「ドララ!」
「どれどれ……」
巻き戻しが完了し、凛が画面を覗き込む。
映し出されたのは、廊下を歩く一人の男の姿。
掛けていた眼鏡を右手でクイ、と上げ直し、階段の方へとゆっくりした足取りで向かっている。
そしてその左手には、やきそばパンとジ○アが握られていた。
彼の無機質そうな風体からは、到底想像のつかないメニューである。
どうやら、今から昼食と洒落込むつもりのようだ。
『……ぬ?』
と、その時、画面が絵の具を噴き掛けられたかのように紅色に着色された。
結界が起動したのだ。
『むぅ……!?』
眼鏡の奥の鉄面皮が、僅かに不快な色を帯びて歪められる。
だが、その瞬間。
『宗一郎様ッ!』
女の声が響くと共に、男の身体が、突如現れた暗幕のようなものにグルリと完全に覆われた。
凛には、その声に聞き覚えがあった。
『……キャスターか』
『はい、宗一郎様』
魔術師のサーヴァント、キャスターが、マスターである葛木宗一郎の危機を瞬時に察知し、転移術で救援に駆け付けたのだ。
葛木は、魔術回路を持たない一般人。
結界に対抗する手段はないに等しく、キャスターが来なければ五秒としないうちに魔力を空にされ、その場に昏倒していただろう事は確実だ。
この手の危機に対応出来るよう、あらかじめ、葛木にベルを着けておいたのだろうと、凛は当たりをつけた。
『……これはなんだ?』
『一言で言えば、中の人間を魔力に還元して吸収する結界です。こういう事もあろうかと、警鐘と同時に監視を緩めずに待機しておいて正解でした』
暗幕の中で、交わされるやり取り。
姿こそ隠れて見えないが、声は明瞭に聞こえてくる。
『そうか。お前は、これを知っていたのか』
『ええ。この冬木で、私に解らない事はありませんわ』
『ふむ……私は、どうすればいい?』
『このまま、一旦お戻りになられた方がよろしいかと。後でタイミングを見計らって、可能ならば送還いたします。宗一郎様の日常を乱すような事はございません』
『……わかった。では頼む』
その言葉を合図に、暗幕はその場から空間に溶けるように消え失せた。
おそらく根城である柳洞寺へ撤退したのだろう。
そこまで確認して、凛は画面から目を離した。
「成る程ね。リズの言ってた事はこういう事だったわけ、か」
「うん」
「ふぅむ……」
リーゼリットの頷きを見つめながら、凛は思考の幅を広げる。
先程の言葉から察するに、キャスターは『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』の存在を認識していながら、しかし手を出そうとはしなかったようだ。
きっと結界を下手に破壊すると足が付くから、とりあえず監視だけに留めて放置していたのだろう。
それなら解らないでもない。そこまではいい。
だが、マスターである葛木が勤める穂群原に、そんな物騒なものがあると解っていながら、どうしてあのように通わせっぱなしにしておくのだろうか。
教師にも、福利厚生はある。休暇申請などを利用すれば、わざわざ罠の仕掛けられた建物に毎日通い詰める必要などなくなるのに。
凛としては、その点がどうも解せないでいた。
「む~……ねえ、どう思う?」
「……いや、いきなりなんの話だ?」
何故か突然話を振られたアーチャーは面食らう。
いったい、何についてどう思えというのか。そもそもの脈絡がすっぽり欠落した状態で語れと水を向けられても、語りようがない。
僅かに眉を顰めたアーチャーに対し、凛は唇を尖らせた。
「察しなさいよ」
「無茶を言うな。レイラインを通して会話していたのならともかく……。せめて何に対してどう思うのか、それを説明してくれ」
「あーはいはい、つまりね……」
かくかくしかじかこういう事よ、と凛は先の疑問点をアーチャーに説明する。
考えに詰まって苛立っていたのか、と先程の無茶振りに幾分納得を示しながら顎に手を当て、アーチャーは思った事を口にした。
「ふむ、考えられる可能性としては……そうだな、マスターの日常生活を脅かしたくない、のかもしれんな」
「日常生活ぅ?」
「ああ、キャスターが自分で言っていただろう? 『宗一郎様の日常を乱すような事はございません』とな」
