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No.28977の一覧
[0] ルーチェ隊長はトラブルと出会ったようです【転生者はトラブルと出会ったようです 三次創作】[槍](2012/10/15 00:05)
[1] 『ルーチェ隊長は恋愛でトラブったようです』[槍](2012/07/01 00:47)
[2] 『ヴァンは同人誌でトラブったようです』[槍](2012/07/01 00:47)
[3] 『クラウスは以心伝心でトラブったようです』 ※シリアス、本編のネタバレ注意[槍](2012/07/03 22:43)
[4] 『プレラは別次元世界でトラブったようです』その①【長すぎるので分割更新】[槍](2012/10/15 00:04)
[5] 『プレラは別次元世界でトラブったようです』その②[槍](2012/10/24 00:37)
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[28977] 『クラウスは以心伝心でトラブったようです』 ※シリアス、本編のネタバレ注意
Name: 槍◆bb75c6ca ID:0df82b4f 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/07/03 22:43
 とある施設の共同食堂に、栗色の髪を持った1人の少年がいた。
 何かを考え込んでいるような、あるいは何かに悩んでいるようなその様子や雰囲気は、およそ10歳の少年が醸し出せる風貌ではない。

 彼の手に握られているのは1つの封筒。けれど封は切られていないようで、まだ中身は検めていない様子だった。
 宛名には少年の名が書かれていた。筆跡は幼い子供が書いたと思われ、お世辞にも綺麗な字とは言いがたい。
 しかし――必死で頑張って、真心を籠めて書いたのだな、と感じとれるその文字の温かさは決して汚いとは思えない。

「……パル、ロッサ……みんな……」
 
 少年は小さく呟く。感動に震えるように、後悔に苛まれるように。
 その心中には複雑な感情が織り交じって絡み合う。彼の眼から涙は流れてはいないけれど、しかしきっと心の中ではおそらく……。

 ――そんな時だった。『いただきます』と少年の“頭の中に”声が聞こえたのは。

「――ん?」

 “念話”と呼ばれる魔法がある。魔法の力を持つ魔導師なら誰でも使える一種のテレパシーのようなものだ。
 その声の感覚は念話にとても似ていた。不思議に思って少年は共同食堂を見渡すが、その場にいるのは彼と少し離れた場所に座った1人の赤髪の女性のみ。

 今は食事の時間にしてはかなり早いので空いているのは当然だが、これほど少ないのも珍しい。
 この場には少年と食事の前で手を合わせて合掌する1人の女性しかいない。それに念話の内容も含めると、必然的に彼女が少年に対して念話を送ったことになるのだが、どうにも腑に落ちなかった。

 そんな食事に対する感謝を彼女は彼に伝える必要があったのか、ということもある。
 だが何よりも不思議なのは、たとえ彼女がどんな優秀な魔導師であったとしても現状で彼女が魔法を使えるはずがないということだ。なぜならここは“収監者”の魔法使用を一切禁ずる“海上隔離施設”なのだから。

 海上隔離施設――ミッドチルダ海上に設置された巨大な施設であり、犯罪を犯したの魔導師達の収監所。
 簡単にいえば“刑務所”なのだが、この場所は監獄というより“少年院”と呼んだ方が適切だろう。
 収監されるのは大体が“更正の余地あり”と判断された若年者だ。それぞれに適切な教育を施し、彼らの社会復帰を目指すことがこの施設の目的かつ理念。

 そんな場所だからこそ、収監者は魔法や能力を封印した上で生活をすることになる。
 しかし、彼女は平然と念話という魔法を使っているのだ。それが不思議、というよりはありえない。
 施設の指定された服装をしていることから彼女は少年と同じく収監者なのだろうし、魔法の使用を許された看守や職員という例外には見えなかった。

『それにしても、ここの食事は美味しいですね。正直、食生活は捕まる前よりグレードが上がった気がします。ここでの生活は規則正しくて有意義で、なんというかまぁ……私のような罪人には過ぎた待遇ですよ、本当に』

 彼女の独り言――否、独り念話は続く。

『生活といえば、愛しの彼女は今頃どうなされているのでしょうか……私のことなど忘れて、日常を謳歌されていればいいのですが。あの時の私はどうかしていました。彼女の気持ちも考えず自身の欲望のままに行動するなど、人として失格です……』

 どうやら彼女には意中の女性がいるようだ。女性同士でも愛の花は咲くらしい。
 彼女が収監された理由はあまり考えたくはないが、しかしながらこの状況は――。

(ひょっとして、彼女は念話を発信していることに気づいてないのか?)

 魔法が使える理由は一先ず置いておいて、少年はそんな推測にたどり着く。
 彼女は少年に視線を向けないし、むしろその存在に気づいているのかすら怪しい。
 だとすれば本意ではないにしろ彼女のプライパシーを侵害してしまうことになる。

『はぁ……気が滅入って来ました……こんな時は彼女の写真でも眺めたいものですが、医師免許と一緒に没収されちゃいましたし……』

 まるでラジオ放送のように垂れ流しになっているとはいえ、少年はこのまま他人の思考を聞き入る趣味はない。
 それに彼女とて思考を聞かれたいなんて特殊すぎる趣味もないだろう。

(……とりあえず、念話が作動していることを教えてあげるべきかな)

 静かに立ち上がり、彼女の元へ行こうとして――。

『うう……見たい、無いとわかると物凄く見たくなるものですよねこういうのって……見たい、見たい見たい見たい見たい! ああ! ルーチェ隊長の麗しくも美しく至福にして至高の“内臓”を見たいー! 出来れば直に!』



 少年――クラウス・エステータは、全力で逃げ出した。
 



   『クラウスは以心伝心でトラブったようです』




 クラウス・エステータ、10歳。性別は男性。
 『聖王』を主神とする巨大宗教組織“聖王教会”に所属する騎士であり、魔導師ランクは近代ベルカ式陸戦AAA。
 柔らかな栗色の髪を持ち、表情の作りは整っていて生真面目そうでもあり優しそうでもある柔和な雰囲気を持っている。
 身長は歳相応であるものの、その肉体は若干10歳にして“騎士”という名誉ある称号に相応しく鍛えられていた。

 さらには“希少能力”と呼ばれるレアスキルの中でも更に珍しい『未来察知』を持っている。
 限定的かつ精密性に欠け、“視える”範囲にも限りがあるけれど、“数秒先の未来”を覗くその力は十二分の価値を持つ。

 愛用するデバイスはアームドデバイス『コルセスカ』。なんとこのコルセスカ、素晴らしいことに槍型である。
 もう一度言うが、槍型である。再三に渡り伝えると、槍型であり、驚くなかれ槍型だ。その洗練されたフォルムの美しさといったら、数あるアームドデバイスの中でも群を抜くといっても過言ではないのではないだろうか。

 今でこそ聖王教会の騎士として活躍する彼ではあるが、その過去を語れば凄惨なものである。
 彼は“転生者”だ。トラックに轢かれて目が覚めたら――といったどこかで聞いたことのあるような不思議体験から第二の人生は開始されたが、生まれ変わった“先”が大変だった。

 大規模な戦争が続き、食べ物にも飲み水にすら困る硝煙の匂いが渦巻いた世界、それがクラウスの生まれ故郷。
 流れ弾で頭を撃ち抜かれて死ねるのは幸福だ。衛生を気にしてはいられない状況下での感染病や疫病、果ては強盗や殺人、etc。
 “生きることがそれだけで命を賭けた戦い”などと、平穏な世界に生きる人々には理解しかねるだろう。
 そんな世界で、新たな親の顔も知ることの出来なかった子供が出来ることといえば、同じ境遇の子供達と集まって片隅でガタガタと震えることだけ。

 微塵の希望すらない世界が、世界といえるのか。それは地獄と呼ぶのではないか。
 何が正しくて、何が間違っていて、何が正義で、何が悪かなど彼らにとって関係ない。
 彼らが望むのは空襲に怯えることのない夜と、一枚のパン、そして綺麗な水。

 しかしそんな地獄も、クラウスが5歳の時に終わりを告げる。“時空管理局”の仲介によって。
 彼ら孤児達は管理局の手引きによって聖王教会の孤児院に引き取られた。何度望んだがわからない飢えと死のない平穏がそこにあった。
 魔導師として適性のあったクラウスはその能力と人格を認められ、中央の学園に特待生として入学する。
 ヴェロッサ・アコースやカリム・グラシア、シャッハ・ヌエラとの出会い。仲間達の“期待”や“希望”、そして故郷に戦争の犠牲となった仲間達の分まで頑張り続け、齢10歳にして騎士の称号を掴み取った。

 されど、幸せな時間は永遠には続かない。1つの戦争が終わろうとも、また始まりの撃鉄が鳴り響くように。
 時空管理局が一枚岩でないように、聖王教会もまた同じ。強硬派や穏健派といった派閥の政権戦争にクラウスは飲み込まれた。
 クラウスは仲間達の明日を守るため、友と呼べる者と袂を分ち、茨の道とわかりつつもその道を歩んだ。

 犯罪に手を染め、罪のないものを傷つけ、破滅を呼び込んで。

 すべてが終わり自身も逮捕されて、彼が手に入れたものなど皆無に等しい。
 何度も後悔した。何度も心で涙した。振り返れない道を選んだのだから、仕方ないのだと無理やり思い込んで。
 だけど、歩くのを止めるわけにはいかなかった。彼が犯罪の道を選ばざる終えなかった要因の1つである聖王教会に所属する強硬派のソナタ枢密卿による“工作”が無くなったといえど、未だ抱える問題は多いのだ。

 自身もまた、犯罪者の汚名を被ったままでは彼の仲間達が住む孤児院に迷惑がかかる。
 戦い続けなければならない。自身の消えない罪を、せめて軽くする為に。
 “闇の書事件”は終わりを告げても、彼の戦いは――まだ終わってはいないのだから。

 事件が終結した後、彼は裁判をかけられた。
 逮捕後の管理局への積極的な協力や情状酌量の余地を認められ、彼は牢獄ではなく海上隔離施設への移送が決定。
 期間としては十数ヶ月、本人の態度次第では更に短くなるという。無論、更正プログラムの終了後は管理局、そして聖王教会から何かしらのアクションがあるのだろうが、当人にしたところで破格ともいえる処置だった。

 そんなわけで現在のクラウスはこの場所で大人しく、それこそ模範的ともいえる態度で刑期を勤しんでいたのだが――。



「はぁ……はぁ……し、しまった。思わず逃げちゃった……」

 大量の汗を流し、息を切らせながら壁に寄りかかるクラウス。
 逃げたことを失態だと呟いているが、さきほどの狂気にも似た“感情”にあと数秒長く触れていれば発狂しかねなかっただろう。
 実に怖気走るような“愛”だった、実に狂気走るような“恋”だった。あの人はこの場所じゃなくて軌道拘置所とかに居たほうがいいんじゃないかとさえ思えるほどだ。更正プログラムってどうなってるんだ、まったく更正出来てなかったぞ……と考えて。

「――感情?」

 その言葉に、引っかかる。念話という魔法は発信者の“感情”まで伝えることはない。
 あくまで頭の中に“言葉”を思い浮かべて、それを発信するだけだ。無論、ニュアンスなどは伝わるだろう、それでもクラウスが恐怖するような“感情”や“意思”までは“受信しない”――いや、字面だけでも十二分におぞましいものではあったが。

 ともすれば、あれは念話ではなく言葉に出来ない意思すら伝達が可能な上位互換の魔法だ。
 そういう魔法もあるのか、と言ってしまえばそれまでだが、先も記述した通りここの収監者は魔法が使えない。
 仮に使えたとしても彼女自身、その魔法を使って他者に思考を伝心させているようにもみえなかった。

(どうする……)

 いまさら戻るのも、気が引ける。正直なところあの感情には二度と触れたくないクラウスである。
 関わり合うことは避けたいが、かといって放っておくのも可哀想だ。看守や職員に報告しておくか……。

『はああああぁ、まずいよなぁ。さすがに“0”が九個付く借金なんて笑いも起きねぇよ……』

 ――またか。そう思いながら聞こえて来た声と同じように溜息を吐く。
 彼女の時のように近くにいるのか、と探してみると少し離れた自販機の横に備え付けられているテーブルに、青髪の青年が頭を抱えながら、まるでこの世の終わりかと言わんばかりなオーラをかもし出していた。

『どう返済しよう……サークルは潰されちゃったし、もう本は売っちゃ駄目だし……』

 事業で失敗でもしたのだろうか、どうやら彼にはかなりの借金があるようだ。
 そしてこの施設にいることを考えるに罪状は察して然るべきだろう。

 しかしながら、この“声”もまた先ほどの彼女のように声だけではなく“感情”も伝わってくる。
 心底から溢れ出てる絶望感、どんよりと濁った湖のような、ほの暗いもの――例によって、彼もクラウスに対して念話に似た“それ”を使っているようには思えない。一体、この施設で何が起きているというのか。

『そりゃ、俺が悪いよ。悪かったと正直に思ってる。前の世界のノリで、こっちの世界の人の迷惑とか全然考えてなかったんだからさ。
 けど仕方ないじゃねーか……描きたかったんだもん、描きたかったんだよぉ……それで普通に働いても生涯返しきれない借金って、罪と罰の比率がおかしいだ――おお!?』

(っ!?)

 急に大声が頭の中に響いたものだから、びくっとクラウスは身体を振るわせ驚く。

『借金を背負った受けと、それを肩代わりにする代わりに無茶な要求をする攻めってシチュエーション……いいな、次の新刊に描こ――ってアホか俺は!? だからもう薄い本は作れねーんだよ畜生!』

 そんなことを考えている青年に、先の彼女とは別ベクトルの恐ろしいものを感じつつ。

(……今度は、ちゃんと教えておこう)

 そう思えるクラウスは、かなりお人よしの部類に入るかもしれない。
 今度こそはと早足で迅速に青年に詰め寄る。その間にも、青年の思考は伝わって――。

『――けどまあ、妄想するくらいなら構わないよな……ふむ……ヴェロッサとクラウス、なんて良さ気じゃねぇか』

 ヴェロッサとクラウス、なんて良さ気じゃねぇか。

 ヴェロッサとクラウス、なんて良さ気じゃねぇか

 ヴェロッサとクラウス、なんて良さ気じゃねぇか。

「はっ?」

 クラウスの足が止まると共に漏れた肉声。

「あぁ?」

 呆けた声をテーブルに座る青年も気づいたようだ。
 まるでチンピラのような声をあげてクラウスの方に顔が向く。そして両者共々、石のように固まった。



 ■■■



 感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する。
 感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する。
 感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する。

 意識は感染する。

 思考は感染する。

 感情は感染する。

 感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する。

 そして世界は――完成する。




 とあるノートに記載されたその文章を見て、時空管理局の制服に身を包む少年は表情を曇らせていた。
 そんな彼の後ろから、ひょこっと顔を出してノートを覗き見たもう1人の少年はその内容に顔をしかめながら管理局の少年に問いかける。

「うわっ、なんだそれ。黒歴史ノート?」

「艦で大人してろと警告したはずだが、プジョー」

「そうは言ってもなアスカ。デバイスの部品を買いに出るくらいいいだろう」

「君は犯罪者としての自覚がないのか!?」

「やれやれ、密入国したくらいで大げさな……」

「密入国は大ごとだ! 地球に続いて二度目だぞ!? 何回管理局の世話になれば気が済むんだ!」

「そんなことより目的の部品が手に入ったんだ。どうだ、お前のデバイスも改造してやろうか? 目算では出力が17%上がるぞ」

「む……それはいいな……」

「その分精密精が35%くらい下がるけど」

「三割下がるの!? デメリットがでか過ぎて釣り合ってないじゃないか!」

「臭さは89%増しだ」

「どんな魔改造をしたら臭さなんてステータスが付くんだよ!? 嫌だろ臭いデバイスなんて生理的に!」

「お前、臭いを舐めんなよ。臭さはこの世でもっとも防ぎにくい攻撃の上位に位置するんだぞ?」

「知るか! 僕のデバイスは君の姉さんが組んでくれたので十分に足りてる!」

 管理局員の少年はアスカ・イース、役所は執務官補佐。
 アスカにアイアンクローを決められてタップを繰り返しているのがプジョー・カブリオレ、デバイスマイスターだ。2人の関係は簡略すると、幼馴染という腐れ縁である。



 バインドで簀巻きにされたプジョーをしり目に、アスカはさらに捜査を続けていた。
 現在、彼らが居るのはある管理世界の一軒家。古風な造りだが所々傷んでいて、あと5年も持たないだろうと思えるほどに寂れている。
 かといって住人が居ないわけでもない。不動産の名義上では『ティキ・ニキ・ラグレイト』という男性が住んでいることになっているのだが――。

「約2週間前から、行方不明か……」

 一週間前、この世界の警察に彼の捜索届けが提出された。届けを出したのは彼の友人であるという。
 ティキと一週間近く連絡が取れなくなったのを心配して、友人が彼の家を訪ねると鍵がかかっていなかった。
 不振に思った彼が家に入れば、家具以外のほとんどが消えているのを見て呆然としたらしい。音沙汰がなくなる前は普段と変わらず、悩みを抱えている様子も無かったことから何らかの事件に巻き込まれた可能性があるのでは――という判断からだ。

 しかし、警察はすぐに動かなかった。否――動けなかった。
 なぜならその捜索届けが出されるほんの数時間前まで、この地域で大規模な怪奇事件が発生していたから。

 ――何百人という人間を襲った『思考が他人に伝わる』という奇怪な現象。
 集団催眠だとか、不味い電波が降り注いだとか、そんなふざけたものでは決してない。
 “思考感染”。事件の通り名がそれだ。新型ウイルスや悪質な魔法とも言われているが、正式な原因は不明。

 けれど調べている内に被害者達にはとある共通点が“2つ”あることを発見される。
 1つは、全員が魔法の源である“リンカーコア”を有していたということ。そしてもう1つが――事前に『ティキ・ニキ・ラグレイト』と思わしき人物と会ったということだ。

 捜索届けもなにも、そのことが判明してから最重要参考人として警察は彼の行方を追っていたのだ。
 けれど依然として影すら発見出来きず、もしも別世界に逃亡されたのならば探しきれないとして、その世界の政府から直々に管理局に解決依頼が舞いこみアスカが所属する巡航L級12番艦のチームが派遣され――今に至る。

「目ぼしいものは机の二重底に隠してあったこのノートくらいだったが、十分な収穫だね。ティキ・ニキ・ラグレイトは間違いなく“何か”をしていた――いや、しようとしているということだ」

 アスカは発見されたノートを厳重に保管しながら、プジョーに向かって話しかける。
 暇だったのか、それとも大人しくするのが苦手な性分なのか、簀巻きのままゴロゴロと転がるプジョーは動きを止めて、仰向けのまま言葉を返した。

「そのノートが本人のものだったら、だろ。例え本人の家から見つかったって筆跡鑑定が済まなきゃまだわかんないじゃん」

「それはそうだけど、十中八九一致すると思う」

「まあ、状況が状況だしその可能性の方が高いだろうな」

「思考感染事件は彼が起こした何らかの実験だったのかもしれない。“世界は完成する”か……君はどういう意味だと思う?」

 プジョー・カブリオレは一見すると不真面目で何も考えていないように思えるが、それは大きな間違いだ。
 確かに彼の行動は真面目とはいい難い。しかし真剣に物事を考えて生きている。だからといって許されることではないが、密入国などの犯罪も大真面目に考えての結果。

 大抵の人間には理解されないけれど、彼の“直観力”や“発想”といった右脳の働きはずば抜けているものがある。
 “デバイスマイスター”という職業に相応しい能力を、プジョーは兼ね備えているのだ。だからこそ、アスカはプジョーに尋ねた。
 何年とご近所付き合いしてきた仲だからこそ、彼の考えは時として真実を射抜くとわかっているから。

「……世界の完成ねぇ。方法はわかんないけど、個人の思考を他人に伝達することが出来るってんならそのまんまの意味だろ」

「というと?」

 首を傾げるアスカ。そんな彼に向かって、プジョーは不真面目な表情でけらけらと笑いながら――。

「“全ての人間に隠し事がなくなれば世界が平和になる”――ってガキの頃思ったことねぇ?」

 そう言った。



 ■■■



 場面は変わり、ここは隔離施設の通路。
 そこで2人の男が全力で走っていた。1人は少年クラウスと、1人は目の下に酷い隈を浮かばせる不健康そうな青年だ。
 しかしその青年、とても足が速い。大人と子供とはいえ、クラウスは鍛え上げられた騎士だ。トップクラスのアスリートとはいいすぎかもしれないが、それに近い速力はある。そんな彼の全力疾走から逃げられるほどに、青年はさらに速かった。火事場のクソ力とはこういうことをいうのかもしれない。

『何でクラウスさんがこんなところにいるんだよおおおぉ! 留置所にいるんじゃねぇのかよ!? 嘘っ、ここに移送されて来たのか!?』

「止まれ! 頼むから止まってくれ! 君はなんで僕のことを知ってるんだ!? というか僕とヴェロッサの名前で何しようとしてたこらぁ!?」

 少しばかりキャラが崩れるほどに必死で叫ぶクラウス。対して無言で必死に逃げる青年――だが青年の“思考”は何故か念話のようにダダ漏れなのでとてもやかましい。

『しかもなんか追っかけてくるしー! まずいまずいまずいクラウスさんまさか俺のこと、というかあの事件知ってる!?』

「あの事件!? 僕の名前を使ってなにかやったのか!?」

『え、ちょ、今の声に出してたか俺!? や、やばい、あのことがばれてるなら、いかなクラウスさんだとしてもボッコボコに……!』

 青年はそうそう考えて、さらに速度を上げた。一方、クラウスは少しだけ速度を落とす。
 なぜなら通路の先は行き止まりで、外の光景が見える窓ガラスが一つあるだけだから。
 追い詰めた、とクラウスは思った。けれどクラウスの脳内に彼の思考が伝わったその瞬間、思わず絶句してしまう。

「お、おい!? なに考えてっ!?」

『もうどうにでも――!!』

 速度を上げたのは勢いをつける為。両手を顔の前に構え、足に全力を込めながら――。

「ここは――!」

 クラウスは暴走する彼を止めようと手を伸ばすが、あと少しというところで届かない。
 彼は地面を蹴り上げて全身を跳躍させると――。

「施設の“4階”だぞ!?」

 “窓ガラスに突っ込んだ”。

「なれやあああああああああああああああぁ!」

 甲高いガラスの割れる音。粉々の破片は空中で太陽光を反射させ、それは綺麗なものだった。
 それから数秒、窓の手すりからクラウスは身を乗り出して下を覗き見る。

 風に攫われる木の葉のように舞う彼の身体。
 ここから地面までは約15メートルはあるだろうか。

「ばっ――馬鹿かー!?」

 クラウスの叫びももっともだ。下は固いコンクリート、少なくとも怪我ではすまないだろう。
 下手をすれば軽く死ねる、というよりこれでは完全に飛び降り自殺に他ならない。

 されど、運のいいことに彼の落下地点にはクッションになりそうなものが一つ。
 本土から物資を輸送してきたのか、大型の包装木箱が丁度置かれていて、その上に彼は落ちた――交通事故のような音を上げて。
 コンクリートに直接落ちるよりはマシだったのかもしれないが、それでも衝撃は著しいものがあっただろう。

 口を金魚のようにパクパクと動かしながら、クラウスは一瞬だけ放心状態に陥った。
 しかしそれも一瞬、彼の安否を確かめに行く為に最短ルートを思い描きながらすぐさま走り出す。

「くそっ!? なんてことをしたんだ彼は!? 生きてるんだろうな――!」

 これは誰の責任になるのだろうだとか、面倒くさいことをだとか。
 そのような感情を一切考えず見ず知らずの青年の安否だけを心配できるクラウスの人柄や性格は温かくも泣かせるものがあるだろう。

 けれども無常。この施設を脅かす“異常事態”は、彼の速く助けに行きたいという一心を妨害する。
 それは、彼が階段を下り施設の外へと繋がるラウジンに出た瞬間だった。クラウスは思わず立ち止まり、声すらも失って愕然と――。



