「――――さて。うむ……そろそろいいだろうか。魔術師の英霊殿」
メロドラマのクライマックスからややもして。
半ば蚊帳の外となっていたエキストラのひとりが、空咳交じりに声を投げる。
これ以上は用が済んでからやれと言わんばかりの、痺れを切らした声だった。
「……ふぅ」
そこでようやく、キャスターの顔が葛木から離れる。
しかし、その動きは緩慢で、どこか億劫そうにあり。
そして表情は、これでもかとばかりに不快感が浮かんでいた。
「無粋ね。夫婦のやり取りに水を差すなんて」
「その点は謝罪するが、これ以上のラブシーンは遠慮してもらいたいのでな。年少者の情操教育によろしくない」
放っておけば濡れ場まで突入しそうな雰囲気であった。
マスター組はともかく、ティーンエイジをやっと超えた者と純真無垢な幼年がこの場にいる以上、抱擁より上の過激な場面は流石に憚られる。
「貴方、保育士かなにかかしら」
「……極めて世間一般的な意見だと思うのだがね」
常識と良識に則れば、だ。
そうぼやきつつ、赤い背中が肩を竦めた。
「それはともかく、お互いに話すべき事は多い。そう思っているのはこちらだけかな?」
「……まあ、いいでしょう。話せる事は話してあげるわ」
「うむ……が、その前にまず、ふたつほど確認だ。キャスター、そしてそのマスターよ。こちらと敵対する意思はもうない、と思っていいのか」
アーチャーの問いに、キャスターはなんの躊躇いもなく首を縦に振った。
葛木も、相変わらずの無表情だが、敵意や害意は微塵も発されていなかった。
「ええ、そう思ってもらって結構よ。私の望みはすべて叶った。そちらが刃を向けないのなら、こちらも非戦に吝かではないわ」
なにより、宗一郎様がそれを望んでいないから。
それを結びの言葉として、キャスターは講和を前面に打ち出した。
「了解した。では、そういう事で異論はないな、凛」
「……了承するわ」
凛以下、自ら仕掛けて来ておいて今更な、という声はどこからも出てこない。
最初の襲撃は退けた上、敵だった葛木が助太刀を申し出て、眼鏡の子供を護るためその拳を振るっている。
なにより、キャスター絡みでは最終的に、ひとりの欠員も出す事なく終息した。
イレギュラーのすったもんだも絡んで、そういった反骨の意思が根元から折れてしまっていた。
「それともうひとつ。キャスター、真名は『メディア』だな」
「…………」
そのアーチャーの一言で一転、キャスターの眦がきっ、と吊り上がった。
細められた目から、重々しく怒気が滲み出ている。
しかし、アーチャーは軽くそれを受け流し、さらに畳み掛ける。
「先程、お前は『イアソン』と口にした。イアソンに絡む女で、キャスターとして喚ばれるほどに魔術に長けた者など、かの『魔女』以外にいない」
ギリシャ神話に悪名高い、残虐非道な魔女と呼ばれた女、メディア。
女神ヘラの思惑によって、英雄イアソンに強制的に惚れさせられ、アルゴー船にまつわる彼の英雄行を支えさせられた。
その過程で、王女として生まれ育った故郷コルキスを捨てさせられ、彼の偉業のために血を分けた弟をはじめ、多くの人間を手にかけていった。
すべてはイアソンのために。偽りの恋を植えつけられ、幻の愛に踊らされてもそれを疑いもしない。焦がれる男のために、卑怯卑劣な手段すら息を吸うように平然と行う。
まさしくそれは、女神の呪いであった。
紆余曲折を経て、彼女の行いに嫌気が差していたイアソンは、降って湧いた他国の王女との婚姻話を機に、彼女との間に出来た子供達諸共にメディアを切り捨てた。
結果、夢から醒めたように彼女は復讐に狂い、多くの惨劇を生み出し、最終的に流浪の旅路の果てに消える。
女神の手により人生を狂わされた薄幸の佳人。それがメディアであった。
「……二度と『魔女』と呼ばない事ね。非戦を違えはしないけど、仮に手元が狂って魔法の杖が暴発しても責任は取らないから」
凍った重油のような、刺々しい数秒間の沈黙を破り、キャスターの喉からやっと言葉が搾り出される。
