ライナが寮の部屋のチャイムを何度も押されて起こされたとき、部屋の中は暗かった。まだ夜は明けてなかった。
うるさいなあ、と思いながらも、ベットから出るのがめんどいからほっておくと、さらにチャイムの連打が激しくなった。
さすがのライナも我慢できなくなって、しぶしぶドアのほうにむかう。
ドアを開けると、暗がりの中でナルキたち三人娘が立っていたのがわかった。なぜか、ほかの二人が一般的な私服だったのに対して、ミィフィはサングラスとロングコートを着ていて、すごくあやしい人に見える。
「何だよ、俺がせっかく気持ちよく寝てたのに。てか、近所迷惑だって」
「何って、昨日約束したじゃん。一緒に、ニーナ先輩の様子を観察するって。それに、ちゃんと事前に謝ってるから、大丈夫」
何が大丈夫なのか、何ひとつわからない。
「いや、俺そんなこと約束してないし。だから俺もう寝ていい? 日が昇るまで、まだ時間あるし」
ライナは外の景色を見て言う。まだ空には丸い月がうかんでいる。
「ライナおまえは、自分の隊の隊長のことが気にならないのか?」
「うん、ぜんぜん」
「まったく、おまえは……」
明かりにようやく眼がなれたライナの眼に、額に手を置いているナルキの様子が映った。
「だって、俺は別にどうでもいいし。そんなことより今すっげえ眠い」
ライナは大きなあくびをする。
「……それなら、仕方ない、ミィ」
「あいよっ!」
やっと行ってくれるのか、ライナが安心してドアを閉めようとしたとき、ドアがすこし閉じづらくなったのに気づく。
ドアのほうを見ると、ミィフィがドアの取っ手に手をかけていた。
ライナがすこし強く閉めようとしたとき、気づけば全身が何かに締めつけられる。よく見ると、ナルキの手に持っている縄が、ライナ身体に巻きつけられていた。
「……なんで巻きつけられてるの? 俺」
「おまえを更生させるためには、人と関わらせることが必要だということにあたしは気づいたんだ」
「いや、意味わかんねえよ!」
「わたしは……なんとなくかな」
「なんとなくって何だよなんとなくって!」
ライナはなんとか縄から抜け出そうとするが、なかなか抜けない。がんばれば抜けそうだが、めんどくさい。
ライナは助けを求めるように、一度も言葉を発していないメイシェンに助けの視線をむけるが、メイシェンは震えてナルキのうしろに隠れてしまった。
そして部屋の中からから引きずられて、転んで顔から落ちる。
鼻に痛みを感じるが、ナルキはそんなことに気にもせず、ライナを引きずって外にむかう。
「痛い、痛いって、マジで! わかった、行く、行くから、頼む縄はずして!」
「最初からそうしていればいいんだ」
ナルキが言うと、縄が解かれる。ライナはしぶしぶ立ち上がり、埃を落とすように身体を軽くはたいた。
「まったく、めんどくさいなぁ」
「まあ、言うな。これも、おまえを更正させるためだ」
「別に、更正する気なんかないんだけど」
「そんなことより、はやくレイとんと合流しようよ」
そう言うと、ミィフィは先頭を歩き出しライナたちはそのあとをついて行った。
寮の外に出て、いつか通った道を歩きはじめた。
街灯もまばらで、月はもうすぐ地平線に沈みそうだ。
――最低でも、あと二時間寝てたかった。
ライナは思った。
「あ……」
ミィフィは、かすかにつぶやいた。静寂に包まれた場所でも、ライナの耳元にわずかに届くぐらいの声量だった。
「そいやさ、まだライナのあだ名ってつけてないよね」
「ああ、そういえばそうだな」
ナルキがうなずいた。
「え~べつにそんなんいいって」
「だめだめ。ん~っと、何がいいかな」
ミィフィがそう言うと、何かをぶつぶつとつぶやきはじめる。ちょっとこわかった。
しばらくその調子で歩いていると、ミィフィは、よし、と言った。
「じゃ、ラッりゅに、決定」
ライナは、思わずこけそうになった。
「……あのさ……ちょっと聞いていい」
「ん、何」
「なにそれ」
「だから、ライナのあだ名」
ライナはため息をついた。
「だから、何で、ラッりゅなの?」
「ライナ・リュートの略。ちょっとかわいいじゃん」
小動物みたいで、とミィフィは言葉を続けた。
抗議するのも疲れる。かすかな期待をこめ、発言していない二人を見た。
