んでいた。
はあ、と嘆息をつく。
「いや、もうね。何が困ったかって、全部だよ全部。紅魔館は狭くなるし、飯は不味くなる。紅茶の淹れ方一つまともにできるメイドもいやしない。窓枠には埃が溜まるし、私の部屋はちらかしたらそれっきりだ!」
不便だ――ああ、不便だ!
レミリアはそう叫びながら、次々と日本酒を飲み干していく。
レミリアが日本酒を嗜むようになったのは、つい数年前からである。
丁度、彼女の従者が一人天命を全うし、冥界へと旅だった日から、レミリアは彼女の従者が好んだ酒を浴びるように飲むようになった。
吸血鬼といえど、鬼は鬼だ。元々、酒豪の気はあったのだろう。
飲んで飲んで、それはもう、飲みまくる。いつぞや、萃香と三日三晩不眠不休で飲み明かしていたことすらあるのだから、それはもう酒乱と言っても過言ではないだろう。
「おい、ババア。お前も後少ししたら死ぬんだから気をつけろよ。人間なんて呆気なくくたばるんだからな。おい、聞いてるのか、ババア!」
「誰がババアだ、アル中め。神社に入り浸るアル中は一人で十分だよ!」
私はレミリアに向かってそう言うと、一口だけ日本酒を飲む。萃香がにゃははははと幼児のような甲高い笑い声をあげていた。
ぴりっとした辛さが咥内に広がる。酒精が喉を焼いて、胃を蹂躙していくのが解った。けれども血液は激しく脈動して、体温が段々と上がっていく。
弱くなったものだな。と改めて思う。
酒をまるで水のように無尽蔵で飲んでいた、数十年前が信じられなくなりそうだった。
歳だな、と柄にでもなく思った。
歩くのがおっくうになったし、腰も曲がってきた。髪も細り、灰でも被ったように頭は真っ白。声も嗄れてきて、耳も遠くなった。
レミリアの言うとおり、私もババアになったことは疑いようのない真実であった。
咲夜は時を操った。その影響か、咲夜は死ぬ直前までずっと瑞々しい肌を持つ、健康な若い身体のままだった。
恐らく、レミリアに老いていく自分を見せたくなかったのだろう。心配を、それも余計な悲しみを、レミリアに与えたくなかったのだろう。
それはきっと、咲夜にとっての最も誇るべき強さであって、最も忌むべき弱さであったにも違いない。
けれども、それは逆効果だった。
死とは儀式なのだ。
生命の活動を終えることが死なのではなく、徐々に身体の機能を削ぎ落とし、冥界へと向かう準備を始め、それを周知する。
それで初めて、死というものは本来の形を為す。
死とは、事象であり、それに意味をつけるのはいつだって生き延びた側なのである。
知識だけで、なんの心得も、準備も、実感もなかったレミリアにとって、咲夜の死は大きすぎる衝撃だった。
だから、咲夜の死以降、レミリアは私のことをババアと呼ぶ。
私はもうババアになってしまったのだ。そう己に言い聞かせるように、私のことをそう呼ぶ。
はあ――と、また嘆息をつく。
まったく、らしくない。私は他者の感情の機微を読むのは苦手だし、またそれに対して全く興味もないはずだ。
博麗とはそういう存在であり、あらゆるものから浮遊している、幻想郷の法となるべく絶対的のものであるはずだった。
だから、こんなことで気が沈んだり、あいつのことが心配になってしまうなんて、どうにかしているとしか思えなかった。
後継者が出来たからだろうか。博麗の名字を譲ったからだろうか。今の私は確かにただの霊夢で、ただのよぼよぼの、棺桶に片足を突っ込んだババアである。気弱になってしまうのも、仕方のないことなのかもしれない。
「あら、辛気くさい顔。どうしたのかしら、霊夢」
にゅ、と横から顔だけが伸びる。
よく見知った顔だった。
「別に、何でもないわ。少し疲れただけ」
「ふふ、ご老体ですものね。確かに、昔ならいざ知らず、今の貴女の身体ではこの宴会は負担かも知れませんわ」
八雲紫は扇で口元隠しながら、スキマを経由して、私のすぐ隣に座った。
昔から、それこそ幼子の頃から見ていた姿と何一つ変わらない。紫だけではない。この博麗神社に集まる妖怪どもは、誰一人として、変わってはいなかった。
自分だけが変わっていく。取り残されていくような錯覚を覚えたが、首をふって雑念を振り払った。
本当に、どうにかしている。これだから、歳はとりたくないんだ。改めてそう思い、御猪口の中に入っている酒を飲み干した。
「まあ、レミリアの言うとおり、ババアだからな。昔ほどは無茶が出来なくなった。それは認めるよ」