それに対し、アーチャーは軽い調子で首を縦に振った。
「忠告、肝に銘じよう。しかし、そうと知ってなお真っ直ぐに愛を貫くマスターには、男として頭が下がるよ」
最後に、無色の鉄仮面そのもので突っ立ったままの男を持ち上げた事で、険しかったキャスターの眉と怒気が伸びたゴム紐のように緩くなった。
ちょろいな、と彼が思ったかは、彼のみぞ知る事である。
「なんにせよ、だ。キャスター、まずは前置きとして、今の肉体について説明をしようか」
「おおよそは解っているつもりだけど……一応、聞きましょう」
「いや、ひょっとしたら謝罪をせねばならんかもしれんのでな」
「謝罪?」
訝しむキャスターの前に、アーチャーから手鏡が差し出された。
どこにそんなものを持っていた、という言葉は発されず、首を傾げながらもそれを素直に受け取ったキャスターが、中を覗き込む。
その途端、ぎょっとその目が大きく見開かれた。
「……なに、これ」
写っていたのは、十代半ばと思われる乙女の顔だった。
この場にいる者と比較すれば、凛が最も実年齢的に近いか。
肌は瑞々しく、張りがあり、幼さを抜け出しかけている少女の清純な色香が漂い出している。
薄紫の髪は肩の辺りまであり、片側の耳元後ろに、房飾りのように編み込みがされていた。
鏡を持つキャスターの手は小刻みにふるふる震え、エルフのように尖った両の耳は、ぴくんぴくんと小さく跳ねていた。
「説明はこちらから。そら、少年」
「うえっ!? え、っと、あの」
魔術師主従のクライマックスからこっち、常にない空気に圧されてこそこそ脇に引っ込んでいたのび太を、アーチャーがずいと前に押し出した。
泡を喰ってあうあう言っている彼の手には、まだ時計柄の布切れが握られている。
種は明らか、問題はその過程について。
「ら、ライダーさんの時と同じように“タイムふろしき”をキャスターさんに被せて……だけど、戻しすぎちゃって……こ、これでも短めにしたんですっ!」
「……要するに?」
要領を得ない、たどたどしい説明に、キャスターが弁解の要点を求める。
平坦な物言いではあるが、その声には、まだ動揺の震えが感じられた。
それに答えたのは、呆れの滲んだ顔を手の腹で抱えていた凛だった。
「あー、掻い摘んで言うと……化け物から戻ったアンタがエーテルの塵になって消滅する前に、時間回帰で元に戻そうと……もっと言うなら“生前”の肉体に戻す、かな……したんだけど、時間を戻しすぎたのよ」
やや歯切れ悪く、しかし要点を踏まえた簡潔な言葉。
それを受けて、ぴくり、とキャスターの眉が跳ね上がった。
『――――手があるのならばこの通り、伏して頼む。助けて欲しい』
あの死闘の後。
意識をなくし、足から光となって消えようとしているキャスターを抱えざま、葛木は深く頭を下げていた。
それに半ば圧される形で、のび太はライダーの時と同じく、“タイムふろしき”でキャスターの時を巻き戻した。
『少年。ライダーとキャスターでは、おそらく召喚前に生きた年月が違う。被せる時間は、ライダーの時より短くするんだ』
ライダーこと『メドゥーサ』は女神で、キャスターこと『メディア』は人間。どちらが生前、永く生きていたかなど言うまでもない。
後者については、この時点で正体こそ知らなかったが、以前学校に現れた骨の兵士の材質から、アーチャーにはある程度の正体の見当がついていた。
その助言の下、のび太が風呂敷を使用した。しかし、風呂敷を払った直後、のび太の顔は煮浸しの茄子のように青くなる。
そもそも、他のものならいざ知らず、このケースで風呂敷を使用したのは一度だけ。たった一回で間隔を掴めというのも、無茶な注文であった。
『……ど、どうしよう。戻しすぎちゃった』
『む……っ。しかし、まあ、最低限の目的は達成している。構わんだろうさ』
『気になるなら、いっそシワくちゃのババアにでもすれば? どうせ最終的にはそこに行き着いてるんだから』
