時間をくれ、とだけ言い、ライナは病室を抜け出した。ため息をつきながら、かすかに病院独特の匂いのする病院の廊下を歩いていく。
闘うのはめんどいという怠惰。レイフォンの体調への心配。表に出ることへの不安。
そしてレイフォンがたよってくれてうれしいという感情。
さまざまな思いがライナの全身を駆けめぐっている。どこまで歩いていっても、その思いが収まりそうになかった。
気づけば、屋上へ足を延ばしていた。
まだ沈みそうにない太陽が、ライナを暖かく照らしてくる。あまりに心地よい温もりに、ライナは適当なところに寝そべり、眼を閉じた。
「……イナ……起きろライナ」
耳元からライナを呼ぶ声がする。低い女性の声。それを気にもせずにライナは眼を閉じていると、腹に強い衝撃を受け、ライナは思わず飛び起きた。
「なんだよ、ニーナ」
ライナは腹をさすりながら、声の聞こえてきたほうをむいて言った。夕陽に照らされているニーナはいつになくどこか儚げに見える。
「まったく、おまえときたら……もうすぐ日が沈むぞ」
ニーナに言われて、ライナはしぶしぶ腰をあげた。
そのままドアのほうにむこうとライナは思ったが、夕陽に照らされている都市を眺めたくなって金網のほうまで歩いていった。
「おい、ライナ?」
ニーナが声をかけてきたが、ライナは気にすることなく夕陽で赤く染まる都市を見下ろした。
会話がはずんでいる人たちがにぎわう大通りを歩いていたりする。ショーウィンドウのむこうにある物を食い入るように見ている人もいる。女性に声をかけている男の人もいる。
病院の屋上から見下ろせば、ツェルニの学生の生活の様子が手にとるようにわかるのだ。ライナはこの光景が、好きだった。
ニーナはため息をつくと、ライナの隣に来て、同じように見下ろした。
「で、なんであんたここにいるわけ?」
ライナは見下ろしたまま言った。
「レイフォンの見舞いに来たに決まっているだろう。おまえこそ、どうしてこんなところで寝ていたのだ?」
「いやだってさ、ここって日射しが気持ちいいじゃん。いつの間にか、日が暮れそうになってるけど」
「まったくおまえときたら……」
ニーナはそう言うと、ため息をつく。しばらくのあいだ、二人並んでまわりを見渡していた。
夕闇にあたりが染まりはじめたころ、なあライナ、とニーナが口を開いた。
「おまえ、何か悩みがないのか?」
唐突なニーナの言葉に、ライナはニーナのほうをむいた。
「そんなの別にないよ」
「ほんとうか? ならわたしの顔を見ていってみろ」
そう言うと、ニーナはライナを自分の正面にむかいあわさせるように身体を動かし、まっすぐライナを見た。
ライナは、視線をそらす。
「ほら、嘘ついているではないか。ちゃんとわたしに話してみろ」
「いやちがうって」
ライナは首を振った。
「俺ってさ、眼と眼を合わせるって、苦手なんだよね」
「それは……やはりむかし何かあったのか?」
「いや、別に。ただ、なんとなく」
見つめあうと、どうしてもアルファ・スティグマのことを意識してしまう。闘っているときは、さすがに相手の眼を見ていなければならないが。
「気のせいだった、ということか」
すまない、となぜか謝罪してきたので、別にいいけど、と言葉をかえす。
「だがな、おまえも何か相談したいことがあったら、ちゃんと言うのだぞ」
「はいはい」
「こら、はいは一回だ」
「はい」
うん、それでいい、と満足そうにニーナは言った。
「確かに、おまえはむかしひどいことをされていた。
それも知らずに、わたしは変なことをいろいろ言ったと思う」
すまなかった、とニーナは言った。
「そんなこと気にしてないって、別に」
「しかし……」
ため息するライナ。
「そう思ったんだったら、俺のことほっておいて欲しいけどさ」
「……」
ライナの言葉に、ニーナはうつむく。
「……そう、レイフォンも思っているのだろうか?」
「ん?」
「あいつは、人生をやり直すためにここまで来た。だがそんなレイフォンを、わたしは引き止めているのだ」
そう言うニーナの顔には、どことなく憔悴しているように見える。
相変わらずめんどくさい人だ、とライナはため息した。
「あんたさ、へんなところでまじめなんだって。そんなに肩肘張ってたら、身体とか心とか持たないよ」
「だが……」
「それに、レイフォンはいつもあんたに感謝しているよ」
「それは、ほんとうか?」
「マジマジ」
そう言ってライナはニーナに笑いかける。
「最近よくレイフォンと話すんだけど、あいつあんたが強くなってきた、ってたのしそうに言うんだ。
