「くそっ! くそ、くそっ! なんで、なんで届かないんだよ!?」
「はぁ……はぁ……そんなものかよ、慎二」
口汚く叫ぶ慎二を見据え、士郎は小声で吐き捨てる。
戦闘に突入して、既に十分近く。両者共に息が上がっており、珠のような汗が額や頬に浮かんでいる。
だが、両者の疲労の質には明確な違いがあった。
慎二の方は精神面でグラついており、一方の士郎は肉体面で大きく疲弊しているのだ。
「ふぅ……数は多いな。けど、そんな魔術じゃあ、俺には通用しないぞ」
呼吸を整えようと深呼吸を繰り返しつつ、士郎は“名刀・電光丸”を握り直して下段に構える。
慎二の繰り出す魔力刃は、とにかく数が多い。
まさに刃の弾幕といった風で、多い時には一度に三十近くを生み出して一気に浴びせかけてきていた。
故に、一進一退。互いに肉迫する事もなく、攻撃と迎撃に全ての攻防が終始しており、距離は縮まっていない。
普通ならば、物量と手数の利で士郎はとっくに血に塗れて、骸と化しているところである。
いくらオート迎撃の“名刀・電光丸”を『強化』魔術を併用して振るっているとはいえ、飛来してくるのは研ぎ澄まされた魔力の塊。
それに刃を合わせ続ければ、果たしてどういう結果が訪れるか。
間違いなく刀の方が保たない。捌き続けるうちに『強化』魔術の効果が切れ、通常の刀の強度に戻った刀身が粉々に砕かれて終わるだろう。
だが、その予想に反して士郎は、魔力刃の悉くを斬って捨て続け、今なお命脈も『強化』も健在である。
それはなぜか。
(魔術回路もなしに魔力を操れるのは確かに凄い……が、バカバカしいくらいに軽い。手応えがスカスカだ)
慎二の弾幕一発一発の密度が、恐ろしく低いからである。
重い砲丸を、同じ重さの発泡スチロールに変換し、手当たり次第にちぎっては投げているようなもの、と言えば解りやすいだろうか。
適性もないのに無理矢理魔術を行使しているせいか、はたまた元からこういう魔術なのか。
とにかく、刃を構成する魔力が、ある程度の頑強さを保持するまでには集束されておらず、“名刀・電光丸”で一太刀薙いだ程度で簡単に消滅してしまう。
砕け散る際の音と相まって、まるで粗悪なアメ細工を片っ端から叩き壊しているような感覚である。
「これなら遠坂のガンドの方がまだ凄まじいな。知ってるか、慎二? あいつ、手加減したガンド一発でコンクリートの壁に穴開けるんだぜ?」
バーサーカーとの決戦前、凛から薫陶を授けられた際、士郎は容赦ないガンドの嵐に晒された。
呆れと溜息の混じったこの述懐には、重々しい真実味がこれでもかとばかりに籠められている。
そしてそれは、慎二の魔術が大した事ないと、心の底から思っているという心境の吐露と同義であった。
「な……んだとぉおおお!?」
当然、士郎の言葉は彼の神経を、鉋で削るように逆撫でする。
言った本人にそこまで挑発的な意図はなかったのだが、苛立ちで逆上寸前の慎二にとっては、煮え滾る油にダイナマイトを放り込むも同然であった。
余裕ぶった表情は既にない。
歯を剥き出しにし、目を血走らせながら獣のような唸り声を上げる。
慎二から、冷静さは完全に拭い去られていた。
膠着状態だった戦局に、この瞬間、亀裂が走る。
「ここっ!」
身を屈め、士郎は低い姿勢で慎二に向かって駆け出した。
接近するなら、今を置いて好機はない。
いくら“名刀・電光丸”が自動で動いてくれるとはいえ、その剣を握り締め全力で振るっているのは、士郎自身である。
時間をかければその分、じわじわと疲労も蓄積されていく。
息だって先程から切れ切れ、しかもそろそろ器官の具合が怪しくなっていると来ている。
上の階で『懸念事項』が争っている事もあり、あまりグズグズしてはいられないと即座に判断。
士郎は、勝負に出た。
「うぅがあああああっぁあああああああ!!」
