ライナはすこし人の往来のある機関部の廊下を歩いていた。
しかし誰もライナの姿に気づくようすはない。足音をたてないように歩き、殺剄をつかっているから当たり前だ、とライナは思う。
人のとなりいてさえ、気づかれないようにすることぐらいは簡単にできる。いままで死にそうになるほど鍛えられきたのだ。
――――それなのに……。
ライナは歯軋りを起こしそうになることをなんとかおさえた。
ニーナが行方知れずになってからすでに一週間がすぎている。都市警も動員して捜索にあたっているとカリアンが言っていたが、それでも見つかる気配さえしない。
いつだってこうだ、とライナは自分自身への憤りを抑えられなかった。
ビオを眼の前で失ったときだってそうだ。ニーナだって助けられたはずだ、とライナは思う。
ライナが倒れたとしても、前もって対処する方法だってあったはずだ。
廃貴族のことを言わないで危険だと思ったら逃げろ、とでも言っていれば、ライナが倒れた時点でライナをつれて帰ったかもしれない。ほかにもいろんな方法があったにちがいない。
そもそもサリンバン教導傭兵団に助力を求めていたら、いまの状況にはなっていなかったかも知れないのだ。
不幸中の幸いといえば、ライナがニーナが消えるところを見ていないことか。
もしライナがいたとしてもニーナを助けられなかったら、アルファ・スティグマが暴走していたかもしれない。
そうなれば、ツェルニは終わっていた。
それはとにかく、いまだに都市の暴走は止まらず、ライナはレイフォンと交互に汚染獣のもとにむかっていた。いまはレイフォンが汚染獣のもとにむかっている。
レイフォンのことを思いかえして、ライナは顔をしかめた。
レイフォンがツェルニに帰ってから、一言も口を交わしていない。ライナを起こしてくれるが、乱暴に起こすだけで起こしたらライナのことを気にすることもなくレイフォンはすぐに学校にむかっていく。
まあこれもライナがちゃんとしていれば大丈夫だっただけに、なにも言うことができない。それでも、胸が痛む。
いまは休憩時間であるからライナとしては寝ていたいのだが、ニーナの探索ついでに気がかりなことがあって、ライナが倒れていた場所にむかっていた。
――――あのときの感覚は……。
ライナはかつて同じような剄技を受けた覚えがあった。
ローランドの剄技で神経を麻痺、もしくは弛緩させて強制的に眠りに落とすものだ。しかしあくまで医療用で、かけられた者が抵抗すればすぐに解けるようになっている。
もともとは軍が強制的に敵を眠らせるように開発していたのだが、成功することはなかった。そもそも、神経のまわりには剄脈が覆っていて普通にかけるのにも苦労する上に、抵抗する相手に無理やり眠らそうとすれば死んでしまうのだ。
殺そうとするのなら、もっと楽な方法だってほかもたくさんある。
だから、結局この剄技は完成しなかった。
――――だが……。
問題は、ライナにその剄技の類がかけられた可能性があることだ。そのことがどれだけ異常なことか。ライナにはよくわかる。
しかし、なぜライナだけに影響があったのだろうか。
どうせそんなすごい剄技を仕掛けるなら、ニーナだって寝ていなければおかしい。それよりも廃貴族のもとに来られないようにするなら、壁みたいなものを仕掛けておいたほうがいいに決まっている。
気づけば、ライナが倒れていた場所にたどりついていた。
立ち入り禁止の看板とテープが貼ってあったが、気にせずライナはアルファ・スティグマを発動しながらまわりを見渡していく。
剄技の類が発動された気配がまるでない。かといって廃貴族がなにかした様子も見られなかった。
中心部にたどり着き、まわりを歩く。ひとしきり確認したあと、ライナは考えこんだ。
中心部の壁の一部に大きな穴が開いてある。おそらくここが中心部の内部に通じる場所なのだろう。
きっとニーナはここへ入っていったはずだ。だがここに入ることは、基本的に禁じられている。
機関部の中心部ゆえに、へたに動けば都市が壊れてしまいかねない。その危険性を考えると、内部へ足を踏み入れるのは、どうしても躊躇してしまう。