それに機関部掃除とかでのあんたのこともよく言ってるし」
「……そこまで言われるとさすがに恥ずかしいな」
ニーナは照れたように頭を掻く。
「それになんだかんだ言ったって、あんたはレイフォンのことを考えてるんだし、それもレイフォンにはわかってるはずだし」
「だが……」
「レイフォンだっていろいろ考えてるし、それに何もできない子供じゃないんだから、あとはあいつ自身の責任なんだって」
「……」
「だからさ、レイフォンが別の生き方を見つけられなくって、それはあいつが悪い。
本当に別の生き方を見つけようと思ってるんだったら、あんたがどれほど縛ろうとしたってできるもんじゃない。
もし縛られたんだったら、それほどあいつの意志が強くなかったってだけなんだし」
「……わたしはそこまで割り切ることはできない」
「あんただって言ってたじゃん。おまえの人生だろう、って」
ライナがそう言うと、ニーナの顔が真っ赤に染まる。
「も、もうそれを言わないでくれ、ライナ」
夕陽で赤く染まった顔でもじもじしながら言うニーナが、すこしかわいいとライナは思ってしまった。
そう言ったらなぐられるかもしれないので言わないが。
「いい言葉じゃん」
「もう言うなっ!」
ニーナは思いっきり怒鳴り、ひとつせきこむ。
「だが、おまえに話を聞いてもらって、すこしすっきりした」
ありがとう、とニーナは言った。
ライナは外のほうをむいて頭を掻く。気づけば、夕陽が半分以上大地に沈んでいた。
「別に、いいって。それに、もうこんな時間なのかよ……」
「それでおまえはどうする?」
「まあ、もうちょっといよっかな」
ライナがそう言うと、ニーナはではまたな、と言って、屋上から出て行った。
ライナはまた、金網越しに外の風景を見わたした。口元がかすかにゆるんでいることを感じながら。
小隊対抗戦の当日。ライナはいつもと同じように野戦グラウンドの控え室の壁にもたれながら眼をとじ、出番が来るのをまっていた。
観客席からとどく歓声が、いつにも増して騒がしい。
今日の試合が終われば、ほとんどの小隊がひととおり闘ったことになる。
今日で戦績首位の小隊が決まるわけだが、だからといってどうというわけはない。ニーナが言うには、来るべき都市対抗の武芸大会での発言権などの小隊長の格が決まるらしいが。
「しかしレイフォンの手術に行かなくて、本当によかったのか、ライナ」
いつも以上に緊張した面持ちのニーナが尋ねてくる。
「まっ別にいいんじゃない」
眼を開けて言ったライナにニーナはいぶかしげな視線を送ってくる。
結局、レイフォンの提案を受け入れた形にはなったものの、本当に闘おうかライナは迷っていた。とりあえず、その場の雰囲気で考えることにしてはいるが。
「だいたいさ、あいつが来なくていいって言ったんだし……」
都市が汚染獣の群につっこんでいることをニーナたちに伏せていることはいつものことである。
問題は今日の大会が終わったあとに、ニーナたちにそのことを打ち明けるかどうかだ。
レイフォンには、試合が終わったあとで十七小隊全員にいまツェルニに起こっていることを話して欲しい、と言われているが、正直なところニーナはとにかくほかの小隊員に話したところで意味などないと思っている。
レイフォンの元にむかって、だからなんだというのだ。
「だが、レイフォンはひとりなのだぞ。こんなときは誰かに近くにいて欲しいものではないか」
「前も言ったけどさ、あいつはもう子供じゃないって。命にかかわるような手術じゃないんだから、気にすることないし」
ライナがニーナを安心させるように言っても、ニーナの顔色はどこか不安そうに見える。
「それにさ、この日のためにわざわざ第十小隊のやつを十七小隊に入れたんだろ?」
ライナはそう言って、金色のロールをまいた長髪の少女のほうに眼をやった。
ダルシェナ・シェ・マテルナ。
彼女はかつて第十小隊に所属していたが、シャーニッドの仲介を通して第十七小隊に入隊することになった。
「それはあまり関係ないのだが」
「だったとしても、あいつがいいって言ってんだし、気にするなって」
そこまで言って、ニーナは不満がありそうな表情をうかべながらも、口を閉じた。
サイレンの音が野戦グラウンドに鳴りひびく。
それと同時にニーナはナルキをつれ、敵陣にむかって駆け出した。
ライナはいつもどおり、フェリの近くに行き寝ころんだ。
念威操者をはずせば、実際に野戦グラウンドを動き回れる戦力は、十七小隊が四人なのに対して、第一小隊は六人。