『わけがわかんねぇ! なんなんだこれは!?』

「どうなってんだよ! この声止めてくれよ!」

「お前がそんなことを考えてる奴だったなんて幻滅だぜ!」

『ふざけるな! 俺はそんなこと思ってない!』

『なんなんだよこれ! なんで考えることが伝わっちまうんだよ!?』

「このクソ野郎が! お前となんて絶交だ! 二度と俺に近づくな!」

『それはこっちの台詞だゲス野郎! てめぇを良い奴だなんて思った僕が馬鹿だった!』

「落ち着いて! 皆さん落ち着いてください!」

『くっそ! 本土から応援を要請しろ! もうこの施設の局員だけじゃ対応しきれない!』

『その口と声を閉じろ犯罪者共がぁ!』



 蔓延する悲鳴。交錯する思考。敷き詰める人波に溢れる憤怒と悲哀。
 施設の出口を塞ぐ収容者と所員達が織り成す――阿鼻叫喚の地獄絵図。






 その光景を、巨大なモニターの設置された一室で椅子に座りながら楽しそうに眺めている人物が1人居た。
 しかし、それは“なんだろうか”。人間、人間ではあるのだが、見た目から判断しようにも、なんというか“曖昧”なのだ。
 逞しい男性のようにも思えるし、麗しい女性のようにも思える。愛くるしい子供かと思えば、熟成した大人にも思えた。

 まるで万華鏡を通して見ているような不可思議な感覚。
 顔をみればそれでも性別くらいは判断できそうなものだが、生憎とその表情は“仮面”によって覆われている。

「随分と楽しそうですね、盟主」

 その背後から現れたのは、聖王教会の正装に身を包む女性だった。
 年齢は二十歳そこそこといったところで、麗しい美貌に目を奪われる。
 だがどこかその美しさには影があり、背筋に冷たい物を感じることだろう。

「中々の見世物だからさ、シスター」

 盟主と呼ばれた人物はシスターに振り向くこともなく、モニターに目をやりながら呟く。

「――“喧嘩”というのはね、“真実”から起きることはそんなにないのだよ。大抵が勘違いだとか、すれ違いだとか、事故だとか、そいうことが発端なんだ。故にこそ喧嘩は解決が存在するし仲直りが存在する、実にくだらないサイクルでね」

 だから喧嘩なんてくだらない。勘違いから起きた喧嘩に何の意味があるというのか。
 だから喧嘩なんて意味がない。すれ違いから起きた喧嘩に何の因果があるというのか。
 だから喧嘩なんて終りがない。事故から起きた喧嘩に何の限りがあるというのか。
 忌々しそうに、さもつまらなそうに盟主は答える。

「真実を内包しない喧嘩など結局のところ“争い”などではなく唯のじゃれ合い。“行き着くところまでいかない”、しかしながらこの世に蔓延するのは大抵が“それ”でな」

 盟主はワザとらしく肩を竦める。残念なことだと嘯いて。
 そんな盟主に、ならばこれは違うのですか? とシスターは尋ねた。

「違う、全く違う。ドラえもんと21エモンくらい違う。これは真実から発展する“争い”だ。勘違いだのすれ違いだの事故だのそんな不純物は一切ない。本心と本心から始まる“戦争”といっても過言ではなく――いやはや、拾い物にしては、彼の能力は楽しませてくれる」

 心底楽しそうに盟主は笑った。聞くものを凍りつかせそうな、残酷な声で。

「それはそうと、その拾い物はどこへ消えたのでしょうか? モニターには映っていませんね」

「資料室だろうね。彼は“革命家”とはいえ酔狂だけでこんなことはしないよ。この混乱に乗じて目的の物を探しているのだろうさ」

「ああ、例の。しかし本当にあるのですかそんな物が」

「さぁ、私でさえ話でしか聞いたことがないからね。まあ、見つかるとしても手がかりだけだろう。彼の“理想”にはまだまだ時間が必要だということだ。しかし、もっと楽しいものはもうすぐだよ」

 その言葉に、シスターが反応した。

「もっと楽しいもの……? それは初耳ですね」

「そりゃそうだろう。言ってないからな」

 そこでようやく、盟主は椅子を回転させシスターの方へ振り向く。
 親指と人差し指を擦り合わせ、パチンと心地よい音を響かせながら盟主は目を向ける。

「実はね、私は“VS物”が好きなんだ。ゴジラVSガメラ、ウルトラマンVS仮面ライダー。スーパーマンVSバットマン。本来なら関わるはずもない物語同士が交じり合って、命を削りあう様は実に妄想を掻き立てられるじゃないか。
 自分が中心の世界ではすまし顔をした正義の味方が、無知を免罪符に英雄と言う名のエゴをむき出しで力をぶつける様など心が躍るよ。どちらが強くて、どちらが上か――もっとも、大抵の場合は最終的に決着がつかなかったりするのがそういうシリーズのお約束だ。でも、今回は違う。絶対に“決着はつく”、だからこそ楽しみなのさ」

「――彼が、誰かと戦うということですか?」

 その通り、と盟主は呟くと仮面の一部がきらりと光ったような気がした。

「どうだろうシスター、久々に賭けないか?」

 その言葉に、シスターは深く溜息を吐く。
 盟主が賭け事を持ち出す時は、決まって“結果”がわかっている時に限ることを嫌というほど知っているから。
 だから盟主との賭け事には勝った試しがないし、そんな賭けが楽しいわけがない。

「……はぁ。で、その賭けの内容はなんですの?」

「“思考感染”VS“未来察知”――どちらが勝つか、さ。無論私は、思考感染の勝利にベットさせてもらう」



 ■■■



 たとえば、現行犯の傷害事件であろうとも、その横で現行犯の殺人事件が起きた場合どちらに意識が向くだろうか。
 逃げた傷害犯と殺人犯――どちらを追うだろうか。事件である以上、どちらを追うという質問に正解はない。どちらも追わなければいけないのだから。

 されどどちらが“重大か”といわれれば、それは殺人事件の方に天秤は偏るだろう。
 怪我と死では、どうしても重さが違う。犯人にしたところで“危険性”だって桁違いだ。
 片方は怪我をさせたるだけで留められる意識を持っている。されどもう片方は殺せてしまっている。
 それが故意であろうとなかろうと、そんな人物を野放しに出来るはずがない。一刻も早く捕まえなければ。

 物事には優先順位がついてしまう。それは手が回らないからだ。
 対応が遅いだとか、そういうことは人手不足から起こる弊害に他ならず――。



「人が4階から外に落ちたんです! 速く医者と人を!」

 人波に揉まれながらも、クラウスはそれを掻き分けて前方の出口にバリケード張っている所員の元にたどり着きそう伝える。

「なんだって!? おい、落下事故だ! 医療班呼べ、俺もそこに――!」

「馬鹿言うな! この状況だぞ、ここから離れられるわけないだろう! 誰か手は空いてないのか!」

「全フロアでこの異常事態が起きてるんだ! 騒動による怪我人だって増えてる、医療班も人手もねぇよ!」

 所員は「くそっ」と自分自身に悪態をつく。現状では人命が関わっていそうなことすら優先することが難しいのかと。

「……わかった、連絡を感謝する! 君はこの“現象”に巻き込まれていないな? だったらその人のことは我々に任せて君は避難所へ――」

 所員が言葉を言い終える前に、クラウスの身は宙を舞っていた。
 とても10歳の子供とは思えぬ跳躍力を持ってして所員達の頭上を越え、外へと続く扉を開く。

「おっ、おい!?」

「安否を確認したらすぐ戻ります! 罰則だったらその後で!」

 クラウスの容姿は子供。だからこそ所員はそんなクラウスに対して“あやす”ように落下した人物を任せろと言ったのだ。
 なによりも彼の不安を拭うために。その優しさには頭の下がるクラウスであったが、所員の会話からあの青年の救護が出来ないことなど容易く察することが出来た。

 だったら、彼らが対応出来ないのなら自分が行く。あの青年が落ちたのは自分にも責任があるのだからと。
 ひょっとすれば刑期が延びるような罰則があるかもしれないが、人命がかかっているのだ。気にしてはいられない。



 建物の外に出た。顔を撫でる潮風、そして視界に映る大海原。
 だがそんな景色を堪能している暇はない。クラウスは全力で青年が落ちた先へと向かう。

 ――少しだけ説明を加えておくと、別段建物の外に出たからといって脱走には当たらない。なぜならこの建物が立っている土地もまたミッドチルダ海上に浮かぶ“施設”そのものなのだから。
 いうなれば海上隔離施設とは巨大な“艦”だ。人工的に作られた島といっても過言ではない。脱走に当たるのはその陸地部分から出た先――つまりは海に出てからが脱走として扱われる。

 数分ほど走って、ようやくクラウスの前に目的の場所が現れる。滑走路の敷かれた飛行場の近くに数個の大型木箱。
 輸送ヘリも止まっているところを見ると、輸送中にあの“現象”に巻き込まれてなし崩し的に放置されているのだろうか。

 その中の1つ、あの青年が落ちた木箱が目に入る。呻き声も『思考』も聞こえない。
 クラウスはすぐさまに木箱に身を乗り上げ、中を覗くと――。

 大量の『ミッドの美味しい水』とラベルの貼られたペットボトル。
 そして……巨大なタンコブを作り気絶しているあの青年だった。呼吸と脈を確認する――双方とも正常だ。コブ以外の目だった外傷もない。

「……はぁー……よかった……」

 うな垂れるようにクラウスは地面に手をついた。なんという強運、なんという都合の良い偶然。
 彼が落ちた木箱の中には本土から運ばれて来たらしい飲料水の山、それがクッションとなって大した怪我もなく無事とは――奇跡という他ないだろう。こんなこと、もう二度とあるものじゃない。

「よかった、無事で。本当に――よかっ――」

 クラウスが、二度目の安堵に胸を撫で下ろしたその瞬間だった。
 空を裂く風切り音が耳を撫でたかと思うと――刹那に聞こえるのは衝突音。

「っ!」

 驚いて、その音の場所を見た。すぐ横だ、おそらく音源は木箱の辺りに――。

「――コル、セスカ?」

 二度目の、驚きだった。なぜなら、木箱に“刺さっていた”のは自身の愛機だったから。
 ここに収容される前に、自身と同じくしてどこかへ収容されたはずのアームドデバイス『コルセスカ』の姿がそこにある。



「それが、貴様の得物だな?」



 静かな声だった。落ち着いていて、けれど凜と耳に残る。

「――――」

 クラウスは答えない。その変わり、見定めるようにその声の主を眺める。
 腰元にも届く白髪のような髪。日本刀のように鋭い眼差し、長身で逞しい体躯は一種の美麗なモデルを思わせた。
 その両腕には“籠手”――いや、“ガントレット”と言った方がしっくりとくる装備を身に付けている。
 ――誰だ? あのガントレットはデバイスか……そう思う前に、目の前の男の手に引き摺られていた“人間”がクラウスの近くへと放られた。

「なっ!?」

 咄嗟にクラウスはその人物を受け止める。ガントレットの男に見覚えはないが、放られた人物に見覚えはあった。
 名前は覚えていないが、確かこの施設の所長に位置する人間だ。それが、切り傷や打撲の痕を残して呻き声を上げている。

「う……あっ……」

「大丈夫ですか!?」

 頬を叩いて意識を確かめる。意識はあるようだが、息は荒く目線がブレていた。

『だ、大丈夫だ……す、すまない……』

 聞こえたのは“声”ではなく“思考”――掛け声に応対できるだけの意識は残っているようだ。

(この人も“思考”が……)

 しかし重症には違いない、早急に治療を受けねば取り返しのつかないことになりそうだが――。

「急所は突いてはない、が――出血は多い。少なくともこのまま放置すれば間違いなく死ぬだろうな」

 ガントレットの男は、拳を構えて冷酷にそう告げた。
 それを受けて、クラウスもまた低く冷たい声で問いかける。

「だったら、その構えを解いてそこをどいてくれないか」

「用が終われば、すぐにでも去る。その用事も、お前次第では簡単に終わるぞ――」

 その言葉から一呼吸置いて、ガントレットの男は更に目線を鋭く、深く、抉るように見開いて――。



「私の名はティキ・ニキ・ラグレイト。貴様には縁もゆかりも恨みもないが、“スポンサー”の要望だ――私と戦え、クラウス・エステータ」



 ティキ・ニキ・ラグレイトとクラウス・エステータ。本来ならば出会うことも戦うことも必要のなかった2人がここに集う。
 “さぁ、楽しい見世物が始まるぞ”、と――誰かの声が、聞こえた気がした。



 ■■■



 ――それは違う世界の遠い昔話。

 とある世界に1人の少年が公園の砂場で遊んでいた。見てくれは普通の、それこそどこにでもいそうな子供だ。
 けれど、その子供は普通の人間に備わっていなければならない――とても、とても大切なものが欠けていた。

「お前、俺に断りもなくなにこの公園で遊んでんだよ」

 少年に話しかけたのは、ガキ大将という言葉が良く似合う、幼い年齢にしてはとても大きな体を持つ子供だった。
 世界は自分が中心に回っているのだと疑わない生意気な性格の、これまたどこにでもいそうな子供。

「――――」

 少年は答えなかった。
 何も言わない少年に、ガキ大将は腹を立てる。自分が無視されていると思ったからだ。
 こんな“弱っちそうな”奴に無視されていては、自分の“こけん”に関わると、良くも理解していない言葉を反復し――。

「なんとかいえよ!」

 脅すように声を荒げる。自分が強気な態度でいれば大人以外の誰しもが自分のいうことを聞いた。
 だから、こいつもきっと自分のいうことを聞くはずだ。子供特有の考えだ、そして子供の世界ではそれがまかり通る。

 それでも、少年は答えない。

「……このっ!」

 カッとなって、ガキ大将は少年の肩を押した。バランスを崩して少年は砂場に倒れこむ。
 しかしすぐに起き上がり、背中と尻についた砂を払う。やはり、呻き声の1つもあげずに。

 ――目の前のこいつは、どれだけ俺を無視すれば気が済むんだ?

 ガキ大将の握りこまれた拳が少年の顔に入った。鼻血を流しながら再び砂場に倒れこむ。
 それだけじゃ終わらない。馬乗りになって、何度もガキ大将は少年を殴る。
 けれども、それでも――少年は声をあげない。何もいわない。だが、“反撃”はした。

 少年の拳がガキ大将の顔にめり込む。めり込んだとは言っても微々たるものだ。
 喧嘩なんてしたこともないような、力の籠もらないパンチ。ガキ大将を怯えさせるどころか、怒りを増長させただけ。
 結局、その一方的な殴り合いは子供を迎えに公園にやってきた大人に止められるまで、続くこととなる。



 後日、ガキ大将は頭にコブ、顔に青あざを作って、両親と共に少年の実家へとやって来ていた。
 表札に掘られた、少年の親の名前。その間に挟まれるように■■■■■という少年の本名があった。といってもそれは漢字で綴られており読めなかったので親に読んで貰ったのだけれど。

 インターホンが押され、しばらくすると扉が開かれる。中から現れたのは少年とその母親。
 ガキ大将の両親は瞬時にガキ大将の頭を押さえて何度も何度も謝りながら頭を下げる。

 『なんで俺が謝らなければならないんだ』と、ガキ大将は内心で悪態をついていた。
 彼からしてみれば悪いのはあの少年だ。自分を無視して、何も言わないくせして殴り返して来た。
 押さえられた頭に力を込めてガキ大将は目線を少年に向ける。大仰に絆創膏や包帯の巻かれた顔を見ると、自己中心的なガキ大将とは言えさすがに『やりすぎたか』と罪悪感が浮かんできた。

 ガキ大将は暴力的ではあっても、彼にとって暴力とは自身を認めさせる“装置”だ。
 これを使えば誰もが自分の思い通りになる、アラジンが持っていた魔法のランプにも似た便利なシステム。

 別に殴ることが好きじゃない。思い通りになることが好きなのだ。
 だから純粋に――傷だらけの少年を見て、ガキ大将は自然と心の底から。

「……ごめん、なさい……」

 そう思ったから、そう言った。

「――――」

 少年は案の定、答えない。
 こっちは謝ってるのに、これでも無視か! とガキ大将は憤怒する。けれどもう一度喧嘩を始める気にはならない。
 この場で手をだせばどうなるか、それをわかるくらいの学習能力は持っている。もうこいつとは絶対に係わり合いにならないでおこう、今度見かけても無視してやるんだからな。

 そう心で決めかけたガキ大将に向かって、無口な少年の親は切なげな表情を浮かべた。
 ガキ大将が何も言わない少年に対し内心で憤懣していることに気がついたのだろう。少年の親は少しだけ躊躇いがちに言葉を詰まらせてながらも――。

「ごめんなさいね……この子――1年前にちょっとした事故で……声が出せなくなってるの」

 そう、言い放つ。その言葉は、ガキ大将が僅かな年数とはいえ少しづつ積み重ねてきた“価値観”が全て崩壊するような、彼にとってそれほどに衝撃的なことだった。



 この両者の邂逅こそが、後に少年の“二度”の生涯を苦しめることになるなど――この時はまだ、誰も知らない。



 ■■■



「そこの餓鬼の魔力封印を解除しろ」

 ティキがそう告げた相手は、クラウスではなく血を流し地に臥せる所長。
 重症であるとはいえ意識は残っているし、所長クラスともなれば収容者に掛けられた封印魔法も解除することが可能だろう。

『ぐっ……なんだ、なんなんだこの男は……一体、何が目的で……』

「私の目的など知って、この状況下で意味があるのか?」

『……やはり、私の思考が――っ!』

 言葉に出していないのにも関わらず、脳内の言葉をティキはさも普通の会話をするように吐き出す。
 “先ほど”もそうだった。所長室で施設に起きた異常事態の対応に追われている最中、いきなり目の前の男は進入し暴行を加えてきた。
 曲りなりにも彼は魔導師達が収容されるこの施設の所長だ。仮に数人の高ランク魔導師を同時に相手しても鎮圧出来る実力を有している。

 というのに、所長は“手も足も出なかった”――否、まるで全てが“手の平で踊らされているように”攻撃が通じなかった。
 自身の思考を、戦術を、丸裸にされたような違和感。種を明かせば単純明快、文字通り思考を聞かれていたとは誰が考えつくか。

『君にも、聞こえているのか?』

 所長はクラウスに目線を向けてそう念じる。クラウスは静かに首を盾に振った。

「三度目はない――解除しろ、殺すぞ」

 背筋をうっすらと撫でたのはほの暗い殺意か。されどその意思を感じても、いや感じたからこそ横の少年の封印解除など出来ない。
 ティキと名乗る青年は危険だ、危険すぎる。理由はわからないが、少年との戦いを所望していることを考えるに封印を解除すれば一目散に襲い掛かってくるだろう。

「なっ……ごほ、ごほっ!」

 喉が潰されている、声が出せない。変わりに赤い血が滴り落ちていく。
 どうも内臓のいくつかがイカれているらしい。だが、思考を伝えることは出来るのならば――答えは言える。

『……舐めるな……お前がこの少年に何をしたいのかは知らないが、そんな脅しに乗るものか……!』

 ここに収容されているからには目の前の優しげな少年ですらまた、何かしらの犯罪者。
 されど、だからといってこのまま自分の変わりに戦わせるのも、危険な目にあわせる必要もない。
 彼は、ここにいる者達は“更正”出来ると、人生をやり直せるのだと判断された者の集まりだ。難しいことではあるが、過去の罪を清算し“やり直すことの出来る”権利がある。だというのに、その施設の所長である自身が収容者の1人も守れずにどうする。

 はいそうですか、と――屈してどうする。

 所長の身体は至るところから激痛が走りとても戦える状態ではない。
 増援を呼ぼうと先ほどから念話を発しているが妨害されているのか通じなかった。
 だったら、自分がここで時間を稼ぎ、少年を逃がしつつも助けを呼んできてもらうことが現状でもっとも効率的な策――。

「――貴様、何か勘違いしてないか?」

『……なに?』

「私が殺すと言ったのは――そこの餓鬼にだ。そいつと戦うのが目的ではあるが、別段このままでもいいんだよ。ただ本気を出して貰わないと要望と多少異なるというだけの話でな」

『……っ!?』

「貴様のその状態で、優先的に餓鬼を狙う私から守り続けられるというのなら――やってみろ。先も言ったがはずだが、三度目はない」

 ティキは右腕を前に翳すと、ガントレットに覆われた手の平に青白い魔力が集約を始めた。
 魔力弾だ。それも――非殺傷設定など当然加味していない凶刃の魔弾。その狙う先は無論、クラウス。

「……解除を頼めますか? 奴は私と戦うことを望んでいます。無礼を承知でいいますが、今の貴方じゃ時間稼ぎにもなりません」

 クラウスがそう静かに告げた。一人称を“僕”ではなく“私”と変更したのは意識を切り替えた証だろう。
 犯罪者として罪を償う少年はそこから失せ、覚悟を決めた戦士が一人在るだけだ。都合よくもクラウスの愛機は敵であるはずの奴が運んできてくれた。こと戦闘に関しては強靭という自負が少年にはある。そしてその尊大にも、或いは生意気とも取れるような所長への物言いは――。

「私は無力なまま殺されたくない。そして――本気で私を守ってくれようとする貴方を置いて、“逃げたくない”んです」

 ただ、そういうことだった。
 自身の命に変えてもこんな自分を守ろうと思ってくれた“思考”は、クラウスにも十分に伝わっているのだから。
 きっと所長は良い人なのだろう。自分の立場を誇りに思い、全うに真っ直ぐ己の信じる道を歩く大人なのだろう。そんな立派な男を見捨てることなど、クラウスはしたくない。

『だ、が……』

 所長の頭の中には二つの考えがある。
 1つは先の、例えクラウスという少年が如何な実力を持っていようとも戦いに巻き込むわけにはいかないということ。

 そしてもう1つは、“本当に解除してもいいのか”という疑惑。
 事態を多方面から客観的に観測することが彼らのような“上に立つもの”には求められる。

 最悪の事態から最善の事態、複数の可能性を考慮でき、そこから最善手を打てるからこそ所長という地位に彼は納まった。
 だからこそ、どうしても考えてしまう。“或いは、この状況はこの少年の封印を解除させる罠”ではないのか。敵対を煽っていながらその実、実はガントレットの男はこの青年の仲間で、脱走を手助けしに来たのでは。

 元より状況が奇妙だ。なぜ“こんな場所で、こんな所で奴はこの少年と死闘を望む”。
 本気の戦いを所望ならこのような状況下で戦わなくても手立てはいくらでもある。否応にも、そんな考えがちらつく。勿論、この思考も目の前の少年に伝わっているだろう。

「私が奴の仲間ではない、という証明は……今は戦うこと以外で立証できません」

 クラウスは、真剣な面持ちでそう答える。他に答えようがない。
 自身もこの“事態”に感染して思考が伝達するようになっていれば話は別だろうが。
 信じてもらうことは難しいのだ。言葉で幾ら語ろうとも信用も信頼も生まれない。

「――頭の固いことだ。いや、寧ろ柔かいことだと褒めるべきか」

 もはや我慢の限界だと言わんばかりに、ティキの作り出した魔法弾が唸りをあげる。
 その光景に焦りを感じるクラウスと所長。もう一刻の猶予もない。

「ならばそのまま――脳漿散らせ!」

 轟と音をあげて青白い魔法弾は螺旋を描き、疾風の如く空を切った。
 目標に着弾した魔法弾は噴煙が吹き荒れるほどの爆発を起こす。2人を包み込む粉塵――風が吹き、視界がはれたその中から現れたのは真円形の魔法陣。

 プロテクションと呼ばれる防御障壁。それを形成したのは最後の力を振り絞った所長だ。
 その右手には半壊した所長のデバイスが握られている。それと同時に、左手から放たれた光の術式がクラウスを包んでいた。

『……すまないっ……』

 苦渋の決断だった。このままでは2人とも危険で、他に方法はなかったとしても。
 最悪の可能性に目を瞑り、結局は自身の力不足で守るべきものを巻き込んだ事実はその心を抉る。されどその“思い”は、傍に佇む“騎士”に痛いほど伝わっている。

「――ありがとうう」

 たった一言、礼を述べる、他の言葉はいらない。
 猶予のない極限の状態での選択ではあったが、それでも最後には自分を頼ってくれた。ならばその恩には――行動で返すのみ。

 封じられていたクラウスの魔力が雄叫びを上げる。
 贖罪に行事する日々でもイメージトレーニングは欠かさなかった、ブランクなどあるものか。

「そう、それでいい」

 ティキの口端がゆっくりと吊り上った。
 木箱に突き刺さる相棒を引き抜き、クラウスは瞬時に騎士甲冑を構成し駆ける。その速度は弓より射られた矢のようだ。

(一瞬で、終わらせる!)