もしもライナのせいでツェルニが壊れてしまったら、ニーナだって悲しむにちがいない。
ライナは頭を振って、踵を返した。
機関部の外に出て、ライナはため息をつくとともにまわりに人がいないことを確認して殺剄を解く。
日はすでに落ち、暗闇が周囲を覆っている。月も、雲が空を覆っていて見ることができない。
ライナは寮にむかって歩き出した。
ライナの倒れている場所には、違和感ばかりがライナの胸に残っている。
なぜなにか仕掛けを施した形跡がないのか。仕掛けられた跡を消す、などという器用なことが廃貴族にできるとはライナには到底思えなかった。
それに消す理由もない。同じ技が効かなくなることを恐れているのだろうかとも思うが、都市側の人間が機関部の内部に入ることを恐れることぐらい、廃貴族も知っているはずである。
ならば、そもそも変な仕掛けをすること自体、おかしいといわざるを得ない。
なら、誰が仕掛けたのか、とライナは考える。
思い当たる人がいない。
もしかするとローランドの人間が動いたかもしれないが、ライナ相手に気づかれない上にライナだけに効果がある剄技の類を使える人間などひとりしか思いつかない。
――――ラッヘル・ミラー……。
子供のころとはいえライナとその幼馴染二人、それに師であるジュルメが全力で戦っても十秒とも持たなかった相手だ。
いまのライナとはいえ闘っても勝てないだろう、と思うほどの力量を持つ男。
ミラーが相手ならば、ライナとはいえ気づけなかったとしてもしかたがない。
ならば、ライナにだけに影響する仕掛けなどしてなんの意味があるのか。
いまのこの状態になることがわかっていた。しかしこの状態にしてローランドに意味があるとは思えない。
それに忌み破り追撃部隊としてツェルニに来るならわかるが、それならライナを殺すなりつれて帰ればいいだけだ。
わざわざ待ち伏せなんてまわりくどいことなんかしなくてもいいし、こんな化け物じみた方法を使わなくてもほかにも方法があったはずだと思う。
気づけば、寮が見えるところまで歩いてきた。それとともに寮の前に、人が立っているのも見えている。
夜の闇の中でもかすかに見えるぼさぼさした赤い髪、それに左眼のまわりの入れ墨に皺を作るたにたとした笑みを浮かべた男。
ライナはそれを確認すると、踵を返した。
「って、ライナちょっと待つさ~」
いつもの軽薄な声ではなくあわてたような声が聞こえてくてくる。そしてすぐさま声の主はライナの前にまわりこんできた。
「なんだよ、ハイア。めんどくさいな」
ハイアは額に汗を滲ませていた。
「ライナひどいさ~。せっかくおれっちが会いに来たっていうのに」
「別に俺はおまえと会いたくなかったんけど」
「ほんとおまえは生意気さ~」
ハイアの眼がすこしするどくなる。ライナは踵を返そうとすると、ハイアは言葉を続けた。
「そんなことより、元ヴォルフシュテインと喧嘩してるって、ほんとうか」
ライナは踵を返すのをやめ、ハイアを見た。寮の前にいたときより笑みが深くなっている。
「どうもビンゴだったようさ~」
わずかな表情の変化から気づかれるなんて。ライナが思っているよりも深くレイフォンたちのことを気にかけていることに、ライナはおどろいた。
ヴォルフシュテインはレイフォンがつかっていた天剣であると、レイフォンから聞いていた。そして天剣を持つ者はその天剣の名で呼ばれることがあることも聞いている。
「今日そのうわさを聞いて真っ先にライナのとこへむかったさ~。
で、とりあえず寮に行ったけどいなかったからずっと待ってたっていうのさ。おれっちを見かけてすぐどっか行こうとするなんてひどいさ~」
「で、それがどうしたって。それにさ、おまえ学生に教えてんじゃなかったの」
いまツェルニが払える金で学生に鍛錬をつけているというのもカリアンから聞いていた。汚染獣と闘うよりは安全だから、という意味で値段がやすいかららしい。
「それだったら、おれっち以外のやつががんばってるさ」
「フェルマウスに怒られるぞ」
「そいつは勘弁さ」
ライナがそう言うと、ハイアは笑みがこわばった。
フェルマウスはいわばハイアの親のような立ち位置にいる念威操者である。