「ええ、そうね。喜ばしいことに。昔の貴女ときたら、無鉄砲で、喧嘩早くて、人の話は聞かなくて、無茶ばかり。……ええ、ええ、ふふ、本当に手を焼いたもの」
くすくす、と紫は笑う。目を細めて、幼子をあやすような表情だった。
その目のまま、私を見る。今でも彼女には私がそのように見えているのかも知れない。目を閉じれば、直ぐにでも思い出せるような出来事なのかも知れない。
でも、私にとってはそうではない。それはもう、ずっとずっと――昔のことである。
「でも、楽しかったわ。とても、ええ、そうですとも。とっても楽しかったわ」
「人を娯楽にしないで欲しいね、まったく」
「あらあら、ごめんなさい」
向こう側ではレミリアが暴れていた。ついにはグングニルまで持ち出して、美鈴やパチュリー相手に大立ち回りをしていた。パチュリーまで参戦しているところを見ると、流石に止めないと不味いと判断をしたのだろう。
萃香は相変わらず、何がおかしいのか、にゃはははははと笑っているだけだった。実に無害な鬼である。西洋の方も、こちらの方を見習って欲しい。
神社で暴れるんじゃないよ、と声をはろうかと想ったが――逡巡して止めた。
何だか野暮ったく想えて仕方がなかった。そんなこんな想っているうちに、美鈴が夜空の星となった。哀れだと想ったが、まあ、詮無きことである。
「レミリアが心配?」
紫がからかうようにして尋ねる。
何を、馬鹿馬鹿しいことを。
そんなこと決まっているじゃないか。
「ええ、心配よ」
私がそう言うと、紫は少しばかり意外そうな表情を浮かべた。
「あら、素直なこと。珍しいわね。私はてっきり意地をはって『知るもんですか、あいつのことなんて』と言うに違いないと想っていたわ」
「意地をはれるほど、純情でもなくなったし、若くもないわ」
「可愛い可愛い霊夢ちゃんは私の知らないところで大きくなってしまったのね、よよよ」
「親のつもりは止めてもらえない?」
「ええ、止めますわ。だって、私は貴女の親ですもの」
「まったく、このムラサキババアは……」
「ババアは貴女でしょうに」
紫はそう言って、花も恥じらう少女のように、くすくすと笑った。
「レミリアが心配なのは、どうしてかしら?」
「解りきったことでしょう。あいつは人間との別離に慣れていない。それこそ、人間を血袋程度に考えてる古典的な吸血鬼だったら、話しは変わってくるのだろうけれど。あいつは咲夜の死に酷く動揺している。びくびくと怯えている。次は魔理沙だ、次は早苗だ――次は私だ、てね。だから馬鹿みたいに酒を呑む。酒で運命と直視することを避けているのさ。どこかで向き合わなければ、あれはどっかで破綻するよ。人間と関わること自体止めるとか、そういう極端に走り出すタイプだね、あいつは」
「いいじゃない、それはそれで。人間に関わらず、こっそりと隠遁生活を決め込んだ変わり者の吸血鬼の一匹や二匹くらい、この狭い狭い幻想郷に居たって何の実害もないわよ」
「紫、あんたも解ってないわね」
私が嫌だと言っているのよ。
そう言うと、紫は小さく「そうでしょうね」と呟いた。
「それこそ、博麗霊夢だわ。傍若無人で自分勝手な気分屋。地に足が着いていない、ふわふわと浮いている、誰にも縛られない存在。博麗の中でも傑出して博麗よ、貴女は」
「もう私は博麗じゃないよ。ただのどこにでもいる、有り触れた霊夢さ」
「そうね。そうだったわね。過去、現在、そして未来にも現れないだろう博麗は完成を見せて、その役割を完結させたわ。だから、今の貴女はただの霊夢。ふふ、貴女の言葉は正しくこれから霊夢となるのでしょうね」
「何を言っているか全く解らないね。私はそんな崇高なもんじゃないよ」
「ええ、きっと私達のすぐ側に――それはもう本当に、気が付かないくらいに――近くに在るものなのでしょう。で、そんな霊夢は、どうするの?」
「そうねえ――」
こういうのはどうかしら。
私は酒精に毒された脳細胞を僅かに回転させ、ふと思いついたことを口にした。
紫はそれを聞くと、少しばかり驚いたように眼を大きくさせ、そして次の瞬間には面白い悪戯を思いついた、あどけない童女のように笑った。
「協力してくれるかしら、紫」
「あら、聞くまでもないことじゃない? 私が可愛い貴女の頼み事を断るはずがなくてよ。それに、貴女の過去の偉業を考えれば、これくらいの我が儘を聞いてあげなくちゃあバチがあたってしまうわ」
私と紫は顔を見合わして、くすくすと笑った。
この時だけは、私はかつての自分と何一つとして変わりがない。そんなふうに想った。