 時間をかけている暇はない。所長は重症の身体に負担がかかるのを承知の上で魔力を消費した。
 出血も酷くなっている、一刻も速くこんなくだらない戦いは終わらせて医者に見せねばならない。
 ならば出し惜しみは無用。初っ端から全力を叩き込む。ティキ・ニキ・ラグレイトと名乗った彼が言うように、縁もゆかりも恨みもないが“殺す気”でそちらが来るというならそれ相応の対応をしよう。

 数秒先の未来を観測するクラウスの稀少能力『未来察知』による“先読み”からアームドデバイス・コルセスカによる一閃。
 この戦術を鍛え上げてから、仕留めきれなかった相手は両手で数えるほどしかない。命を賭けた戦闘回数の少なさ、というのもあるが、それを抜かしても一対一なら純粋に隙がなく効果的で、強力。

 しかし弱点がないわけでもない。いや、クラウスからしてみれば未来察知という能力は難点だらけだ。
 未来察知の使用継続時間は約1分弱と短い。それを過ぎれば少しの間は使用が出来なくなる上、集中力の低下を招く。
 更に未来が視えるのは視覚内限定であり、精密に視ようものなら無限に存在する“可能性”を見てしまう為に、精度を落とさなければ情報処理をしきれず脳が焼ける。

 細かいものをあげればキリがない。それでも、今はこの能力に頼らざる終えなかった。
 これこそが自身の持てる最大の力なのだから。さらにいってしまえば目の前の敵には“思考を伝染させる”何かしらの能力があるとみていいだろう。この施設で猛威を振うそれの原因はきっとこいつだ。

 思考を読まれるなど、未来を見ることに勝るとも劣らない厄介さだ。
 戦闘においてのアドバンテージは計り知れないだろう。故に、決着は短期決戦が望ましい。自分が敵の術中に嵌る前に、一撃での粉砕が求められる。

 現在、ティキとの距離は目測で4メートルほど。
 この間合い、白兵戦での中距離戦闘こそ槍兵の独擅場。未来察知を発動し数秒後の未来を視ながら、クラウスは槍に力を込める。

 “地面に向かって魔力弾を放つ”。

 それが未来察知により得た未来の光景だった。

(煙に紛れて攻撃する気か!)

 クラウスは瞬時にティキの目論見を看破する。
 ならば、あえてその戦術に乗ってやろうとあえて無造作に突っ込んだ。

「はぁっ!」

 未来察知に間違いはない。ティキは地面に向かい魔力弾を放つ。
 先と同じくして土煙が辺り一体に蔓延する。クラウスは構わずその煙の中に飛び込んだ。

 “右斜め上から奴のガントレットが自分を狙って飛び出してくる”。

 予測通りだ。敵は自分が“作戦に嵌った”と税に入っていることだろう。
 それがすでに破綻した戦略だとも知らずに。

「そこっ!」

 未来を知るという究極の先読みから繰り出されたクラウスの、空を切り裂くカウンター。だが――“手応えがない”。

「え――!?」

 ただコルセスカは空を縫っただけだった。
 そこにあったのは、クラウスに向けて、“放り投げられた”ガントレットのみ。

(さっき見た光景は、これだったのか――!)

 なぜもっと深く視なかった、自分自身でそう後悔するも、もう遅い。

 “左側から頭部に向けて攻撃がく”。

 頭部に走る衝撃。そしてバランスを崩しての派手な横転――だがその横転はクラウス自ら行ったことだった。
 殴られる寸前に見えた未来に、寸でのところで対応できた。迫る拳に合わせて逆方向に身を投げることで少しでもダメージを受け流したのだ。

 それが功を成して、決定打にはいたっていない。軋むような頭痛と視界が僅かに揺れるが言ってしまえばそれだけ。
 いくらでも仕切り直しは出来る。しかし――クラウスは思う。今のティキの戦い方は間違いなく未来察知の能力を知っているとしか思えない戦略だったと。

(くっ、奴は僕のことを知っていて戦おうとしていたんだから、この能力が暴かれていることくらい考えつくだろう! 馬鹿か僕は!)

 不甲斐ない自分に激怒する。ここに来て、“実戦”の少なさが表に出た。
 クラウスは聖王教会に鍛え上げられた騎士であり、基礎能力は高い。だがそれを培ったのはあくまで膨大な“訓練”だ。
 “自身の能力を知られていること前提”で戦った実戦などほとんどない。能力を知っている相手との戦いなど、大抵が顔馴染み同士で。

(“彼”に負けてから、何も成長しちゃいない……!)

 地面で回転しそのまま反動で体勢を立て直す。奴はどこにいった、攻撃を受ける未来は視えないが――。
 そう考えた瞬間、所長から雄叫びにも似た“思考”が伝わってきた。

『少年! 気をつけろ! 君はもう――!』

 クラウスは背後を振り向く、所長は一体何を自分に伝える気だ?
 ――しかしその答えは、出なかった。

「黙れ」

 いつのまにか、所長の背後に移動していたティキが右腕に残されたガントレットを真っ直ぐに、全体重を乗せ振り下ろしていた。
 “ぐちゃり”、と聞くに堪えないグロテスクな音が風に流れて聞こえてくる。所長の“思考”が、聞こえない……もう何も、聞こえてこない。

(え……?)

 その現実に思考が停止する。

 されど――それもまた一瞬だ。次の刹那にはその現実を、理解出来てしまった。

 所長が、殺された。

 “こんな簡単にもあっさりと、自分を助けようとしてくれた人が殺された”。

「きっ――貴様ああああああああああああああああぁ!」

 クラウスの思考を荒れ狂わせるには十二分の光景。
 自身との戦いを望んでいたはずなのに、なぜ真っ先に所長を殺す必要があった? そんな問答をする前にクラウスは咆哮を上げながら動きだす。

 “奴は動かない”。

 まだ限界時間を超えていない未来察知が未来の情景を伝える。
 関係あるか、いや、動かないというなら寧ろ好都合。それに例え奴が何をしようとも――その身体を一切の容赦なく貫くのみ。
 このとき、もはやクラウスに冷静さなど欠片も無い。“守れなかった”という冷たい現実が、クラウスの脳内に怒りという名のアドレナリンを大量分泌させていた。

「未来が視える、なるほど、素晴らしい能力じゃないか。だが――」

 “奴は動かない”。

 “奴は動かない”。

 “奴は動かない”。

 “■■■■■■”。

「私も()えているぞ”、クラウス・エステータ」

 “奴の右拳が自分の顔を貫く”。

 確定されていたはずの未来は、たった一瞬で――改竄された。
 その未来をクラウスが知ったのはすでにティキに向けて一閃を放っていた後。
 まるで児戯を相手にするように軽々とティキはその一閃を避けると同時に、クラウスの勢いをも乗算したカウンターがクラウスの顔面に叩き込こまれる。

 クラウスの頭が鮮血を噴出しながら跳ね上がった。
 容赦無く放たれた鋼鉄の鎧を纏う拳の一撃はクラウスの頭蓋を軽く粉砕する威力を秘めている。
 されど――先ほど自ら攻撃方向のベクトルに合わせて転んだように、このカウンターもまた合わせて頭を振る。
 拳は直撃ではなく皮一枚を裂いただけ。まともに直撃すれば脳漿をぶちまけていたかもしれないことを考えるに価千金の行動、未来を視ていたからこそ出来た対応だといえる。

 “左腕に■る鳩尾に向か■ての追撃”。

 軽減したとはいえそれでも多大なダメージはある。未来察知の映像にもノイズが走るほどに。
 だが精細でなくとも大体は理解出来た。ティキは真っ直ぐに伸びた右腕を速攻で下段に戻し、その反動を利用して流れるような左拳の連撃を自身の鳩尾に打ち込もうとしているということを。

(――がっ……よ、避けて迎撃、を……)

 思考が安定しない。脳漿の荒波に揺らされて頭痛が酷い。
 咄嗟に、クラウスは舌の尖端を力いっぱいに噛んだ。脳天に響く激痛と口に広がる鉄の味。
 即興の“気付け”には存分に効果。痛みによって奪われた思考は痛みによって取り戻す。

「づぁっ!」

 未来察知の映像と同じ行動を再現するティキ。
 彼の背後へ振り戻る血に染まった右拳。同時にカタパルトから放たれたパトリオットのように空を奔る左拳。

「こっ、のおおおおぉ!」

 ティキの拳の軌道はアッパーのそれに近いもの。鳩尾を狙うには最適だろう。
 それを避け、今度こそ反撃の一撃を――。



 “左腕に■る鳩尾に向か■ての追撃”。

 “■■■■■■■■■■■■■■■”。

 “顎に向かって振り上げられる左拳”。



「――ぐっ!?」

 またしても、未来が変貌した。
 鳩尾に来るのを前提とした行動は、クラウスの顎を無防備に晒してしまっている。
 クラウスの鳩尾を狙っていたはずの拳は軌道を変え、クラウスの顎をぶち抜いた。

 今度は、完璧なまでの直撃だ。先程のガントレットを囮に使い捨てた方の裸拳であった為、致命的な損傷ではない。
 それでもティキの全体重を乗せた渾身の左アッパーだ。数センチほどクラウスの身体を“浮かせる”威力は備わっている。

(――“あの時か”)

 暗転する視界。転覆する思考。
 ただぼんやりと、受身を取ることすら考えれずに――。

(あの時、所長が僕に伝えようとしていたのは……僕の思考が“伝心するようになった”ということ……)

 もはや、そうとしか考えられない。
 未来をこうも簡単に変革させることが出来るのは同じ未来を視る者だけだ。
 予測する未来を元に行動したクラウスの“思考”でも読んでいなければ、こんなことは不可能なのだから。

 どさっ、とクラウスは背中から地面に叩きつけられて――目の前が、真っ暗になった。



 “未来を知る”という先読みのカウンターが究極ならば。
 “思考を知る”という先読みのカウンターは――最強だ。



 ■■■



 モニターに映し出されるのはクラウスが一方的に圧倒される光景だった。
 全ての攻撃を避わされ、全ての攻撃を受け、まま成らぬとばかりに地面に倒れ――ティキの鋭い双眸と哀れみを浮かべた嘲笑が小さな騎士を見下す。

「圧倒的ですね。まあ、相手が盟主のお気に入りとはいえ“ヴァン・ツチダ”に負けるような男ですから、仕方のないことかもしれませんが」

 賭けの負けを確信しながら、といっても元々“勝つ”という望みなど微塵も浮かべていなかったのだが。
 ……ともかくシスターはすでにこの時点で勝敗の有無に興味は失せていた。されど、“何故、拾い物のティキ・ニキ・ラグレイトとクラウス・エステータを戦わせる必要があったのか”という理については、幾分かの興味はある。

「これ、なんの意味があったんですか? 力量を測るにしても力量さがあり過ぎて参考になりませんし。所長という重要人物が攫われたというのにあの場所に“誰もこない”ということは、拾い物の他に何人か手駒を送り込んで妨害させているということでしょう」

 ティキの戦闘能力を確かめたいのなら、彼自身にあの施設に用があったとしても一々そこの収容者と戦わせる必要はない。
 盟主の手ごろな駒の誰かと戦わせれば済む事だ。さらに、まともに戦うためには封印を外さなければならないクラウスという条件を考えれば余りにも対する労力と釣り合いが取れない。

 しかし、盟主は遊びが好きで戯れが好きでおふざけが大好きだが、そのどれをとっても意味のないことなどしたことがない。
 無駄ではあっても、無意味じゃない。それは似たようでまるっきり別の意味合いだ。例えば、何気ない日常でふと息を思いっきり吸い込んで長らく呼吸を止めることは、はっきり言って無駄なこと。

 けれど、それは“呼吸をしている”ことには間違いないのだ。
 息を止めることが無駄であってもその前後には呼吸という生活においてなくてはならない運動を行っている。
 盟主の遊びは、戯れは、おふざけはつまりそういうこと。体温調節や陰部の保護を目的とした“衣服”を豪勢に飾りつけることが意味を成すように――この戦いもまた“意味”はあるのだろう。

「“彼の能力で互いが互いの醜く薄汚い本心を曝け出される犯罪者達の阿鼻叫喚たる無様さを見たかった。”
 “友を切り捨ててまで選んだ道が意味のないものであったことに絶望する少年をさらに地獄の底辺に突き落としたかった。”
 “アニメのような頭脳戦飛び交う能力バトルをテレビの前で心躍らせる少年のように鑑賞したかった”」

 はっはっはっ、と盟主は笑いながら嘯く。

「意味なんてそれこそ無限にあるのだよシスター、私にとってはな。まぁ、君が納得する理由としては――そう、能力の再確認という所か」

「思考感染の能力を?」

「“両方さ”。この前、闇の書事件を振り返ってみたのだが、どうにもヴァン・ツチダと戦ったクラウス・エステータの持つ“未来察知”という能力に違和感を拭えなくてな。それで彼のことを“少し”調べてみたんだが面白いことがわかったよ」

「面白いこと……まさか彼もまた“同胞”だとでも?」

「鋭いな、その可能性が高いと私は見ている。まぁ、今は同胞であろうがなかろうが関係はない。
 私が注目しているのは彼の能力だ。未来察知、その名の通り未来視に類する能力ではあるが――彼は、能力の使い方を“間違えている”気がする」

 振り回されている、と言い換えても言いがな。そう盟主は付け加えて。

「それを確かめたくて、思考感染をぶつけて見たのだが……」

 モニターに目を移す。圧倒され、蹂躙され、足蹴にされるクラウスを見て――溜息。

「これじゃ、約束の“10分”すら持たない。期待外れ、というより期待のし過ぎか。残念だシスター、君が賭けた大穴は来なさそうだよ」

「そもそも賭ける対象の選択権が私になかったわけですが」

「残り物には福があるという言葉は愚か者の戯言だったという訳だ」

 ――しかしこうなっては、無垢な少年が屈強な大人に嬲られることしか楽しみがなくなるぞ。
 万象上手くいってしまう賭け事も存外つまらぬものだ。一波乱くらいは起きて欲しいが。そう思って、再びモニターに目を移す。

 血を流しながら、それでもコルセスカを杖代わりにして立ち上がろうとするクラウス。
 そしてそれを一概の容赦もせず叩きのめすティキ。殺意の籠もった拳が子供の身体にめり込む様は心踊るものがあるけれど――。

「それが援助の条件だとしても――何が彼をそこまで突き動かすのか」

 本当、天才だの凡人だの常人だの狂人だの革命家だの転生者だのと、世の中には色々な奴がいるな――という盟主の呟きは、虚空に消えた。



 ■■■



 ――それは違う世界の少し遠い昔話。

 数え年にして15歳。声の無い少年は気弱そうな印象を残してはいるが、順風な成長を遂げていた。
 けれどその気弱そうな印象が問題なのかそれともそういう星の下に生まれたのかは定かではないが、またまた絡まれている。
 今度は1人ではなく複数人。所謂、不良やヤンキーと呼ばれる彼らに包囲され、体を震わして怯えながら縮こまっていた。

「なぁ僕ー。ちょっとお兄さん達に金貸してくれねー? 大丈夫大丈夫、今度会ったとき返すからさー」

 もはやそんな常套句を使う不良など息絶えたかに思えた近代、彼らは絶滅していなかったらしい。
 声が出ないほどに震えてるな、このガキちょれぇや。そう確信してニヤニヤといやらしい微笑みを浮かべる不良の1人は、何回か殴れば財布置いて逃げるだろと握り拳を振り上げて――。

「俺のダチに何してんだクソ共がぁ!」

 突如飛来した学生服に身を包む少年のドロップキックによって蹴り飛ばされた。
 バランスを失って衝撃のままに不良の身体が向かう先はコンクリートで作られた塀。
 ゴッ、と鈍い音を鳴り響かせ、そのまま不良はズルズルと崩れ落ちる。

「な、なんだてめぇ!?」

「おまわりさーん! こっちでーす!」

 学生服の少年が大声を上げた。
 不良連中は警察という単語に反応してこりゃやべぇと気絶した1人を担いで一目散に逃げ出した。

「……ま、サツなんて呼んでねぇけどな」

 こんなのに騙されるなんてどこまで古典的な不良なんだよあいつらは。
 そう思って小さく笑いながら彼は声の無い少年に近づいていく。

「大丈夫か? ■■■。ここら辺は不良が多いから近づくなっていったろ」

 ■■■と呼ばれた少年は学生服の少年を見るやいなや安堵の表情。
 そしてポケットから携帯電話を取り出してぽちぽちと操作し、携帯電話の液晶画面を見せた。

【大将がこの近くに居るって聞いたから探してた】

 液晶の中には声の無い■■■の心情が綴られている。
 声が無い少年が得た意思疎通の方法。それは『文字』。一般人に浸透していない手話などよりも簡単でわかりやすい発想である。

「……まあ、俺は携帯もってねーから一旦外に出ちまえば連絡つかなくなるけどさぁ。だからって危ないとこに近づくなよ、お前ただでさえなまっちょろいのに。家にでも言付けしてくれりゃ明日にでも会えたろ」

 この馬鹿。そんなことを言いながら大将と呼ばれる少年は■■■を小突いた。
 てへへ、と人懐っこい小動物を思わせるような笑みを■■■は浮かべる。

「で、なんの用があって俺を探してたんだ?」

 再び■■■が携帯を操作する。

【ポップン、新曲が入った。一緒にやりに行こう】

「お、マジで? いいじゃん行こうぜ――つーかこんだけの為か!?」

【うん】

「……お前なぁ」

 ■■■はまた笑った。
 大将も、それは苦笑に近かったけれど確かに笑う。



 あの日、公園で喧嘩を繰り広げていた2人の少年は、数年の時を経て親友と呼べる間柄になっていた。
 ガキ大将だった少年はそのまま大きくなったという感じで、けれども自分本位だった性格は消えている。
 大人になっていくその精神に根付くのは徹底した『弱いもの虐めの否定』。弱者を助け強者を倒す、そんな“正義のヒーロー”染みた主義と思想を持って生き抜く彼は“大将”という“あだ名”の通り大勢の人間に頼られるまとめ役となっていた。

 ヒーローなんていないのだと、きっと誰もが一度は思う絶望がある。
 ヒーローにはなれないのだと、きっと誰もが一度は思う失望がある。

 けれど大将は違っていた。万人の求めるヒーロー像とはかけ離れているのかもしれないけれど。
 万人が求める正しき行動とはいえないかもしれないけれど、それでも彼は■■■と出会ってからそれを続けたのだ。

 ■■■のような弱者を助け、自身のような強者を倒す。

 あの日の邂逅は、大将がそのような思考に変貌するほどの衝撃を与えられた。
 誰しもが会話出来るのが当たり前だと思っていた少年が出会った“言葉を話せない少年”。
 会話が出来ない、話が出来ない、したくてもままならない――それは果たしてどれほど辛いことなのか、生まれて始めて考えさせられた。

 大将は一度試してみた。言葉を話せないとはどれほど不便かを体験する為に“一切合切喋らない”という方法で。
 その結果――わずか3日で“死にたくなった”。挨拶を返さない者に挨拶をする者が現れるわけもなく、話題を振りかけても話題を振ってこない者に話しかけるものなどいない。

 たった三日で、大将は“ひとり”になった。その結果に大将は恐怖に身を包まれてガタガタと震える夜を過ごす。
 “ひとり”になったことが怖いのではない。大将自身は話せるのだ、言葉が出せるのだ。『昨日まで喋らない罰ゲームをやってました』なんて嘯けばまた普段の皆と会話が出来る日々が戻ってくるだろう。

 怖かったのは、本当に怖かったのは――“言葉を話せなければ人は一瞬で孤独になってしまうという事実”。
 “あいつはこれを事故が起きたその日から味わい続けて来たという事実”。

 あいつは、■■■はあの公園で俺に殴られていた時、どんなことを思っていたのだろう。
 あいつは、■■■はあの公園でたった一人、どんなことを思って遊んでいたのだろう。

 時が立ち、親友として毎日一緒に遊ぶ仲になった今もそれだけは怖くて聞けなかった。
 それを考えれば不思議と涙が止まらなくなるくらいだ。自分が何気に生きてきた毎日は、自分が楽しければ全てよしと思ってきた毎日は、あいつにとってそれは――。

 きっと地獄の底と同意義だったのだから。

 それを知った翌日から大将は少年の元へ毎日遊びに行った。
 時間が無くて挨拶をかけるだけの時もあったし、そもそも少年が怯えて逃げるので会えない日もあった。
 それでも大将は続けた。毎日毎日ただ“会って話しかける”、それだけを続ける為に――。

 それから何年の月日が過ぎただろうか。
 少年に会うという日課にすらなってしまった行事を行う為に彼の家を尋ねると、■■■がいままで見たこともない笑みを浮かべているではないか。

 彼が手にしているのは、当時では最新の携帯電話だった。小型で、持ちやすく、液晶は綺麗。
 それを見せびらかすものだから『なるほど、携帯を買って貰ったのが嬉しいんだな』と思った大将は『よかったな!』、『すげぇ最新じゃん!』、『小学生で持ってるのお前だけだぜ!』と自分のことのように喜んでみせた。無論それは嘘偽りのない“思いやりの心”を持てるようになった大将の本心だ。

 けれど少しだけ不思議に、というよりは不自然に思った。“言葉を話せないこいつが、携帯電話を買ってもらって喜ぶのか?”
 ――すると■■■は慣れない手つきで携帯電話を操作し、そっとその画面を対象に見せる。



『おはよござます たいしよ』



 ――ああ、“そういうこと”。だから、こいつは、“こんなにも嬉しそうにしていたのか”。
 その意味を理解して、大将は泣き崩れた。打ち損じてる部分もあるし、そもそも変換出来てない文字がある。
 けれど、その文章の意味は理解出来る。こいつが何を言いたいのか、何を“言えたのか”、言葉じゃなくとも伝わってくる。
 携帯電話を買ってもらえたのが“一番”嬉しかったんじゃない、嬉しかったのは、嬉しかったのは。



 何よりも一番嬉しかったのは、こんな俺とこうやって“会話”出来ることだったのか――。



「う、ううぅ――か、紙で、ひっく、よかったじゃねぇかよ……メモ帳とかでも、ぅ、さぁ……!」

 大粒の涙を流しながら、とびっきりの笑顔で笑う大将を見て■■■はどうしたらいいのかわからない様子で慌てて携帯電話を操作する。

『どしたの おなかいだの』

『だいじよぶ おかさんよふ』

「――大丈夫、大丈夫だから……!」

 その日以来、大将は決意した。■■■のような物言えぬ弱きものを助けようと。
 その日以来、大将は決意した。自身のようなそれを理解しえぬ強きものを倒そうと。

 言葉など話せなくても、通じ合えるのだから。
 きっと言葉などなくとも、人は誰とだってわかりあえるのだから。



「んじゃ、駅前のゲーセン行こうぜ」

『うん、行こ』










 ――そう、思っていた。あの日が来るまでは、そうなのだと信じていた。













          『嫌い』









『だいっ嫌い』    
                『信じてたのに』

   『嫌い』    『会いたくない』

     『信じてたかったのに』     『近づかないで』

  『なんで教えてくれなかったの』         『嫌い』

      『嫌い』
                   『嫌い』
       『嫌い』
          『ふざけないでよ』   

     『嫌い』       『放っておいて』         

『いらいらするから』

        『嫌い』    『嫌い』 『嫌い』      『嫌い』

    『嫌い』 『嫌い』  『嫌い』  『嫌い』  『嫌い』

    『嫌い』     『嫌い』    『嫌い』     『嫌い』

       『嫌い』  『嫌い』  『嫌い』

    『嫌い』    『嫌い』  『嫌い』     『嫌い』

      『嫌い』   『嫌い』  『嫌い』   『嫌い』

『すごく嫌い』

     『嫌い』  『嫌い』  『嫌い』 『嫌い』

     『嫌い』  『嫌い』 『嫌い』  『嫌い』



『きらい』

『だから』




『よく考えて、死んじゃえ』




 ■■■



“脳天に向かっての右ストレート”
“■■■■■■■■■■■■■■”
“右頬に向かっての左ストレート”

 ティキの右腕が直前で止めると同時に返す左の拳が飛んでくる。跳ね上がるクラウスの頭蓋、弾け飛ぶ血飛沫。
 そして――“起き上がってくる地面”にクラウスは押しつぶされた。

 ぼんやりとした視界。霞のかかる思考。脳内はまるでアナログテレビの砂嵐。
 だから、地面が起き上がったという奇怪な現象は、ただ単に自分から地面に向かって倒れただけの取るに足らない錯覚だと理解するのに十数秒の時間が必要だった。

「……ぅっ……ぁ……」

 頭の中に灼熱のマグマが流れている。それが神経の一本一本を丁寧に焼き尽くしていくのだから堪らない。
 熱い、痛い、熱い、痛い、痛い、痛い、痛い――それに息苦しい。息が出来ない、息が詰まっている。新鮮な空気が欲しい。
 フルマラソンを走りきり体力を使い果たした状況の息苦しさなどではなく、水の中に引きづり込まれたような感覚が収まらなくて。

「……“ごぼっ”……」

 ――なんだ、息苦しいのは当然じゃないか。“地上で溺れる”など珍しい体験、やりたくたってやれはしない。
 口の内にこんなにも自身の“血”が溜まっていれば、息が詰まるのも道理といえよう。

 他人事のようにクラウスは自身の状況を観測する。諦めたわけではない、敗北を受け入れたのではない。
 “混濁した思考がまともなことを考えさせてくれないから”そんなことを思っているだけだ。

「弱い」

 地に伏せるクラウスの髪を掴んでティキは無理やりクラウスを立ち上がらせようとする。
 けれど、もはや足腰に脳髄から神経伝達が行き渡らないのか、ぶらんと重力に身を任せたままだった。

「まさか、それが全力じゃないだろう。クラウス・エステータ、お前にはもっと特別な才能があると聞いているんだがな」

 彼は、ティキ・ニキ・ラグレイトは“一体誰の刺客だ”。
 意識の混濁が収まり始めたクラウスはただそれを考える。自身の存在が邪魔になった聖王教会の誰かか。
 それともまったく違う誰かか――否、それ以前に“自分を始末しに来たならなぜ殺さない”。止めを刺すには絶好の機会だというのにまるで、“自分の回復を待っている”かのような――。

「もっと本気を出せ。先は貴様を殺しても構わんといったが、あれは嘘だ。“このまま死んだら非常に困る”」

(……なんだ、こいつは一体、何を求めている……?)