たとえ我を忘れても、憎しみ募る敵対者を忘れはしない。
破れんばかりに握り締めた赤い本に、慎二がコマンドを下す。
即座に十数の魔力刃が生み出され、凍るような殺意と共に疾走する士郎目掛けてそれらを解き放つ。
……だが。
「甘いっ!」
“名刀・電光丸”が煌めき、襲い来る刃を次々と切り払う。
縦横無尽の太刀捌き。慎二から見れば、ただデタラメに剣を振るっているようにしか見えないだろう。
ある意味、間違いではない。
なにしろ自動反応・自動迎撃なのだから、剣術の型にはまった軌道で振るわれるとは限らない。
ために、振るう姿は、途轍もなく不格好で不規則……しかし、精度は緻密にして正確。
加えて、放たれた魔力刃が、冷静さを欠いたせいか散弾のようにバラけていたのも幸いした。
あっという間に迎撃を完了。敵へと一直線に続く道をこじ開けると、士郎は一気に加速する。
「いつまでも、バカのひとつ覚えが通用すると思うな! 慎二ィ!!」
「――――ひっ!」
ここに至って激情が幾分冷め、慎二は表情に怯えを見せる。
目は泳ぎ、手足が竦み及び腰。足を一歩、二歩と、後ろへ進めている。
(後退り……させるか!)
逃げようとしている。そう察した士郎は、さらに足のペースを上げる。
この男の性格は熟知している。長い付き合いは伊達ではない。
事、ここに至った状態で万一逃がしてしまうと、執念深いコイツの事。後々厄介な事態を引き起こしかねない。
決着は持ち越さず、ここで決める。
士郎は刀を左手に持ち替え、右の拳を固く握り締めた。
「逃がすか! 歯ァ食い縛れ! その曲がった性根、修正してやる!!」
慎二が後方へ駆け出したその瞬間、士郎はその襟首を引っ掴むと自分の方へ強引に身体を向かせ、左の頬に右拳を思い切り叩きつけた。
「ぶはぁあっ!?」
助走付きの拳の威力に身体ごと吹っ飛ばされ、慎二は廊下を物凄い勢いで転がっていく。
その軌跡には、点々と赤いモノが付着している。
慎二の血だ。
「う、うぐ、ぐぅ……!」
廊下の端、階段がすぐ左手にある位置で慎二の身体が止まる。
そのままよろよろと身体を起こそうとするが、唇の左側から赤い線が一筋垂れ下がり、食い縛った歯が真っ赤に染まっていた。
口の中を切ったのだろう。
左手の甲で血を拭い、どす黒い殺気と狂気が混じった視線を士郎にぶつける。
その表情は悔しさと憎しみと憤怒に捻じれ、歪み、さながら悪鬼のようである。
「く、くそっ……!」
「……慎二、勝負ありだ。早く、この結界を……」
刀を突き付けた士郎がそう言い終える前に、廊下に充満していた淀んだ赤い空気が霧散した。
『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』が崩壊したのだ。
上の階でのすべてを察した士郎は、ふっとひとつ息を漏らす。
「……解くまでもなかったな。これで完全に勝敗は決した。もう覆りはしないぞ」
結界が消えた。
それはつまり、のび太が基点をしっかりと破壊し、セイバーがライダーを封殺しているという事。
「……くそ!!」
ギリ、と慎二の歯から音が鳴る。
自分の置かれた状況を、悟ったのだろう。
逆転の目はない、と。
「さあ、慎二……」
刀を持つ手に力を籠め、士郎はさらに慎二に詰め寄っていく。
――――この時、士郎は選択を誤っていた。
今の慎二は、理性が衝動に侵された、狂奔する獣同然。
刀を突きつけた事で、首輪をしたつもりなのだろうが、まだまだ認識が甘かった。
刀の峰で首筋を打つなり、当身を喰らわすなりして慎二の意識を刈り取っておくべきだったのだ。
なぜなら……。
「そお~っと、そお~っと……――――あ、士郎さん!」
「な!? の、のび太君!? なんで降りてきて……!?」
「あ、いえ、その、上が物凄い事になってきたから……」
