踏みしめる板が軋みを上げる。
ぎしぎしという音と共に、一段一段ゆっくりと、簡素な木造りの階段に脚が交互に掛けられていく。
登り詰める先にあるのは、永劫の闇。正確には、その表門である。
門から見えるのは一本のロープ。設置された台座から真っ直ぐに垂らされ、先端では首がすっぽり入る輪が作られている。
すなわち……死刑台だ。
脚が一歩を刻む度に、その約束の地はどんどん近づいてくる。
「――――――」
絞首台は今、大量の人間によって取り囲まれている。
さながら劇場のように、広場に据え付けられた台を扇状に、老若男女取り交ぜた観衆がその時を待っている。
縄で後ろ手に拘束され、十三階段を登らされているこの男の、命が消える瞬間を。
「――――――ろ」
ここには男の味方などいない。
渦を巻く敵意と憎悪。観衆が醸し出す負の想念のそれらはすべて、男に向けられている。
十三階段も、残り一段。ボルテージが、否応なしに高められていく。
「――――――きろ」
壇上に立つ男の表情は、はっきりと見えない。
猿轡はなく、代わりに目隠しをされて顔の上半分はその黒い布が覆い隠している。
しかし、その下半分に映る男の表情。そこに怖れや慨嘆といった、負の感情は見受けられなかった。
あるのは常の鉄面皮。内面の起伏を封殺した無表情には、すべてを受け入れた色だけが浮かんでいた。
死を怖れていない訳ではない。『死』という未知には、誰であろうと少なからず尻込みする。
この男は、いわば『生贄』である。理不尽を背負わされ、他者に否応なく絶望の運命を強制される。
普通であれば、憤慨のままに喚き散らしてもおかしくないはずなのに。
男はただただ、その結果をありのまま受容していた。この運命こそ、自分に相応しいのかもしれないと。
だからこそ、十三階段を行く足取りに、淀みがないのだ。
そして、男の脚は遂に地獄の門の縁へと掛けられ……。
「――――――いい加減に起きろと何度言わせる、小童」
腹を襲った衝撃で、士郎は強制的に目を覚ました。
「ぐふっ!?」
バネ仕掛けのように、腹部を押さえて跳ね起きる。痛い、などという温い表現では済まない。
胃や腸が口から、ポンプさながらに猛烈な勢いで押し出されるかと錯覚するほどであった。
車に挽かれたカエルは、もしや死の間際にこんな物凄まじい衝撃を味わっていたのだろうか。
涙を滲ませてえずきながら、頭の片隅でそんな事を考えた。
「えっほ、げほっ! ごっほ……っ」
「ふむ、目を覚ましたか。品のない寝起きよな」
「だっ、誰だって! 腹を蹴られたらっ……こうなるわ……って!?」
降りかかる涼風のような声に、士郎は抗議の声を上げる。
しかし、声の主を見上げた途端、出そうになっていた臓腑がきゅっと縮む感覚を覚えた。
「――――そう殺気立たずともよい。こちらに刃を交わす意思はない」
青の陣羽織も眩しい、刀を背負った優男。
そこにいたのは、柳洞寺の山門を守護していた、あのサーヴァントであった。
「あ、アサ……アサ、アサ次郎!?」
「誰だそれは。私はアサ次郎などという珍妙な名ではないが」
混乱のあまり、士郎は色々と混ざった名前を叫んでしまう。
優男は、ひとり泡を食っている彼を見下ろし、怪訝な顔をしていた。
それでも、袖の大きな着物の中で腕を組む、立ち姿は崩さない。
「え、あ、ああ悪い……じゃなくて! 小次郎、お前いつから俺の……ッ!?」
士郎の言葉は続かなかった。
優男……アサシンこと『佐々木小次郎』の刺すような視線が、彼の瞳を貫いたからである。
首筋に刀を押し付けられたような、底冷えじみた怖気が走る。