「“何を求めている”、ふん。そんなことを考える暇があれば、私をどう倒すか考えた方が有意義だぞ」

 思考が伝わってしまうこの状況においては全てがガラス越しのかくれんぼ。
 言葉を発すまでもなく、クラウスの思考は決壊したダムのように駄々漏れだ。

「どうすればお前は本気を出してくれる? もし今のが全力であるというのなら――どうすれば“成長”してくれる?」

 ティキはクラウスを地面に投げ捨て、同じく先の戦闘で未来察知の陽動の為に投げ捨てたガントレットを拾いに向かう。
 背後を向いて歩いていくその状況はクラウスにとってチャンスだ。射撃魔法は苦手だが、卑怯だろうとなんだろうとこのまま後ろから狙い打って――そう考えるも、クラウスはそれが無意味だと悟った。

(思考が伝わっている……となればこの考えも伝わっているはずだ。不意打ちは不可能――)

 どうすればいい、一体どうすれば目の前の奴を倒せる。

(無意識で繰り出した攻撃ならば或いは通じるかもしれない。けど、無意識下の戦闘なんて芸当、僕には出来ない)

 他にもいくつかの対策は思いつく。しかしそのどれもが前もって訓練するか用意が必要なことばかりだ。
 現状では突破口がない、ともすれば向かえる結果は“敗北”、そして“死”――ふざけるな、と思った。何もわからないまま、何も成さないまま、こんなところで殺されて堪るか。

 “こんな、理不尽なことで”――。

「こんな理不尽なことで、か。はっ、世の中は理不尽なことばかりじゃないかクラウス・エステータ」

 ガントレットを拾い左腕に嵌めて、振り向きざまに思考を読み取ったティキが声をかける。

「理不尽に人は蹂躙され、虐げられ、そして殺される。そんなことはな、あの“戦争”を、あの“世界”で生まれた貴様なら――“私達”なら、とっくの昔に体験していて、とっくの昔に理解しているはずだろう」

 少しだけ、クラウスの鼓動が跳ね上がった。
 戦争、世界。その言葉に含まれたニュアンスは、ティキの言いたいことを感づかせ――。

「……お前は、まさか」

 クラウスのか細い声があがる。体の“中身”が傷ついている為か、声がしゃがれていて聞き取りづらい。
 けれどそんなことはどうでもいい。目の前の男は、自分の命を狙う刺客は。

「そう、同郷だよ。私と貴様の生まれた世界は同じ場所だ」

(…………)

「少し昔話でもしようか。覚えているか? “神王”という名の独裁者を」

 ――当然、クラウスは覚えていた。その忌々しい名前を。
 忘れるわけがない。その者こそ、クラウスの“二つ目”の故郷を戦乱という地獄に変えた元凶なのだから。

「古代ベルカ諸王の末裔などと嘯いて、私達の世界を支配し、挙句には養豚場扱い。奴に擦り寄る特権階級だけが贅沢な生き方を出来て、民衆は家畜以下の日々を強要される。
 力ある者だけ守る都合の良い法律、殺人や暴行が行なわれても見て見ぬ振りをする国家権力。酷い有様だ。強者は生きろ、弱者は死ねと言わんばかりで本当に反吐が出るし虫唾が走る」

 苦虫を噛み潰したような表情でそう語るティキの内心は、それほどの怒りで溢れているのだろう。
 殺されかけているにも関わらず――そのことだけに関して、クラウスは彼に対して奇妙な親近感を抱いた。

「だが、そんな独裁者も民衆の中から現れた“英雄”によって敗した。英雄は虐げられ続けた弱者達で解放軍を結成。それを率いて自らの命と引き換えに神王軍を打倒。良い話だ、まるでおとぎ話の物語のような――しかし」

 “世の中”というのは、めでたしめでたしで終わる絵本とは違った――とティキは続ける。

「偉大な“リーダー”を失った解放軍はあろうことか“新たな秩序を作るのは俺達だ”と内部で意見を違わせ分裂。
 よりにもよって“虐げられていた民衆同士”で戦争を始めやがった。こんな皮肉があるか? 平和を掴み取ろうとした者達の手に握られたのは、冷たい拳銃だったんだよ」

 平和が欲しかったはずなのに。
 平穏が欲しかったはずなのに。
 平等が欲しかったはずなのに。

 神王と英雄の、強者達と弱者達の戦争が終わって訪れたのは幸せな世界などではなく――弱者同士の終わらない戦争だった。
 それが、クラウスの世界のあらまし。戦争によって狂ってしまった世界の末路。

「だからこそ、もう一度言おう――世の中は理不尽なことばかりじゃないか」

 そんな世界で生まれ、幼少の日々を過ごしたクラウスだ。
 わかってる。どれほど世の中には理不尽なことが溢れていて、どれほど理不尽なことが蔓延っているか。
 弱者は――弱者はいつだって、強大な“力”の前にはひれ伏すしかない。たとえそれが覆ったとしても、“弱者”は“強者”に成り代わって再び別の“弱者”を虐げる。



『降伏するんだ、ツチダ空曹。これ以上の出血は危険だ。実力差がありすぎる事ぐらいわかっただろう、君に勝ち目は無い』

『やだね、俺はなのはを連れて帰る』

『そんな事が出来ると思っているのか! 実力差が分からないわけじゃないだろう。いや、そもそもこの命令は……』

『上から来ているって? 聖王教会のお偉いさん……しかも、トップクラスの誰かだろう』

『知って……』

『貴方が口を滑らした事から推測したんだけど、当たってたみたいですね』

『そうだ、君の言う通りだ。仮にここを切り抜けても、次はもっと悪辣な手で彼女を捕らえに来るかもしれない。君だって分かってるだろう、聖王教会という組織の力を!』

『知ってるよ。でもさ、それが何?』

『何じゃない! 大きな力には結局勝てないって分からないのか!』




 それはいつか、クラウスが戦った勇敢な管理局の少年と交わした会話だった。
 心のどこかで、きっと心の奥底で思っていた固定概念。それが絶対だと、それが当たり前なのだと。

「人はいつだって理不尽を強要されるし理不尽を強要する。その定理は壊れない、人が人で或る限り。今まさに理不尽を強要される貴様とて、理不尽を強要させたことがあるはずだ。例えそれが本意でなかったとしても」

(……ロッサ……高町なのは……)

 いたいけな少女と親友の顔が思い浮かぶ。
 確かにクラウスは理不尽を強いた。管理局に勤めようとした親友には、どうしようのない理由があったといっても一方的に“友達を止める”と縁を切ったし、高町なのはにはどうしようのない理由があったといっても誘拐しその身柄を明け渡そうとした。

 それは一体どれほど理不尽なものだったのだろう。どれほど悲しくて、どれほど辛くて、どれほど酷くて。
 “しなければならない理由があった”なんて“してもいい理由にならない”。そんなものは、決して免罪符になんて成り得ない。

「……まぁ、だからといって理不尽を受容しろと言っているわけじゃない。寧ろ逆だ。理不尽という存在はこの世から絶対的に淘汰されなければならない存在だと思っている。
 私がこんなことを話したのは、ただ思い出に浸りたかったわけではないぞ。私の“目的”を理解して貰う為には――分かりやすい実体験だからこそ話した」

(目的……?)

「貴様は先程、“何を求めている”と考えていたな。それに対して私は知っても無意味だと返したが、撤回しよう――。
 私の目的を知った方が貴様はもっと“危機感”を覚えるかも知れない。殺意は多少なりとも感じ取れたが、まだ“要素”が足りない……私を“殺す気で倒そう”という本気さが、まだ足りない」

 少しの間だけ、ティキは目を閉じた。瞑想のように口を閉じ微妙だにせず――。
 それはたった一瞬の沈黙だった。再び彼は鋭い目を見開く。その瞳に宿るのは、ほの暗い闇そのもの。

「――全人類の“思考感染”による革命。それこそが私の目的だ。貴様もここに来るまで体験しただろう? というより、今まさに貴様の思考が私に漏れているのも、同じ事柄。
 “他人に自分の思考が伝わる”ように出来る私のレアスキル。それを全ての人間に使えば――言葉でなく“本心”で他人に接するようになり……」

 言葉の端々から感じるのは確かな“狂気”。

(……こ、こいつは……)

 それが絶対なのだと信じている“狂信”。

「“きっと、全次元世界が平和になるんだよ”」

(一体、何を言っている?)

 道中に、そして現状で起こっている不可思議な現象はそのレアスキルが原因か。
 なるほど、想像通りといえばそうで、それに関しては納得だが――目の前の男が何を言っているのか、クラウスは理解出来ない。

 そのレアスキルを全人類に使用して他人に思考の全てを伝わるようにする? 
 そうすれば――全次元世界が平和になる? まるで意味がわからない。過程と結果の因果関係を無視しすぎだ。
 子供の方がもっとまともな物の考え方をするだろう。ティキのレアスキルによって施設内に蔓延したあの悲惨な“惨状”を見て、何をどうすれば平和になるなどと――。

「あれは平和に続く為に必要不可欠な“準備段階”だ。皆々、自分達の身に起こった変革に混乱しているだけに過ぎない。
 変革も革命も、誰もが最初は戸惑うものなのだ――昔、人は微生物だった。微生物は長い時間をかけて脳を巨大化させ手を作り脚を生やして進化したのが今の人間だろう?
 “思考を他人に伝える”という機能は、いずれ人間が進化の過程で手に入れるはずの能力で、きっと手に入れなければならない能力だ」

 人には呼吸という能力が必要なように、鼓動という能力が必要なように。
 ――私はただ、いづれどんな人間も呼吸や鼓動と同じくして持つようになる“進化”を早めているだけに過ぎない。そんなティキの呟きを、クラウスは愕然と聞くしかなかった。

「考えても見ろ、本心が他人に伝わることがどれほど素晴らしいことなのか。
 意思を共通させる手段として“話し合い”というものがあるな? 誰も彼もが言う、話し合いは大事だと。
 しかし私に言わせれば話し合いとは“化かし合い”と同意義だ。“言葉”は常に正しくはない、いくらでも虚実が混ざる――それでは駄目だ」

 確実に本心だと、誠実に本音だと確信するには“言葉”など不十分で――不透明。
 どれだけ親身に語ろうと、どれだけ必死に叫ぼうと。心の底からそれを信じることを誰が出来よう。

「完全に正しく、真なる手段でなければ人は解り合えない。勘違いして、どうしてもすれ違う。
 その延長線の上にあるのが、あの時の“戦争”だ。悠久に生み出され続ける地獄――そんな悲劇の螺旋を終わらせるには、もはや“本心”を包み隠さず“伝心”させることしかないじゃないか。
 他人の本心さえわかれば、自分の本心さえ伝われば……痛みも、悲しみも、喜びも、幸せも。何もかもを共感出来れば後に訪れるのはきっと“真実”だけがある平和の理想郷」

「…………」

 クラウスは答えなかった。あまりの滅茶苦茶な極論にどう反論していいのか、どうすればいいのか。
 唯一理解し得たのは、目の前の男が世界を変革しようとするその危険思想を持ち、そしてそれを実行出来るだけの能力を宿した“狂人”であるということだけだった。

「さて、どうだクラウス・エステータ。少しは覚えて貰えたか“危機感”って奴を。
 私を今この場で倒せなければ、近々に私の理想は実現することとなる。そうなれば、貴様が“否定”する私の革命で――貴様の“大切な人”が傷つくかもしれないな」

 “大切な人”。投げかけられたその言葉に、クラウスの心臓が小さく高鳴った。
 同時に連想してしまう。1人は、何を投げ捨てでも守りたかった愛しい仲間。片や、その為に突き放した唯一無二の友。

「ふん――“パル”に、“ヴェロッサ”ね……」

 しまった、とクラウスが思った時にはもう遅い。すでに“思考”は電波している。
 嫌な汗が溢れてくる、鼓動が煩い。殴られ、蹴られ、蹂躙されていた先ほどよりも遥かに気持ち悪い焦燥感が体中に満ちていく。
 考えるな、考えるな、考えるな、考えるな――目の前の狂人に、決して悟られては……。

「無駄だ。“連想”とは思考の条件反射。言葉は制御出来ても思考とは本能に従う構成で作られている。特殊な訓練もせず――連想から逃げられる人間はいない。“こんな風にな”」

 ティキは地べたに這い蹲るクラウスに再び近づいて、その耳元に口を運ばせ――言葉を紡ぐ。

「“面会”、“再開”、“後悔”――」

 その言葉の一つ一つは、大した意味を持たないありふれた単語なのだろう。
 しかし、クラウスにとっては、どれもこれも“連想”を余儀なくされる“回避不能”の言霊だ。

(やめろ。やめろやめろやめろ――!)

 脳内をその言葉で埋め尽くす。覗くな、人の心を。聞くな、僕の思考を――。
 そう思い続けることで連想を隠そうと、クラウスは地面に頭を擦りながらも必死で抵抗した。
 それでも、連想したのがたった一瞬であろうが“思考感染”の前には効力を持たぬ無駄な足掻き過ぎない。
 ほとんどの単語にそれぞれの連想をしてしまったクラウスの“逆鱗”であろう1つの思考を、ティキは聞く。

「“なるほどな”」

 ティキの足がクラウスを体を真横に蹴り上げた。
 その衝撃で体が二転、三転と転がって仰向けになる彼の体を即座に踏みつけ、何かを探すように騎士甲冑の下を弄る。

「や、やめろっ――!」

 金切り声をあげクラウスは抵抗を試みるが、ダメージを受けすぎた体はいうことを聞かず。
 また、いくら鍛え上げられた騎士といえども大人と子供の力の差は覆すことが困難だった。

「これか」

 その言葉と共にクラウスの懐から取り出されたのは一枚の“手紙”。
 親愛なる友から渡された、守るべき者から届いたそれを――奪われた。

「返せっ……!」

 自身を踏み下すティキの足を、目の色を変えてクラウスは掴んだ。腕力の全てをその手に集中させたその力は万力にも等しいだろう。
 軋む骨の悲鳴が上がり、潰れかけた肉の悲鳴が唸る。このままいけばティキの足を無残な姿に変えることが出来るであろう圧力を加えられても尚、彼の表情に焦りが生まれることはない。

 寧ろ――彼はここで始めて、暗く凍てついた表情を崩して見せた。
 風すら流れそうな穏やかな“笑顔”。そんな顔でクラウスを眺めながら彼は――。



「断る」



 手紙を握り潰す。音を上げて形を歪ませる手紙だったものは、まるで1つの肉塊にも見えた。それを、紙くずのように投げ捨てれば――。



 天を裂く様な怒号たる雄叫びが轟く。




 その、あるいは悲鳴とも取れるソプラノの絶叫音楽に鼓膜を震わせながら――。

(ああそうだ。もっと怒れ、もっと吼えろ。クラウス・エステータ)

 ティキ・ニキ・ラグレイトはその表情をさらに破顔させた。

(殺す気で来い。四肢を斬り捨て、腹を引き裂き、臓を引きずり出し、頭蓋を砕く殺意を抱け。全力で来い。今の今までが全力だというのなら――自身すら知りえないその“先”を総動させろ)

 冷たい、血を通わせないガントレットが熱くなっていくのがわかる。

(私はただ、その上を超えていくだけだ。それでようやく、スポンサーからの“依頼”は達成される――!)



 画して、初戦は襲撃者の圧倒に終わる。
 けれどもこれは殺意渦巻く次の戦いの序奏に過ぎない。

 未来を視る者、クラウス・エステータ。
 思考を知る者、ティキ・ニキ・ラグレイト。

 “転生”という不可思議な経験を得て、同じ故郷に生まれ、似通った能力を持つ二人が織り成すのは。

 仮面で全てを覆い隠す暗雲の存在が、思わず陶酔の吐息を漏らすほどの――“殺し合い”だった。



 ■■■



 ――それは違う世界のほんの少しだけ遠い昔話。

 その日――言葉の話せない少年と出会った公園のベンチにぼんやりと腰掛けていた。
 大将の手には携帯電話が1つ。それは■■■の始めて彼が両親から買って貰った機種から数えて三台目のものだ。
 その携帯電話の液晶画面に大将は目向ける――並々と映し出されているのは怨み言の数々。キーを操作し画面をスクロールさせても中々最後までたどり着かないほどに。

「……死んじゃえ、かー」

 『よく考えて死んじゃえ』。巻末に記されたとても素っ気無く、けれども重みのある一文。
 それをしばし眺めて、乾いた声で彼は一頻りに苦笑しながら――。

「――ふっざけんじゃねええええええええええええええええぇ!」

 携帯電話を突如として脳髄の中で渦巻いた怒りのままに地面に叩き付けた。
 地面に直撃した携帯電話は無数の破片へと砕け散り宙に弾け飛ぶ。

「俺があいつになにしたっていうんだよ!?」

 それでも怒りは収まらないらしい。立ち上がって、力任せに公園のベンチを蹴り上げる。
 木で作られていたベンチは瞬く間に叩き折られた。叩き折ったベンチだったものをもう一度壊した。
 木造とはいえそれでも人が座ることを前提に作られたベンチの強度は高い。蹴った大将の足の皮膚が切れて鮮血が流れる。
 それでも構わない。そんな程度の痛み、大将の心中に渦巻く得体のしれない“恐怖”に比べれば微塵だった。

「はぁ――はぁ――なんで俺があいつに嫌われてんだよ」

 肩を、体を上下させて発散しつくした息を必死に整える。
 全く“嫌われる意味がわからない”。先日まで何事もなく普通の日々を過ごしていただけなのに、今日になっていきなり睨まれながら呪怨が書かれた“この携帯電話を投げつけられた”。

 自分を見つめる■■■の眼は、今まで見たことも無い憎悪に彩られていて。
 或いは、本気で殺意すら抱いていたのかもしれないと思えるほどに。

「どうなってんだ……なんでこうなった……」

 嫌われることの、恨まれることの心当たりは何一つ無い。
 それでも、こうなってしまったからにはきっと何か原因があったのだろう。

「――誤解だ。勘違いで、すれ違ってるって奴だ……今まで仲良く出来てたじゃねぇか、大丈夫……誤解さえ解ければ、またいつも通りだ……」

 ふらつく足取りで、血を点々と地面に落としながらも大将は■■■の家を目指した。
 『弱者を助け、強者を倒す』。大将の心の根に疼くその概念を齎したのは■■■という言葉を持たない少年なのだ。
 彼が居たからこそ、彼が傍に居るからこそ大将はそんな壮大な理想を背負って生きていける。

 ――そこに、正義感なんてものは存在しない。あるのはただ“意味”。
 彼の中身のない人生を彩る“存在意義”。生きていく“価値”といってもいい。

 そんな彼だからこそ、気づけなかった。
 ■■■を“追い詰めた”のは、何よりも大将のそんな“生き様”だったのだと。



「――え?」



 大将が彼の家を訪ねて目にしたのは、救急車やパトカーといったさながらテレビドラマのような光景だった。
 それを見た瞬間、大将の中にある何かがざわめきたって、居ても立ってもいたれなくなった彼は家を囲っていた警察の静止を振り切り中に突入。

 しかし警察の対応は早い。身体が出来上がる前の少年を即座に取り押さえることなど容易いものだ。
 けれど取り押さえられる間際、彼はしっかり見た。生気を無くした血濡れの■■■が――担架で丁寧に運ばれている有様を。



「――うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁ!?」






 ■■■が死んだ。死因は自室で手首を掻っ切ったことによる出血死。言うまでもなく自殺だった。
 リストカットという自殺方法はよく聞くが、実をいうとそれの死亡率は低い。

 なぜなら大抵の人間は躊躇って深く“切れない”からだ。もしくは、深く切ったつもりでも切れていないから。
 手首の出血は初期は派手だが、人間の体というのは壊れやすいようで酷く丈夫に出来ている。動脈にすら届かない切り口など致死量に至る出血をする前に傷口が凝固してしまう。

 故にリストカットは自殺に向かない方法と専門家からは認識されているし、寧ろリストカットは“心の病”を知らせる救難信号とされている場合が多い。
 それこそ本気で死ぬ気があるのなら血の凝固を防ぐために風呂の中でやるか、首を吊るか高所から飛び降りるか、『混ぜるな危険』の科学薬品を密室で使用するのだから。

 けれど■■■はリストカットで死んだ。発見が遅れ、判明した頃にはすでに事切れていた。
 後から警察に聞いた話では、一切の迷いなく刃物を手首の動脈に真っ直ぐ突き立てような切り口らしい。
 勇気がある、なんて問題じゃない。そんなことが出来るなんて、尋常ならざる“絶望”を抱いていなければ不可能だ。

 ――そんなに、死にたい事があったのか?