結局、ああだこうだと言う前にキャスターが覚醒してしまったので、現状のまま留め置かれる形でここまで来ていた。
たどたどしい、のび太からの後追い説明を聞いたキャスターの眉がもう一度、今度は小刻みにひくついた。
「……そう。そういう事だったの。まあ、それなら特に文句も……ただし、そこの小娘。誰がシワくちゃのババアですって?」
英霊だろうが女は女。そして年齢は、永遠の女のタブーのひとつである。
真名を暴かれ『魔女』と呼ばれた時とは違った怒気が、彼女から立ち上っていた。
しかし、妥協してなお密かに燻るものがあったのか、凛は従者さながらにふん、と不敵に笑う。
「あら、ご不満? じゃあ、バツイチのオバサンでいいかしら?」
ぴき、とキャスターのこめかみに青筋が立つ。
感情が融点を超え、沸点に達した。
「いい度胸ね。知っていて? 魔法の杖って意外に軽いものなのよ。こんな細腕でも、軽く振れるくらいにね」
顔こそ笑っているが、目は笑っていない。
そしていつの間にか、彼女の右手に、神官が持つような彼女の身長ほどもある杖が掴まれていた。
一触即発。しかし、そこに水を差したのは、凛の従者であり、凛以上に不敵な者。
「そこまでだ。今はお互いに小娘だろうに。それはそうと、キャスターよ。今の状態で特に不満などないと思うのだが、いかがかな。この国では『女房と畳は新しいほうがいい』という言葉があってだな」
「……そうね。力や魔力なんかはサーヴァントの時と変わらないようだし、クラススキルもなぜかある」
気勢が削がれたか、杖を収め、身体の各所をチェックしながら少しずつ、キャスターの怒気が鎮まっていく。
そこに、アーチャーはさらに言葉を畳み掛ける。その途端、彼女の目の色がはっきり変わった。
「それから、これは朗報だ。今のその身体はサーヴァントのものではなく、純粋な人間のものだ。つまり『愛の結晶』を授かる事も不可能ではない」
サーヴァントではあり得なかった、新たな可能性。
掴み取った幸福に、大輪の花が添えられた。
「そう」
キャスターの顔が、喜色と感動に彩られる。
「そう……そうね。この時代にはあの忌々しい女神もいないし、今の肉体年齢はイアソンと出会う前のもの……」
口中でぶつぶつ呟くキャスター。
徐々にその目に、熱が漲っていく。
「……ああ、いや、なんだ」
このままでは数分前の焼き直しと踏んだか、アーチャーが声をかけようとする。
が、その懸念は幸い杞憂に終わった。
「坊や」
「は、はい!?」
突然水を向けられ、びく、とのび太が身構える。
そこには凪のような、キャスターの柔らかい微笑があった。
「感謝するわ。図らずも、貴方は私に新しい人生を与えてくれた」
「い、いや、その、先生が助けてくれたし、お願いされたし、だから」
「そう。それでも、お礼は言わせて。ありがとう」
「あ、ぅ……」
包み隠しもない、真っ直ぐな感謝がぶつけられる。
あまりの照れくささに、のび太の顔が真っ赤に染まり、その身体が縮んだ。
「それから……あら?」
そこでふと、キャスターの視線の質が変わる。
標本を前にした科学者のように、キャスターの瞳がのび太を舐めていく。
空気が変わった事を察した、のび太の顔が持ち上がった。
「なん、ですか?」
冷水に浸したアイスピックの如き視線。
魔術師のそれが、鋭く眼鏡の奥に突き刺さる。
知らず、ぐひ、とのび太の喉から奇妙な音が漏れた。
「――――そう。貴方、セイバーの主になったのね」
魔術師の瞳に光が宿る。
実験室でフラスコの中を見つめる科学者にも似た色が、その輝きにはあった。
「あ、うぅ、その」
先程の照れも失せ、気圧されたのび太の身体が縮み上がる。
だがそこへ、視線を断ち切るようにすぱりと声が差し込まれた。
「……そもそもからして、その遠因は貴女にあるのですがね」
薫風のように涼やかな声音。
じゃり、と靴音を鳴らし、アーチャーの後ろから滲み出るように現れたのは、銀の鎧も眩しい剣の英霊の姿だった。