「小童、なにゆえ私の真名を知っておる」
「あ……いや、その……あっと、お前と、バーサーカーの立ち合いを、覗き見して」
「ふん?」
一瞬、不快の念の滲んだ光が、小次郎の瞳に浮かぶ。
だが、すぐにそれを打ち消すと、もう一度ふん、と鼻を鳴らした。
「……まあ、よかろう。そも、戦においては斥候や物見など常道も常道。出さぬ方がどうかしておる。くくく」
なにがおかしいのか、先の様子から一転して喉の奥で含み笑いする小次郎。剣呑さが薄れ、士郎はほっと息を吐く。
しかし、その安堵も、周囲の景色が目に留まるまでのものであった。
「えっ……な、んだ、ここは!?」
闇、闇、闇。
すべてが黒で塗りたくられた、闇の坩堝の只中であった。
密閉空間なのか、開けた場所なのか、それすらも判別出来ない。
地面すら黒一色であり、下手をすると重力に関係なく、上も下も解らなくなりそうだ。
見えるのは、常と変らぬシャツとジーンズに身を包んだ自分の身体と、近くに立つ小次郎の姿のみ。
座り込んだまま、士郎がさっと小次郎を見上げると、小次郎は腕組みを解かぬまま、軽く肩を竦めた。
「さて。ふと気がつけば、ここにこうして立っていた口でな」
「そう、か……」
「だが、かような場所に放り出した輩については、また別の話よ」
「え?」
ぱちぱち目を瞬かせる士郎に対し、小次郎は再度含み笑いを漏らした。
「耳を澄ましてみよ。なにやら、聞こえてくるぞ」
「耳を……?」
言われて、士郎は目を閉じ、意識的に耳をそばだてる。
最初は無音そのもので、小次郎と己の息遣いのみが聞き取れるだけであったが、次第になにか、硬い物同士がぶつかり合うような音が耳に響いてきた。
「んん?」
眉根を寄せ、士郎はさらに耳を澄ませてみる。
鍛冶場で鉄を打つ音にも似ているが、それにしては鋭すぎる気もする。
もっとよく聞こうと聴覚を冴えさせるうちに、じわじわと瞼の裏に映像のようなものが浮かび上がってきた。
「これは……」
そこには、色素が抜けたような白い髪を後ろに流し、猛禽を思わせる鋭い目をした浅黒い男の姿が。
彼の見知ったアーチャーであるのは間違いないが、しかしそうと認めた後の彼の次の行動が、士郎の心臓を押し潰した。
触れれば切れそうな冷たい敵意を漲らせ、両手に掴んだ白刃をこちらに向けて、猛烈な勢いで突き出してきたのだ。
彼の股下が、瞬時に縮み上がる。
「うわ!?」
眼を開いて後退りする士郎を見て、小次郎は今度こそからからと笑い声を上げた。
「はっはっは、大仰よな」
「な、な、ななな……なんだ、これは?」
ばくばくと喧しく鳴る心臓を宥めすかしながら、士郎は小次郎に問う。
士郎にすれば、真に迫りすぎていた光景。
黒い殺気を隠しもせずに、斬りかかられる。それで恐怖を感じない人間などまずいないだろう。
彼の眼前の小次郎や、あるいはセイバーといった殺気を受け流せる猛者ならば話は別だが、生憎士郎は貧弱な小僧である。
たとえ幻だったとしても、唐突に見舞われればそれだけで肝が縮み上がる。
ふうふうと息を整えて暴れる心臓を宥めすかすと、士郎はもう一度目を閉じて、耳目からの情報に神経を尖らせた。
何が来ようと動じぬよう、ぐっと腹に力を込め、先程と同じ要領で。
やがて、士郎の瞼と鼓膜に、先のものよりも明瞭な刺激が伝わってきた。
吹き抜ける冬の冷たい風が樹木を薙ぎ、ざわめきが石の敷き詰められた地面に吸い込まれ、あるいは反射して残響を作り出す。
舞台は、士郎には見慣れた柳洞寺の境内……そして。
――――クク、本気になったな! それでいい! それでいいのだ!