「あたしは、まあいいんじゃないか」
「わたしも、ちょっとかわいいと思う」
味方なんて、はじめからいなかった。
「……まあ、いいけどさ」
ライナがそうつぶやいたとき、機関部の入り口が見えてきた。
機関部の入り口に着き、三十分ぐらいすると、レイフォンが入り口のほうから現れた。
「さて、任務を説明する」
「いや、任務もくそもないぞ?」
探偵気分のミィフィにナルキが冷静に突っこむ。
「って、それよりもライナがここにいることが驚きだよ。どうしたの? こんな真夜中に来るなんて……」
驚きを隠さないレイフォンに、ライナは大きなあくびをしたい衝動を抑え切れなかった。
「俺だって来たくなかったけど、どうしてもってむりやり……」
レイフォンが苦笑いしていると、ライナに中に入っている紙コップをメイシェンから受け取った。
コップを持った手が暖かい。湯気が出ているコップをあおった。中はお茶だったようで、温かいお茶がからだに染み渡る。
「隊長さんは?」
「班長に呼ばれてたから、まだ中にいるはず」
「よしよし……じゃあ、待ってからあとをつけてみよ」
紙コップを両手で握り、湯気でサングラスを曇らせているミィフィが口元をつりあげる。その様子に、ライナはため息をついた。
「普通に帰って寝ると思うけど……」
「ん~にゃ、訓練が終ってから様子を見てるけど、バイトに行くまで訓練してただけだから、何かあるんならこのあとだよ」
レイフォンは眼を見開く。
「え? 訓練してた?」
「うん。ばっしばしに気合の入ったのをしてたよ」
「確かに鬼気迫る、という奴だった」
ナルキがそう言うと、レイフォンは何か考えるように視線を下ろした。しかしすぐ頭を上げる。
「ああ、やっぱり」
「ん? なんだ?」
「いや、なんでもないよ」
レイフォンは、ニーナの一連の行動の理由がわかったのか、どこか視線を遠くする。
あ、というメイシェンのつぶやく。なんとなくライナは機関部の入り口に眼をむけると、ニーナが出ていた。
夜明け前で、吐く息も白い。だが、武芸科の制服の上には何も羽織ってはいなかった。
ということは、寮にもどらず、そのまま来たということなのか。だが、小隊の練習のあとからでは、すこし時間がはやい。
足取りはなんとかごまかせてはいるが、それでも街頭のわずかな光がてらされたニーナの顔は、疲労を隠しきれない。
本当に、この人に何がそこまでさせるのか、ライナにはまったくわからない。
紙コップに入っていたお茶を飲み干し、それを近くのゴミ箱に入れてから、ライナたち五人は距離をとり、ニーナのあとをついていった。
双方の距離はレイフォンとナルキが決める。本来なら武芸者相手に、ミィフィとメイシェンでは気づかれてしまうだろうし、ライナはそもそもやる気がない。
だが、今のニーナなら、ミィフィたち二人でも気づかれそうにないほど、隙がありすぎる。
「疲れているな」
ナルキが小声でつぶやく。
「……どこに行くんだろう?」
「だね」
メイシェンとミィフィが首を傾げあう。
ニーナはずっと、都市の外側にむかって歩いていった。都市の外側は、汚染獣が来たときや戦争をするときなど、いざというときにもっとも危険になりやすい。
そのため、だいたいの都市では居住を目的とした建物や重要な施設をつくることは、あまりない。だが、こういうところにある物件は家賃が安いため、あえてこういうところに住んでいる人もいる。
ローランドは、貧富の格差がはげしく、こんなところにしか家を借りることができない人もすくなくはない。
そこに戦争を行うときに、あえて相手の都市の接近の警報をあえて鳴らさず、そこにいる人を足止めにすることが、何年か一度行われる。
そして出てきた孤児のうち、剄脈がある者は、三○七特殊施設などの特別な孤児院に入れられ、ない者は人体実験に使われる。
だが、危ないとわかっていても、都市の外側しか暮らすことができない人があとを絶えない。それが、ローランドの実情だった。
ニーナは、建物がいっさいない外縁部にたどり着いた。
都市の脚部の金属のきしむ音が、はげしくライナの身体を攻撃してくるような錯覚を覚える。
ライナたちが風除け用の樹木の隠れるように影に潜む。そこから先は身を隠せるものはない。