ただ、今までの姿と印象が異なっている。
「セイバー……ふぅん。貴女、随分可愛らしくなったわね」
「貴女ほどではありませんが」
激戦の名残で、頭の後ろでまとめていた髪がほどけている。
肩の辺りまで下がった黄金の髪は艶を持ち、重力に従って絹糸のようにさらりと流れる。
髪を下ろす。たったそれだけだが、しかし印象は激変していた。
常の凛とした、騎士としての面差しが薄れ、十代半ばの見た目そのままの、柔らかな少女のものへと変わっていた。
キャスターの揶揄に、やや不機嫌そうにセイバーの眉が顰められる。
しかし、それでも発される声に澱みはなかった。
「怪物が死を迎えたその瞬間、私は消滅の危機にありました。あれは敵であると同時に、仮初とはいえマスターだった。マスター不在の『はぐれ』では、数分保たずに消滅する」
セイバーは特に現界に魔力を喰うサーヴァントである。
『アーサー王』という、格の高い霊魂に加え、秘めた戦闘能力も頭抜けて高い。
その代償としてすこぶる燃費が悪く、魔術の才媛の凛でさえ、聖杯の支援なしの単独ではまず現界を維持しきれないだろう。
ただし、この場のひとりに限っては、例外となる。
「で、手近にいたその子を咥え込んだ、と」
「悪意のある物言いをしないでいただきたい。距離が近かったのは事実ですが、あくまで緊急避難です。それに……誤解を怖れずに言うのなら……ノビタであればこの場の誰よりも私と、魔術的に相性がいい」
のび太の身体にある“竜の因子”。
セイバーの持つ竜の性質と同じものであり、ラインを繋いで共鳴を起こし、莫大な魔力を生み出す事はこれまで幾度もやっている。
彼との契約であれば、現界どころか全力の戦闘にすら過剰なほどの魔力を得られる事実が、厳然としてあった。
「そうね。組み合わせとしては、そこの小娘やあのボウヤよりも」
「――――しかしながら、これは予想外でした。失礼」
キャスターの声を遮り、セイバーの手がのび太へと向かう。
そして、上着の裾に手をかけると、そのままぐっと捲り上げた。
わひっ、という情けない声と共に、のび太の腹が露わになる。
そこには、一際目を引く異様なものがあった。
さしものキャスターも、これには瞠目する。
「……これは」
「見ての通り、令呪です」
彼の鳩尾ど真ん中。
筋肉もついていない、生白い肌にくっきりと刻まれた赤い線が見える。
『N』のアルファベットをバラして稲妻状にしたような、シンプルな三画。
まぎれもない、令呪がそこにはあった。
「という事は、この子は魔術回路を持ってる」
「本来、あり得ない事ではありますが」
この世界で生まれた訳ではない、異邦人ののび太にそんなものが宿るなど考えられなかった。
令呪とは、魔術師であるかどうかは関係ないが、その前提条件となる魔術回路を持つ者に顕れる。
現に、葛木は魔術回路を持たないため、キャスターのマスターでこそあるが、令呪を宿してはいない。
また、ライダーを使役していた間桐慎二も魔術回路がなく、本来の主の桜からマスター権を魔術礼装『偽臣の書』で委譲させていただけであって、令呪自体は桜が保持していた。
さらに、魔術回路があるからといって、必ず令呪が宿るとは限らない。
魔術回路があって、かつ聖杯が……正確には聖杯戦争のシステムを司る大聖杯が……選んだ者にのみ令呪が顕れるのだ。
補足として、令呪の宿る優先順位について述べると、アインツベルン・遠坂・マキリの御三家、次いで参加に意欲のある魔術師で、その他の者が選ばれるのは、予備かもしくは数合わせ的なものである。
裏技的に調整が可能なキャスターは例外としても、今、ここにある実態が、どれだけ異常であるかが窺い知れる。
「しかし、そのあり得ない事が起こっても、もはや不可解とは思えない。それだけの異常事態という事は貴女も理解しているはず。曲がりなりにも『魔術師の英霊(キャスター)』だ、調べはしているのでしょう?」
「……手を尽くしてみたところで、結局干渉すら危険だっていう結論に至らざるを得なかったけれど」