小首を傾げる凛に対して、アーチャーは更に解説を加える。
「先日見た、キャスターが葛木宗一郎に拾われた時の映像を覚えているか?」
「ええ。葛木先生にキャスターが抱え上げられてたわね」
「そうだ。行き倒れていたところを、偶然拾い上げられたという状況だったが、それは裏を返せば、聖杯戦争とは無関係の一般人を、有無を言わさず巻き込んでしまったという事でもある」
アーチャーの言いたい事が、なんとなく解った。
「……負い目、って事?」
「あるいは、葛木宗一郎がマスターとなる事を承諾する際に呑ませた条件なのかもしれん。いずれにせよ、葛木宗一郎は自らの日常を崩す事なく、聖杯戦争に参加していると考えていいだろう。フォローとサポート、そして戦略を、キャスターに任せてな」
「それってつまり、投げっぱなし……?」
「事実だけを見ればそうだろうが、葛木宗一郎に心を奪われているキャスターからすれば、むしろバッチこいというところではないのか? 見方を変えれば、全幅の信頼を置かれているとも取れる訳だからな」
「バッチこいって……」
あまりにも現代チックな物言いに、凛の表情に呆れの成分が混ざる。
この英霊、紅の外套と黒のボディアーマーという時代錯誤な見た目とは裏腹に、随分と現代に馴染んでいるように見える。
俗っぽい、というのとはまた違うが、しかしいったいこの男はどんな来歴をしているのだろうか。
事故紛いの召喚のツケで、記憶が曖昧であるとの事だったが。
(……ま、今更か)
今気にする事でもなし、と軽く頭を振り、凛は浮かんだ疑念を振り払った。
そして、一旦ワンクッションを置くために、話題の切り口を変更する。
「にしても……改めて考えてみれば、権謀術数が専売特許のキャスターが現代の人間、それも一般人にそこまで吊り橋効果的に熱を上げるのって、どうなの?」
「あり得ん事ではない。英霊とて、あらゆる時代の大勢の人間と同じ、その内側に心を持った存在なのだ。何かの拍子に恋に落ちる事もあれば、些細な事で激昂もする。他人の優しさに感動を覚えたりもすれば……募る憎しみや怒り、妄執に身を焦がす事もある」
「……そういうものなの?」
「そういうものだ。飄々としたようでいて、意外に気性の激しいランサーや、表情に出すまいとしていても、その実、内面ではかなり感受性の高いセイバーを見ていれば、それも解るだろう?」
ゆっくりと頷きを返して、アーチャーは断言する。
まるで、自分自身にも覚えがあるとでも言わんばかりに、その様からはいやに実感がこもっているように感じられた。
「……ふぅん」
気にはなったが、凛はこれも棚に上げ、黙殺する。
現状では、そんな些事に思考を割いてはいられない。
現在進行形で、いまだ事は推移しているのだから。
「ド、ドララ!?」
と、その時、ミニドラ・グリーンの慌てたような声が響いた。
凛がそちらを振り返ると、グリーンの眼前のモニター画面に何やら映り込んでいる。ミニドラ・グリーンは、それに心底から驚いているようだ。
「どうしたの?」
「ド、ドラ……!」
しきりにモニターを差し示すミニドラ・グリーン。
説明を求めるよりも、自分の目で見た方が早いと判断した凛は、モニターに視線を移す。
ミニドラ・グリーンが見ていたモニターは、現在の穂群原をリアルタイムで映し出している物だ。
場所は、つい先程別モニターで、キャスターが葛木と共に離脱した階段前の廊下。
そこに、空間が歪に捻じ曲がった、何やらひずみのような物が出来ていた。
「これは……?」
「察するに……空間連結でしょうか。どこかの空間と、この階段前の空間とに直通路を開こうとしているようです」
「状況とやり口からして、十中八九キャスターね」
主の教育係であり、魔術について広い知識を持つセラの分析に合わせて、その主であるイリヤスフィールの的確な推測が飛ぶ。
凛もそれに頷きを返すが、しかしキャスターがいったい何をするつもりなのか、それが掴めなかった。
アーチャーも、意図が読めないのか微かに首を捻っている。
だが、答えは意外にもすぐに出た。
「……え? ちょ、こいつらって!?」
「む……っ?」
画面向こうのひずみから、突如白っぽい、人型の何がが出現する。