放浪バスの停留所も遠く、見えるのは不可視のエアフィルターのむこう、汚染物質をふくむ砂嵐だけだ。
ニーナは段の少ない階段を降り、広場になっている空地の真ん中まで行くと、肩のスポーツバックをおろす。
剣帯に下げてある錬金鋼をつかんだ。
ニーナの口が、かすかに動く。
鉄鞭の姿になった錬金鋼を握りしめ、構える。深呼吸。
ニーナは左右の鉄鞭を振るい、たたきおろし、薙ぐ。そして防ぐ。
そのつど、ニーナの身体は左右に動き回る。かと思えば、同じ場所に留まる。そして、前進。
さまざまな型、さまざまな攻め。さまざまな守り。ニーナが体得しているのであろう動きを、すばやく、正確に成す。
その動きに遅滞はない。動きひとつひとつを取ってみれば、確かに無駄がある。 だが、鬼気迫っていた。
レイフォン以外の三人は、息を呑んでいるようだ。
メイシェンたちはすでに夕方に、ニーナの鍛錬を見ているはずだが、それでも驚きを隠しきれていない。
ライナはレイフォンを横目で見る。その眼には、喜びと悲しみと、ほかに何か別の感情が混ざり合っている複雑な表情を浮かんでいた。ライナは、またニーナのほうをむく。
ニーナの剄の輝きが、前に見たときより、かすかににごって見える。前に見たときは、眩しくて直視できないほどだったのに。それがライナには、すこし残念に思えた。
「むちゃくちゃだ」
レイフォンがつぶやいた。
ナルキたちは、おどろいたようにレイフォンを見る。
「……レイとん?」
「え? でも、すごいと思うよ? ねぇ……?」
ミィフィが言い、メイシェンとそろってナルキを見る。ナルキも、レイフォンの言葉の意味がわからないらしく、当惑の表情を浮かべていた。
「何が、問題なんだ?」
「剄の練り方に問題があるわけじゃない。動きに問題があるわけじゃない……」
――いや、動きに問題がないわけじゃない。
ライナは思う。活剄による肉体強化部位を全体にするのではなく、動きにあわせて変化させることで、動きはさらにはやく、鋭くなる。
またそれが、旋剄などの爆発的強化を起こす活剄の変化を瞬時に発動させる練習にもなる。さらに、活剄を動きにあわせて変化させるときに、筋繊維ひとつひとつに意識を行かすことができれば、さらに効率的になる。
だが、レイフォンが言いたいことは、そういうことではないはずだ。
「隠れて訓練してることが、問題なんじゃない。武芸者は、いつだってひとりだ。
どれだけあがいたって強くなるためには、自分自身とむかい合うことになるんだ。それは誰にも助けられない、助けてもらうことじゃないんだ。だけど……」
そこまで言って、レイフォンは首を振った。どう言えばいいか、わからないようだった。
「……ありゃ、無理が、ありすぎる」
ライナは独り言のようにつぶやいた。
ニーナの身体から活剄の残滓が、空にむかって漂っていく。それがライナから見て、ニーナの身体に活剄の残滓が巻きついているようだった。
まるで、おぼれているときに、服が水をすって重くなることで、自分ではどうしようもなく沈んでいくように見える。
「こんな鍛錬してたら、そう遠くないときに身体壊すぞ」
レイフォンは、ライナの顔を見てうなずく。
「それは、そうだな」
はっと気づいたように、ナルキはうなずく。
学校に行き、授業と武芸科の訓練、そして放課後に小隊の訓練、訓練後に個人鍛錬、学校が終れば機関掃除があり、そのあと、さらに個人訓練。
ニーナは睡眠時間は? 身体を休めているのか? 見るかぎり、機関掃除がない日も個人練習に使っているのだろう。
かといって、くそがつくほど真面目なニーナのことだ。ライナみたいに隙間時間を見つけては休んでいるわけでもなさそうだ。学生でもあるのだから、勉強もしていると思う。
確かに、ライナはかつて休憩時間がわずか十五分しかなかったこともあった。
それでも、常に身体を動かしていただけでなく、本を読む時間もあったし、移動時間もあった。
そのときにできるだけ歩きながらや本を読みながらではあったが、睡眠時間や食事時間などとっていた。
師匠であるジュルメも、今から考えれば、ライナの身体を壊さないように闘ってくれたし、活剄の技術を真っ先に鍛えてくれた。それでも、毎日死に掛けていたが。
何よりまだニーナの活剄には、無駄が多すぎる。このスケジュールで鍛錬すれば、そう遠くない日に倒れるのが眼に見えている。