――――いい加減、その減らず口を慎め、ミュータント。
耳に鮮明に届くは、剣撃の音。
刃と刃が重なり合い、火花を散らして奏で合う。
瞳に克明に映るは、弓兵の姿。
一振りの長剣を諸手で翳し、大上段から叩き付ける。
己に向かって振り下ろされる白刃に、士郎は二度目の醜態を晒さなかった。
恐怖を臓腑の奥へ押し込み、迫る刃を凝視する。
吸い込まれそうになるほど美しい刃先は、当たろうとする寸前で、視界の横から差し込まれた刃によって遮られた。
金属特有の甲高い音が、鼓膜を盛大に揺さぶってくる。
ここ数日で、何度も耳にした音だけに、士郎にとってそれはある意味、心地の良い音とも言えた。
――――『I am the bone of my sword』……!
アーチャーは剣を構え直しながら、そんな呪文のような、あるいは祝詞のような言葉を口にした。
唇の端から漏れ出たような、微かな響きだったのにも拘らず、士郎の耳には、はっきりとそれが聞き取れた。
呟きで緩んだ口元を真一文字に結び直し、アーチャーは再度、次は下段からの切り上げでこちらへ迫る。
士郎の動体視力では到底捉えきれない、剣閃。白い軌跡が楕円を描き、空気を切り裂いて唸りを上げる。
だが、やはり横合いから一筋の刃が現れ、その一撃を防ぎきってしまった。
飛び散る金属音と火花。受け切った方の刃もまた、見る者を虜にするほどの優美さを備えていた。
その剣の柄には、人間の諸手が添えられており、この剣を操る者がいる事を士郎に教示している。
そして、士郎はその手に……指や爪の形から関節各部の節くれ立ち方までが……いやに見覚えがあった。
「……これ、俺の手、だよな」
目を開けずに、士郎は自分の手の指を撫で、呟いた。
自分の手が、見知らぬ業物の剣を振るい、迫り来るアーチャーの剣を受け流す。
ここにいる自分と、いるはずのない『向こう側』の自分の肉体。聞き覚えのあるアーチャーのバリトンと、聞き覚えのない不吉さの滲む副音声混じりの声。
さらに付け加えて、アサシンこと佐々木小次郎と共にいる、今の自分の境遇。
おぼろげながら、この事態の真相が見えてきた。
――――ほう、自己投影のマジナイか。哂わせてくれるな、その文言は!
――――不細工な貴様の見てくれほどではないがな、アンゴルモア。
振るわれる剣と剣。
お互いが、渾身の力を込めて叩きつけ合い、剣の刀身が一瞬撓んだように見える。
その隙間に挟まれる悪口の駆け引きで、事の全貌が明らかとなった。
「つまり、だ。乗っ取られた訳か」
口に出して思い出す。アーチャーの背中を追いかけようとした時、突如自分に覆いかぶさってきた軟体の感触を。
あれがアサシンが変異した、アンゴルモアとやらだったのだ。
「前は機械に憑りついてたらしいけど……人間も例外じゃなかったのか」
のび太の話にあったエピソードの一端を反芻し、士郎は瞼を持ち上げた。
解放された眼球が真っ先に映したのは、柳のような飄々たる印象を抱かせる風雅な男。
「小次郎……って、この呼び方でよかったか?」
「別に構わん。名を隠すのに、拘りはないゆえな」
片目のみを開けて、小次郎は言う。
年下に気安く話しかけられるのにも、腹立たしく感じていないようだ。
案外、気さくというか、礼儀や分別にうるさくない性質らしい。
「解った。小次郎、どうやら俺もお前も、イレギュラーに飲み込まれたらしい」
「む、“いれぎゅらあ”? はて、伴天連の言葉か?」
「ば、バテレン……」
きょとんと尋ね返す小次郎に、がくっと士郎の肩から力が抜けた。
『佐々木小次郎』は江戸黎明期頃の剣客である。そういう意味では、横文字に弱いのも無理はなかった。
聖杯から言語の補足があったはずでは、と思わなくもないが、とりあえず士郎は言い方を変えて説明する。
「この聖杯戦争は、異常事態が頻発してるんだ。呼び出された英霊がいきなり別の個体へ変貌する、っていうのがその象徴なんだけど、アサシンのお前にもとうとうそれが来たらしい」