――――獰猛な獣は、自らより弱いと思う者を本能的に見分け、寸分の容赦もなく喰らいつくものだからだ。
「……ッ!!」
瞬間、慎二の目がギラリと怪しく光る。
そして。
「――――がぁあああああああアアアアアアアっ!!」
「あ!? ま、待て!」
「へ、う、うわああっ!?」
脇目も振らず、三階と二階をつなぐ階段の中間地点へ身を乗り出していたのび太へ向かって突進。
構えられていた“名刀・電光丸”で右腕が切り裂かれるのも構わずに、左の掌でのび太の首を鷲掴みにすると、空へと持ち上げ締め上げた。
「う!? ……がぁ……ッ!?」
突如、弾かれたように襲い掛かってきた慎二に、のび太は身構える事すら出来なかった。
まるで万力で首を締められているかのような凄まじい握力で、呼吸が完全に封じられる。
子どもの体躯であり、筋肉質でもなくどちらかと言えばモヤシ体型ののび太に、この宙吊り状態が耐えられる筈もない。
頸骨がギシギシと嫌な音を立てており、細い首が今にもへし折られそうであった。
「のび太君!!」
士郎が駆け寄ろうと一歩踏み出す。
が。
「あ゛ぁああああアアアアアあああッ!!」
「な!? くっ……!」
右手の赤本から放たれた慎二の魔力刃が、接近を許さない。
怒りが頂点に達した事で、最善策を本能が導き出したのだろう。
慎二は、魔力刃を一本一本バラで撃ち出すのではなく、数発固めて刃の塊として撃ち出していた。
密度の低さをカバーするには賢いやり方であり、この迎撃には『強化』した“名刀・電光丸”でも骨が折れた。
「づっ!? か、固い!?」
一撃では砕けず、“名刀・電光丸”の迎撃機能による高速斬撃で十数回斬りつけて、ようやく魔力刃が霧散する。
しかし、壊したと思ったら、また次の刃の塊が襲いかかってきた。
避けようにも、学校の階段という手狭なスペースの関係上ほぼ不可能。
無力化のために再度刀を振るわざるを得ず、結果、士郎の足は、階下に完全に釘付けにされた。
「ぐ……ぐぅぃ、ぎぃぁ……!?」
自分を掴み上げる腕をどうにか振りほどこうと、のび太は眼下の腕に両の爪を立て、必死に身体を捩じらせる。
だが、脳のリミッターが完全に外れた慎二の腕力は凄まじく、いくらもがこうが引っ掻こうがビクともしなかった。
のび太がここに降りてきたのは、三階のセイバーとライダーの戦いが激化して留まるのが危険な状態となり、ふと士郎はどうしたんだろうかと気になったから。
用心しながら移動したまではよかったが、つい不用意に声を上げてしまった事。
そしてその際、取り押さえられた慎二の理性が焼き切れていたのが不運だった。
「この、ガキがぁああああああああああ!! お前が、お前がぁああああああああああアアアアアア!!」
「ぐぅえ!? が……ふ……ぅう!?」
腕に浮き出る血管から、血潮が噴き出さんばかりにますます力が籠もり、のび太の顔色が蒼白に染め上げられる。
頸動脈に指が完全に喰い込んでおり、脳に血流と酸素が行き届かない。
異常な量の脂汗が全身にベッタリと張り付き、身体の各所が弛緩して今にも禁を失してしまいそうである。
視界に影が差し、漆黒に塗りつぶされ、のび太の目に映る景色が陽炎のように霞んでいく。
そうして、意識が暗闇に落ちようとしたその寸前。
「ぁあ………っ、ぁあぐ!!」
のび太は気力を振り絞り、最後の反撃に出た。
身体を無理矢理弓形に逸らし、その反動を利用して首元の慎二の手に思い切り噛みついた。
「ぎッ!? づあぁあっ!?」
犬歯が皮膚を貫き、奥の肉へと力強く喰い込んでいく。
全精力を上顎と下顎に込めて、このまま引き千切れろと言わんばかりに、のび太はギリギリと歯を食い縛る。
歯型が付くどころでは済まないこの窮鼠の反撃には、流石の慎二も痛みに悲鳴を上げた。
「ぐ、くそがっ!」