「……止めないと」
メイシェンが言う。だが、レイフォンは無言だった。そして首を振る。
「……レイとん?」
いぶがしげに言うメイシェン。
「あたしたちでは、なにもできないか?」
ナルキの問いに、レイフォンはまた首を振る。
「たぶん……いや、わからない。今の訓練が無茶だって伝えることはできるんだ。近いうちに身体を壊すって言うことはできる。
でも、それに意味はあるのかな? 隊長があそこまでしてやってることの手伝いができないのなら、それは結局、無意味なような気がするんだ」
レイフォンは無力感にさいなまれた顔で言った。
「どうして今になって、あそこまで無茶をするのか……」
「負けたから?」
「そうなのかな?」
反射的に言うミィフィに、レイフォンは疑問でかえす。
「……すこしだけ、わかるような気がする」
ナルキが言うと、ライナ以外が注目する。
「この間、手伝ってもらって思った。レイとんが強すぎるんだ。だがら、肩を並べて闘うなんて、あたしなんかには到底無理だと感じたな。
感じさせられたというか、それ以外にどう思え、というぐらいだ。刷りこまれたって言ってもいい。
そのことをさびしく感じたし、くやしくも感じたし……正直、嫉妬もした。その力に頼ってしまうことしかできないのは、同じ武芸者としてつらいんだと思う。
同じ小隊でやらないといけない隊長さんは、あたしなんかよりも、強くそう感じたんじゃないかな?」
――みんな、まじめだよな。昼寝してりゃ、それなりに幸せなのに。
ライナは思った。
「それじゃあ、さらに僕は何も言えない……」
夜の暗闇の中でも、レイフォンの顔が青くなっているのがわかった。
「……どうして?」
メイシェンが口を挟んだ。え? と、レイフォンが聞き返す。
レイフォンに見つめられ、メイシェンは言葉を濁らせたが、すぐに唇を開いた。
「隊長さんが強くなりたいのはわかったけど、どうしてレイとんは何もできないの? どうして、レイとんだけで何かしないといけないの?」
レイフォンはメイシェンの言っている意味がわかっていないように、眼を見開いた。
「……隊長さんは、勝ちたいから強くなりたいんでしょう? 小隊で強くなりたいんでしょう? だったら、レイとんだけでなく、みんなで……」
最後の言葉は、メイシェンの口からは出てこなかった。
強くなればいい。それとも、協力すればいい。
どちらかだとは思うが、大差はない。
「協力?」
レイフォンが確認すると、メイシェンは顔を真っ赤に染め、うつむくようにうなずいた。
「協力……か」
「何か変?」
ミィフィが怪訝そうに言うと、レイフォンは首を振る。
「そうだな、それが普通か……」
ナルキがあごに手をやってしみじみと言った。
「俺はめんどいから、パス」
ライナがそう言うと、ナルキにデコピンをくらった。額が結構痛い。
「おまえというやつは……」
ナルキが怒りながら声を小さくそう言ったとき、ニーナが倒れた。
レイフォンが倒れたニーナを抱え上げると、迷いなくすごい速さで中心部にむけて走り出した。
どこに病院があるのか、レイフォンはわかっているのだろうかとライナはすこし心配した。
だが、すでにレイフォンは二回も入院していることをライナは思い出す。今さらだった。
ライナはナルキに腕をつかまれ、レイフォンが移動している方向に引きづられてむかった。
病院にたどり着くと、レイフォンが電話の受話器を下ろしていた。
「それで、隊長さんの様子はどうなんだ」
息をあらくしているミィフィとメイシェンを横目に、ナルキが言う。
「今、点滴の準備中。その間に、僕はハーレイ先輩に連絡してきたところ。詳しいことは、まだわからない」
ハーレイはニーナの幼馴染だと、機関掃除のときにニーナ本人が言っていたのを、ライナは思い出した。
「そうか……じゃあ、あたしたちはここで待ってるから」
「俺もここで寝てるから、あとはよろしく~」
ライナがだるそうに手をふって言う。
「おまえも、行くんだ」
ナルキがライナの正面にむかい合って言った。
「え~なんで俺も行かなきゃいけないんだよ。こんなにすげえ、眠いのに」
「おまえも、十七小隊の隊員だろうが」
すごく怖い顔をしているナルキに、ライナはため息をつく。