どう足掻いてもミイラ取りがミイラになるんじゃお手上げね。
キャスターの口から、憂鬱の混じった溜息が漏れ出た。
それでも、その目はまだのび太を観察している。
「話を戻すと……回路といっても最低限。ざっと令呪の本数分……三本しかないみたいだから、魔術は使えないわね。無理に使おうとすると、最悪の場合、脳が破裂するわ」
「えええっ!? つっ、つつつ使わないよ、絶対!」
「そうしなさい。令呪を使う分にはちょっときついくらいで済むでしょうから、あのボウヤにでも……」
そこで、キャスターの言葉が止まる。
視線がのび太から外れ、右へ左へ、辺りを見渡し始めた。
「そういえば、貴女の前のマスターは? いるはずでしょ」
「ああ……シロウでしたら」
セイバーが口を開こうとする。
しかし、それより早く動いたのはアーチャーの声帯だった。
「――――ふむ、最初に言っておくべきか。小僧は侍と契っているぞ」
びしっ、と。
周囲の空気が音を立てて白く凍った。
そんな気がした。
「……どういう意味?」
「うん? どういうもなにも、言葉の通りなのだが。ふたりの間で、なにやら色々とやり取りがあったようでな。私が気づいた時には、既に繋がっていた」
「あ……そう、なの」
真顔で告げるアーチャーを他所に、キャスターの頬はひくついていた。
どう捉えたのかは、その態度が言葉よりも雄弁。
しかし、その態度の真意が掴めないのか、彼の首は訝しげに捻られている。
その横では、凛が重たそうに頭を抱えていた。
「アーチャー……」
「――――紛らわしい言い方してるなよ、この野郎」
糾弾の声と共に、凛の背後から現れる影。
血と泥で汚れ、あちこちが千切れた襤褸のようになった服を纏う少年が、非難めいた視線を赤い弓兵に突き刺していた。
しかし、それで弓兵の顔に浮かぶのは、困惑の色。
「……ん、紛らわしかった、か?」
「まさか、素で言ってたの。呆れた。アンタ、時々螺子(ねじ)が飛ぶわね。あんな言い方だと、非生産的な関係みたいじゃない。しかもずぶずぶの」
「断じて違う、と言わせてもらうからな。普通に女の子が好きだよ、俺は」
青筋を立てた士郎の目が、弓兵の背中を穴が開くほどに睨みつける。
しかし、弓兵はふう、と軽く息を吐いただけでそれを受け流した。
「ああ、それはすまなかったな。まあ、ともかくだ」
「なにがともかくだよ……っと、キャスター、悪い。まずはこの通り、先に謝っておく」
反省の色も薄いアーチャーを押しのけて、士郎が深々と頭を下げた。
緊急避難とはいえ、他人のものを承諾なく持っていった、その謝罪であった。
「アサシンの事かしら? それなら別にいいわよ。結婚の引出物って事にしておくから」
だが、あっさりとキャスターはそれを容認する。手をひらひらさせる、軽いおまけ付きで。
士郎の目が、今度は点になった。
「え、あ、い、いいのか?」
「むしろ引き取ってくれるならありがたいくらい。あの駄侍、人の顔見る度に薄ら笑いするわ、皮肉飛ばしてくるわ」
「……あ、そうなのか」
眉根をきつく寄せ、口汚く罵るキャスター。
直接的な戦力低下のデメリット以上に、よほど反りが合わないと見える。
あまりの剣幕に、士郎はそれ以上なにも言えなくなった。
すると、今度は別の方向から声が飛ぶ。
「……呼ばれた先が、なんの愉しみもない門番稼業ではな。いろいろと鬱屈も溜まる。その程度は目こぼし願いたかったが」
士郎の背後。
刀を背負う群青の侍が、音もなくぼう、と姿を現す。
その顔に、人によっては神経を逆撫でする涼やかな微笑を貼り付けて。
「あら、いたの。そもそも貴方、呼ばれた本人ですらない亡霊崩れの半端者でしょう。役目があっただけでもありがたいと思いなさい」
「くくく、これは手厳しい。もっとも、そのように呼んでしまったのはそちらの手落ちだと……ふむ。まあ、些細な事か」
痛いところを突かれたか、キャスターの口が僅かに引きつる。
