時空間の調べを終えたドラえもん、しずか、スネ夫を出迎えたのは、どうとも形容しにくい異様な臭いだった。
「う、うっぷ!?」
「な、なんなの、この匂い?」
のび太の机の引き出しを内から開けた途端に、一斉に鼻を摘まむ。
刺激臭とも、腐乱臭とも違う。
例えるなら一般家庭の冷蔵庫の中身一切合財をぶちまけて常温で放置しつつ、さらに一晩天日干ししたかのような。
鼻を突く、妙なえぐみすら混じっている不快な臭い。
順に引き出しから出た三人の眉間には、ぎゅっときつく皺が寄っていた。
「おっ。終わったのか、どうだった?」
反射的に、三人の目が声の方へと向く。
声の先には、あぐらを掻いたジャイアンがいた。
その横に、彼と向かい合わせる形でバゼットが、こちらは折り目正しく正座をしていた。
そしてふたりの間、畳の上にお盆がひとつ置かれており。
盆上にはスプーンの乗った空の皿が一枚、ほんのりと湯気を立てていた。
三人にとって、すべてを悟るにはそれで十二分。
「じゃ、ジャイアン?」
「なに、してたの? 今まで……」
ドラえもん、スネ夫がジャイアンへ問いを投げる。
若干の怖れの混じった声は、確信のための確認作業でしかなかった。
「おう。バゼットさんが腹が減ったって言うもんだからさ。台所を借りて、オレさま特製のスペシャルジャイアンシチューをだな」
聞かなきゃよかった、と後悔しても時、既に遅し。
胸を張り、一点の曇りもない、善意百パーセントの朗らかさで告げるジャイアンに、三人はうっと閉口した。
「結構考えたんだぜ。あんまり待たせる訳にもいかないし、けど栄養たっぷりのものにしないといけないからさぁ」
「そ、そう」
「えーと、なに入れたっけな。冷蔵庫にあったものをいろいろ使って鍋に……ああ、ニンジンに、キャベツに、タマネギ、しいたけ、コンソメに、それから鶏肉だろ」
あれ、とここで三人は思った。
頼みもしないのに指折り説明された材料が、すべてまともなものだったからだ。
この材料ならば焦がしでもしない限りは、食べられないものはまず出来ない。たとえ生煮えであろうとも。
では、焦げ臭とも違うこの壮絶な異臭はいったいなんなのか。
次に続いた言葉で三人はそれを理解し、そして一斉に吐き気を覚えた。
「あと、セミの抜け殻とヤモリの黒焼きと、オオミミズのだし汁を少し入れて、それとジャムと塩辛に……」
「解った、ストップ! もういいから!」
それ以上を聞きたくないとばかりに、ドラえもんが後を遮った。
スネ夫としずかの顔は既に真っ青で、怖ろしいものでも見るように空の器に視線を注いでいた。
これは確認しておかなければならない。
おそるおそる、ドラえもんはバゼットに尋ねた。
「あ、あのぅ、大丈夫だったんですか?」
「はぁ……?」
これに対して、バゼットが返したのは曖昧な返答であった。
どうやら、問いの意図が掴めていないらしい。
シェフもいる手前、ドラえもんは言葉を選びながら再度尋ねた。
「いえ、その、料理を食べて……」
「ん、ああ。そういう事ですか。気分も体調も特に問題ありませんので、食事に支障はありませんでした」
「あ、いや、だからそうじゃなくて。えーと……食べて大丈夫だったんですか?」
「はい。香りは嗅ぎ慣れないものでしたが、必要な栄養素の整ったよいものでした。また機会があればお願いしたいものです」
なんの含みもない、あっけらかんとしたバゼットの言に、三人の口があんぐりと開いた。
任っかされよう、と気分よく胸を叩くシェフも気にならない程の衝撃が、三人を貫いていた。
「それはそうと、少々喉が渇きましたね。塩分がやや多かったからでしょうか」
「おう、じゃあ水持ってくる。ちょっと待っててくださいよ」
バゼットの要望に上機嫌で応えたジャイアンは、部屋を出ると鼻歌交じりに階下へと向かっていった。
ぱたん、と襖が閉じたきっかり三秒後、ドラえもんにしずかが戸惑いがちに耳打ちをする。
「ど、どういう事なのドラちゃん?」
「うーん……た、たぶん、たぶんだけど」
動揺はまだ収まらず、しかし理由に当たりをつけて。
ちら、とバゼットを横目に見つつ、ドラえもんは小声で推測を口にする。
「バゼットさん、食事を『美味しい・まずい』じゃなくて『栄養があるか・ないか』で判断してるんじゃないかなぁ?」
「え、ええっ?」
「味は全然気にしない、って事? ジャイアンのあんな料理でも?」
スネ夫もこそこそ小声で耳打ちに加わる。
シチューという料理にケンカどころか戦争を売っているジャイアンのお手製を食してなお、文句もなく満ち足りたとのたまったバゼット。
かつて友人と共にシェフの被害ならぬ食害を被った、彼のバゼットを見る目は、エイリアンでも見るかのようだった。
