気がついたときには、完全に思い出していた。
原因不明の頭痛。そして奇妙な夢。それに歴とした意味があるとは、その時には到底思えなかった。
ところがある日、唐突にわかってしまったのだ。それが、自分の前世の記憶だと。
独りで暮らし、病に倒れ、独りで死んでいった私。今の「私」とは随分違う前世の私。
この世界での私は既に成人していて、それどころか二人の子供と夫がいる。
さらに……
私は、タバサことシャルロットの母親になっていた。
夫であるシャルルはまだ生きている。勿論、シャルロットはまだタバサではない。
そしてジョゼットはいない。前世の記憶を取り戻す前の私が、この世界の流儀に逆らえたわけもない。
私は知っている。前世の記憶の中にこの物語はある。「ゼロの使い魔」の物語が。
思いかえせば、この数ヶ月ほど妙な頭痛に悩まされ続けていたのだ。
どれほど高位な魔法医師も、高価な薬も効かなかった。
そして毎晩のように見る奇妙な夢。前世の記憶がなかった私にとっては悪夢すれすれの奇妙な夢だった。
それは前世の記憶。今となっては、他愛のない夢だと言い切れる内容だ。
この世界において馴染みのないモノ……自動車や冷蔵庫、テレビなどの出てくる日常生活の夢に過ぎなかったのだから。
私に、前世へのしがらみなどない。戻りたいとは思わない。
何もなかった独りぼっちの灰色の世界、それが私にとっての前世だ。
確かに、文明レベルでは話にならないだろう。しかし、この世界には愛する夫がいる。娘がいる。
私にとって、何事にも変えがたい宝がある。
私には、前世の知識などいらない。記憶すら要らない。
そう、思っていた。
物語の内容をハッキリと思い出すまでは。
私の知る物語において、私に選択肢はない。
物語に描かれた通りの道化を演じる道しかないのだ。
シャルルを救うことは出来る。ジョゼフとの狩猟会に行かせなければいい。
しかし、その場は救えたとして後はどうすればいい?
一度運命が狂えば、物語を知っている私のアドバンテージはなくなる。狂った歯車が他にどのような影響を及ぼすか。神でもないこの身にわかるわけもない。
夫を救うのは良いだろう。その後はどうする? ジョゼフは諦めるのか? 第二第三の暗殺はどうやって事前に知る?
いや、それだけではない。
タバサという存在が才人やルイズの前に現れなければ、物語はどうなってしまうのか。
タバサとシルフィードによって救われるというエピソードはどうなるのか。
例えこの場を乗り越えたとしても、大隆起を防ぐことが出来るのか。
エルフを止めることができるのか。
ジョゼフがシェフィールドを召喚すればどうなるのか。
何もわからない。一度物語が狂えば何がどうなるのか。
故に、タバサは生まれなければならない。
故に、シャルルは死ななければならない。
故に、私は狂わなければならない。
私は、ガリアの悲劇を見過ごさなければならない。
そうすれば、いずれシャルロットは助かることを私は知っている。それが如何に苛酷な道だろうと、乗り越えることを私は知っている。
私の狂気もいずれは癒えると知っている。
それでも私は、一抹の希望に縋ろうとしていた。
前世の記憶が間違いないとして、本当にここは物語の世界なのか。それとも、あまりにも類似した別世界なのか。
いや、私の前世の記憶すら眉唾物だとしたら。
しかし、刻一刻と迫るタイムリミットの中、間違いなく「ゼロの使い魔」の世界だいう事実が私に突きつけられ続ける。
私は、覚悟を固める。
夫を守ろうとすれば、全てを失う可能性が高い。
夫を諦めれば、娘と自分は助かる。
その決意は、誰にも漏らすことは出来ない。
そのはずだった。
私を気遣う侍女の言葉に、表情はきっと青ざめていたのだろう。
私の表情を見て言葉を繕う侍女に、もう一度同じ事を話させるのには苦労した。
侍女は、深夜に私がうなされているのを目撃していた。
私は、侍女には何のことか見当もつかぬ珍妙な言葉を並べていたというのだ。
それは、前世の私の身の回りにあったモノ、前世の私の病名、数少ない知り合いの名前だったりした。
その出来事は、私の計画にヒビを入れるには充分だった。
今の状態でそんなことを口走るというのなら、エルフの毒によって狂っている間、私は前世そのものを口走ったりしないのだろうか。
周囲の状況と隔絶された世界に追い込まれる毒なのだ。現実から最も離れている記憶は、当然前世のモノだろう。
いや、この世界の人間にとって意味不明な言葉を口にするだけならまだいいだろう。ただの狂人の戯言だ。
しかし、「私」が知らぬはずの事実ことを口走らないという保証があるのか。
知らぬはずのルイズ、才人たちの事を口走らないという保証はあるのか。
ルイズは虚無の一人である。ジョゼフが気付かぬと言うことはないだろう。それどころか、エルフの名前を口に出させばどうなる。
ジョゼフが私の中身に興味を持ったとき、どうなる?
アンドバリの指輪で操られ、知識を引き出されることすらあり得るかもしれない。
物語知識を得た狂王の振る舞いなど、想像したくはない。
私には、この世界での人生がある。
シャルルを愛し、シャルロットを愛した。前世では得られれなかった夫と娘を私は愛した。
前世の記憶が蘇ろうとも、それは変わらない。
私は、シャルロットを救いたい。ただそれだけなのだ。
そして、救う手段は一つ、物語を物語のまま進めること。
しかし、物語に突入することによって物語が崩壊する可能性があるとすれば。
答えは単純だった。
私が消えればよいのだ。
「前世の私」が消え、「この世界の私」が残る。
前世の記憶を全て失った私ならば、物語に対して素直に流されることが出来るだろう。
この世界にはいるのだ。記憶を消せる存在が。
だから、私は消える。
娘のために消えることを、躊躇う母親がいるだろうか?
お忍びの旅に出たい。と私は告げる。
絶景と名高い、アルビオンからの下界風景を見たいと。
この程度の我が侭は許容されている。今のガリアはまだ平穏なのだから。
そして私は、とある森に近い宿屋からそっと抜け出す。
そこには、少女がひっそりと住んでいる。
「私の生まれる前の記憶、それに関する記憶。全て消して欲しいのです」
賭だった。
断られる可能性もあった。
最悪の場合、私は適当な前世をでっち上げるつもりだった。前世が何者であったかとは関係なく、ただ今の自分のために消したいのだと。
少女は、突然現れたうえ正体どころか顔すら覆面に隠した私の望みに即、頷いた。その理由すら聞きもせずにだ。
一見意味不明な私の願いを。
思わず私は尋ねる。
「何故です」
少女は笑った。
「貴女が、悪い人にも嘘つきにも思えないから」
そうか。貴女はそういう人でしたね。疑うことを知らない、純真な少女でしたね。
ありがとう。
貴女も必ず幸せになりますよ、そう言いたいのを私は必死で堪えていた。
「お願いします」
私は、この森に来たことすら忘れる。
私はただ、我が侭気ままに夜の散歩に繰り出しただけの、はた迷惑で愚かな王族。
私はただ、娘を愛するが故に毒の杯を授かる母親。
私は知っている。どれほど苦しくても、シャルロットは救われることを。
そして「私」は、再びシャルロットに会えること。
私はこの場で消えるけれど。
シャルル、愛しています。
シャルロット、ジョゼット、愛してる。
さよなら、シャルロット。