ライナが言おうと口を開く前に、背中を押しだされて、レイフォンのほうにむかった。レイフォンは、苦笑いをしていた。
ナルキたちに見送られ、ライナはレイフォンとふたり、並んで人気のほとんどない病院の廊下を歩く。
ライナが寝ながら歩いていたため、ニーナの病室を過ぎてこともあったが、なんとかニーナの病室にたどりついた。
ベットの上にうつぶせになっているニーナは、制服を脱がされ、背中の開いた緑色の病院着を着ていた。
その背中に、医者は眠そうな眼で見ながら、針を埋め込んでいく。ライナからではあまりよく見えないが、鍼が刺さっている部分は、剄の流れをよくするつぼだったと思う。
「剄の専門医よ」
看護師は説明するように言った。
「三年のニーナ・アントークだよな?」
医者はライナたちのほうにふり返ると、不機嫌そうに言った。こんな時間に起こされたら、誰だって機嫌は悪くなるだろう。
レイフォンは黙ってうなずく。
「まさか武芸科の三年がこんな初歩的な倒れ方をするとは思わなかったぞ」
「あの……重症ですか?」
レイフォンが恐る恐るたずねる。
「各種内臓器官の低下、栄養失調、重度の筋肉痛……全部まとめてあらゆるものが衰弱している。理由は簡単だ。剄脈の過労」
そうだろうな、とライナは思った。
「活剄はあらゆる身体機能を強化するし治癒効果も増進させるが、そもそも剄の根本は人間の中にある生命活動の流れ、そのものだ。
武芸者は剄を発生させる独自の機関をもちゃいるが、その根本まで変わったわけじゃない。いや、武芸者にとっては弱点が増えたも同然だ。壊れれば死ぬしかない器官だからな」
医者は言いながら、新たな鍼をゆっくり刺しこむ。腰のすこし上に流れている剄脈に一本、また一本刺しこんでいき、そのうち全身に広げていく。その鍼の列は何か図形を描いているようだった。
「脳は壊れても植物状態で生きていられることはある。心臓も処置が早ければ人工心臓に換えられる。だがこいつだけは、代替不可能だ。壊れたらおしまい。大事にしろって、俺は授業でそう言ったはずなんだけどな」
医者は言いながらも、滞りなく、鍼は埋められていく。学生しかいない学園都市といっても、なめたもんじゃないな、とライナは医師の技量に舌を巻いた。
「治りますか?」
レイフォンが声を絞り出した。
「致命的じゃない。今、鍼で剄の流れを補強しているところだ」
医師がそう言うと、レイフォンは安堵のため息をつく。
「だが、しばらくは動けないな。次の対抗試合は、無理だ」
「……ですか」
「ふーん」
「ん? あまり驚かないな?」
「そっちは、僕にとってはどうでもいいことです」
「そんなことより、今すげぇ眠い」
「十七小隊のルーキーたちは変わり者って噂は本当だな」
俺だって眠いさ、と医者は笑みを浮かべて言葉を続けた。そうこうしているうちに、鍼が手の甲、そして足のかかとにまで達していた。
左のかかとに鍼を差し込むと、医者は自分の右肩をもむ。
「あとは、一時間ほど待って鍼を抜く。それで普通の患者になる。明日からは、俺の患者じゃない」
そう言い残すと、医者はレイフォンとライナの肩をぽんと叩いて出て行った。
看護師たちも部屋の温度を調節すると、ライナたちを残して出て行く。
ライナはベットにいるニーナを見た。倒れた直後は息が荒かったが、今は落ち着いている。
「あ、ナルキたちが廊下で待ってるから、行かないと」
レイフォンは今思い出したように言うと、ドアのほうに歩いていき、ドアのところでライナのほうをふり返る。
「ライナは、来ないの?」
「俺は、ここで隊長さん見とくわ。二人で行っても、あんま意味無いだろうし」
そう、と言って病室を出て行くレイフォンを見送ると、ライナは椅子に座り、眼を閉じた。
レイフォンがナルキたちに報告してハーレイをつれて病室に帰ってきてしばらくすると、フェリが封筒を持って病室にやってきた。
探査子が持って帰った写真だ。そこには岩山の稜線に張りつくようにしている汚染獣の姿がはっきりと写っていた。
都市は、回避することなく、汚染獣のほうにすすんでいるようだった。このまま行けば、二日後の日曜には汚染獣の察知される。どの道、対抗戦は棄権するしかなかったのだ。
それを聞いたレイフォンは、なんともいえないため息をついた。