「そうかも。ひょっとしたら、『美味しい』『まずい』の意味も解らないとか」
「そ、そこまでは……ないんじゃないかしら」
「うーん……魔術師って、そういう人達なの?」
あの恐ろしい劇物を食して、なお泰然自若。
まさに魔術師とは、摩訶不思議な存在なり。
常人離れした鋼鉄の胃と、味を無視する舌を持つ女傑は、そんな畏怖交じりの視線を浴びて怪訝そうにしていた。
「なにか?」
しかし、他の魔術師からすれば噴飯ものの誤解である。
あれにかかれば、死徒すらまず泡を吹いて地面に引っくり返る。
比較出来る魔術師がこの場にいない以上、この女が異常なだけだと気づけと言うのも、いささか無理な話だった。
「い、いえいえ、なんでもないです!」
「……は、そう、ですか?」
しずかが慌てて誤魔化したところで、すっと襖が開いた。
ジャイアンが戻ってきたのだ。
手には、大きめの盆が支えてられている。
「お待たせ~。ついでだから、みんなの分も持ってきたぜ」
「「「ええっ!?」」」
途端、三人は揃って後退った。
脳裏に描かれるのは、バゼット好評のシチューとも呼べない未確認の物体X。
鼻が曲がりそうな臭いと、想像もしたくない材料が煮込まれたアレをありがた迷惑に出されるのかと思うと、竦み上がってしまった。
「も、もしかしてシチュー……を?」
「え? あー、悪いなスネ夫。急いでたもんだから、シチューは一人分しか作れなくてよ。持ってきたのは水だよ、ほら」
ジャイアンが盆の上のコップを掲げると、三人はほっと大きく息を吐いた。
ああ、助かった、と。
震える手で、差し出されるコップを受け取りつつ。
その心の中では、盛大な勝利のマーチと万歳三唱が行われていた。
「――――そういえば、調べはどのように?」
ぐい、と一息でコップの中身を干した後。
ふと思い出したように、バゼットがドラえもんへ問うた。
「あ……そうだった忘れてた!」
条件反射じみた速さで机を振り返ったドラえもんは、がらりと引き出しを開ける。
そして、バゼットを手招きした。
「今なら、まだなんとかなりそうです」
確信の篭ったドラえもんの言葉に、穏やかだったバゼットの眦がきゅっと引き締まった。
――――手を伸ばす。手を伸ばす。手を伸ばす。
届きそうで、届かない。
今、最も欲して止まないモノ。
今、彼女にとって最も欠けてはならないもの。
己が夢幻の命と感情のすべてを捧げ、共に在りたいと願う者。
「――――」
記憶が纏まらない。思考が纏まらない。
今の己が、掴めない。
覚醒しているのか、意識を失っているのか。
五感も定まらない。視覚も、触覚も、嗅覚も、聴覚も、すべてが薄ぼんやりとしている。
「――――ぁ」
それでも解るものがある。
ずるりと、奇妙な感覚を以て頭に刻み込まれる、己ではない『誰か』の知識の断片。
そして、やはり己ではない『誰か』の知識と、唐突に脳裏を掠めたフラッシュバック。
「――……ぁあ」
ぴん、と頭の中で線が繋がる。
それが合図だった。
霧が晴れていくような、快なる感触が全身を駆け抜けていく。
目覚めるのだ。それが解った。
だから求める、なによりも先に。
彼女が願って止まないモノを、何者よりも大切な者を。
「――――ぁああ」
手を伸ばす、手を伸ばす、手を伸ばす。
そして、霧が完全に晴れ、瞼が開いたその時に見たもの。
それは。
「……宗…一、郎」
伸ばされた手を確と掴む、求めて止まなかった半身の姿。
その力強さと熱が、彼女を骨の芯から震わせた。
「……ぁ」
そして気づく。
この儚い仮初の肉体に息づいた、あり得ない奇跡に。
葛木の腕の中で、キャスターがゆっくりと身を起こす。
そして、己のすぐ脇にいた存在に気づくと、ぼんやりとしていた顔に、きっと理性の色が浮かんだ。
すべてを納得した、そんな表情だった。
「……成る程、救われた、という訳ね。敵だった貴方達に」
キャスターの視線に捉えられた眼鏡の少年が、片膝立ちのままぎくりと身を引いた。
その手には、時計柄の布がぐっと握り締められている。
理屈原理は解らずとも、遠見によって種を既に知っている彼女にとって、そのヒントだけですべてを悟るには十分だった。
「それは少し違うな。真に貴様を救ったのは、己が焦がれた男だ」
キャスターの振り返った先には、赤の外套を纏う褐色の男がいた。
そしてその背後には、士郎、凛、ライダー、フー子が立っており、横たわったキャスターを見下ろしている。
「マスターに感謝する事ですね。その男の懇願がなければ、我々は消え行く貴女を放り捨てていました」
「…………」
ライダーの声を合図に、キャスターの顔が再度己のマスターを仰ぎ見た。
葛木の手は、まだキャスターの手を握り締め、腕は地面に横たわるその華奢な身体を支えている。
「宗一郎……様」