先代のころからサリンバン教導傭兵団にいたらしいという話だが、ライナも詳しくは知らない。
フェルマウスは汚染獣のにおいを感じることができることと、汚染物質の中にいても死ぬことがないという二つの能力があり、しかも汚染獣のにおいをかぐためには素肌のままでなければ感じられないため体中がぼろぼろになっるらしい。
そのため日ごろは肌の露出をなくすため、フードとマントを身にまとい、手袋や硬質の仮面を常にしているという徹底的である。
ライナは一度だけ仮面をとった姿を見たことがあって、さすがのライナも驚きを隠せなかったことを覚えている。
「そんなことより今日はライナにひとつ話があってきたのさ……」
声はひそめている。しかし歓喜の色が抑えられない。そんな声だった。
「おれっちたちと一緒に来ないか」
「は……」
「だから、サリンバン教導傭兵団に戻らないか、って聞いてるさ~」
ハイアの予想外の言葉に、ライナは眼を大きく開いた。
「意味がわかんないんだけど」
「いつ終わるかわかんないけどさ~。もしこのままレイフォンとの喧嘩が終わらなかったら、ライナだってツェルニにいにくいはずさ~。
それならおれっちたちと一緒にいたほうが楽だと思うしさ~」
それに、とハイアは言葉をつづける。
「強いやつはひとりでも多いほうがいいに決まってるしさ~」
ハイアの意味不明な発言に、ライナはため息をついた。
「いやだって俺はローランドの出だし、そもそもおまえたちを一回騙したんだから団員が認めるわけないだろ」
「おれっちが認めさせてやるさ」
そう言って笑みを消すハイア。
「ライナは普通のローランドのやつらじゃないってことぐらいわかってるさ。おれっちもライナの傷を見たしな」
そういえば、あの場にもハイアがいたことをライナは思い出す。
「もしこのままここにいたら、遅くとも六年後にはローランドにもどることになる。そんなことは絶対に許せないさ」
はじめて見るハイアの怒気に、ライナは驚きを隠せなかった。
「なんで、そこまで……」
「おれっちだって、孤児の出さ。ライナの過去を聞けば、ローランドが憎くもなるさ~」
「たった、それだけか」
ライナが言うと、ハイアは鼻で笑った。
「それにおれっちはまだ、ライナを仲間だと思ってるしさ」
「は……」
ハイアの思いがけない言葉にライナはそう言葉を洩らす。
「ライナと最初に会ったときだって、怪しいとしか思えなかったさ。
それにローランドのやつらが都市に来てるって情報もあったし、おれっちたちもローランドのやつらを一網打尽にしたかったというのもあったらこそ、あからさまにあやしいおまえをうちの仲間に入れたさ~。
まあ、なんでわざと怪しまれるようにしたっていうのは、ライナの過去を知ってわかってけどさ」
「……」
「でもって、ライナがおれっちたちから逃げようとしたとき、おれっちたちを殺そうとするどころか、怪我さえさせないようにしながら戦いやがる」
そこまで言ったとき、ハイアは表情を険しくした。
「腹たったさ。舐められた感じで腹立ったけどさ、それでもおれっちたちを傷つけないように闘ってくれたことはわかったさ~」
そしていつものにたにたした笑みに戻るハイア。
「だからおれっちはまだライナと仲間だと思ってるし、それにおれっちの大切な弟分のライナがローランドに戻って苦しめられるなんて許せないさ~」
思いがけないハイアの告白に、ライナは言葉が出なかった。
「ライナ……」
ライナがどう返事をしようかと迷っていたとき、耳元からフェリの声が聞こえた。気づけばライナの近くに念威端子がうかんでいる。そのことに気づかなかった自分自身に、ライナは驚いた。
「明日には、レイフォンが帰ってきます。それに、直線で四日ほどの距離に反応があります。ですので、明日にはツェルニから出発してもらいます」
そういうことですので、とフェリは言うと、念威端子は去っていった。
「まあ、いますぐには決める必要はないさ。おれっちたちもまだ当分の間ここにいることになると思うしさ~」
ハイアはそう言うと踵を返し、夜の闇に消えていく。
ライナはハイアのうしろ姿を見ていることしかできなかった。