 大将は自然とそう呟いて、■■■が死んだということを聞かされてからあてもなく夜の街を彷徨った。
 死んだ、死んだ、死んだ――死ぬってなんだっけ? そりゃ、もう会えなくなるってことか?
 他愛の無い馬鹿な話も出来ず、一緒にゲーセンだって行けなくて、そもそもあいつの笑い顔すら見れなくて。

 漫画やテレビの中に満ち溢れた概念、人が必ずたどり着くもの。まあそもそも身近な人間が死ぬということは始めてではない。
 そりゃ、わかってる。死ぬのがどういうものなのか。満ち溢れすぎて逆に馴染みがなさすぎるけれど。
 死ぬことがどんなことなんて、わかってる。わかってるけれど――。

「……こっちに死ねっていっといて、勝手に自分が死んでんじゃねーよ」
 
 もう何がなんだか。笑うしかないのに笑えるわけがない。
 これが、恨まれる前の何気ない日常で、■■■が事故死したというなら――納得は出来ずとも理解は出来よう。
 事故死の原因を叩き潰して、悲観に暮れ、素直に涙を流して無様晒して喚き散らしただろう。

 なのに、自殺って。

「――――」

 悲しいはずなのに涙が出ない。といより――それほど“悲しい”という感慨すら思い浮かんでない。
 身勝手に大将を恨んで死んだ■■■に対して怒ることもなく、哀愁すら感じない。胸にただ穴が空いている。塞ぎきれない大穴が。

(結局、俺はあいつのことを理解出来ていたつもりで、何一つ“わかっちゃいなかった”ってことか? 俺の何を恨んでいたかも知らず、自殺の原因すら一概も浮かばずに)

 “お前に俺の何がわかるっていうんだよ”。よく聞く台詞だ、余りにも使い古されて、もはや飽和している事柄ではあるけれど。
 それでも、それは真理かも知れなかった。主観は総じて客観に及ばず、含みもしない。自身の感性が他人の感性と果てなく違うように。
 話せなくとも、“会話”は出来ていたのに。それでも、なに1つとして解り合えないものなのか。

「いや――違う」

 会話とは、所詮“外面”で行われる意思疎通。
 会話では、所詮“内面”の真なる心情は伝わらない。

 言葉は時として嘘がつけるから。言葉は時として足りないから。
 本当に人が分かり合うには、もはや本心をテレパシーか何かで直接伝心するしかない。
 もしもそんな能力があれば――超能力だろうと、魔法だろうと、そんな“奇跡”があったなら。

「あいつは、俺の傍から居なくなることなんてなかった」

 皆、そうなればいいのに。
 誰かを傷つけたら、傷つけれられた被害者は痛いという感情を抱くだろう。
 その痛みを知れたのなら、きっと加害者もそれ以上痛めつけられまい。被害者とて、加害者の心情が知れたのなら、きっと自身が攻撃されている理由を察することが出来るはずだ。

 その連鎖の延長線上に――平和があるんじゃないか。
 あの公園で大将と■■■が双方が双方の“思い”を知らぬが為に無意味に争いに発展することもなく。
 恨みを書かれた携帯電話を投げつけられたあの時、■■■の心情を事細かにわかることが出来たのなら、あの場で大将は自殺を止めれていたはずだ。

「くれよ……くれよ」

 大将は心の底から渇望する。そんな奇想天外の能力を。
 “誰しも彼しも、本心で話し合うことが出来る能力を”。

「悪魔でも、神様でもいい――俺に、俺に、俺に、俺に」



 あいつを救うことが出来た力をくれ。



 色を変える信号は、自らの存在意義を果たしただけだ。
 街灯の光は小さくて、太陽のように全てを照らす力はない。
 だから、暗闇を切り裂きながら迫り来る鋼鉄の箱を駆る者に悪意なんて存在せず。



 何よりも、赤信号で横断歩道を渡った彼が悪かった。



「――ぁ」



 結局、声を出せない者がいるように、眼の見えない者がいるように、耳の聞こえない者がいるように。
 人に平等な物など“死”しかあり得ない。眼前に迫る凶悪な鉄の箱は、少年の無垢な体躯を凄惨に屠る。
 自身の肉という肉が潰れる音を聞き及ぶ前に――彼は意識を手放した。








「――なんだってんだよ……これは、これは――!?」

 次に眼を覚ましたとき、少年の目の前に広がっていたのは天使たちが舞う天国などではなく。
 爆撃が建築物を破壊し、銃声が起きれば人の頭が弾け飛び、泣き喚く子供達が無残に戦車に潰される――地獄だった。



 ■■■



 怒気の込められた槍の一閃がティキの額を貫こうと宙を走る。
 だがティキは頭を数センチ横に振る事で、当たれば岩をも貫くであろう一撃を回避した。
 死線が頭を掠めたというのに、一歩間違えれば致命的な損傷を追うかもしれないという恐怖が微塵も無いのか、ティキは表情すら変えることがない。

「はあああぁっ!」

 雄叫びを上げる少年はコルセスカを引き戻し、振りの大きい長打の一撃から威力は小さくともとにかく“当てる”為に短打の連続突きに切り替える。
 無数の突きによる弾幕。何十にも分裂して見える穂先がティキの体躯を狙う。未来察知が視せる未来は成す術なく無数の孔を体に開けるティキの姿。

「――っ!」

 しかし、その未来を変貌させるが思考感染。
 無数に見える槍の連撃も所詮は順序ある連打に過ぎない。クラウスから齎される思考を読み取り、まずは肩を狙う初撃を鋭いステップで避わす。

 続いての二撃目は脅威の切れ味を持つ真剣であろうと防ぐ強度を誇る右手のガントレットで弾いた。
 三撃目も同様に左のガントレットで弾くが、その弾き方は先とは違い全力を込めて弾き飛ばすようにだ。
 大きく弾かれたコルセスカ、重心をずらされたクラウス。その隙を逃すまいとティキは彼の懐にその身を投げ込んだ。

 ――けれど、それをクラウスは未来察知により“知っていた”。

 自身との距離を高速で縮める彼を待ち構えるのはクラウスの容赦無い上段蹴り。
 彼の脚に装された騎士甲冑の脚甲は、人体を破壊するに余る威力を宿し、ティキに合わばカウンターという形で振り上げられた。

 ――されど、それもティキは思考感染により“知っている”。
 
 振り上げられた脚に目掛けてティキは同じく上段蹴りを放ち相殺。
 全力でぶつかり合う蹴りと蹴り。威力は体格で勝るティキに軍配がある。
 大きく弾かれたクラウスの脚、ティキは瞬時に競り勝ち空中に残る脚を踵落としの要領でクラウスの脳天に叩き込む。

「っ――!?」

 咄嗟に、少年は身を後ろに引きそれを避ける。
 受身を取りながら地面を転がり、その反動を利用してすぐさまに起き上がった彼の額を見れば、滴るのは真っ赤な血。
 頭部を掠ったティキの蹴りはクラウスの額の肉を削いでいた。痛ましいほどの出血ではあるが頭蓋の出血は浅くとも派手だ。
 その傷自体のダメージはそれほどではないが……しかし彼に積み重なったダメージはもはや軽視出来るものではない。

 彼の騎士甲冑を剥ぎ取れば、その下から現れるのは無数の打撲痕と切り傷だろう。
 潰された血管は内出血で青く染まり、隔離施設指定の服は元が何色だったのかさえわからない。
 クラウス自身、頭ではすでにに理解している。未来察知の連続使用により焼き焦げた頭脳でも、わかっている。“もう戦える状態じゃない”なんてことは。

(……だから、どうした)

 それでも――クラウスは構わなかった。
 その身の魔力が枯渇しようが、脳が焼き爛れ廃人になろうが、四肢を潰されひき肉にされようとも、どれほどの実力差があろうとも。
 目の前のティキ・ニキ・ラグレイトという存在だけは許しておけない。愛しい仲間が丹精込めて書いてくれた手紙を、一方的に突き放しても尚、見捨てようともしてくれない親友が持ってきてくれた手紙を――その汚い手で踏みにじったこいつだけは。

「そんなに、手紙のことが気に障ったか」

 仕切り直しか、ティキは後ろに下がったクラウスを追撃しなかった。
 もとより両者共々、生粋のカウンター使い。迎え撃つが領分なのだ。

「くだらないな。その手紙の内容を読んでもいないのに、“読む勇気すらない”くせに、その為に身を粉にするとは」

「黙れ……!」

「ふん。その手紙の内容、一体何が書かれているんだろうな。“辛かったら帰って来い”だとか“罪なんて私達は気にしない”だとかか?」

「黙れと、言ったぁ!」

 軋む体躯の悲鳴を無視してクラウスは突貫する。
 敵の急所を狙うコルセスカの一閃は、紛れもなく濃厚な殺意が込められていた。

「だがなクラウス。それは果たして“真実の言葉”か?」

 急所に向かう穂先を、ガントレットが弾く。
 だがそれは未来察知を使わなくても想定内の範囲だ。再び縦横無尽の高速連突がティキを狙い行く。

「どんなに綺麗な言葉が書かれようとも、どんなに真摯に語り合おうとも、それは“本心”なのかわからない」

 突き、弾き、突き、弾き、突き、弾き、突き、弾き、突き、弾き、突き、弾き、突き、弾き、突き、弾き――。
 クラウスの怒りを乗せた無数の突きは、それでもティキに届かない。雨霰の連撃は、対して雨霰の拳撃によって防がれる。

「相手を気遣う言葉は優しくあっても“本当”じゃないかも知れない。相手を思いやった文字は温かくとも“真実”じゃないかも知れない――!」

 戦闘が始まって終始静かだったティキの口調が、ここに来て荒々しく猛り始めた。

「誰かを汚く罵倒する言葉にだって“理由”があるはずだ! 相手を呪う文字だって、おぞましくても“何か”があったはずだ! でも隠された思いなんて、隠した心なんて、“相手は”わかるわけがない!」

 されどその言葉はクラウスを責め立てるというより、どこか、違う誰かのことを言っているような――。

「結局――何が“悪かったのか最後まで”気づくことはなく! 結局! “死んでからだって”後悔に苛まれる!」

 誰のことを言っているのか。何のことを言っているのか。
 憎悪に塗りつぶされる思考のわずかな隙間で、クラウスは微かにそんなことを思った。

「手紙なんて必要ない! 言葉だって、文字だって必要ない! 本当に必要なのは――紛うこと無き“本心”だ!
 誰もが本心で、“思い”だけで語り合うことが出来たなら! 間違いなんて起こらない! 起こるはずがない! きっと“あいつら”が死ぬ事だって防げた!」

 槍の連撃を弾いて防御するだけだったティキが、攻めに転じる。
 一閃の弾幕を打ち払いながらも、彼はその中を果敢に進む。

「人は――伝えるべきなんだよ! 善意であれば真のものを! 悪意であっても真のものを! 本物の思いを! 思ったことを!
 誰かの顔を伺いながら生きなければならない世界など! 心を磨り潰して我慢しなければいけない世界など! “あいつら”が生きられなかった世界など――そんなものは俺の“力”で滅ぼしてやる!」

 ティキのガントレットに魔力が籠もる。大気が渦を描いて集約する様は一個の嵐にも似通っていた。
 それを見て――絶対的な己の“死”を直感しても。クラウスは攻撃を止めない、諦めない。

 “せめて一矢報いる”のではなく――自分の世界(なかま)を守るためにも、こいつだけはここで倒さなければならないと確信したから。
 おそらくは、最後の一回になるであろう未来察知を発動させる。何度も捻じ伏せられた能力――けれど。

(もう少しで……もう少しで……!)

 何かが見える。

 何かに届く。

 それは、或いはティキ・ニキ・ラグレイトが言っていた“先”という奴だったのかもしれない。
 幾度となく打ち伏せられ、叩き潰されても尚その能力に今の今まで身を任せていたのは――今までに無かった“感覚”をクラウスが掴み始めていたからに他ならない。

 それを掴みさえすれば、この世界に“災厄”を振りまこうとする眼前の敵を、きっと。

 ――コルセスカを握る手に力と魔力を宿す。これから放つのは自身の持てる最高の技にして、最高の師と呼べる人から授かったもの。

「――来い。これで最後にしてやる」

 互いの動きが、手を少し伸ばせば簡単に届く位置で計ったようにぴたりと止まった。
 未来察知と思考感染――出会うことを仕組まれ、戦うことを余儀なくされた両者が今、決着を付けようとしているのだ。

 クラウスが放つは“烈風一迅”。

 ティキが放つは“名も無き正拳”。

 未来察知が映し出す未来は果たして勝利か、敗北か。






 ――時間にしてジャスト3秒の静止。

 両者の魔力は咆哮を叫び唸り狂い、眼前の敵目掛け――持てる最大の一撃を解き放った。






 交錯した光と光、そして両者の体躯。

 槍を突き出した体制のままでクラウスが、拳を突き出した体制のままでティキが。

 ただ、どちらか1人が己が勝利を佇ずみ謳う。
 
「――完了」

 わき腹から夥しい血飛沫を流し、ティキ・ニキ・ラグレイトはそう告げる。
 同時に、地面に伏したのはクラウス・エステータ。彼が倒れた場所は、一切の余す所なく血で染まっていた。

 ――そんな光景を、もはや嘲笑も何もかもが無くなった顔でティキが見つめる。残っているのは、酷く虚しそうな無表情。
 勝利の余韻も、承った依頼の達成感も、何も無い。烈風一迅によって抉られたわき腹の痛みだけが実感できる唯一の現実だった。

「……見ているんだろう“盟主”、依頼は終わったぞ。ここから脱出する、人を寄越せ」

 彼はクラウスの烈風一迅により切り裂かれ、血が止まらないわき腹を押さえて。
 虚空を見つめ、そんなことを呟けば――まるで空が呼応したかのように彼に向けて念話が飛んでくる。

『――あ、あー。テストテスト。聞こえてますー? ティキさーん?』

 低く、そして若い声だった。どこかふざけているような、砕けた口調。

「誰だ貴様」

『OK、OK。聞こえてますねー。ん、自分ですか? 初めましてー、自分は盟主の部下で、この戦いに邪魔が入んないように縁の下で舞台を支えてた力持ちですよー。
 本当、大変だったんですからこっちは。ティキさん、いきなりここの所長攫っちゃいますし。自分がどんだけ結界だのジャミングだの頑張ったんだかわかります? 今月の給料に色付けて貰わなきゃやってられませんってねー』

「“タナトス”が月給制だったとは知らなかったよ……それは盟主に言ってくれ。いいから迎えに来い」

『それなんですがねー。まだティキさんを返すわけにはいかないんですよ』

「――裏切る気か?」

『いえいえ、滅相もない。自分も、盟主も、立派に依頼遂行に励んでくれている新しいお仲間にそんな酷いことしませんて。ただねー“依頼が終わってもいないのに”帰ろうってのが、まずいんすよー』

「……?」

『ティキさん、依頼内容覚えてますかー? クラウス・エステータを10分間ほど煽って“本気”にさせて、それを“殺す”って話でしたよね』

「……その通りだ。だからこそ、今まさに私はクラウス・エステータを本気にさせて、確実に“殺した”は――」






 “逃がさ■い……”。






「――な、に?」

 ゆっくりと、ティキは後ろを振り返った。
 脳内に響いた思考は、今まさに完全なまでに“殺した”と確信した男の――。



“絶対に■がさ■い……”



 幽鬼のように、クラウス・エステータが立ち上がっている。
 思考はノイズ交じりで、おそらくはまともな意識すらないはずなのに。

 それでも、真っ直ぐにティキ・ニキ・ラグレイトを睨みつけながら――立っている。
 完全な、一撃が入ったはずだった。クラウスが未来察知の導きにより動いたその“思考”を読み取り、放った完璧なカウンターが……。

 鮮血の流れるわき腹が、滲むように熱い。

(なぜ私が、斬られている?)

 ――そう、そもそも“完璧な”カウンターであったのなら、“ティキが傷ついている”こと自体がおかしかった。
 ティキが行ったカウンターはクラウスが放った全ての力を“利用し乗算する”カウンターである。ティキが傷ついた時点でその分の威力が落ちる。
 思考感染は“嘘偽りの効かない”完全なる能力。それにかかれば、そんな神技のようなカウンターさえ容易に可能とする。だからこそティキは今までクラウスを圧倒していたのだ。

(……思考を、読み違えた? この私が?)

 そうとしか考えようがない。でなければ、クラウス・エステータがああして生きているわけが――。

『理解出来ましたー? 舐めちゃいけませんて。頭を潰して心臓抉って、それくらいしてようやく“殺せた”って思えるくらいには頑丈なんですよ、人間は。盟主の依頼はまだ終わってません。手心真心加える間もなくちゃっちゃとやっちゃってください』

「……了解した」

 納得出来ないものがあるが、それでも目の前の少年はすでに死に体だ。
 生きていること自体が偶然、立っていられることが奇跡。そんな少年を再び“殺す”ことなど、赤子の手を捻るように容易いだろう。

 生きているにしたって、そのまま寝ていれば或いはどこかで見ているタナトスの一員も“見逃した”かもしれないのに――馬鹿な奴だ、とティキは呟き拳を握り締めて彼の元に歩み寄る。
 微かに思考は聞こえているが、ノイズ交じりでよくわからない。そんな思考能力では、指を動かすことすら至難の技だ。“無意識”とは良く聞く言葉だが、あれは単に脳の記憶野に記憶が残っていないだけで、思考はちゃんと行われている。
 故に――まともな思考がクラウスから聞こえてこないということは、それほどに彼の脳内は“悲惨”な状況だということ。

「もういいだろう、クラウス・エステータ」

 慈しみすら混じった言葉がティキから漏れる。
 両者の距離は、先と同じくして近接したというのに、まるで反応出来ないクラウスを見ればそんな感傷が思い浮かぶのも仕方なかったのかもしれない。



 “■■■■……”



 クラウスの血に染まっていない所など一切無い右腕が、徐々に上がっていく。
 立っていることが奇跡なら、その上で未だ戦闘態勢を取ろうとするその姿は奇跡さえ超えた域の出来事。

「――まだ、諦めないとは」

 驚愕を受ける。その精神力の強さは、今までティキが出会った全ての者達を遥かに超えているようにも思えた。
 この小さな体のどこに、これほどの意思が宿るのか。

「……」

 ティキが拳を振り上げる。先と同等の魔力がガントレットに包まれた拳を凶器に変える。
 彼は思う。一切の痛みを感じることもなくその頭を砕くだくことがその幼身で戦い抜いたクラウスに対しての敬意になろう、と。
 じゃあな。ティキはそう小さく呟き、ただまっすぐに拳を振りぬいて――。



「ごっ!?」



 “完全なカウンターでクラウスに殴り返された”。



 ■■■



 ――それはこの世界の昔話。



 自身の身に起こった“転生”と呼ばれる出来事。
 そんな神様の気まぐれとしか思えない超常現象を経験し、もう一度違う人生とはいえ生きながらえることが出来ても、別段彼は喜んでも居なかった。

「…………」

 転生した先の世界が死に満ち溢れる地獄と同義の世界ということもあったし、何よりもこの世界には■■■が居ない。
 ――いや、ひょっとすれば■■■もまた自殺した後に自身と同じくしてこの世界にやって来ているという可能性も零ではないかもしれないが、そんな万にも億にも満たないであろう不確かな可能性を追い求める気力などもはや無かった。

 もうどうでもいい。何もかもが、どうでもいい。

「兄ちゃん……怖いよぉ……」

 この世界の彼を兄と呼びながら、その身を爆撃の恐怖に震わし怯える年端もいかない少年は彼の“弟”。
 ルゥカ・ニカ・ラグレイト――ティキの中に居るのが彼の肉親ではなく、別の世界からやって来た別人だと、そんなことを知ることもない少年をティキは優しく抱きしめる。

「そうだな、俺も怖いよ」

 抱きとめてそう呟けば、ルゥカの怯えが少し消えた気がした。ルゥカは甘えるように彼の体の中で蹲る。
 ルゥカのそんな様子にどこか安堵を覚えながら、ティキは自身で呟いたはずの言葉を頭の中で反芻させていた。

 ――俺も怖い? ああ、怖いなんてどの口が言っているのか。
 生きたくも死にたくもない俺が、恐怖を感じるわけもない。早く頭上に爆撃が降ってくればいいのにとさえ思っている腐った人間が――“まともな振り”なんてしてんじゃねぇよ。

 ティキ・ニキ・ラグレイトという者の人生を“奪っておいて”。
 ルゥカ・ニカ・ラグレイトという者の家族を“奪っておいて”。

 ■■■すらいないこの世界で、■■■すら守れなかったお前が。

 こんなところでなにやってんだ?

 ――茶番だと理解しながらも、そんな自問自答を自身に問いかけて。
 ティキは揺れる防空壕の中で弟の温かい体温を感じ、ただ静かに外の爆撃が終わるのを待っていた。



 この世界は終わらない戦争をやっている。

 神王という独裁者を倒すために、世界が1つとなって集結した解放軍。
 彼らは解放軍を率いた1人の英雄の命と引き換えに神王を打倒し、支配から開放されたのだ。

 ――支配から開放されたのだから、もはや彼らに抑制という鎖はない。
 “次は自分達の番だ”と、政権や利権、権力を握る為に動き始めたのは自然の流れかもしれなかった。
 或いは、誰もに好かれ、誰もがついて行きたいと思うほどの求心力を持った英雄が死ななければこんなことにはならなかったのだろうか。いや、もしものことを言うなら、そもそも神王が良き統治者であればよかったのだ。

 何にかが、一歩間違えたから――何かが、果てしなく狂っていく。
 まるで人生を決める大切なターニングポイントで、どうしようもなく間違ってしまったような――この世界は、そんな歪みで形作られている。

 強大な解放軍が分裂し、世界を2つに分けて戦う泥沼は激化した。
 核や、それに通じる大量虐殺兵器の使用は禁止されてはいる。だからこそ戦争は長引くほかない。
 勝敗はつかず――もとより勝ち負けを決める方法など相手を根絶やしにするしかないのか。

 戦争も末期の段階だ。弾薬は撃ち尽くし、食料すら禄に無い。
 あとは共倒れて根絶するか、それとも考えることすら否定していた和平の道か。 
 そんな時勢の中で、大将と呼ばれた少年がティキと呼ばれるようになって数年後――それは訪れた。



「……にい、ちゃ……」

「うあああぁ!? ル、ルゥカ……う、うううう……」

 口から血を流し、ぽっかりと胸に孔を空けたルゥカの小さな体。
 ティキはどうしたらいいのか全くわからず、脇目も振らず狼狽するしかなかった。
 素人目で見ても、もう助からないと断言できてしまうような傷。震える両手でルゥカの体に触れれば、あんなに温かかった体温が徐々に冷たくなっている。

「こほっ、こほっ……にぃ――ちゃん」

「だ、大丈夫だ、あ、安心しろ、ルゥカ。い、いま、兄ちゃんが助けてやるから……!」

 避難所へ向かう、道中の悲劇。味方と言える兵士が撃ったのか、それとも敵が撃ったのかすらわからない流れ弾がルゥカを貫いた。
 この世界で過ごせば、流れ弾で人が死ぬことなど何度も目にするし経験せざるを得ない。けれど、だからといってそれが慣れるわけでもないのだ。

 しかも、それが。この世界に来てティキが唯一心を開けた“家族”なら尚の事。

「……ぁ……ぅ……」

「ルゥカ、ルゥカ! しっかりしろ!」

 もはや喋ることすら出来ないのだろう。言葉を発せようにも逆流した血液が口内に溜まって呼吸すら困難だ。
 それでも、それでもルゥカは何かを伝えるように必死に口を動かしている。

「なんだ、なんだ? 何が言いたいんだ……ルゥカ? は、ははは、わかんねぇ、全然、わかんねぇよ……」

 涙の雫を落としながらティキは“笑って”そう告げる。
 せめて、少しでもルゥカが安心出来るように。それはいつかルゥカが彼に言っていたことだった。

『兄ちゃんはあまり笑わないけど、兄ちゃんの笑顔は優しい感じがして好きだよ』

 ティキ自身そうは思えないが、それでもルゥカがそういうのならそうなのかも知れないと。
 それは、心にもない子供のお世辞なのかも知れなかったが――■■■のことを経て“言葉も文字もなにも信じられなくなった”ティキではあるけれど、今だけはその言葉が本心であったと信じて必死に笑顔を作る。
 しかし徐々に小さくなっていく命の鼓動を感じてしまえば、無理に繕った笑顔も剥がれるというものだ。

 ――“また、何も理解できず見てることしか出来ないのか”。

 自身の無力が恨めかしい。なぜこうして倒れているのが逆ではない。
 なぜ無数の輝かしい未来があるはずだったルゥカが死なければならない、なぜ弱気を助け強気を挫くという夢すら捨て摩耗しきった男が生きている。

 本当に、なぜ俺は生きている? あの時――車に轢かれて死んでいれば、それで終わりだったじゃないか。
 死ねば何も考えることも無く、こうしてティキ・ニキ・ラグレイトの人生を奪うことも無く、ルゥカ・ニカ・ラグレイトの無残な最期を見ることも無かった。