「ぅう!? ぁああっ!?」
手中の雑魚に傷付けられた事が癪(しゃく)だったのか。
纏わりつく不快なものを打ち捨てるように、慎二は階下へのび太を放り投げた。
「なあ!?」
階下の士郎の目が驚愕に見開かれる。
そして。
「くっ、そ……う、ぐ!!」
「っが、ふぁっ!?」
咄嗟に“名刀・電光丸”を魔力刃に突き立て、そのまま刀を横に放り捨てるとすぐさま着地点へ駆け出し、間一髪。
固い廊下の床へ叩き付けられる前に、滑り込みでキャッチする事が出来た。
「はぁあ……な、なんとか間に合ったか……」
魔力刃は、自動迎撃機能が生きたままの刀に切り刻まれ、そのまま霧散する。次が来る気配はない。
受け止めた際の慣性に身を任せ、その場に尻餅をつきながら、士郎は安堵の吐息を漏らす。
その腕の中で、新鮮な酸素を求めてのび太が激しく咳き込んでいた。
「かはっ! げほっ! ごほ、こほっ……はっ、はっ、げほっ、はぁっ……けほっ、はっ、はぁっ……!」
のび太の首筋には手形がくっきりと刻まれており、かなり痛々しい。
目も赤く充血しており、頬には僅かに涙の跡が見て取れた。
心なしか、士郎の服の袖を掴む手が震えているような気もする。
慎二の握力と狂気がどれほどのものだったのかが、腕を伝って士郎に嫌でも伝わってきた。
「大丈夫か、のび太君……?」
「けほ、けほっ……はぁっ、は、はい……こほ、なん、とか……はぁ、はっ、こほっ……」
「…………」
涙の滲んだのび太の目を見つめる士郎の表情が、僅かに歪む。
そのまま片目を伏せ、労わりや謝罪の言葉を口にする代わりに、のび太の背中を優しく摩った。
「くそ、ガキが、僕に傷を……!」
一方、階上では慎二が左手を押さえて唸っていた。
左手の甲は夥しい鮮血が噴き出しており、肉の相当深い部分まで食い破られた事が窺える。
それだけのび太も必死だったのだろう。
魔術回路のない慎二は、勿論傷を癒す魔術など習得していないので、左手の傷を回復させる事は出来ない。
……だが。
「ちっ、深いな。血が止まらな……ん?」
痛恨の痛手を被った事で、激情の狂気からは回復していた。
傷を睨みつける傍ら、慎二はふと、自分のすぐ足元の段上に何かが落ちている事に気づく。
「……? あ、待……!」
「けほ、けほっ……はぁ、はぁ……?」
士郎が制止の声を上げるより早く、慎二は傷を負った左手でそれを拾い上げた。
白のニットキャップに似た、士郎とのび太にとってはこれ以上ないほどに見慣れたそのブツを。
「……ッ、最悪だ……」
「え、あ、ああっ!? ぽ、ポケットが!?」
慎二が掴んだ物、それはのび太のポケットに収められていた“スペアポケット”だった。
のび太が慌てて“スペアポケット”の入っていたズボンのポケットをまさぐるが、当然ながら手応えはない。
首を締められ、そこから逃れようと必死に慎二の束縛に抵抗していた際、暴れすぎてポケットから落ちていたのだ。
二人の顔色が変わったのを見て取った慎二は、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「へぇ……よっぽど大事な物みたいだな。衛宮が抱えてるそのガキが結界をぶっ壊したみたいだけど、この中に結界破りでも入れてたのか?」
火山の噴火さながらの感情の爆発は、とうに下火。
冷静さと余裕を取り戻した慎二の頭脳は、のび太が、何らかの手段で『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』を無力化した事を導き出していた。
しかし、二人が二手に別れる前に、こそこそやり取りをしていた事を鑑みればおおよその見当は既についていたはず。
それがここまで遅れたのは、やはり相手が士郎だったからであろう。それがこの場における、この男の最大の欠点である。