しかし、すぐに溜息を吐いた事で、その痙攣は解かれた。
とことん反りが合わない上、言い合ったところで無益と判断したようで。
しっしっ、と億劫そうに手を払った。
「……とにかく、もう御役御免よ。ボウヤとせいぜい『サシツササレツ』よろしくやってなさい。あと、ボウヤは宗一郎様の半径五メートル以内の接近禁止だから」
「おいっ」
唐突な接近禁止命令に、士郎が抗議の声を上げた。五メートルでは、テストの答案も受け取れやしない。
理由は想像がつくが、果たして冗談なのか、真面目に言っているのか、判別がつかなかった。
ふと見ると、葛木の目が士郎へと向いている。
やはり無機質だが、それゆえになにを訴えているのかが読み取れない。
「いや、先生。違いますからね。俺は断じて」
「……ああ、解っている」
「だから、なにが解ってるんですか……というか、先生の方こそ」
「なんだ?」
「あ、いや、その……」
そう士郎は言葉を濁し、キャスターへと視線を移す。
年の頃十代半ばの、幼さと女らしさの入り混じったその姿は、義務教育の終わり頃にあって不自然はない。
そして葛木は、二十代半ばの影の差した地味な優男で、しかも穂群原の倫理の教師である。
「えー……こ、後悔しませんよね、と。その……『その姿の』キャスターと、結婚して」
下手をすれば、冷たい鉄の輪っかを両手首に付けるハメになる。
具体的には、未成年なんたらの法律やら条例で。
「後悔……」
葛木が言葉を反芻する。
そして即座に首を横に振り、揺るぎなく告げた。
「ありはしない。あるはずがない。俺は、誓いを護る。たとえ姿がどうだろうが、なんの問題にもならない」
「あ……っ」
理解してしまった。痺れと共に、士郎が固まる。
この男は、決して意思を曲げない。それを悟ってしまった。
ひどく無口かつ無表情で愛想の欠片もないが、その代わりに性格は一途かつ誠実、謹厳実直で義理堅い。
おまけに、言葉以上に行動で示すタイプでもある。
「…………」
男関係で苦い過去のあるキャスターが惚れ込むのも解るというもの。容姿を抜きにしても、異性に擦れた女をしてこれほど安心させられる男もいない。
言葉を発さぬまま、士郎の口が閉ざされる。
もはや、なにも言う事が出来なかった。
彼に出来るのはせめて、新聞の片隅で葛木の写真を見かける事のないよう願う事だけ。
『学園の倫理教師が十代少女と淫行! 倫理に背いた男の素顔とは!』などと見出しが躍った日には堪らない。
あらゆる意味で溢れる涙を抑えきれる自信がなかった。
「……ふっ」
それを尻目に、呆れ顔を隠さないのは、葛木の細君となった女。
こめかみにその細い指を立てつつ、懊悩する士郎を鼻で笑う。
「なにを考えてるのかはなんとなく解るけど、無用の心配よ」
「え?」
「柳洞寺の方々にはこう言っておくから。『最近のアンチ・エイジングって凄いんですね』って」
「……いやいや」
気負いも含みもなく告げるキャスターだが、士郎の表情に納得の色はない。
それも当然。美容技術で十年以上、人の時間を戻せるのだったら、今頃業界はバブル真っ盛りである。
顔つきどころか骨格まで変わっている以上、明らかに無理のある話。
しかし、キャスターの余裕は崩れない。
「いざとなったら、他人に違和感を感じなくさせればいいだけよ。魔術なり礼装なりでね」
「いやいや……って、出来るのかそんな事」
「『魔術師の英霊(キャスター)』を舐めないでちょうだい。魔術はもとより『道具作成』もお手の物よ。お寺は住み始めて半月も経ってない。なら記憶の齟齬もまず出ないわ」
ふふ、と小さく、しかし深く笑うキャスターの表情は不敵であった。
我知らず気圧された士郎の気は、これですっかり萎えてしまう。
これ以上は踏み込めない、踏み込んではいけないと。
ある意味で、旦那とよく似ている。その徹底ぶりなどは特に。
半ば諦観に近い心境で、彼の口から重く息が吐き出される。
その時であった。
――――くっ、くはははははははははは!!