しかも一体ではない。二体、三体、四体と、まるでベルトコンベア上で流れ作業的に次々生産されるように、際限なく湧き出してくる。
それらの姿は例えるなら、学校の理科室か保健室にあるような人体骨格モデルの、その頭骨の上半分を砕いて失くしたかのような、骨のみで構成された異形。
手にはナイフのような形状の剣が握られている。
凛とアーチャーには、見覚えがあった。
「冬木のオフィスビルに派遣させてた、骨人形! キャスター、いったい何のつもりで!?」
「威力偵察か、それとも単なるいやがらせか……まぁ、両方だろうな」
士郎と同盟を組む数日前から、冬木で昏睡状態に陥る人間が続発するという事件が起こっており、これが魔術絡みだと判断した凛は、その調査をアーチャーを伴い行っていた。
その時、とあるオフィスビルでこれらの異形に遭遇した事があったのだ。
凛のガンド数発で破壊出来た事から、戦闘能力こそ、そこまで高くはないものの、数が多いのが厄介だ。
仮に士郎やのび太達の方へ向かった場合、混乱は避けられないし、撃退は一応可能だろうが結果的にライダー、キャスターに挟撃される形になるので万が一という可能性も出てくる。
出端を挫いて、出来るなら出現エリア内で全滅させた方がいい。
そも、こういった不測の事態に備えて凛達は、監視を行いつつ衛宮邸に待機していたのだ。瞬時に凛は判断を下す。
「アーチャー、行くわよ! イリヤスフィール、リズを借りるわね!」
「了解だ」
「うん。イリヤ、行ってきます」
「はいはい、いってらっしゃい。こっちはミニドラ達と監視を続けておくわ」
リーゼリットもメンバーに加えたのは、不測の事態に速攻でカタをつけるために、戦闘能力を重視したからである。
「おねえちゃん、ボクは……?」
「フー子はお留守番。のび太が心配だろうけど、大丈夫よ。ここをイリヤスフィール達と守っておいて」
「……ん、わかった」
しょぼんと目を伏せながらも、フー子は頷く。
やはりのび太の事が心配なのだろう、綺麗な瞳が不安に揺れているのが見て取れた。
その間に、アーチャーは、どこからともなく白黒の双剣を取り出し、リーゼリットも、身の丈ほどもあるレニウム製の巨大な斧槍、ハルバートを片手に携えていた。
板張りの床が僅かに歪曲し、妙な音を立てている事から、ハルバートが相当の重量である事が窺い知れるが、果たして部屋に持ち込んでいた訳でもないのに、リーゼリットはいったいどこからそれを取り出したのか。
しかもホムンクルスとはいえ、女性の細腕でなぜそれほどの重量物を軽々と扱えるのか……。
「気にしては負けですよ、トオサカリン」
「はいはい、ツッコまないわよ」
『アインツベルンだから』で納得してあげるわ、と凛は、投げやりにセラに向かって返答する。
こんなおバカなやり取りをやっている暇はない。緊張は幾分解れるが。
凛達三人は、部屋の奥に鎮座している、“どこでもドア”の前に立って口早に目的地を告げる。
そしてドアを少しだけそっと開けると、向こう側に穂群原の廊下が見えた。
位置的には、ひずみのある場所から十数メートルほど離れた廊下の隅だ。
目当ての場所に繋がった事を確認すると、凛は背後の二人を振り返り、目で合図を送る。
首肯する二人。確認すると、凛は勢いよくドアを開いた。
「さて、突入するわよヤローども!」
「……ふぅ、Aye ay mam」
「リズはヤローじゃない、女の子」
三者三様のノリで以て、ひずみから生まれる骨人形目掛けて勢いよく飛び出して行った。
その頃、穂群原の二階廊下では、マスター同士の戦端の火蓋が切って落とされようとしていた。
士郎と慎二、互いが視線をぶつけ合い、火花が散る。
その触れれば斬れてしまいそうな剣呑な雰囲気に、いまだ僅かに残る紅の空気が、物騒で妖しい色合いを添えていた。
「慎二、先に言っておくぞ。俺は、お前を殺すつもりはない。だが、お前のやった事を許すつもりもない。令呪を剥奪して、戦争終了までおとなしくしていてもらう」
「はん。随分と甘ちゃんな事だね、衛宮。その偽善的な言い様、反吐が出る。それに、僕がいつお前に許して欲しいなんて言った?」
「そうか……そうまで言うのなら、容赦はしない! まず一発ぶん殴って、その歪んだ性根を修正してやる!」