「ほぉう……英霊の変貌とな。これはまた奇怪な」
意外の念も露わに、小次郎は目を丸くする。
その反応は、士郎に微かな違和感を齎した。
「ん? キャスターからそういうの聞いてないのか。アイツも気づいてるはずなんだけど」
「否、初耳だ。私の役目は、山門の守護の一事のみ。その上、女狐から真(まこと)の信を置かれてはおらなんだ」
「は?」
なんでもない事のように述懐する小次郎であったが、士郎は我が耳を疑った。
以前、バーサーカーと剣技で渡り合った事からも解るように、小次郎の実力は……少なくとも剣の技術においては……セイバーに勝るとも劣らない。
使える手駒はなんでも使おうとする傾向のあるキャスターが、まさか小次郎を軽んじていたとは思わなかったのだ。
「まあ、私の物言いや振る舞いが癇に障ったのであろうよ」
「あー……それは、なんとなく解る気がする」
流れる雲や風のように、掴みどころのない印象を抱かせる小次郎だ。
どこか生真面目なキャスターとは、相性が悪そうではある。
子どものような素直な面のある士郎の場合は、そう気にはならない。のんびり屋ののび太や、士郎と同じ理由でフー子、イリヤスフィールとも相性はよさそうだ。
反面、凛やアーチャー、あるいはセイバーとは、反りが合わないかもしれない。
「しかし、それだけでおざなりにするものかな? 理由としては弱いと思うぞ」
「ふむ。では、呼び出した私が真っ当なモノではなかったゆえ、やもしれぬな」
「は? 真っ当なモノ、って……サーヴァントとしてまともじゃないって事か?」
そんなはずはないだろう、と士郎は思う。
この日本で、一般的な教養のある人間なら『佐々木小次郎』の名前を知らぬ者はまずいまい。
剣豪として“厳流”の号を名乗り、奇策と兵法を用いて『宮本武蔵』がやっと勝利を収める事が出来たほどの稀代の剣客。
日本の武の英傑としては最高クラスの人物だ。
それが、まともなサーヴァントではないとはどういう事か。
得心のいかぬ表情の士郎に対し、小次郎は涼しげな口調を崩す事なく話し始めた。
「そも、アサシンの役割で召喚されるのは、ハサン何某とかいう暗殺者のみのようだ」
「ハサン?」
「“山の老翁”が云々……と女狐は言っておったか。まあ、それはよい。要は、この『佐々木小次郎』がアサシンにて呼び出されるなど、まずあり得ぬという事よ」
「……けど、実際に『佐々木小次郎』のお前は、呼び出されてる訳だよな」
「無論……と言いたいところだが」
そこで、小次郎は表情に皮肉の色を滲ませた。
「的を射ているのは、半分のみよ」
「え?」
「女狐の呼び出した『佐々木小次郎』とはな、そう名乗れるに相応しい技を持っただけの、単なる亡霊にすぎなかった。ただ、それだけの事よ」
言い切って、小次郎は目を閉じる。皮肉交じりの微笑を湛えたまま。
理解が追いつかず、首を真横に傾げる士郎に、彼は補足を加える。
「呼び出された英霊がまた、英霊を呼ぶというイカサマじみた所業。どこかで必ず歪みが出るであろう事は、門外漢の私とて察するに易い。無理を通して道理を引っ込ませた結果、本筋のはずのハサン何某は呼び出されず、その実在が怪しまれる日ノ本の剣聖を呼び出してしまった」
「……たしかに『佐々木小次郎』については、文献に矛盾があったりするらしいけど」
「しかし、仮に空想であったとしても、正規の手順であれば召喚は叶うそうな。事実、女狐は正規の手法を用いておったようだ。そして、アサシンの器に『佐々木小次郎』という魂は注がれた。ただし、正確には魂の“枠”のみであったがな」
「枠? あ……っと、つまり『佐々木小次郎』のガワだけが来て、肝心の中身がなかった、って事か」
士郎の脳裏には、皿の上に置かれた、餡の入っていないどら焼きが描かれていた。