 何で俺は、そうまでして生き延びねばならなかった。

「ぃ……」

「……ルゥカ!」

 ルゥカの小さな手がティキの頬に向かって伸びている。
 その手を掴み、慈しみの限り握り締めれば――何かが、ティキの頭の中に響いていた。

“やっぱり、兄ちゃんの笑顔は――大好きだよ”

「……これは……?」

 頭の中に響くのは決して声ではない。似てはいるが、非なるもの。
 ――それが果たしてなんなのか。ティキには辛うじてだが理解出来た気がした。
 この声は、ルゥカの“思考”なのだ。紛れもない“本心”が、偽りの無い“思い”が――ティキの“魔力”を通じてその身に届いている。

 その思考の中には、沢山の感情があった。
 焼けるような痛みを訴える感情があれば、死に直面した只ならぬ恐怖の感情。
 愛する肉親が傍に居てくれる安堵の感情があれば、その肉親を残して死ぬことに対する無念の感情。

 限りない思い。果てしない感情――ティキが望んで已まなかった“他者の本心”。
 今この瞬間、愛する者の死に際を経てティキ・ニキ・ラグレイトが内に秘めていた“レアスキル”と呼ばれる能力が開眼したのだ。

“……兄ちゃん、大好きな兄ちゃん”

「な、なんだ……なんだ? ルゥカ……」

 大好きだといった、ティキの笑顔に負けないくらいの、飛びっきりの笑顔をルゥカは最後に浮かべて。

“僕の分まで、いっぱい、生きて、ね――次、があった、ら……また、兄ちゃんの……弟がいいなぁ……”

 そんな、思考を残し――ルゥカ・ニカ・ラグレイトは静かに息を引き取った。
 ありきたりな台詞といってしまえば、月並みの言葉といってしまえば、陳腐な思いといってしまえばそれまでだ。最後の最後までティキの“弟”でしかないない人生を送ったルゥカという人間の時世の句など、そんなもの。

 でも、それがどんな宝石や美術品よりも綺麗なものだとティキは思えた。
 純粋無垢の汚れなき本心とは、こんなにも綺麗で儚いものなのだと。

「……ああ、次も俺達はきっと兄弟だ。今度は、本物の“ティキ”と、“■■■”も一緒に……皆で……ゲーセンでも行って……」

 体に力が入らない。気を抜けば奥底を支える芯すら折れてしまいそうだ。
 それでも、必死に歯を食いしばってティキは耐えた。耐えれば耐えるほど、心の内にルゥカを失った悲しみと憎悪が満ちてくる。■■■を失った時の虚しさと怒りが湧き起こる。

 ――この世は理不尽と不理解に満ちている。

 他人の気持ちがわからないから簡単に銃を向けて引き金を絞ることができ、それが理不尽となって世界を覆う。
 この世はまさにそれの輪廻、それの連鎖。終わらない螺旋。

 ――それほど遠くない場所で銃声と悲鳴が聞こえる。戦禍の大乱は未だ近く。

「――やる……」

 誓うが如く呟いてティキは立ち上がった。
 つい先ほどまで、魔法という奇跡がその身に宿っていることなど露も知らなかった男に、復讐を遂げよと囁くような魔力の胎動が満ちている。

「壊してやる……」

 純黒の髪が怒髪天を衝くかのようにささくれ立つ。
 そこに、もはやルゥカの大好きな兄は居ない――悪鬼、そう形容するしかない形相の鬼が佇んでいるだけだ。



 その日、ティキとルゥカの街で戦闘を繰り広げていた2つの一個小隊が壊滅した。



 ――それとは余り関係のない大局の中で、“英雄”と共に戦乱を駆け神王を打倒した仲間の最後の1人が死亡。

 それを機に、度重なる疲弊により戦争継続は不可能と判断した両軍が極秘裏に接触。

 時空管理局という第三者を仲介に挟む事により、この世界の戦争は終わることになる。

 ルゥカ・ニカ・ラグレイトが死亡した、わずか一週間後のことだった。



 それから長い年月が立ち、一時の平和を得たその世界で、表では弟を失った戦争の犠牲者として悲観に暮れる兄を装いながら。
 ティキは理不尽を敷く次元世界全ての根底を破壊する為に己のレアスキルの研究を続けた。“To have tacit understanding(以心伝心)”、頭文字を取って、“THTU”と名付けたその能力で何が出来るか、どこまで出来るのか。

 そうしてわかったことは3つ。
 1つは、THTUは“魔力を発生させたティキの体に触れただけで”発動するという凄まじい強制力を持つこと。
 1つは、ただし発動するのはリンカーコアを持つ“魔法資質”がある者だけだということ。
 1つは、思考を他者に伝えるのは継続時間と効果範囲があること。

「世界を感染させ嘘偽りのない世界を創るには……資質を持たない人間にも効き、かつ永続的に能力が持続しなければならない、か」

 訓練を重ねれば能力の継続時間と効果範囲は少しずつ伸びたが、それが永続的となれば訓練だけではどうしようもない。
 さらにリンカーコア、つまり“魔力”を持たない人間には、まったくの無力とくれば――。

「レアスキルを別次元まで進化させなければならない……だが、私だけの力では……」

 一人称を私と定めたのは内面の変化の証か――研究に行き詰まり、ティキは顔を洗おうと洗面台に近づいた。
 鏡に映るティキは酷い顔をしている。体は鍛えてはいるから外見だけなら健康だろう。しかし不摂生が祟り肌は荒れているし髪も伸ばしっぱなしでぼさぼさだ。思えば以前は黒かった髪が、度重なる絶望のせいか色素が死んで真っ白になっていた。

「すまないな……ティキ、お前の体をこんなにまでしてしまって……ルゥカが見たら、もう兄と呼んでくれそうに――」

 そこで、ふと思いつく。
 このレアスキルを研究で使ったとき、常人とは違う思考を持つ者たちがいたことを。
 ――この世界に“転生者”と呼ばれる存在が多く居ることをそれで知ったが、その者達は総じて高い魔力か特殊なレアスキルを有していたのだ。

 だったら、或いは存在するのではないか。レアスキルを進化させる“レアスキルを持つ者”が。
 
「……そうだ、どこかで聞いたことがある。そんな能力の存在を……どこだ、どこで聞いた……?」

 思い出そうと、脳内の記憶を片っ端から漁る。
 表側のティキとして、誰かと他愛ない会話をしていた時のはず――。

『“能力強化”ってレアスキルがあるらしいぜ。んで、その能力を危惧した政府はそいつをミッドの隔離施設に――』

 きっとそれは、都市伝説などそういう類の与太話だったのだろう。
 しかしティキはそれに縋るしかない。世界を改革するには、もはやTHTUを進化させるほかないのだから。

「忍び込んで収容者の履歴を見れば……いや、無謀すぎる。たとえTHTUがあっても……」

 そうティキが考え込んでいると家の呼び鈴がなった。
 間の悪い。訝しげに思いながらも玄関に向かって扉を開ければ――そこに居たのは1人の少女、いや少年だろうか。どっちともつかない、なんとも“曖昧な”人物が尋ねてきた。

「やあ、ティキ・ニキ・ラグレイト。始めましてかな」

「――始めまして。君は、誰かな」

「誰? うーん、誰……フィアッセ……晶、蓮飛、那美、久遠……まあ、取り合えずは不破ナノハ、もしくは盟主と呼んでくれ」

 そんなふざけるような様子の子供にティキはイラつきを感じるが、ここで怒鳴り追い返すのは“表側は善人の常人”で通しているティキがすることではない。
 とにかく、ここは事を荒立たせることもない、簡潔に用件だけ聞きいて追い返せばいいと話を続ける。

「そうか。で、そのナノハちゃんは私に何か用かな?」

「そう、そうだとも。私の名前など意味が無い。意味があるのはこの用事だけさ――ティキ、我々と一緒に来ないか?」

「……は?」

「君が世界を変えたいと思っていることは知っている。それを手助けしてやろうというのだよ」
 
 瞬間、ティキの手が盟主と名乗る得体の知れない子供の頭を掴もうと動いた。
 が、見えない何かに押されたようにティキの体が吹き飛ばされる。

「がはっ!」

 ティキの体が背後の壁にめり込む。その衝撃で体の骨が何本かイカれたようだ。
 指すら動かさなかった盟主の見えざる攻撃――或いは防御がそれほどに強力だった。

「ははっ、すまない。反射的に防いでしまった。思ってみれば、君の能力――私は思考感染と呼ぶことにしているが、それを受けても何の問題もなかったな」

 と口では謝ってはいるが誠意は皆無であろう盟主は悠々とティキの傍に近づいていく。

「さぁ、魔力を込めて私に“触れたまえ”。それで君の能力は発動するのだろう? 遠慮はいらない、存分に知るといい――私の本心を」

 無防備に、盟主は両手を広げて立ち尽くして見せた。
 ――目の前の存在は、一体何だ? なぜ私の能力を知っている、なぜ私の目的を知っている。
 それ以上に……何だ、こいつの“眼”は。全てを呪い、恨み、囀るかのような双眸は。

 先ほどまでは感じなかったが、今はこうして相対しただけで、背筋に氷のナイフを突き立てたられたような焦燥が沸き立つ。
 何度も絶望し、何度も世界そのものを呪ったティキでさえ至ることの無かった深淵の奥深くに――こいつは居る。

 こいつの本心を知れ……? 無茶をいうな、とティキは思った。
 目の前の存在は決して合間見えることが出来ないものだとわかる。
 こんな、こんな暗黒の結晶の本心など知ってしまったら――心が持たない、持つわけがない。

 理解する前に、狂ってしまう。

「……ぐっ……ううぅ……」

「なんだ、触れてくれないのか。残念だよ“お兄ちゃん”。まあ、それはさて置き、お聞かせ願えるか? 付いてくるのか、来ないのか」

 悪意をかき集めたような邪悪な微笑みを浮かべて盟主は手を差し出した。
 付いてくるか来ないか。そんなもの端から決まっている。何も知らないガキでもあるまい、誰が首を縦に振るものか。

 ――しかし。

「……3つ、聞かせろ」

「何かな?」

「どうして私の能力と目的がわかった」

「君が能力の研究に使った人間の中に私のシンパが居てね。駄目だよ? 実験に使ったモルモットはちゃんと始末しなければ。
 目的に関しては……そうだな、君のような“転生者”がレアスキルを得るのは法則があってね。その法則に乗っ取って君の過去を調べ少しばかり推測を加えれば、案外簡単にわかるものなのだよ」

「……2つ目。能力強化というレアスキルを知ってるか」

「――ああ、レアスキルを進化させるレアスキルって奴かい? 話は聞いたことがあるが、目にしたことは無いね」

「最後だ……お前に付いていけば――俺の望みが、世界を変えることが、“本当に”叶うのか?」

「それは君次第だ。けれど幾つか私に協力してくれれば、全力を持って私は君に助力しよう」

 ――だが、ティキは“待っていた”のかも知れない。
 こんな瞬間を、心のどこかで。得体の知れない悪魔染みた力を持つ存在が、魂を対価に甘い囁きを問いかけてくるその時を。
 もはや研究も手詰まり、能力強化という実態の無い幻影を探す為なら。この理不尽に満ち溢れた世界が、■■■とルゥカが死ぬこともなかった世界に改革出来るなら。

 奈落の底から差し出された手すら受け取ろう。

「――ようこそ、タナトスへ。では早速だが、君の能力でこの辺り一帯の魔力を持つ全ての人々に思考感染を使ってもらえないかな?
 もう故郷なんて必要ないだろう。立つ鳥跡を濁さずとはいうが、君は人間だ。最後の最後に一艘の地獄を創って、光りある表側の道から決別しようじゃないか」

 後に思考感染と呼ばれる事件がこの後日に巻き起こり、この世界からティキは姿を消すこととなる。




「クラウス・エステータ?」

「ああ、これから君は能力強化の足跡を探しに海上隔離施設を襲撃するんだろう? それとは別にやってもらいたいことがあるんだ。なに、簡単な事さ。少しばかり他愛の無い子供を嗾けて欲しい」

 盟主がどこからか取り出したデータディスクを閲覧すれば、クラウスという少年騎士の詳細がこと細かに書かれていた。
 その中には、彼が持つレアスキルの対策や戦法が乗っているのだから頼みごとの内容など自然と知れる――ティキは表情を歪ませ盟主を睨んだ。

「殺せというのか。こいつを」

「その通り。オーダーは1つ――彼の魔力封印を解き放ち、“10分”。10分ほど彼を身体的に、精神的に叩き潰して“本気”にさせろ。そして“殺せ”。それが助力の条件だ」

「……それに何の意味がある? 私はお前のヒットマンになったつもりは無い」

「なら、タナトスの力を借りずに施設に忍び込んで見るかい? 収容者の履歴がある資料室までは入り込めても、脱出できるとは思えないがね。だからこそ君は私に付いて来たはずだ」

「――ちっ、いいだろう。クラウス・エステータをお前の望み通り殺してやろうじゃないか。
 こいつを本気にさせて、その上で殴り潰して蹂躙してやるよ……まぁ、本気になったクラウスが私の手に負えない逸材なら――その時は私の代わりにクラウスがタナトスの新しい仲間というわけだ」

 その言葉を聞いて――盟主は笑った。
 目論見を看破されたから笑っているのか、それともそれが全く違う見当違いだったから笑っているのか。
 それをティキは知る良しもないが、かといってわかりたくも無い。狂人の考えなど。

「……ふん」

 成しえなければならない理想に比べれば、他者を殺すことに躊躇などなく、禁忌すら感じない。
 その点、すでにティキも盟主と同じくして狂っているのだろう。度合いは違えど、似た様な方向を歩んでいる。

 それに――クラウス・エステータが如何な力を持とうが、如何な素質を秘めようが、ティキは何一つとして負ける気はない。
 盟主から思考感染と呼ばれたティキのレアスキル『THTU』は接近戦において無敵の力を誇るのだから。

 相手がどう動くか、何を考えているのか。
 それらを知って先読みすれば、相手がたとえミッドの首都防衛隊の隊長であるゼスト・グランガイツであろうとも、闇の書を守護する烈火の将シグナムであろうとも打倒できる。

 本心は、嘘をつけないから。

(……待っていろ、クラウス・エステータ。今お前の未来を奪いにいく)

 こうして、ティキ・ニキ・ラグレイトとクラウス・エステータは出会う。
 何も知らない同じ戦争の犠牲者である同郷の少年を潰す為に――確約された勝利を引っさげて。






 だが、ティキは知ることとなる。

 思考感染から生み出される“他人の思考を知る”という情報収集からのカウンターは確かに最強であろう。

 されど、未来察知から生み出される“未来を知る”という先読みのカウンターは――究極であるということを。



 ■■■



「こんな、馬鹿な――!?」

「づっ、あああああああぁ!」

 咆哮と同時に怒涛の猛攻をクラウスが仕掛ける。
 決死と振るわれ続ける槍の連撃。先までは揚々と捌き、容易く防げたはずの一閃が――。

「避けきれない――だと!?」

 ティキの肩を、腕を、腹を、頬を、頭を、腰を、足を――突く。
 とは言ってもその全てが掠り傷。届いた攻撃のどれもが致命傷には程遠い。
 だが、これほどまでにクラウスの攻撃がティキに対して通じているのが始めてならば――洗練された槍術が見る影も無くなった、ただ力任せに振るわれるだけの槍の一閃を“恐ろしい”とティキが感じたのも始めてだった。

 ほんの少しの距離を取り、血に濡れたコルセスカを後ろに構えて力を溜めこみ、クラウスはティノの体躯を狙う。
 だが――それを放つタイミングも、どこに穂先が向かうかすらも知ることが出来るティキには通じない。

 未来を見通す必中の一閃が奔る。

“ただ全力■奴の胸元を”

 そんな思考を聞き、ティキは瞬時に戦略を立てる。胸元に迫るであろう穂先を回避し、そして突っ込んできたその体躯にカウンターを叩き込む。
 何度も繰り返したことだ。それでクラウスは今度こそ立ち上がることの出来ないダメージを受けるだろう。

(今度こそ――沈め!)

 そしてこの瞬間、“変貌した未来”を咄嗟に垣間見ることがクラウスには不可能。
 タイムラグという致命的欠陥。それが未来察知という能力の限界。だからこそ今まででクラウスは全ての攻撃が通じず叩き伏せられていたのだ。

“――目標を肩■に変更”

「ぐっ!?」

 しかし現状は違う。クラウスは見えていた。変貌した未来を瞬時に見定めていた。
 ティキの胸元に向かった穂先は、筋力によって無理やり方向を修正し肩先に向かう。
 胸元に向かうと確信し行動していたティキにもはや完全な回避は不能。カウンターは狙えないこともないが、かといってことのままでは肩に致命的な傷を負う。良くて相打ち、悪くてティキのみに致命傷。なら、無理やりにでも体勢を崩して避わすしかない。

 肩の肉を微かに抉られる。本来ならば二度と腕が上がらなくなるほどの傷を負ってしまうところだったが、辛うじて避けれた。
 ――その安堵も束の間、すぐに追撃が迫りくる。

「おおおおおおおおおおおおぉ!」

「餓鬼がぁ……!」

 槍と拳が鬩ぎ合い火花を散らす。

 ――驚くべきことに、今の攻防に使われた時間は僅か“1秒”を切っている。
 秒にも満たない刹那の中で、こんな未来と思考の凌ぎ合いが幾度も続いていた。
 もはやティキは驚愕を通り越して脅威を感じずにはいられない。クラウス・エステータの力に。

(これが、本当に、先ほどまで取るに足らなかった未来察知だというのか――!?)

 確かに、相対するティキからしてみればクラウスの変わり様は急成長といって他ならないだろう。
 ティキ自身、盟主から未来察知は伸び白のある能力かも知れないとは聞いていた。故に幾許かの成長は想定していたし、それを踏まえても自身の敗北は無いものと考えていた。

 ――しかし違う、それは明らかに今までの未来察知とは違っていた。
 けれどこれこそが、この姿こそが本来の“未来察知”なのだ。今までクラウスは未来察知の使い方を誤っていただけに過ぎない。
 クラウスはこの能力を発動する際、未来を“連続”して見ていた。それはあたかもテレビに映し出された“映像”のように、全ての情景を。本来なら“1フレーム”でしか見れないものを、繋げて“60フレーム”で見ていたから、未来察知の持続時間も縮まれば変貌した未来を咄嗟に捕らえれることもなく細部も見えない。

 “未来が見えるなら全部見なきゃいけない。見えない自分は未熟だ”と思い込んだその生真面目さ故の過ちだった。
 1コマずつ進む漫画をわざわざ切り取り揃え、わざわざパラパラ漫画で読むような作業を経ていた未来察知は確かに取るに足らない能力だったかもしれない。

 だが彼の能力は“未来察知”であり、“未来視”ではない。
 己の元に迫る未来の危機だけを瞬時に察知すること、それが未来察知の真の能力なのだ。

 完膚なきまでに叩き伏せられて、朦朧とする意識を超えて辿りついた真の境地。
 変貌した未来に即座に対応できるようになったクラウスに、もはや先読みに関して劣る箇所は無くなった。
 思考感染にもはや優位性はなく、現状は身体能力だけが優劣を決めるといっていい。

(くっ、レアスキルが多少強くなったといっても、未だ優位なのは私のはずだ――!)

 攻撃を何とか弾きながら、ティキはクラウスの体を凝視する。
 コルセスカの柄に伝う血は、決してティキのものだけではない。体中に傷を持つクラウスが槍を振るえば、その度に当人の血飛沫が辺りに降り注ぐ。

 酷い出血量だ。このまま動き続ければ確実に死に至るだろう。
 幾度となく殺す気で放たれたティキの攻撃を受け続けていればそうなったのは自然の理といえる。

 今こうしてクラウスが攻勢を続けれられること自体が出来の悪い悪夢なのだ。
 思考にノイズが奔るほど脳内そのものがグチャグチャなはずなのに、真っ直ぐティキを狙えていることが如何な奇跡か。

(所詮は――燃え尽きる前の蝋燭に過ぎない!)

 ティキが突貫した。それを向かえ打つクラウス。
 地面を穿つほどに自重をかけて踏み込んだ。腋を締め、ただ真っ直ぐに正拳を繰り出す。ほんの僅か遅れて、避ける動作を交えたクラウスが槍を突き出した。

 空を切り裂く一閃と一閃。
 クラウスは正拳を避け、ティキは片腹を突かれた。この攻防のポイントを取ったのはクラウスだ。
 しかし、槍の切っ先が腹部に刺さったままティキは尚も体躯を押し進める。
 
「うがあああああああああぁ!」

 ブチブチと槍が腹部を突き抜ける感触に意識が飛びそうなほどの痛みと吐き気に耐えながら突き進み、薙ぐように腕を振った。
 その後の結果をクラウスはわかっては言っても、槍がティキの体の中で固定されている為に軽々と引き抜くことは出来ない。
 故に避わすことは出来ず、今度はクラウスの脇腹に渾身の拳が突き刺さる。その小さい体の肉は潰れ、肋骨は折れて内臓を傷つけられたことだろう。同時にその衝撃でティキの片腹を抉って飛び出た槍がその威力を物語っている。

(ごはっ、がっ――だ、だが……これでっ……!)

 意識の飛びそうな激痛の中でティキは思う。
 これで、貴様は動くことすら儘成るまい。死に体は死に体らしく地を這え。
 致命傷に限りなく近い重症と引き換えに、致命傷を叩き込んだティキは口端を吊り上げて――絶句した。

「……づぅ、ぅぅぅぅ!」

 地を這うどころか、止まるどころか――目の前の少年は、金切り声を上げて耐えていた。
 ――耐えて、尚も眼前に向かって槍を振り上げ、弧を描いて力の限り叩き伏せる。斧の如く脳天に迫るコルセスカを、ティキは右手のガントレットで受け止める。

 コルセスカの外装が、ガントレットの装甲が――音を立てて粉砕した。
 何度も突き、幾度も弾いた相互の強度に限界が来たのだろう。それでも、2人の眼前に飛び散るデバイス達は、まるで主に尽くして壊れることが喜びだとでも言わぬばかりに誇らしく壊れていく。

 散りゆく愛機を見定めながら、まるで大切な友達が傷ついたかのような悲痛の表情をクラウスは浮かべて――。
 すぐに鬼気とした顔を作る。聞こえた気がしたから。決して物言わぬ無機物の塊であるコルセスカに、他ならぬ相棒に『行け』と言われた気がしたから――それに答える為にも、ひたすらに目の前の敵を討つ。

 構わず振るう、厭わず突く。
 振るえばコルセスカの外装は次々と剥がれ落ち、突けばその鋼の体に無数の皹が入る。
 パートナーであるコルセスカの装甲が悲鳴を上げるように、同じくしてクラウス自身の体も悲鳴を通りこして絶叫を上げていた。

 ティキの目算は外れてはいない。軽く小突かれただけでクラウスの体は倒れそうなほどに消耗している。
 ティキの優勢は揺るがない。わき腹を抉られたといっても、総合的には未だにクラウスの受けたダメージの方が遥かに大きい。

 ――それでもクラウスは進む。それでもクラウスは攻撃を続ける。
 体の中の全ての血液が流れようとも、骨の全てに皹が入り折れ尽くそうとも、体が動く限り、意識が続く限り。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉ!」

 無限の未来を見定めて、無数の未来を選択し、無尽の未来を引き寄せる。
 無限の勝敗を見定めて、無数の戦術を選択し、無尽の勝利を引き寄せる。

 ありとあらゆる可能性という未来。その中にはきっとあるはずだ。
 限りなく零に近くとも、それが万に一、億に一、兆に一にしか満たない可能性であったとしても。
 クラウス・エステータがティキ・ニキ・ラグレイトに“勝つ”という可能性が、きっとある。

(だから――進み続けろ!)

 ――かつてクラウスの前には、明確な力量差がありながら、明確な戦力差がありながら、それでも諦めずに向かってきた敵がいた。
 無謀としか思えない無茶な行動を、それでも信念の為に貫き、力だけではなく知略をも駆使し、彼に勝利した管理局員がいた。
 始めは罵りもしたが、全力を尽くす彼の姿をその目に映したクラウスは、心の奥底で密かに思ったのだ。

(“彼”のように……!)