「ふぅん、出来るかな? 遠坂以下の、へっぽこ魔術師がぁ!」
口火を切り、先攻したのは慎二。
憎しみの籠った叫びと同時に、彼の手にある本が不気味に赤く発光する。
すると、慎二の周囲に黒い、影のような物が十近く、浮かび上がった。
士郎は、それが魔力の塊であると感覚で理解する。
「魔術!? お前には魔術回路がないんじゃ……!?」
「……それは遠坂からかい? ああ、腹立たしいけど認めてやるよ。僕には魔術師に必要な魔術回路はない。よって、僕は魔術師にはなれない!」
憎悪と憤怒を隠しもせず、唾棄するように慎二は士郎の言葉を肯定した。
慎二にとって、『始まりの御三家』の一である魔術師の名家に生を受けながら、先天的に魔術師になれないという現実は、多大なコンプレックスなのだ。
自身の生き様や性格に、暗い影を落とすほどに。
自分への粘つくような黒い敵意はそういう事か、と士郎は、頭の片隅でなんとなく理解する。
要するに、自分への羨望の裏返し……嫉妬と僻みだ。
自分が狂おしいほどに欲しかった物を、どこの馬の骨とも知れないヤツが……たとえへっぽこであるとはいえ……持っているという皮肉。
それが、やり場のない激情を生み出す土壌となっているのだ。
しかし、士郎にとってはただただ、ハタ迷惑な感情でしかない。
「けど、間桐家は腐っても魔術師の家なんだ。長年に渡る、魔術に関する記録や資料、ノウハウは蓄積されている。だから、それらを流用すれば……!」
手を振り翳す。
それを合図として、黒い魔力の塊が刃状に形を変化させた。
「これくらいの事は、可能なんだよぉ! 死ねぇえ、衛宮ああああぁぁぁっ!!」
口を突いて激発する怒号と共に、慎二は魔力の刃を士郎目掛けて、発進させた。
空間を薙ぐように進む物、地を這うように接近する物、壁伝いに蛇行してくる物、占めて九つの凶器が一斉に襲い掛かる。
「ちっ!」
舌打ちしながら、士郎は自身の魔術回路を活性化させる。
二十七の魔術回路が一気に唸りを上げ、体内の魔力循環をコントロール。ポケットの中の右手に掴んだものに、魔力を送り込む。
設計図をイメージ、材質の特性を理解し、必要な部分を魔力で補強する……。
「『同調・開始(トレース・オン)』ッ!」
成功。
『強化』魔術を施し、右ポケットの中の“スペアポケット”からブツを引き抜いた。
そして、迫り来る凶刃を迎撃せんと、一歩を踏み出す。
「ぜぇあああああぁぁっ!」
右手を振るうと同時に、ガラスの砕けるような音が連続して周囲に木霊する。
手の中のブツは、凄まじい速度で肉迫してきた魔力刃を片っ端から、すべて叩き落した。
「っな、ぁあ!?」
「慎二……俺だってバカじゃあない。丸腰のまま、何の用意もせずに虎口に飛び込むなんてマネ、すると思ったか?」
慎二の迂闊を謗るように、士郎は毒づく。
だが彼も本筋では言葉とはまるっきり逆を「おい」……ハイ。それはともかく。
血振りをするように右手を振るい、両手でそれを掴み直して下段に構える。
白銀に煌めく、もはや士郎にとってお馴染みとなった、一振りの刀を。
「……日本刀!? くっ、霊刀の類か!?」
「“名刀・電光丸”……あの程度の攻撃なら、訳はないな」
実際には霊刀ではない、ただの(というのも変だが)刀なのだが、ハッタリにはなるかもしれないと思い、士郎は敢えて勘違いを訂正しなかった。
この“名刀・電光丸”は、元々『大・電光丸』に改造していた物で、“タイムふろしき”により元の大きさへと戻して、改めてのび太から借り受けていた。
ポケットの中の“フエルミラー”でコピー作成した“スペアポケット”も、引き続き鞘替わりに拝借しており、中には“スーパー手ぶくろ”と、これまた事前にコピーしていた『大・電光丸』他、数点のひみつ道具が収められている。
ただ、士郎は、今この場でその道具すべてを使うつもりはなかった。
手札は出来るだけ温存しておきたいという事と、手持ちの道具の中で自分が最も扱い慣れているのが、刀である電光丸系の武器である事を加味した上での判断だ。
「衛宮のくせに、物持ちのいい……! えぇい、くそ!」
醜悪に表情を歪め、口汚く罵りながらも、慎二は再び魔力刃を生み出していく。
今度の数は、軽く見積もっても先程の倍はあるだろう。