一応、間違いではないのだが、このイメージもどうなんだろうなと、士郎は自分で自分の空想にダメ出しをする。
おそらく、衛宮邸の居間に置かれていたお茶菓子のせいと思われた。
「無理を通したツケよ。ゆえに、聖杯とやらは仕方なくそこらに転がっていた、『佐々木小次郎』とするに相応しい何処の者とも知れぬ魂を、がらんどうの『佐々木小次郎』の魂の枠に収め、帳尻を合わせた……のであろう」
「断言、じゃないのか」
「先にも申したであろうが、私はその類には門外漢と。女狐にも確たる言は貰っておらん。女の愚痴じみた雑言の中身を繋ぎ合わせた、私の憶測にすぎん。とはいえ、あながち外れてもおるまい」
小次郎の語りは、そこで終わった。
口を閉じ、ただその場に泰然と佇む小次郎の表情からは、何も読み取れない。
ふと、士郎は山門でバーサーカーと闘っていた時の小次郎を思い出す。
『――――せめて仮初の役柄などではなく、我が真の名を名乗ろう。我はアサシンのサーヴァント……“佐々木小次郎”』
名もなき路傍の亡霊が、この世に確かに刻んだ足跡。
あの時の、敵に対して高らかに名乗りを上げた小次郎の胸の内が、解ったような気がした。
ふたりの間に、しばしの沈黙が訪れる。
「…………」
「…………」
さながら話題も尽きたお見合いの席の空気。小次郎は突っ立ったまま、士郎は所在なさげにもじもじしているが、しかしこうしてばかりもいられない。
この場所の正体は、見当がついた。問題は、これからどう動くべきかという、その一点である。
澱む空気を振り払うようにばりばり頭を掻いて、士郎は口を開いた。
「小次郎、この状況下じゃ、俺とお前は一蓮托生みたいだけど……これからどうする?」
「ふむ……そうさな。では星を目指してみる、というのはどうだ」
「星?」
「あれよ」
言われて、士郎は小次郎の顎でしゃくった先を見る。
すると、そこには黒滔々たる闇の中に、ぽつんと光の点がひとつ、灯っていた。
弱々しくもなく、かといって眩くもなく、目に優しい刺激の穏やかな輝きで以て、北極星のようにそこにある。
「なんだ、あれ?」
「さぁて。しかし、周囲には他に何もないゆえな。星を求めて歩むのも、また一興」
「…………」
再度の沈黙。
結局、小次郎の言葉以外にこれといった方策もなく。
「参るぞ」
「ああ」
草履と靴が、地面を鳴らして動き出す。
どちらからともなく、ふたりは星に向かって歩き始めた。
からから、と破片の音が闇を揺るがし、もうもうと粉塵が立ち込める。
コンクリートとも違う、白い瓦礫があちらこちらに散乱する暗闇の中。
「……いっ、痛ぅうう。ぎ、ぎりぎりだったかぁ」
押し殺したような呻き声が、塵を巻き上げて木霊する。
瓦礫のクッションに蹲るように縮めた身体を、ぶるぶる小刻みに震わせる者が一人。
真紅の上着にスカート、ニーソックスといった装いに、長く艶のある髪をツインに結い上げている。
地盤崩壊の憂き目に遭ってなお、その命脈を繋いだ兵。
遠坂凛が、両脚を襲う猛烈な痺れに喘いでいた。
「ランサーに強襲された時みたくは、いかないものね……痛たた」
膝を上げようとして、すぐに蹲る。
額には脂汗が浮かび、前髪がぺったりと貼り付いている。
眉間の皺は険しい山脈を形成しており、食い縛った歯の隙間からは『うーっ』と苦みのある声が漏れている。
しばらくは、立ち上がれそうになかった。
「何メートル落ちたのかしら……十や二十じゃないわね。百とか二百くらい?」
脚を摩りながら、光の一切ない黒天井を見上げて凛は呟く。
落下の持続時間から、自分が落ちた底までの深さを推測するが、詳しくは解らなかった。
ただし、この場所から元いた戦場まで、かなり距離が開いているだろう事は確実であった。
「『強化』がかかってなかったら、脚、確実に持ってかれてた。『重力緩和』併用でも、ここまでの衝撃があるなんて……」
地面が陥没し、身体が落下を始めた当初こそ狼狽したが、凛はすぐさま『重力緩和』の魔術を使い、ここへ軟着陸を果たした。