この狭い神殿の空間に、突如として高笑いが木霊する。
次いで響くぱち、ぱち、ぱち、という乾いた音。
人の拍手のようであった。
「え!?」
各々が、一斉に声のしたほうを振り返る。
とりわけ反応が素早かったのは、黄金の髪を靡かせた騎士だった。
弓の英霊よりも一瞬早く剣を顕し握り締め、声の彼方を睨んでいる。
だが、その顔には警戒とともに、僅かな驚愕と猜疑が貼り付いていた。
――――なかなかに笑わせてくれる余興であったぞ、雑種ども。
神殿の端の、暗闇の底から浮かび上がる人影。
かしゃん、かしゃんと小刻みに鳴る金属音は、それが鎧を身に纏い、歩いてきているのだと理解させる。
やがて、闇が取り払われ、影の全貌が顕われる。
その途端、ひゅっ、と誰かの歪な呼吸音が漏れ聞こえた。
「褒めて遣わす――――この王たる我(オレ)が言うのだ、光栄の浴に浸るがいい!」
一言で評せば、黄金の男であった。
同性であっても振り返るほどの、ぞっとするような美形・色白の優男。
金色の髪を後ろに反らし、金塊で鋳造したかのような、眩いばかりの豪奢な西洋鎧にその身は包まれている。
なにより特徴的なのが、ルビーを思わせるほどに赤い一対の瞳。
胸を張って腕組みし、唯我独尊を地で行く不遜な雰囲気と相まって、思わず平伏したくなるほどの存在感を、その男は醸し出していた。
「……アーチャー……?」
「はっ?」
微かな戦慄きが混じったセイバーの声に、のび太も、士郎も、凛も、この場の全員が赤い弓兵に視線を送る。
しかし、弓兵は困ったように眦を下げるだけであった。
セイバーの言葉の意味が解らない、と言いたげな表情だったが、ふと、その目がきゅっと引き締まる。
なにか重大な事実に気づいたように。
「セイバーよ。問うが、あれは『アーチャー』なのだな?」
「はい……」
「そうか……つまり『前回』の」
そこで弓兵は言葉を区切り。
次いで確信めいた口調で、告げた。
「――――第四次聖杯戦争で君と争った『アーチャー』なのだな」
驚愕のちらついた、真偽を問う皆の目が、一斉にセイバーへと向けられる。
だが、彼女が首を縦に振るより早く、青年の口がにぃ、と三日月に歪んでいた。
「ほう、察しは悪くないようだな。だが不愉快だ。貴様のような惰弱な贋作者(フェイカー)が、我と同じクラスなどとは」
侮蔑含みの物言いに、アーチャーが微かに眉間に皺を寄せる。
ちゃり、とその手に掴む中華の双剣が音を立てるが、黄金のアーチャーはそれすら鼻で笑い飛ばした。
そしてルビーの視線が、剣の騎士へと向けられる。
「久しいな、セイバーよ。此度の馬鹿騒ぎにも参加しているとは思わなんだが、時経ようとその容色は霞まぬか」
「……なぜ」
「この世に存しているか、か? ふん、聖杯の中身を浴びはしたが、我を染めたくばあの三倍は持って来いというのだ。まあ、悉く飲み干したゆえ、こうして受肉している訳だがな」
「飲み……いや受肉、だと?」
セイバーの表情がぴくり、と引き攣る。
黄金のアーチャーはこう言っていた。
前回の聖杯戦争から十年間、消えずにそのままこの世に存在し続けていたのだ、と。
「ああ、いい機会よ。セイバー、十年前に問うた答えを聞こうか」
「……くどい。私は王だ。貴様のような男と婚姻など、考慮にも値しない」
「くっ、はははは! やはり、十年経とうと変わらんか。だが、いいぞ。その頑なさ、実に我好みだ」
一刀両断の回答にも、黄金のアーチャーは余裕を崩さない。
むしろますます、その笑みに凄みが増していく。
しかし、当事者のふたり以外に事情を理解出来る者はなく。
そこに口を差し挟んだのは、目を白黒させる凛であった。
「ちょっと待ちなさい。婚姻って……セイバー、結婚を申し込まれてたの? この金ぴかに?」
「虫唾が走る事に。もっとも、即座に断りましたがね。繰り返しますが、考慮にも値しない」
「妥当ね。顔がいいだけの男なんて信用ならない。態度も大きいのなら尚更ね」
セイバーに同意するキャスターの声には、同情と嫌悪が混ざっていた。