十七小隊は数で負けていることになるが、旗を守る者がいることを考えると、ほとんど戦力差はないだろう、とニーナは事前のミーティングで言っていた。
とはいえ、一年のナルキと入隊したばかりでろくに連携の取れないダルシェナ。
それに、倒れたら即敗北となるニーナが前線に行かなければならないことを考えると、かなり厳しいというほかなかった。
そう思いながらも、いまだにライナは横になっている。
ここまできて、まだ踏ん切りがつかない。ここで行かなければ、あとでレイフォンにぼやかれるだろう。
ニーナが帰ったあとで、レイフォンに小隊対抗戦に出ると伝えると、うれしそうに感謝の言葉を何度も言ってきた。
ライナはいままで、自分から闘おう、と思ったことはなかった。
闘わなければ死ぬから闘う。闘わないと誰かが死ぬから闘う。
ライナにとって、闘いとはそういうものだった。
だからこそライナは、どうすればいいのかわからなかった。
――――だが……。
とライナは思う。
ここで闘わなかったら、後悔するかもしれない。
ビオのときのような、無力感や絶望をまた味わうと思うと、心臓が締めつけられるようだ。
同時にめんどうだ、という思いもある。どうせがんばったとしても、なんの意味もないのだと。
だけど、ニーナはがんばっているのだ。苦しみながらも、無力を感じながらも。
そんなニーナをライナはすごいと思うしかなかった。
ふとライナは眼をあけ、身体を起こしてニーナたちのほうを見る。
ナルキはなんとか小隊員をひとり縄で動きを止めているが、ニーナは二人と戦っていて、圧されているようだ。
しかたない。めんどいけど、ここで行かなかったらきっとレイフォンにあれこれ言われるだろう。
ライナはそう思うと、身体を起こす。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」
「どうぞ。もう帰ってこなくてもいいですよ」
フェリの返事を聞き終わると、ライナは頭をかきながら適当に歩き出した。
「おまえの負けだ、ニーナ・アントーク」
長い棍をニーナにむけながら、ヴァンゼは言った。そのするどい視線に、ニーナは心が折れそうになるのがいやでも感じられる。
なんとかニーナたちの元に来た三人の内二人は戦闘不能にしたが、ニーナのうしろをついてきたナルキは倒れ、敵陣に突き進むはずのダルシェナは念威爆雷の光と音で無力にされた。
残っている戦闘要員は、ニーナとシャニッド、それにライナぐらいだ。しかし動き回れるのは、ニーナだけだった。
いままで通用してきたシャーニッドの銃衝術も、おそらく対策済みだろう。
――――ライナが闘ってくれれば……。
そんな思いに駆られそうになるを、ニーナは歯を喰いしばって耐える。
ライナならおそらく、この状況を打破することは可能だ。
レイフォン並みかそれ以上の戦闘能力。それにヴァンゼの想定外であるだろうことを考えば、敵陣の中にあるフラッグを落とすことなど造作もない。
しかしライナ自身は闘うことなど、望んではいない。
そんなことぐらいニーナにだってわかる。
それだけにライナにはたよれない。たとえこの野戦グラウンドにいるとしても。
だがほかにこの状況を打開する方法を、ニーナは思いつかない。
鉄鞭をにぎる手に、力が入らない。心が、折れそうになるのを止まらない。身体が震えてきた。
ヴァンゼの棍が、振り下ろされる。
ニーナは受けとめるため、両手に持った鉄鞭で防ごうと持ち上げる。
そのとき、斜めうしろのほうでなにかが爆発。衝撃と爆音をかわすため、ニーナはとっさに横に転がる。また轟音。
観客席が、静寂に包まれていた。
なぜか、一番隊の狙撃主が戦闘不能の判定がくだったのだ。
なにが起きているのか、ニーナにはわからなかった。ヴァンゼもまた、予想外のことなのか、眼を見開いている。
「いったい、なにが起きたっ!?」
ニーナは怒鳴るように言う。
「……わかりません。ただ……」
念威端子越しから聞こえてくるフェリの声ががいつになく動揺した口調で言った。
「ただ、なんだっ!」
「いま、ライナがわたしの近くにいません」
「どういうことだっ!」
いつになくニーナは怒気を強めて言う。
「すみません。ライナがトイレに行くと言いだしたので……」
確かにライナはほとんど闘うことはないだろう。しかし、せめてちゃんと連絡ぐらいして欲しい。
だが、そんなことはいまどうでもいい。
――――まさか一番隊の狙撃主を倒したのは、ライナだというのか……。
あまりにとっさのことで一瞬立ち尽くしてしまったが、まだ戦闘中であることを思い出し、ヴァンゼのほうに鉄鞭を構えた。