「不調はないか」
どこまでも乾いた物言いだった。
だが、彼女にとってはそれですべてが伝わるようで。
「ええ……ありがとう、宗一郎」
儚げな、しかしはっきりとした笑顔。
頷きも返答もなく、葛木はそっとキャスターの手を離す。
そしてポケットにしまっていた眼鏡を取り出し、ゆっくりと己の顔にかけた。
「そうか。問題がなければそれでいい」
「……けれど、どうして貴方はそこまで、っ……いえ」
つい、といった風に口を突いて出た言葉に、はっとキャスターの顔が伏せられた。
前髪に隠れ、目元が陰になる。
そんな彼女を気にする風でもなく、視線を宙に投げ出したまま葛木の唇がゆっくりと動く。
「前に言ったはずだ。願いの成就をお前が望み、手を求めるなら、俺はそれに応えるだけだ、と」
「…………」
「それに」
そこで葛木が、ひとつ間を置く。
そして告げた。この場の誰もが予想しない言葉を。
この男を象徴する、抑揚のない無色の声で。
「夫は妻を護るものだと聞いている。仮初とはいえ、俺はお前と婚約をした。ならば、囚われの妻をこの手に取り戻す事に、それ以上の理由が必要か」
水を打ったように、周囲が静まり返った。
キャスターはおろか、のび太も、士郎も凛も、他の者も声を失っている。
あまりにも、稚拙で、陳腐で、歯の浮くような気障ったらしい言葉。
しかし、どこまでも真っ直ぐで、一切の混じり気のない、清流にも似た真心の響きがそこに確かにあった。
「――――っ……ふふ」
静寂の帳を破ったのは、彼の女だった。
顔を俯け、口元を三日月に歪めたキャスターが、やがて周りに木霊するような大声で笑い出した。
「あっはははははははははっ、あは、あはははは!」
腹を押さえ、盛大に身を捩じる。
だが、笑い声には嘲りや愚弄といったの負の感情は含まれていなかった。
一頻り笑い終えた後、それでも含み笑いを漏らしながらキャスターの口が動く。
「ふふ……ふふふ、ほんと、馬鹿なひと」
そう呟くと、俯いていた顔をゆっくりと持ち上げる。
透き通るような、愛に満ちた微笑がそこにはあった。
「そんな貴方だから、最期に力を振り絞って、逃がしたというのに」
「……俺にはお前を振り捨てる選択肢などなかった。この身体が動く限り、お前の願いを失わせない。放り出された御山の麓で、ただそれだけを考えていた」
目じりに浮いた涙を払い、薄幸の佳人は己の主の顔へと再び手を伸ばす。
この世にふたつとない宝物を、手に取るように。
「――――イアソンからは、終に聞く事はなかったわ。そんな言葉」
当たり前といえば、当たり前だけれど。
そうひとりごちたキャスターの顔が、葛木の耳元へ寄ると。
「私の願いは……」
そっと、愛しの主へ密やかに囁いた。
葛木の表情は変わらず無表情のまま。
しかし、その視線はキャスターへと向かっていた。
「……夢を見た。キャスター、お前は帰りたいのではなかったのか」
「夢を……ああ。ええ、帰りたかった。あの頃の故郷へ。それは事実です」
言葉少ななキャスターの吐露を、葛木が静かに、ありのまま受け止める。
いまだ彼女を支える手には、いささかの揺らぎも見られない。
「でも。羽休めに立ち寄った渡り鳥が、居心地のよさに住処を決める事もあるでしょう?」
「…………」
「それに、かつての『私』には、既にピリオドが打たれていますもの」
あらゆる意味において、ね。
キャスターは最後のみを小さく、しかし決然と呟いた。
「今、ここにこうしている私の願いは、先程申し上げた通り。貴方以上に望むものなど、ありはしません」
葛木はやはり黙したまま。
だが、視線はキャスターから離れてはおらず。
「……そうか」
ただ一言呟いて、キャスターを支えたまま、すっと立ち上がった。
キャスターの身体も、つられて立ち上がる。
「それが、お前の願いか」
「……はい」
葛木が再度問う。
躊躇いもなく、はっきりとキャスターが首肯した。
「解った」
葛木は一度頷くと、くい、と眼鏡の位置を直す。
そしてやはりこの男特有の、抑揚のない、無色の声で告げた。
何人にも侵し難い、魂の宣言だった。
「――――願いがなんであろうが、約束は決して違えん。俺は、お前の願いに応えよう。この乾ききった己の、すべてをかけて」
あとは、言葉など無用なもの。
キャスターの目が大きく見開かれ、その瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「ああ……っ、宗一郎!」
成就した願いに、歓喜の叫びが木霊する。
感情の爆発の勢いに任せ、愛しい主に飛び込むキャスター。
葛木はただ、キャスターを静かに受け止め、その両腕でそっと彼女を包み込んでいた。
※ステータスに『キャスター?』『アサシン?』の項目を追加。