相当な深さのある穴だったからよかったものの、これが十メートルや十五メートルといった浅いものであったら、効力が間に合わずに、凛の両脚は砕けてミンチとなっていたであろう。
『強化』と『重力緩和』があったればこそ、脚が痺れる程度で済んだのだ。
士郎と組む前、学校でランサーと対峙した時、凛は逃げを打って校舎の屋上から飛び降りた事がある。
その時はアーチャーが着地の補助を行ったので、痺れすらなかった。まともに高所からの着地を果たしたのは、これが初めてと言っていい。
「奇跡ね」
被害が軽微であった事が、であろう。
脚から痺れがだんだんと抜けていくのを感じ、凛は再度立ち上がろうと試みる。
ふらつきながらも、膝はしっかりと伸び、脚は体重をきちんと支えてくれた。
「ふう」
震える脚を宥めながら、凛は指先に魔力の灯りを宿して、周囲を見渡してみる。
辺り一面、瓦礫の海。それ以外は何もない。
洞穴のようなだだっ広い空間で、時折水が流れるようなごうっ、という音が空気を揺らしていた。付近に地下水脈でもあるのかもしれない。
予備部屋としてキャスターが作ったのか、元からあった天然のものなのかは判別しかねるが、落盤が起きる気配は今のところない。
天井を見上げると、己が落ちてきたであろう丸い大穴が、煙突のようにぽっかりと顔を見せていた。
距離が開きすぎているのか、直上の戦闘の音は聞こえてこない。
「戻れるかしら?」
口に出したコンマ一秒後、彼女の理性が結論付ける。すなわち、『無理だ』と。
天井の穴まで、おおよそ十メートルはある。飛ばなければ帰還は不可能だが、凛にはまだその力はない。
空を飛ぶ魔術は、大魔術に相当する。凛はたしかに優れた魔術師だが、そのレベルはあくまで一流クラス。
超一流と呼ばれるまでの力量があればともかく、一流ではその魔術は成し得ない。
ゆえに、凛の理性は無理だと判断した……ただし。
「……とにかく、急がないとね」
その『無理』には“あくまで魔術では”という枕詞が付く。
「さて……」
スカートのポケットに手を入れる。
魔術媒体である宝石の他にも、彼女の手札はある。
“バリヤーポイント”と共に要請して、手渡して貰っていた札が。
どんな状況であれ、これがあるのとないとでは天と地の差がある。
如何に凛でも、電灯のスイッチを入れるのと変わらない労力と手順で済む以上、持て余す事もない。
彼女の細い指が、ポケットの中でお目当ての物を探り当てる。
ぐっと五本の指が掴む。引き出そうとした、その時だった。
――――ホーッホッホ。少々お待ち願えますかな、お嬢さん。
凛の指はブツを離し、すぐさま一緒に入っていた数個の宝石を掴み取った。
同時に、待機状態だった魔術回路をアクティブにする。
――――安心なされよ。危害を加えるつもりはありませんぞ。
間延びした老人のような声が、闇を満たして響き渡る。
信用出来るか、と問われれば『否』の一言である。
そもそも、ここは敵地。味方と断じた者以外に警戒を解くなど、凛の性格上あり得ない。
「姿も見せずに言われても説得力ないわ」
声は固かったが、しっかりした物の言い様であった。
とりあえずの命の危機を脱して、気が緩んでいた。
ぴりぴりと神経を張り詰める傍ら、凛は内心で己の油断を戒める。
――――ホーッホッホ、それもそうですな。では。
言葉が切れたその瞬間、瓦礫の隙間の闇から浮かび上がるように、ひとりの老人が姿を現した。
目や骨格の丸っこい顔貌に鷲鼻。よれた三角帽を白髪に覆われた頭に乗っけている。
杖をつきながら曲がった腰に手を回しているが、直立すれば決して矮躯ではないのだというのが背格好から解る。
ただ見る分には、どこにでもいそうな人生の締めくくりに差し掛かった御老体だ。
しかし、ぴりついた凛の感性は、そうは捉えない。
まるで密林のような鬱蒼とした底知れなさを、そのしわくちゃの印象の奥に感じ取っていた。