「……眠っている汚染獣を起こしたか」
ヴァンゼもまた、ニーナと同じ結論に至ったようだ。
「まさかあれが出てくるのは予想外だったぞ」
「そうですね……」
ライナが闘ってくれるのか。そう思うだけで、ニーナの身体の震えはおさまった。
ライナがなにを考えているのかわからないが、いまならヴァンゼにだって勝てるような気さえしてくる。
ニーナはヴァンゼのほうへ足を踏み出し、懐に入るように旋剄。右の鞭を振るった。
ヴァンゼは棍で防ぐが、態勢を崩す。すかさず、左の鞭で突く。
勝った、と思ったが旋剄を使われ距離をとられた。
――――勝てる、勝てるぞ……。
ニーナは思った。あれほど大きく見えたヴァンゼの身体が、いまでは小さく見える。
しかしこのままでは勝つのは難しい、ということもニーナはわかっていた。
実力の差は、闘っていてわかっている。だからこそ、ヴァンゼが動揺しているいましか好機はない。
思い出すのは、バンアレン・デイの日に怪しい男から教えてもらった技だ。
ディクセリオ・マスケインと名乗る男が使った旋剄にも似て非なる技。ニーナがはじめて見たときは、ディクセリオの脚の動きしか見て取れなかった。
雷迅、と呼ばれるその技なら、ヴァンゼを倒せるかもしれない、とニーナは思う。
とはいえ、いまのニーナには雷迅を実戦で使えるほどの技に達していない。
教えてもらってから二週間を過ぎたいまでも、成功する確率は五分五分といったところだ。
だが、いま使わないでいつ使う、とニーナは思った。
己を信じるなら、迷いなくただ一歩を踏み、ただ一撃を加えるべし、とディクセリオも言っていたではないか。
ニーナは、構えを変えた。
閉じていた脇を開き、右腕を引く。左腕を前に出し、鉄鞭の交差部分を上げる。
それとともに、剄を溜め、放つ。
――――活剄衝剄混合変化、雷迅。
奔る。
轟音と雷を撒き散らしながら、ニーナは一直線にヴァンゼのほうにむかった。そして鞭を振りおろす。
ヴァンゼのおどろく顔が見えた。
野戦グラウンドが、轟音と光に覆われたのをライナは敵陣の近くで感じ取っていた。
ライナが轟音と光の発信源のほうを見ると、男が倒れている近くに、ニーナが呼吸を荒くして鞭を身体を支えるように地面に突き立てて立っていた。
――――あの技は……。
ライナはおどろいた。
ニーナの使った雷迅という技は、活剄で強化して高速移動しながら衝剄を放つことによって衝撃を発生させ、それによってあたりを破壊し、さらに移動と剄によって空気とが摩擦を起こし、雷をまき散らすという強力な剄技ではある。
しかしこの技はライナが見ていたかぎり、いまのニーナに使える技だとは思っていなかった。
雷迅は生半可な力で使っても、ただのはやいだけの攻撃にしかならず、せいぜい旋剄に毛がはえた程度のものでしかない。
それでもこのタイミングで成功させるのは、さすがだと思う。剄に無駄があったり、動きに甘いところがあったりしていたが。
それはとにかく、いまのニーナをこのままにしてはおけない。
多分雷迅の閃光と轟音でだれも気づかないだろうとライナはため息をつきながら、旋剄を使ってニーナのところまで行き、抱きかかえた。
「お、おいライナッ!」
ニーナがなにか言っているが気にせず、その場から移動する。木が密集しているところまで行くと、ニーナをおろし、木の根元に寝かせた。
「なにをしているのだっ!」
顔を赤くしてニーナは言った。
「なにって、あんたあのままじゃいい的だから動かしたんだけど」
「もっとほかにいい運び方があっただろうっ!」
「だってあの運び方のほうが手っ取りばやいし」
わりとどうでもいいことでニーナは怒っているようだ。見たところ、このまま寝ていれば大丈夫だろう。
それを確認するとライナは立ち上がり、ニーナを背にした。
「おい」
ニーナがうしろから声をかけてくる。ライナは振りむかずに動かなかった。
「なぜ、闘っている?」
「レイフォンに頼まれたから」
ニーナの息をのむ音がした。気にせずライナは言葉を続ける。
「あいつさ、俺に頼んでくるんだよね。試合に出て、あんたを助けてやってくれって。
まったくめんどいのに……」
「そうなのか……」
「ま、細かいことはあとで話すからさ、とりあえずいまは休め」
「莫迦者、わたしも出るぞ」
うしろのほうでかすかに動く気配はしたが、立ち上がる気配はしない。ニーナは苦痛の声を洩らす。
「あとはなんとかしとくからさ、あんたは寝とけって」
「そうはいくか……とは言いたいが、すまない」
「気にすんな」
ライナはそう言うと、その場から駆け出した。