「か、返して!」
「バカかお前? 敵の道具をホイホイ返す訳ないだろ……おっと、ヘンなマネはするなよ衛宮。この本の魔術は、まだ死んでないんだぜ。ちょっとでも長く生きてたいだろ?」
「ぐ……」
機先を制する慎二からの牽制。士郎は思わず歯噛みする。
現在、士郎の両の手に武器はない。
“名刀・電光丸”はのび太をキャッチする際に手放してしまい、士郎と慎二のちょうど中間、階段脇の床に聖剣のように突き刺さっている。
上着のポケットに“スペアポケット”があるため、反撃の武器がまったくない訳ではないが、慎二は“名刀・電光丸”を上着から出したところを見ているため、こちらも実質使えない。
要は手詰まり。アドバンテージは慎二にあり、まさに進退窮まった。
「どれどれ……何が入ってるんだ?」
右手の本を口に咥え、慎二が“スペアポケット”の中をまさぐる。
二人揃って起き上がるも、その様子を黙って見ているしかない士郎とのび太。
道具の種類が少ないとはいえ、のび太の“スペアポケット”には、凛が聞いたらキレて火を噴きそうなくらいにデタラメで強力なシロモノが、まだまだ入っていたりする。
もし慎二がそれを取り出してしまえば、のび太達の破滅は確実である。
「あ、あ、あぁああ……!?」
「……くぅ……!」
悔恨と戦慄(わなな)くのび太の横で、士郎の頬に一筋の汗が流れる。
そして慎二の手がゆっくりと、ポケットから引き抜かれた。
そこに握られていたものは……。
「ふぅむ? ……っと、爆弾かな、これは?」
手榴弾のような形状をした、黒光りする掌大の物体だった。
「ッ!? まさか……」
士郎の全身が戦慄に粟立つ。
のび太の道具の、シャレにもならない性能をこれまで凛やセイバー共々散々見せられ続けた。
故に、あの爆弾もただの爆弾ではない事くらい容易に察せられる。
もし、あれを使われれば勝負は決まってしまうだろう、しかし対するこちらは動けない。
見た目から使用方法も自ずと解る構造のため、下手に動けば、慎二は躊躇いなくあれを使う。その確信がある。
拳をきつく握り締め、士郎はのび太を後ろに庇うようにそっと体勢を入れ替える。
その表情は、致死毒でも盛られたかのように悲壮に、そして殊更苦々しく歪められていた。
(……ん?)
しかし、士郎の背中側。
(待てよ、あの人が持ってるのって、たしか……)
身体の横から顔を出して前を見るのび太の表情は、士郎のものとは180度異なっていた。
(……あ!)
無念の形相などではない。諦念の様相でもない。
(そうだ、間違いなく“アレ”だ! だったら……うん、きっといける、かも!)
『死中に活路を見出した』。
まさしくそんな表情であった。
「そこらにいそうなガキがこんな危険物を持ち歩いてたなんてね……まぁ、こんな爆弾で結界をどうこう出来たとは思えないけど。それにしてもこの道具袋、いったいなんなんだ?」
右手の黒いブツを野球のボールでも見るようにしげしげと眺め、慎二は独り言を呟く。
本を上着の胸ポケットへ収め、今度は視線を左手の“スペアポケット”へと僅かに落とした。
その、瞬間。
「いまだっ!」
タイミングを見計らっていたのび太が士郎の背中から、突如その横をすり抜け、弾丸のように飛び出した。
「え、ちょっ!?」
眼前にいきなり現れたのび太にギョッとするも、士郎は慌ててその襟首に手を伸ばす。
どちらかと言えば気弱なのび太が、なぜこうも思い切った行動に出たのか、あまりにも唐突な出来事で理由が皆目掴めない。
ただ、リスクが大きすぎるアクションであるのは間違いないため、咄嗟に引き戻そうとした。
しかし、ほんの一足遅く、士郎の手はのび太を掴む事なく虚しく空を切る。
「!? こいつ、なんの……ッ、はは、破れかぶれか? 甘いね、そらっ!」