それでも、黄金のアーチャーの不遜さは揺らがない。
「口が過ギるぞ、女郎。だがソの無礼、今は許そう。余興の褒美としテな」
「それはどうも」
「しかし、サーヴァントの身でありながら求婚とは……」
投げやりに返答するキャスターの横で、ライダーが唸っていた。
酔狂がすぎると言わんばかりに、呆れ交じりの渋い表情が浮かんでいる。
「はッ、この世に降りたはほンの戯れにすぎん。が、初めに我を呼び出しタ雑種も存外ツまらん奴でな。愉しミがなければ愉しむのガ――――」
そこで、黄金のアーチャーの言葉が途切れる。
編集途中の映像のように、無理矢理ぶつ切りにしたような、不自然な切れ方。
そしてふと、誰かが気づく。
真紅の瞳にあった意思の輝きが、揮発したかのように褪せている事に。
「アーチャー……?」
訝しんだセイバーが、猜疑交じりの声を上げる。
そこからは劇的だった。
「がッ、ガガ、が、ガがガ、ガガがガがギぎギギがギギギぎギがぎギ――――」
壊れたロボットのように上がる奇声。
表情は不敵なまま、だが異様に引き攣り、歪で不気味な嘲りの顔となっている。
両の脚は地面に張り付いたように動かず、腕組みのまま、鎧の中の身体がぶるぶる小刻みに痙攣を繰り返す。
真っ赤な瞳孔は開ききり、歳月に浸りくすんだ宝石を想起させた。
「ぴぃっ!?」
人によっては、生理的な嫌悪を惹起させる光景。
悲鳴を上げたフー子が、ぴゅっとのび太の影に隠れた。
「へ!? な、な、なな」
そののび太もまた、気圧されている。
セイバーをはじめ、士郎、凛、赤いアーチャーにライダー、葛木にキャスターも動けないでいた。
「ガがガぎ! がギギ、ギガガ、ぎ、ぎガ――――」
そして各々が、この後に起こる事を予想する。
聖杯戦争を席巻する異常事態、そしてサーヴァント。
各人が想起したそれは、おおよそ正解をなぞっていた。
「ガ」
ぶつっ、と途切れた奇声。
それを合図としたかのように、黄金のアーチャーの身体が、光となって爆散した。
「うっ!?」
「な、なんだぁ!?」
「…………ぬっ」
士郎らマスター陣が目を剥く。
鉄仮面の葛木ですら、僅かだが目が大きく見開かれていた。
その一方で、サーヴァント達は落ち着いている。
「ここでこれ、ですか」
「さて、今度はなにが出てくるのやら」
各々が剣・釘・杖を構え直し、光の粒子を油断なく注視する。
先までの激戦などなかったかのように、軒昂な戦意がその身体を満たしていく。
「――――もしかして……」
そんな中。
戦意や怯み以外の、異なる反応を見せていたのは、遠坂凛のただひとり。
彼女の中で、記憶の奥底に納められた音声が、走馬灯のように脳裏をよぎっていた。
「『使者』って、この事……?」
その微かな呟きが漏れた瞬間、飛散した光の粒子が、磁石に引き寄せられるように集束する。
そして、光の塊がヒトガタを形作り、目を焼くほどの眩い閃光が周囲に炸裂した。
「く……っ」
手を翳し、光をやり過ごす者。
目を細くして、それでも対象から視線を外さぬ者。
対処はそれぞれ。だがこの場の全員が、光の先にある人影を認めた。
――――やがて来る『使者』にでも、お尋ねになる事ですな。
やがて、その姿が露わになる。
そこには、あの黄金の王とは異なる男の姿があった。
「あっ……」
それを見た瞬間、のび太の目が大きく見開かれる。
光の中で顕れた者。それは、畏怖と共に彼の脳裏に強烈に焼き付いている男であった。
「お、お前は」
弓兵と同じ位はあろうかという高い背丈。
痩身の身体にぴたりと張り付いた黒いラバースーツと、肩口からぐるりと身体を包む黒の外套。
頭に乗った、大きく鍔の広がったテンガロンハット。
なにより特徴的なのが、面長の顔に備わる、年季と鉄火場に慣らされた冷たい玉鋼を思わせるその目。
「ふん……久しぶりだな。スーパーマン、ノビ・ノビタ」
「――――ギラーミン……っ!」
かつて宇宙一の殺し屋と謳われ、のび太と相対したガンマン。
掠れ交じりの声で名を呼ばれ、男の唇がにぃ、と歪んだ。