 1人では止まれなかった自分を止めてくれた――彼のように。

(“ヴァン・ツチダ”のように!)

 “戦ってみたいと”。


 
 もはや何度目かもわからない、槍と拳が交錯する。
 その光景に舌打ちし、恐怖を思い浮かべていたのはティキだった。

(この……化物がっ!)

 ティキは心中でそう叫ぶ。限界を超えているはずなのに、それでも迫り来る目の前の少年に対して。
 あと一撃、あと一撃――そう思って、そう信じて拳を繰り出し続けても、目の前の少年は倒れない、倒せない。

 ……それどころか。

(死に体の餓鬼相手に、私が後退するなどっ……!)

 迫り来る槍の連撃に、堪らず足を後ろに進めずにはいられない自分が信じられないし、許せない。
 頬を掠めるコルセスカの穂先に心臓を高鳴らせ、それに一々冷や汗を流す自分が不甲斐ない。
 相手の思考はいまだ垂れ流しだ。どう動き、どう迫るかをわかっていながら――“それがどう変わって自分に迫るのか”。片腕の粉砕したガントレットのように、次は自分が壊されるのではないかと怯えている自身を殺したいほど恥じている。

「そこまで私を、否定するのか――! そこまで理想の世界を否定するのか!」

 知らず、ティキはクラウスに向かってそう問いた。
 当然、その為に自身が殺されることなど誰もが御免こうむることだろうというのはわかっている。
 けれども、クラウスの心中から聞こえてくる思考は死にたくないからという感情ではなく明確な“否定”そのものだった。そんな世界は違う、そんな世界は間違っているという確かな否定。

(確かに、お前のいう理想の世界は綺麗だ。けれど、誰もが本心で接すれば争いが無くなるなんてわけがない――!)

 聞こえていたのか、それとも感じただけなのか。薄れゆく意識の中で、加速していく思考の中で、クラウスの明確な思考が告げる。

(誰もが、真摯に相手を思えるわけじゃない。誰だってつまらないことで癇癪を起こすし、その度に怒ったり、悲しんだりするんだ!)

 クラウスは過去の記憶を思い出す。昔のクラウスとヴェロッサは、とても仲のいい親友同士だった。
 だからといって、喧嘩をしたことがなかったわけじゃない。二度目の人生を経験し、そこそこに成熟した精神を持つクラウスさえ些細なことで怒り狂ったことがある。

 酷く言い争ったし、暴力すら使ってしまったことがあった。
 もうこのまま友達にすら戻れないのではないか、という心配すら浮かぶほどの。

「……だったら、それは相手の思考を知れば、それで解決する話ではないか!?
 相手が何に対して憤慨しているのかを知れば、貴様らは喧嘩など、争いなどせずに済んだはずだ! 無駄に傷つくこともなかったはずだ! それで、なぜ――」

(相手の感情を互いに知って――それで“仲直りの仕方”もわかるのか?)

「――なっ」

 がつん、とティキは硬い鋼鉄で頭を殴られた気がした。
 相手の怒りの根源を知れば、当然、解決方法だって知りえるに決まっている――そう言い返したいのに、言い返せない。

(相手が何を思っているか、それがわからないから人は相手を“思いやれる”んだ!)

 わからないから、手探りで。必死に考えて、解決方法を見出す。
 それが遥か彼方から続いてきた“仲直り”の仕方。それなのに――“最初から相手の気持ちの全てを知ってしまっていたら”思いやるという感情は育たない。

 ――それが絶対に、というわけではないだろう。あくまで一例に過ぎない理だ。
 でも。それでも、その言葉がティキに重く伸しかかった。“思いやれたか?” 初めから相手が何を思って何を感じていたか、本心そのものを全てわかってしまっていたら――あそこまで、あの弱者を守ろうという理念が出来上がるほどまで思いやれていただろうか。

「…………違う」

 他人の感性を少しでも感じ取れ考えることが出来る大人なら、相手の本心を知っても思いやれることは可能だろう。
 相手の考えを吟味し、正しい方向に持っていくことは可能だろう。でも、“子供”だったらそうは行くだろうか。
 “思いやり”や“優しさ”が育つ前の子供が、他人の本心を前にして――本当に平和な世界が出来上がるのか?

「違う! 違う違う違う違う! そんなことはない! 子供だって、何も考えずに生きてるわけじゃない! 子供だって! 子供なりの価値観でちゃんと考えて――!」

 そもそも大人といえども、他人を思いやれる人間が何人いるのだ?
 本心を伝えられたって、“それを受け入れることが出来る度量”を持つ大人が、この世に何人いる?

「う、うううううぅ……!」

 この世が悪人ばかりじゃないのは知っている。でも、この世が善人ばかりじゃないのだって知っている。
 知らないわけじゃない。知らないはずがない。他人の思いを誰よりも知ることが出来るティキ・ニキ・ラグレイトは“そんな当たり前のことを知らないわけがない”。

 本心で触れ合えば誰もが理解し合え、世の中が平和になると言ったのはティキ自身。
 それにも関わらず“盟主”という存在の思考を垣間見ることもなく拒絶したのは“誰だ”。
 その行為は――何よりも自分自身で理想を否定しているのも同意義ではないのか。

「違、う……“私は”……“俺は”……!」

 明らかに狼狽えるティキに、クラウスは攻めの一手を繰り返しながら――。

(ティキ・ニキ・ラグレイト! お前は、お前は……!)



 “都合の悪いことに目を瞑ってそうなって欲しいと誤魔化しているだけだ!”



 ティキを支える理想の土台、信念という一本の強大な大黒柱をへし折らんが為に――核心に触れた。



 ざくっ、と――クラウスのコルセスカがティキを貫く。その光景に驚き目を見開いたのは、なぜかクラウスだ。
 彼が貫いたのは、ティキがわざとコルセスカの前に付き出した右拳。ガントレットの装甲すらも貫通し掌に大穴を開けながらも、コルセスカの突きをティキが止めたと言ってもいい。

「――悪いのか。全ての世界が、隠し事も、争い事も、勘違いも、すれ違いも無くなって欲しいと願うことが……例え誤魔化しながらでも! 思ってしまっては悪いのか!」

 肩を震わせ、ティキの凄惨な慟哭が反響する。
 核心を突かれても、否定されても、例え自ら“その通りだ”と過ちを僅かに思ってしまっても、認められない。
 何十年と、ただ“この世が平和でありますように”と思い続けて、その為に荊棘の道を歩んで来たのだ。
 ここで認めてしまうわけには、決していかない。そんな彼を見て、クラウスは心の中でそっと想う。ただ、あるがままに。クラウスという少年の考えを。

(……悪くなんか無い。お前の願い事は、お前の思いは、きっとこの世界で一番綺麗だろう)

 それは、確かだ。そして――ただ“それだけ”なのだと、クラウスは断言する。
 争いに対して武力で解決することが、後々に多数の異根を残すように。ティキの方法では――ティキの望む世界にはならない。

 ――赤い膿血が刃から柄に、そしてクラウスの手元まで滴っている。
 手に大穴が開いているのだ、普通に考えればもうティキの右手は動かすこともままならず使い物にならないだろう。
 なのに、凄まじい力で“刃を固定されて動かせない”。筋肉が硬直しているのではない、彼は自らの意思で、自らの力で動かせる筈のない右手で、刃を押さえ込んでいるのだ。

 同時に、彼の狼狽が嘘のように消え、先まで殺意に溢れた鋭い凄惨な目付きは、酷く濁っていた。
 それを見てクラウスは感じる――ティキは捨てるつもりなのだ、と。己が手を、体を、命を。クラウス・エステータを“殺す”為だけに、文字通り捨て身で勝利を得る為に。

 防御不要の不退転。肉を斬らせて骨をも斬らせ、己が命を落とそうとも、確実に相手の命を断つに。
 ――それを感じ、クラウスもまた覚悟を決めた。“誤魔化している”とクラウスはティキに告げたが、クラウスもまた重症を誤魔化しながら立っている。

 脳内麻薬で痛みが消えたその体を闘志のみで奮い立たせての酷使。
 クラウス本人すら不思議なものだった。なにせ自分の体だというのに、まるで別の誰かの死体を動かしている不思議な感覚で戦っているのだから。

(次に瞼を閉じれば、もう二度と目覚めることは無いかもしれない……)

 その身体に刻まれた傷の数々。死ぬかもれない重症、いつ事切れるかもわからない致命傷。
 これが、クラウス・エステータにとって最後の戦いになるかもしれない――。

(――ふふっ、それもいい)

 知らず、クラウスの表情には笑みが浮かんでいた。
 こんな状況だというのに、何故か嬉しいと思う自分がいることに、クラウスはここに来て初めて気づいた。なぜだろうか、と思いふければ答えは単純明快。

 ――守れるから。

 間接的にであろうと、目の前の強大な敵を倒せれば。
 故郷に残して来た仲間や、孤児院の家族たち。そして未だにクラウスを“友達”と読んでくれる唯一無二の友達を――守れる。

(それほど、嬉しいことはない――!)

 目の前の、世界の改革を志しそれの実行をも可能とする力を持つ男をクラウスは見据えた。
 ティキもまた、クラウスを濁り淀んだ瞳で睨みつける。その時、ティキは笑顔を浮かべるクラウスに何を思ったのか。守ると誓い、守れることに喜びを見出すことの出来る少年に、何を思ったのか。

「――これで最後だ、殺してやるよ。クラウス・エステータ」

「――やれるものなら。ティキ・ニキ・ラグレイト」



 最後に冗句を交わし合って。



“コルセスカごと力任せに引き抜く”



 未来察知は発動し。



“力の鬩ぎ合いでは不利、コルセスカを一旦放り出して無手で対応する”



 思考感染が発動し。



“遠心力でコルセスカを振り払い左の正拳突き”

“突きを跳ね除け足払い、相手が態勢を崩したらコルセスカを拾いに向かう”

“足払いを避けて追撃し――”

“追撃をステップで避わし様に――”




 未来を見る者と読心を聞く者の、無限に続く先読み合いが始まった。



“弾いて右を――”    “躱しながら――”

“蹴り――”  “突く――”  “一歩――”

“防ぐ――”  “殴――”   “払う――”




 加速する両者の思考。オーバーフローを起こし焼け付く両者の回路。
 しかし止まらない。止まれるわけがない、この読み合いを制した方が勝者となるのだから。



“はじく――”  “うける――”  “ きる――”  “さける――”

    “ふせぐ――”  “あるく――”    “なぐる――”

“よける――”   “ふる――”   “さけ――”  “とめ――”




 加速する、加速する、加速する、加速する加速する加速する加速する加速する加速する。
 目の前が白く色褪せていく。それでもクラウスは未来察知の導きのままに、ティキは思考感染の囁きに従い――相手の先へ、相手の前へ、相手の上へと突き進む。


“つ――”  “か――”  “そ――”  “な――”  “や――”  “ぁ――”  “い――”  “か――”  “ら――”

  “あ――”  “な――”  “ほ――”  “ま――”  “ふ――”  “さ――”  “と――”  “は――”

“し――”  “よ――”  “あ――”  “そ――”  “さ――”  “か――”  “う――”  “ら――”  “こ――”




 攻撃しているのか、攻撃されているのか。当たっているのか、当たっていないのか。



“と”  “う”  “が”  “じ”  “き”  “ヨ”  “し”  “が”  “い”  “あ”  “さ”

 “け”  “き”  “う”  “よ”  “タ”  “し”  “う”  “ま”  “と”  “さ”  “よ”

“る”  “ち”  “ぇ”  “た”  “い”  “ち”  “よ”  “だ”  “い”  “す”  “き”

 “じ”  “ま”  “ん”  “の”  “よ”  “め”  “げ”  “は”  “は”  “は”  “は”



 効いているのか、効いていないのか。もう2人にはそれすらわかっていなかった。ただ目の前に弾ける火花を追い続ける。



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 その光景を目撃すれば、きっと誰もが己が目を疑うだろう。
 無数に繰り出される連撃に対して、防御を捨て更なる連撃を突き入れる2つの人影が織り成す死闘の激しさに。
 魔力の奔流が熱気を発生させ、拳と槍の鍔競り合いにより火花舞い散るその光景はさながら局地的な大嵐だった。

 超高速の槍術と拳技による縦横乱舞。彼らの踏みしめた大地が堪らず弾け飛び粉塵が吹き荒れる。
 重症を顧みず、残る力の限り荒ぶる両者の身体から流れた鮮血が、荒れたあばた模様の地面を染め上げる。

 しかし、真に驚愕すべきはそれらではない。

 ――“当たらない”のだ。

 もはや常人では知覚することすら困難であろう攻勢だというのに、2人はこの最後の戦いにおいて“受けた傷がない”。
 拳と槍こそ重なり合って衝突するものの、両者の身体に触れる攻撃は未だ皆無。防御など完全に捨てているのにも関わらず。相手の動きを読み合い、読み尽くすという戦いの終着点がこの光景だというのか。




“ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”

 “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”

“ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”




 それでも、終わりは来る。無限に続く輪廻のようであろうとも、それが命を削る戦いである以上――終わりはそこに、やって来る。




 “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”

“ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “ ”  “―”  “ ”  “――”  “ ”  “――――”  “――――、”




 


 ブチッ、と何かが切れるような感覚が頭の中に響いた。






(――――ああ、そうか)



 途端、青天井に上がり続けていた思考速度が戻ってくる。



 “ティキ”は何が起きたのかを理解した。感覚的な話ではあるが、“自分の頭の中のヒューズが弾けた”のだと。
 脳の処理能力が現界を超えた。耐え切れず、自らの脳は意思に反して意識を遮断しようと持ちかける。

 先ほどまで無地のキャンパスのように真っ白だった視界は鮮明に景色を取り戻していく。
 目の前には、クラウスが振るうコルセスカ。眼前に向かい大気を切り裂いて伸びてくる。ティキにはもう、それを避ける力が残っていない。



(俺はこいつに……)



 ならば、必然。



(負けたんだ)



 闇に沈む意識の中で、ティキは最後の光景になるであろうその景色を眼に焼き付ける。
 その剛健なる槍で穿つのだと、己を見定めるクラウスの両眼が、やけに印象に残る――なんて、なんて綺麗な眼をしているのか。
 
 誰かを守ると、親愛なる他人の為に戦う男だけが放つであろう力強い眼光。
 その輝かしい眼を、どこかで見たことがあった。それはどこだったか。この世界で目撃したものではないだろう。きっと、もっと果てしなく遠い場所で、果てしなく遠い過去に――。



『お前が声を出せない、話が出来ないってんならさ』



 どこにでもいる、少しだけわがままで、ガキ大将のつもりでイキがっていた少年の姿が脳裏に浮かぶ。
 欠けがえのない友達の為を守ろうと、同じ境遇の人たちを助けたいという夢に向かってひた走り続けていた彼。



『俺が、お前の変わりに声を出すよ。お前が声に出したいことがあったらさ、文字を書いて俺に教えてくれ』



 そんな似合わないセリフを、友達に面と向かって照れくさそうに呟いて。
 馬鹿なりに、足りない頭で一生懸命に考えた思いを伝える少年の姿。



『お前は、俺が守ってやるから!』



 ――ああ、そうか。クラウスとよく似た眼をしていたのは、その少年だったんだ。
 誰かを守りたいって、誰かを助けたいって。必死になって頑張っていた小さな子供。

 けど、果たしてそれは誰だったか。少なくとも、私ではないのだろう。
 世界を変えようと、悪魔の誘いにすら自ら手を取ったくだらない男が。目的の為に何の罪もなく、何の関係もない目の前の気高いクラウスという少年すら殺そうとしてしまえる腐った男が。



『さあ“■■■(シズク)”! 今日も沢山、遊ぼうぜ!』



 あの少年の成れの果てであっては、堪ったものじゃない。




 “頭蓋を貫く”



 そんなクラウスの思考を最後に聞き――ティキは己の死を実感しながら、静かに目を閉じた。



 ■■■



「ゲームセット、勝者クラウス・エステータ。ご視聴の皆様は、両者の健闘を称えまして惜しみない拍手をお送りください――ってとこですかねー」

 先の激闘が嘘のような静けさを保つそこに、突如空間が歪んだかと思えば奇妙な独り言を呟く1人の少女が姿を現した。
 容姿は十代前半と言った所だろうか。天然パーマがかかったセミロングの髪を揺らし、地に伏せる2人の元へ駆け寄っていく。

「負けちゃいましたねー、ティキさん。もう使いものにはならないでしょうが、お望み通り回収くらいはしてあげますよー」

 そうボヤキながら彼女は倒れこむティキの肩に手を回す。
 体格差に戸惑っているのか、それとも単純に力がないのか、危なげな手つきでよっこいしょ、とわざとらしく掛け声を上げてなんとか彼を担ぎ上げた。

 そして彼女が虚空を見定めると、ミッド式の魔法陣が浮かび上がっていく。
 ふんふんふーん、と鼻歌交じりで彼女は魔法を構成する。おそらくは転送魔法の一種だろうか。そんな、どこかご機嫌に見える彼女に向かって――。

(……ま……て……)

 と、心の声をかける存在がいた。

「……まだ意識があったんですか、クラウスさん? もう驚きを通り越して呆れますよー、どれだけタフなんですか貴方は」

 ここに来て。前のめりに倒れこんでも未だ気を失わなかったクラウスは賞賛にも値するタフネスぶりだろう。
 しかし虫の息には違いなかった。もはや指一本動かすこともできず、視覚はぼやけ、現れた彼女の顔すら見えていない。
 彼もまた思考回路は焼き千切れる寸前。“まて”と考えれたこと自体が不思議なものだった。それでも、クラウスはまだ意識を手放すわけにはいかないのだ。気を抜いて、無様に寝てはいられない理由がある。

「まっ、起きてるなら丁度いいですねー、1つ聞かせてくださいよ。貴方はなぜ“ティキさんを殺さなかったんですか?”」

 ――ティキ・ニキ・ラグレイトは、まだ生きているのだから。

「最後、簡単に殺せたじゃないですか。というか、そもそも貴方はティキさんのぶっ殺してやると考えていたわけでしょう? なのに、なんでデバイスを突き入れずにギリギリで止めたんですか?」

 そう――クラウスは“頭蓋を貫く”と明確に思考していた。
 だからこそティキは、貫かれる前にその思考を読み取って、己はここで死ぬのだと早とちりし、“死んだ”と実感して意識を失ったのだ。
 無論、頭の思考回路が焼き切れた時点でティキが意識を失うのは、死を実感しなくとも確定していたのだが。

(…………ま…………て……)

「あ、ひょっとしてもう自分の声――聞こえてません? 思考感染してますもんねー、隠し事なんて不可能ですからねー。もう意識を保つことだけで限界ですか。
 勿体無い。貴方とは少しだけでもお喋りしてみたかったんです。昔、自分はちょっとした事故で失語症になってましてねー、治った今は他人とお喋りするのが何よりの楽しみなのですが。いやー、残念残念。ここで会話出来なきゃもう――」

 “一生機会は訪れない”のに、と彼女は呟いた。

「貴方、全身打撲に裂傷、挫滅傷、杙創、内出血、外傷骨折、複合骨折――おや、開放骨折もしてますね。壮大に吐血していたところを見ると内臓破裂もあるでしょうか? もしくは折れた骨が内蔵を傷つけた臓器損傷?
 後、何度も頭蓋を殴られていましたよね。セカンド・インパクト・シンドロームを発症している可能性も十分にあります。そして何より凄いのはその出血量ですよ。人間は3分の1程度の血を流しただけで正命の危険が訪れます。
 ――自分は“人間は思う以上に頑丈である”という持論を持っていますがね。クラウスさん、これはさすがにこう思わずにはいられません」

 彼女はと唇を釣り上げて、花が咲き誇りそうなくらい満面の笑顔を浮かべ。

「貴方、なんでまだ生きてるんですか?」

 そう吐き捨てる。

「ふふっ。といっても自分は貴方が気に入りましたので、まだ死なないで欲しいのですがねー。この世界にはオルブライト一族という医神アスクレピオスも驚く伝説の医療一族がいるらしいですよ。
 そんな彼らが担当医になればまだ助かる見込みはあるかもしれません、“間に合えば”ですけど。現実は厳しいですからねー。この施設の近くにオルブライト一族がたまたま来ていた、なんて都合のいい事そうそう起こりません。自分にも覚えがありますよー」

 遠い過去に思い馳せるように、彼女は空を見上げた。
 
「これも昔の話ですが、自分にはとびっきりに格好良いヒーローがいつも側にいてくれました。彼はいつも自分のことを想ってくれていて、いつも弱かった自分を守ってくれました。
 自分はそのヒーローが大好きだったんです。一生、彼の側で生きていたいとさえ思いました。ですが、ある日気づいてしまったんですよ。“彼は自分だけのヒーローではなかった”ことにね。
 彼は弱き者を助け、強き者を挫く、まさにヒーローその者の体現者でした。とどのつまり、彼にとって自分は守るべき対象の“一人”に過ぎないということです。
 だとすれば――いずれ、彼は自分なんかよりさらに弱い者が見つけてしまい、その弱い者を守りにいくことになったでしょう。大好きな自分のヒーローを“取られてしまう”。そんな悲しいことってありますか?
 だから、私は考えました。彼が“自分だけを一生守り続けてくれる”方法を。そして、考えつきました――ああ、彼にずっと自分だけのことを考えてくれるような“枷”をつければいいのだと。
 そう枷、一生消えない罪の十字架ともいいましょうか……自分は、とあるメールに悪意と拒絶をありったけに書き込んで彼に送ったのですよ。
 きっと彼は驚いたでしょうね。何せ何年も大切にしてきた庇護対象である自分から嫌われる理由が何一つとして“心当たり”がないのですから。
 そんなメールを送れば、きっと彼は一目散に自分の元へ駆けつけてくれることでしょう。わけのわからない誤解なのだと、意味がわからない勘違いなのだと――必死になって、自分のことだけを想って、迎えに来てくれることでしょう。
 そして――もしも、彼が駆けつけてくれた場所で、“私が自殺しようとしている光景”を見たらどう思うでしょうか? 普通だったら、ありもしない遺恨で自殺しようとする人間なんて縁を切ろうとするのが当然でしょう。
 ですが彼は“ヒーロー”なんです。“理由は何にせよ自殺まで考えてしまう友達を放ってはいけない”と、“ここまで追い詰めてしまったのは俺なのだと”、きっとそう思い込んで“自分だけを永遠に見守り続けてくれる”はず――!」

 たった一人で彼女は喋り続ける。その場に耳を貸している者など一人もいないということを理解していながら。
 ゾクゾクと身体を震わせ、恍惚に満ちた表情で語るその様子は、偏執的な狂気を惜しげも無く滲ませている。

「えへへ。ま、それは結局上手くいかなかったんですけど。彼がやって来る時間を見計らって、とりあえず自殺を実行してみたものの失敗して本当に“死んじゃった”んですよねー。
 死ぬ寸前で彼に助けて貰う予定だったんですが、いつまで立っても駆けつけてくれなかったんですもん。彼に送った文章に対してショックを思いのほか受けてたんですかねー。
 大馬鹿もいいとこですよ。というか阿呆ですね自分、完全に――そんなわけで人生とはそんな都合よくいかないという自分の経験談の1つでしたー。
 まぁ、ティキさんと同様、あの戦争でトチ狂った世界に生まれた貴方なら、その世界から脱出できても結局幸せにはなれなかったあなたら、“都合のいい人生なんて無い”のだと、十二分にわかっているのでしょうが」

 そう喋り終えると同時に、魔法陣が完成する。どうやら無駄話を続けながらも術式の構成は行なっていたらしい。
 彼女はティキを引きずりながら陣の中へ入り込むと、倒れこむクラウスを見下しながら、手を左右へ振った。

「それではさようならクラウスさん――ああ、申し遅れました。私の名前はカルニヴィア・オデッセイ。“都合がよろしければ、また会いましょう”。今度は貴方の言葉を交えてお喋りがしたいものですね」

 ああ。話し込んでたら、会いたくなって来ちゃったなー、今はどこで何をされているんでしょうかねー。愛しの“大将”は――そう言い残し、彼女たちは姿を消した。






 取り残されたクラウスは、もはや考えることすらままならなかった。
 最後に何を言われていたのかすらも聞き取れなかったし、そもそも僕は何をしていたんだっけ、と記憶すら混濁している。