凛の警戒心は、薄まるどころかさらに濃くなっていく。
「これでよろしいですかな?」
「そうね。あとは杖を捨てて、後ろを向いて、両手を頭の上で組めばカンペキよ」
「ホーッホッホ、これは手厳しい。しかし、年寄りは労わるものですぞ」
「こんな魔窟にひょいっと現れる妖怪ジジイに、労わりなんて必要ないでしょ」
凛の不敵な物言いにも、老人は笑いを崩さない。挑発を完全に流しており、感情を平静に保っている。
言葉の通り、危害を加える意思がない可能性が凛の中で、頭をもたげた。
警戒はそのままに、凛は努めて静かに口を開く。
「それで、貴方は誰なのかしら」
「名前は、さてさて……そうですな。『トリホー』とでもしておきましょう」
「トリホー……って、たしかオドロームの部下のひとりじゃないの」
いまだ手を抜いていない凛のポケットの中で、宝石がしゃらりと音を立てる。
魔術回路も今のアクティブから、次の段階へ移行する準備が始まっていた。
表情を変えぬまま猜疑の雰囲気を醸し始めた凛を、しかしトリホーと名乗った老人は、落ち着き払った笑い顔を微塵も揺らがせず説き伏せにかかる。
「ホッホウ。あの少年から『夢幻三剣士』を聞いておりましたか。であれば、お疑いも無理はない」
「…………」
「しかしながら、今ここにこうしている『トリホー』と妖霊大帝とは、縁のないものとお考え頂きたい」
「はあ?」
明らかにオドロームの配下の名を名乗っているのに、穴の直上のそれとは繋がりがないとトリホーは言う。
怪訝な表情となった凛に、トリホーはついていた杖を前に突き出した。
ぴんと伸び切った右腕は、それを地面に突き立てているようにも見える。
「お嬢さんを呼び止めたのは、あの少年にこれを渡して欲しかったからでしてな」
「これ、って杖を?」
「いえいえ」
すると、トリホーは杖から手を離し、ゆっくりと二、三歩後ろへ下がる。
杖は、掴む者がいないにも拘らず、直立不動を保っていた。
表情にますます疑念の色が濃くなった凛であったが、トリホーがぱちん、と指を鳴らした次の瞬間、端正な眉が勢いよく跳ね上がった。
「……え、えっ!? これは!?」
杖のあった場所に杖がなく、代わりにそれとは違うものが、地面から伸びたように存在していた。
凛の驚愕に彩られた表情を、トリホーは笑い声を上げて見つめている。
「ホーッホッホ、頼みの品はこれです。渡して頂けますかな」
「……その前に、ひとつ質問」
「ホゥ? はて、なんでしょう?」
「どうして、アンタがこんなものを持ってるの?」
凛の疑問は、ある意味当然であった。
杖から変わったブツは本来、この老人が持っていていいシロモノではなかったからだ。
いや、そもそもあるはずのないシロモノ、と言い切ってもよかった。
「…………」
トリホーは、口を開かない。ただ凛を、黙してじっと観察しているだけだ。
つまり、この問いかけには答える気はない。それを悟った凛は、ふう、と溜息を吐く。
「いいわ、じゃあ質問を変える。これをわたしに……じゃないわね。のび太に渡す理由は?」
「成る程。ふむ、そうですな……」
考えを纏めるように、トリホーは上を向く。
しかし、五秒も経たずに視線を元に戻すと、腰の後ろに回していた右手を前に出し、ぴっとその人差し指を立てた。
「いくつかあるのですが……ま、一言にまとめるとするならば、『救済措置』と言うべきでしょうかな」
「救済……措置?」
「左様」
重大さを感じさせぬ軽い雰囲気が、トリホーを取り巻いている。だがその言葉の中身は、それに反し重い。
トリホーは、やはり間延びした口調のまま、凛に対し宣告をする。
その時、凛は背骨に氷柱を突っ込まれたような心地となった。
「――――その名を『死因固定(アンデッド・コード)』。大帝の曰くから来るこの宝具を打ち破らぬ限り、アナタ方に勝利の目はないのですからな」