形勢逆転し、優位に立った事で、気が大きくなっている慎二。
一瞬戸惑いを見せたが、即座に意識を立て直し、手の中の爆弾をのび太目掛けて放り投げる。
所詮、奪った敵の武器である。自分の懐はまったく痛まない。故に、遠慮など微塵もない。
爆弾は、のび太の手前一メートル地点に着弾、そして。
「のび太く……うわっ!!」
閃光が奔り、轟音を発して爆発した。
「あっはははははは! 僕に手傷を負わせた報いさ!」
「…………ぁ、ああ……!」
腕で庇っていた顔を上げた士郎の表情から、潮が引くように血の気が失せ、反対に慎二の顔には愉悦混じりの喜色が浮かぶ。
狭い廊下の片隅に、耳に痛いほど凄まじい炸裂音の残響と白煙が、これでもかと言わんばかりに満ち満ちている。
その勢いたるや、並みの手榴弾や地雷など目ではないほどだ。ここまでのシロモノの直撃を受けて、普通の人間が生きていられる筈がない。
……だが。
「あははははは「――――残念だけど……」ははは……は?」
慎二の哄笑を遮るように声が響き、慎二の眼前に漂う白煙が微かに歪み、渦巻く。
そして。
「――――あれは“こけおどし手投げ弾”だよ! お兄さん!!」
会心の笑みを浮かべたのび太が、無傷のままで煙を突き抜け、姿を現した。
“こけおどし手投げ弾”
簡単に言えば、爆発音と閃光、そして煙を撒き散らす“だけ”の爆弾である。
殺傷能力などまったくなく、せいぜい音と光で相手を怯ませる事くらいしか出来ない。
それさえ覚悟していればなんらの問題もない、文字通り、『こけおどし』の爆弾なのである。
「のび太君!」
「な……にぃいいいいい!?」
のび太の無事に表情を輝かせる士郎。対して、慎二は眼前の光景に我が目を疑う。
あそこまで派手な爆発に巻き込まれて、のび太が傷一つ負っていないなど到底信じられなかった。
だが、それで目の前の現実が変わる訳もない。
「く、くそっ!」
慌てて本来の獲物である胸元の本に手をやるも、距離を一気に詰めてきたのび太の方が早かった。
「えぇええええい!!」
足を緩める事なく階段を一直線に駆け上り、勢いそのまま慎二に体当たりを仕掛ける。
とはいえ相手は、穂群原の弓道部に所属し、日々鍛錬をこなしている慎二である。当然、一般高校生よりも力はあるし、体格もそう貧弱ではない。
それ故、本来ならば、のび太程度の突進など通用するはずもないのだが、この場合、慎二の立つ場所がのび太に味方した。
階段上では踏ん張りが効かず、両手も本と“スペアポケット”で塞がっていて受け止める事も不可能。
下方から腹部へ、突き上げるようにのび太の肩と背中が直撃。楔のように一直線に、鳩尾へと突き刺さった。
「うぉ……がはっ!? ぎ、あ、ぁぐぅうううう!?」
段差の角でしたたか背中を打ち付け、慎二の口から苦悶の声が上がる。
寸でのところで顎を引いたため、後頭部を強打する事はなかったが、それでも尋常でない痛みが全身を駆け巡る。
一度ならず、二度までも子どもにしてやられた。
しかも、二度目はある意味、自分の盛大な自爆である。
「――――――――っ!!!」
その痛恨の事実が、冷え切っていた慎二の頭脳に再度、沸騰するような熱を齎す。
身体の激痛も激情に任せて無視し、慎腹筋と背筋の力を総動員して慎二は一気に身体を引き起こした。
「この……!!」
左手を床につけたまま右手の本を構え、そのまま自らの背後に振り返る。
そして。
「クソガ……!?」
目の前に映った光景に、身体を硬直させた。
「――――これで!」
左手に“スペアポケット”、右手に“ショックガン”。
踊り場の床に片膝をつき、眼鏡の奥の片目を閉じ。
百戦錬磨のガンマンの如く、呑まれる事のない気迫と勇気を小さな身体に漲らせ。
「僕の……僕達の、勝ちだ!!」
腰だめに銃を構えたのび太が、その銃口を慎二に対し突き付けていた。