(…………て、が……み……手紙……パルが……ロッサが……う、う……所、長だ……所長を助け、ないと……手紙……所長……)

 孤児院の大切な仲間から、そして大切な友達から届けられた手紙。
 自身の身を気遣ってくれて、命を賭けて助けようとしてくれた所長。
 かろうじてその2つを思い出したクラウスは、辺りを見渡しどうにか探そうと試みるが――何も見えない。目の前が真っ暗だ。

(……もう……なにも、見え……)

 リズムを刻む心臓の鼓動が、徐々に小さくなって、血の気が薄く冷たく引いていくのがわかる。

(僕は……ここで……こんな、ところで……)

 最後に、聞こえないはずの耳で何かが水辺へ落ちるかのような水音を聞いて――。

(死ぬ……の、か……)

 クラウスは、瞼を静かに閉じた。



 ■■■



 海上隔離施設襲撃事件と名付けられた出来事から、数日後――。
 とある高層ビルの一室で、盟主とシスターは同じ席で食事を取っていた。

「ティキ・ニキ・ラグレイトの失敗は、クラウス・エステータに負けたことなんかじゃない」

 高級そうなワイングラスに注がれた、これまた高級感溢れるワインの匂いを楽しむ盟主の姿はあまリにも絵になりすぎていた。
 一方でナイフとフォークを見事な手つきで料理を味わうシスターもまた、絵になっている。さながらトップクラスの役者をキャスティングした映画のワンセットのような光景で、見る者がいれば卒倒していたかもしれないが、今日は2人の貸切のようである。

「というと?」

「無論、一番の失敗は私の手を取ったことだが――強いて言うなら“全ての人間を救おう”と考えたことだ。仮に彼が“手の届く一部の者だけ”を思考感染で救おうとしていたならば、彼は神様になれた。
 彼だけではなく、いくらでもいるんだよ。他人の考えがわかれば真の平和が訪れる、なんて愚かな考えを持つ輩はね」

「そんなものでしょうか」

「そんなものなのだよ。ある意味で共産主義に近いところがあるからね、ティキの理想は。新興宗教として興していればどれほどの規模になったか検討もつかない。ちなみに二番目は“自分の思考を他人に伝達出来なかった”ということか」

「ああ、それはわかりますよ。思考という情報公開で平和を実現しようとする男が、自らの思考を閉ざしているのでは説得力が無さすぎる。上に立つものは、まず己から行動しなければ下は付いて来ませんし」

「それで面白いのが、彼が理想の平和と同等に望んていた者が側にいるにも関わらず――」

 盟主はさも楽しげに嘲笑し、掌のグラスの中で揺れる血のように赤いワインを見つめた。

「ティキとカルニヴィア、互いが互いを求める相思相愛っぷりで、奇跡のようにすれ違っているのだからこれが笑わずにいられるか?」

「意地の悪い。教えて差し上げればいいものを」

「他人の恋路に口を挟むものではないからな。それに教えたところでもう無駄だろう? ティキの再起は不可能、まったく彼も運悪くヤブ医者にあたってしまったものだ。まぁ、彼のレアスキルには使い道があるから保存はしてるがな」

「元々拾い物でしたし、どうでもいいですけどね」

 くだらない玩具が壊れただけだと、シスターは興味を示さない。
 そんなことに興味はないが、しかしティキとカルニヴィアの“過去”をどうやって知ったのかは気になる。
 よもや前世の知り合いだったというわけでもあるまい。何かの能力を使って調べたのだろうけれど、どうせ聞いてもはぐらかされるので彼女は聞かなかった。

「それはそうと、盟主は結局クラウス・エステータを仲間に加える気だったんですか?」

「始めは、ティキに勝つようならそのつもりもあったんだが――あれはいらん。あれは“正しいと思える道”を歩かなければ本気になれない属性の愚者だ。強制的に引き込んでも、こちらにいる限りヴァン・ツチダにすら何回やろうと勝てはしない、な」

 そんな応えに応じながら、ふと、思い立ったように盟主は目線をシスターに移し、“そういえば賭けの払いがまだだったな”と伝えた。

「賭けで負けたのは初めてだ、実に気分がいい。やはり不確定要素の集合が現実という実像を作る以上、偶にくらいは外れてくれなくてはつまらん。何をして欲しい? なんでもいいぞ。死ねでも許可するが」

「……こんなくだらないことでスペアを消費しようとしないでください。そうですね……」

 シスターは何がいいかとしばらく考えこんで、“では――”と切り出す。

「あと数週間で“あの子達”の命日なんですよ。よければ、一緒に冥福を祈ってもらえますか?」

「――おいおい。それこそ、こんな“くだらないこと”で願うことではないだろう……まぁいいさ。なんでもいいと言った以上な。なら祈ろうではないか」

 ついでに、二度と祈りも出来ない貴様の代わりに祈ってやるよティキ。そしてありがたく思うといいクラウス。
 お前達の故郷の戦争で犠牲となった者共の冥福を、私が祈ってやろうというのだから。

 一口のワインをあおり、盟主は静かに目を閉じた。ただ、死者たちの冥福を祈るために。



 ■■■



 後日談として、その後の詳細をここに語ろう。
 簡単にいえば、クラウス・エステータと海上隔離施設の所長は――。

「あの時はもう駄目かと思ったよ。二度とあんな目に合うのはゴメンだな、そう思うだろうクラウスくんも」

「……けど僕たち、よく生きてましたね。いや、とても嬉しいのですが……」

 2人並んで施設の病室のベッドの上で元気に過ごしていた。といっても、クラウスは5日ほど目が冷めなかったのだが。

「ああ、私はあの侵入者に頭蓋を砕かれてほぼ死んでいたような状態だったらしいし、君も全身余すとこなく重症だったからなぁ。実際、この施設の担当医達も『これはもう私達の仕事じゃなくて葬儀屋の仕事だよ』とお手上げ状態だったらしいからね、はっはっは!」

「なんでそんな悲惨なことを笑って話せるんですか貴方は……」

 キャラが変わってないかこの人、とクラウスはげんなりとしながらそう思った。

「いやぁ、私達は本当に運がよかったよ。何せ、医学界では伝説とまで謳われる医療集団オルブライト一族――に“匹敵すると言われている”医師が施設の収監者にいて、とある交換条件と引き換えに手術を請け負ってくれたんだから。
 『“死亡寸前程度”の怪我なら全治一週間で退院出来るようにするのが私の“元”仕事ですから』と言っていた彼女は麗しかった……あれで性格がまともなら今頃花束を片手に婚約を求めているね。性格が……まともなら……なぁ……。
 ……まぁいっか。この施設に蔓延した思考感染も一日立って全員治ったのだし。あれが永続していたら考えるだけでも恐ろしい」

「あはは……それは、なんて運のいい……」

 もしくは――なんて都合のいい、と。どこかで聞いたような気のする言葉を思い出す。それを言っていたのは誰だったか。
 ふとクラウスは自分の腕を目の前に上げて、じっと見つめる――驚くことに、1つとして傷がない。手には青あざや切り傷が幾つもあったはずなのに。

 伝説とまで言われる医療一族に匹敵するというだけで、死にかけていた人間の負傷をここまで綺麗さっぱり治してしまえるのだろうか。
 きっと服を脱いで鏡にその身を映してもあの戦いで刻まれた傷跡の数々は全て消えているのだろう。まるでティキ・ニキ・ラグレイトとの戦いが、幻だったとでも言わぬばかりに。

(――それでも、僅かに残っているんだ。彼と戦った記憶の残滓は)

 脳のダメージによる、一部の記憶欠損。命を落としかねなかった重症と引き換えに、クラウスはティキとの激戦の記憶を失っていた。
 ティキと戦い、ティキの目的を聞き、互いに大技を繰り出したところまでははっきりしている。されどその後に彼をどうやって撃退したのかが朧げにしか思い出せないのだ。クラウスは『戦いを一部始終を目撃していた』という男性の証言を纏めたレポートを目にしていたが、やはり要領を得ない。

 そもそも、男性が目撃したのは本当に真実なのだろうか。レポートに書かれている内容をみれば白昼夢でもみていたのではと疑ってしまう。
 男性の目撃談から察する戦いのレベルは、はっきり言って異常。クラウス自身も『自分にこんな技量で戦うのはまだ無理だ』と思っているほどなのだから。
 されどその男性が嘘をつく理由などないし、何よりクラウスは自分を助け“大切なもの”を取り戻してくれた彼を、疑いたくはない。

 クラウスのベッドの枕元には、グシャグシャにされた折り目も皺もない、ヴェロッサから届けられた当時のままの“手紙”だった。
 この手紙を拾ってくれた彼が言うには、戦場に展開されていた協力な隠蔽性能を持つ結界が解除された瞬間、強い潮風が吹いてティキに投げ捨てられていた手紙が海に落ちそうになったらしい。
 海に落ちたら二度と見つからない――と彼は『エアポートの近くに重症の怪我人がいます! 死にかけてるんです! 助けてください! お願いします!』と大きく“心の中で”叫んで、咄嗟に手紙を追いかけて手紙を掴めたのはいいものの勢い余って海に落ちたのだとか。

 彼は思考感染の能力を受けて、思考が伝達するようになっていたことを利用し手紙を追うことと助けを求めることを両立させたのだ。
 彼の思考を聞きすぐに所員が駆けつけて、その負傷に絶望的なものを感じながらも適切な処置を施すという行動がなければ、クラウスと所長の執刀を担当した例の医者は『如何な私でも難しかったでしょうね』と断言した程だ。

 2つの意味で、僕は彼に救われたのだなとクラウスは感謝してもしきれなかった。
 ――実はその彼が、最初にクラウスと追いかけっこを熱演していた謎の男性だったというのは微妙なところだが。

 海に落ちた際、手紙は海水まみれになってしまったが、そこは魔法の国ミッドチルダ。
 特殊な魔法で手紙を元の状態に再生することは容易だったらしい。だからこそ大切な手紙は綺麗なままでクラウスの枕元にあるのだ。

「そうだ、クラウスくん。君のデバイスのことなんだが」

「っ! コルセスカは、僕のデバイスは直るでしょうか?」

 さながら大事な友達でも心配しているかのような、切実な不安の表情を作るクラウスに所長は微笑みながら言葉を返す。

「問題ないよ。重要なパーツは破損を避けていたからね。ただここの設備じゃアームドデバイスの修復は難しいんだ。そこでなんだが、ここは一つ私に預けてみてくれないか? 知り合いに信頼しているデバイスマイスターがいるんだが、彼女の腕ならきっと完全に元通りにしてくれるさ」

「っ! 是非お願いします!」

「ああ、任せてくれ。早速デバイスマイスター……カブリオレさんというんだが、連絡を入れておくよ。君は私の命の恩人だからね、このくらいはさせて貰わなければ気が済まない」

「……恩人?」

「ん? その通りだろう。君がいなければ私はおそらく死んでいた。君は私の恩人で、ヒーローだ」

「――僕は、ヒーローなんかじゃありません」

 表情に暗い影が差し、クラウスは震えながら俯いた。
 恩人なんて、ヒーローなんて呼ばれるほど大層なことを成してはいないから。

「なぜ、そう思うんだい?」

「僕は、最後に“手を止めました”」

 それは、唯一はっきりと覚えている唯一の部分。
 どうやってそこまで辿り着いたのかは朧げだが、“彼に止めを刺せた”――その光景だけは覚えている。

「彼の存在は次元世界規模に匹敵する危険と知りながら……最後の最後で“保身”に走ったんです」

 殺すと、その頭蓋を貫いてやると混じりけのない殺意を浮かべた瞬間――クラウスの脳内に浮かび上がった景色があった。
 笑顔で『クラウス』と自身の名を呼んでくれる、仲間たちの姿が。“待ってくれている仲間を放って、また罪を重ねる気か?” そう思って――クラウスは槍を止め、未来察知を解除してしまった。

「馬鹿ですよね……“殺さなくても捕まえればいい”なんて甘い考え方をしたから、僕は彼を逃してしまったんです。限界を超えていることなどわかっていたのに、その状態で気を抜いてしまえばもう指一本動かなくなることくらい……わかるものだろう……!」

 俯くクラウスの瞳から――小さな雫が落ちていた。
 無念だった。殺さずに捕まえるつもりで、結局取り逃がしてしまったのだからなんて無様だろうか。
 仲間達の安全の為にも、友達の未来の為にも、してはならないミスをしてしまったのだからもはや償いようがない。

「僕が罪を重ねることなんかより、彼を捕まえることの方が重要だったのに! そもそも、僕がここにいなければ、彼がここを襲撃することも!」

「クラウスくん、それは違う」

 クラウスの悔しさが滲み出る慟哭を、所長が制す。

「何がですかっ……」

「ティキ・ニキ・ラグレイトの目的は、君だけじゃなかったんだ」

「……え?」

「彼は――まず始めに私がいた“所長室”を襲撃した。所長室のコンピューターからは施設のデータバンクに直接介入出来るからね。彼は思考感染で私に起動パスワードを割らせた後、過去の収容者達のデータを盗みだし――そしてその後、私を引きずって君の元へ向かったんだ」

「……収容者のデータを……?」

「そう……だからクラウスくん、例え君がここにいなくとも、ティキはここを襲撃したんだよ。逆に言えばね――君の魔法封印を解除する為に生かしておく必要がなかったら、私はパスワードを知られた時点で確実に殺されていたんだ」

「それ、は」

「これでも、君は僕の命の恩人じゃないのかな?」

「…………」

 ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、クラウスは涙を拭う。
 それを見て所長は笑顔を浮かべ、病室の窓から外を見る。雲一つ無い蒼空、地平線の向こうまで広がる海が太陽を反射させて煌めいている。

「ティキを取り逃がしたのは、何よりも私の責任だよ。だから私は、おそらく辞職を免れない。これほどの不祥事だ、誰かが責任を取らなければね」

 所長は静かに告げる。それに対してなんと言っていいのかわからないクラウスは、沈黙せざるを得なかった。
 クラウスの所属する聖王教会でもそうだ。挽回出来ない失態は、誰かに押し付け首を切らなければならない。社会という枠組みで過ごす以上、避けては通れないシステム。

「この仕事に未練がない、といえば嘘だ。私は、暗い顔でこの施設に入って来た子が笑顔で旅立っていくことが何よりも誇りだったから。時々ね、社会復帰した子達からその後の状況を書いた手紙が届くんだけど、これがまた嬉しくてね。大変だけど、頑張ってるよって……」

「……僕が、彼を捕まえていれば、貴方が首になることも……」

「――ふむ、君の悪癖を1つ発見したよ。君は何もかも背負い過ぎだ。生真面目過ぎる……それは良い所でもあるけれどね――それに例え君がティキを捕まえていてもどの道、私は辞めることにしていたさ。“守るべき者を自らの代わりに戦わせた”など――それこそティキの所業よりも罪は深く重い。
 というかね、辞めるといっても所長職から降りるといった方が正しいんだよ。これからもこの仕事には違う形で付き合っていくさ」

 はっはっは。再び所長は楽しそうに笑った。

「クラウスくん、都合が悪いことなんて、不幸なことなんて誰にだって訪れるものなんだ。取り返しがつかない後悔に苛まれることもあるだろう。だけどね、重要なのはそれと如何に向き合うことだと私は思う。
 ――都合が悪い? それがどうした! 都合なんて自分自身の力で良くしてやる! 不幸? それがどうした! 不幸が振りかかるというならその不幸すら楽しんでやる! 後悔? それがどうした! 後悔したら死ぬほど落ち込んでから立ち直ってやる!」

 所長は拳を振り上げ咆哮する。所長が自分自身でそう鼓舞する姿に、クラウスの胸奥から熱を帯びた何かを感じていた。
 その考えは、その生き方は、きっときっと、とてもとても。

「こう考えて、私は生きようと日々思っているんだ。こう考えると、人生が楽しいからね。クラウスくん、君がこれからどう生きるか、それは君が決めることだけど――こんな生き方をしている男がいることを、良ければ心の片隅に置いてくれると嬉しい」

 そう言い終えてから、所長はベッドから降りてクラウスに前に立ち、ぴんっとまっすぐに背筋を伸ばして――。

「私を助けてくれて、本当にありがとう」

 綺麗な動作で敬礼をして、頭を下げた。

「……頭を、頭を上げてください」

 その言葉を聞いて、頭を上げた所長は見た。先よりもさらに大粒の涙を流すクラウスの姿を。
 しかしそれは悲しみの涙などではなく、おそらくは嬉し泣きに近い涙なのだろう。

 だって、それは少しだけぎこちないものではあったけれど。

 クラウスは、確かに微笑んでいたのだから。



 ■■■



「いやああああああああああぁほおおおおおおおおおおおおおおおぉ! 手術の交換条件でルーチェ隊長の写真が戻って来ましたよー! たった2人の患者を内蔵眺めながら切り貼りしただけでこの報酬! これだから医者は辞められません!」

「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! 救助活動をやったご褒美にペンと紙ゲットオオオオォ! 書ける、書けるぞおおおおおおおぉ! どんどん妄想もといアイデアが溢れでてくるぜー! ありがとうクラウスさーん! 新刊はあなたが表紙でーす!」

 隔離施設の一日単位で誰も使用しない古びた倉庫の中に2人の男女が狂喜乱舞していた。
 女性の方は実に生生しく肉肉しい写真を胸にあてながら汚れることも厭わず地面でゴロゴロと転がり、男性の方は目で追うのがやっとの速度でペンを走らせていた。

 おそらくこの2人にとって理想の世界とは今この瞬間なのだろう。ペンと紙、そして想い人の写真があれば、それで天国なのだろう。
 都合が悪い人生だとか、取り返しのつかない後悔だとか、きっと生涯無縁に違いない。ちなみにこの数日後、所長が辞任前に「ベクトラくんとネオンさん、プログラム最初からやり直しな」と伝える最後の仕事があったのだとか。














 ■■■



 自分が失語症になった時のことは、正直あまり覚えていません。
 車との衝突事故だと親からは聞かされていましたが、それを聞いてもやはり要領を得なかった。

 車を運転していたドライバーを恨む気持ちはありません。だって事故なのですから。
 それに話を聞くかぎり、どうやら大方の原因は自分にあるようでしたので。死んでないだけ儲けものというものですね。

 ふふっ、いやいや、寧ろ恨むどころか――感謝をしたいくらいです。
 だって、自分が事故で失語症にならなければ……自分の大好きな自慢の友達に出会うことはなかったでしょうから。

 言葉を話せないから、友達なんて出来なかった。友達なんて作れなかった。
 だから仕方なく、自分は一人ぼっちで公園に遊びに行ったあの運命の日。大将はそれは我が物顔で自分に突っかかって来たよね。

 いや、いきなり殴られた時は痛かったなぁ。
 今となってはいい思い出ですけど、あの頃の自分はそれはもう内心怒り狂ってましたからねぇ。こっちとしては意味もなく殴られたわけで。

 今だから正直に言っちゃいますけど、大将が自分の家に謝りに来た時ね、実は殺そうと思ってたんですよ、大将を。
 ポケットに忍ばせてたカッターナイフで、さくっとやってやろうかと。もうあの頃は一杯一杯でしたから。
 意味もなく喋れなくなって、意味もなく一人孤独になって、皆が皆、自分を可哀相な子供だと哀れむ眼で見下して、潰れそうでした。

 だから、そんな思いを全て血が出るまで自分を殴ってくれやがった男の子にぶつけてやろうって、思ってたんですよ。
 これで終わりでいいやって。気が晴れるならそれでいいやって。どうせ喋れない自分にろくな未来なんて無いからって。
 結局出来なかったんですけど。そんなことを出来るほど大胆じゃないですから。チキンなんです、基本的に。

 まあやらなくて結果的に大セーフだったんですよね。
 まさかあの時は、その男の子が僕の中でこれほど大切な存在になるなんて思っても見なかったですから。

 あの日から、大将はこんな自分に一生懸命構ってくれました。
 自分が無視したって、居留守を使ったって、毎日毎日欠かさず会いに来てくれました。

 そうしている内に自分の中から大将への憎しみがなくなって、変わりに嬉しさが溢れていって。
 いつの日か、大将に会うのが何よりの楽しみになっていた自分の感情に気づいた時は、なんか笑ってしまいましたね。

 初めて携帯電話を買って貰って、これで大将と文字でだけど話せるなとウキウキしながら見せた時の大将の表情は、こうして生まれ変わった今でも忘れません。
 あんなに素敵な笑顔、地獄の底でだって思い出せます。あの笑顔を思い出すだけで、幸せになれます。えへへ。

 ――それから何年かたって、大将もいつか自分の側からいなくなっちゃうのかなとふと気づいてしまった、あの日。
 僕だけのヒーローじゃなくなっちゃうのかなと、思ってしまったあの日。

 自分は大将にとても酷いことをしました。意味もない罵詈雑言を書き連ねた文章を怒り狂った演技をしながら投げつけて。
 けど仕方なかったんです。大将のいない人生なんて、ヒーローが守ってくれない人生なんて、自分に意味なんてないんですから。

 ずっと一緒にいて欲しくて自殺の真似事をして大将を自室で待っていたのに。
 来てくれなかったんですよねー。リアリティが必要だろうと思い深く切りすぎたリストカットがマジで致命傷になろうとは、なんとも愚かしい。

 ……大将は、今どうなされているのでしょうかね。
 自分のような弱者を守る格好良いヒーローを、今も続けているのでしょうか。

 大将に守られる弱者が恨めしい反面、やはり大将はそんなヒーローが似合っているという思いもあって、複雑です。
 けど、あんなことがあったのだから大将はきっと自分のことを覚えていてくれるでしょう。ずっと自分のことを忘れないでいてくれることでしょう。

 そうだったら、嬉しいな……一応、あの事実無根の罵詈雑言には『仕掛け』があったのですが。
 大将、そんなに頭が回る方じゃないので気づかなかった可能性の方が高いんですよねぇ。だから、ショックを受けすぎていて、すぐに自分の元へ駆けつけてくれなかった、と。

 改行していない文章の一文字目を縦読みしていただけると、自分の本当の気持ちが現れる。
 結構、というかかなり無理やりな文章なので気づいて欲しかったなぁ。

 しかし、自分が大将に構って欲しくて自殺したってことを気づいたら、大将は自分のことをどう思うでしょうかね。
 ……嫌われたくない。いや、こんなことを仕出かした自分にそんなことを思う資格なんてきっとないのでしょうが。

 それでも、大好きだから。それでも、大好きだったから。
 自分のことを、好きでいて欲しかった。

 自分が死というものを実感したあと、自分は生まれ変わりという奇跡を経験しました。
 生まれ変わった世界は、そりゃ悲惨なものでしたが、自分はそれでも自分なりに頑張って生きてます。

 ひょっとしたら、また大将に会えるんじゃないかって希望にすがってね。



 愛しい大将。貴方は今、どこで何をしているんでしょうか。



 性別すら変わってしまいましたが、自分は、ここにいます。



 もし縁があったのなら、また会って、今度は自分の『声』で、お喋りしましょうね。














          『嫌い』

いっ嫌い』    
                『信じてたのに』

   『嫌い』    『会いたくない』

     『信じてたかったのに』     『近づかないで』

  『なんで教えてくれなかったの』         『嫌い』

      『嫌い』
                   『嫌い』
       『嫌い』
          『ふざけないでよ』   

     『嫌い』       『放っておいて』         

らいらするから』

        『嫌い』    『嫌い』 『嫌い』      『嫌い』

    『嫌い』 『嫌い』  『嫌い』  『嫌い』  『嫌い』

    『嫌い』     『嫌い』    『嫌い』     『嫌い』

       『嫌い』  『嫌い』  『嫌い』

    『嫌い』    『嫌い』  『嫌い』     『嫌い』

      『嫌い』   『嫌い』  『嫌い』   『嫌い』

ごく嫌い』

     『嫌い』  『嫌い』  『嫌い』 『嫌い』

     『嫌い』  『嫌い』 『嫌い』  『嫌い』



らい』

から』




く考えて、死んじゃえ』









 大好きだよ、大将。


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