「……タネは、あの本か?」
怪しいのはあれしかないな、と見当をつけながら、士郎は迎撃姿勢を整える。
とはいえ、単純に手数の面だけで見れば慎二の方が上。
“名刀・電光丸”のみで取り押さえるのは、不可能ではないだろうが、やはり一筋縄ではいかないだろう。
いざともなれば、不慣れで不安はあるが、他の道具を出し惜しみしてはいられない。
この戦局、まだまだ時間が掛かりそうである。
「はあっ!」
「く……っ!」
一方、こちらは校舎三階廊下。
釘剣と不可視の剣が、互いに火花を散らし合い、周囲に耳障りな音を撒き散らしている。
セイバーとライダー、両者の剣戟が、狭い廊下に窒息しそうなほどの鬼気迫る雰囲気を充満させていた。
「どうしたライダー、その程度か!」
「…………ッ」
セイバーは、のび太を仕留めようとするライダーの攻撃を、二人の間に入る形で防御する。
ライダーの投擲する釘剣を片っ端から弾き返しつつ、時たま自分から切り込んでライダーを押し返し、のび太に近づける暇を与えない。
“竜の因子”による魔力ブースト効果で、『魔力放出』スキルを最大出力で利用し、その圧倒的なパワーと技量でライダーを完封している。
ライダーは無表情を装いながらも、内心では苛立ちを覚えずにはいられない。
セイバーの身体から発される燐光と陽炎のような揺らめきが、溢れんばかりの魔力の余剰放出現象である事は推察せずとも肌で感じ取れる。
マスターが魔術師ではないため、魔力供給を受けられないライダーにとって、これほど羨ましく、恐ろしく、また妬ましい事もない。
自分は魔力が十全ではなく、省エネ状態での戦闘をせざるを得ないのに対して、相手は潤沢な魔力を惜しげもなく、それこそ湯水のように使用出来るのだ。
宝具である『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』が、未完成かつ即座に中枢を破壊されたとはいえ、それでも起動してある程度の魔力を確保出来たのは重畳だが、この状況では、その分も使い果たしてしまいそうだ。
幸いなのは、セイバーがのび太を護る形で戦闘を行っているため、ほぼ迎撃に徹して積極的にライダーに攻撃を仕掛けて来ない事くらいである。
(マスターではない、おそらく協力者といったところ……しかし、いったいなぜ、あんな年端もいかない少年を、しかも別行動で?)
その点をライダーは疑問に思うも、今はそんな些事には頓着しない。
ただ、マスターの命を完遂するために動くのみである。
「ノビタ、急いでください!」
繰り返し、矢継ぎ早に飛来してくる二本の釘剣を叩き落しながら、セイバーはのび太に向かって叫ぶ。
“タイムふろしき”で確実に基点を破壊出来る以上、後は時間との勝負。
効果が激減しているとはいえ、それでもまだ魔力の簒奪現象は続いているのだ。
時間を掛ければ、それだけ学校の人間は衰弱する。被害を最小に抑えたければ、とにかく急ぐしかない。
……だが、ここに来て思わぬ誤算が、のび太とセイバーに襲いかかった。
「う、うん! えぇっと……3-Dの、き、きょう……? よ、読めない! この漢字、なんて読むの!?」
「――――は、はぃい!?」
危うくずっこけそうになるセイバー。
なんと、のび太はメモに書かれた漢字が読めず、どこに基点があるかが解らなかったのだ!
メモを片手に、廊下のド真ん中で立ち尽くすのび太。
当然、そんな絶好の隙を見逃すライダーではない。
「シッ!」
渾身の力で、セイバーの傍らを大きくカーブするように釘剣を投擲する。
それは、セイバーの剣の間合いの外側を、猛スピードで突き進んでいく。
狙いは、もちろんのび太。
棒立ちとなった人間など、ライダーにとっては射的の的やカカシ同然である。
「……くぅ!?」
気抜けした肉体に強引に活を入れ、そうはさせじとセイバーは一気に後方にバックステップで跳び退る。
『魔力放出』スキルを利用し、身体の前面で魔力を圧縮・起爆させる事で爆発的な推力を得、まるで爆弾で吹っ飛ばされたような勢いで釘剣を追い抜き着地。のび太の前に立ち塞がる。
「わっ!? せ、セイバー!?」
「伏せなさい!」
反射的に、のび太がその場にしゃがみ込んだ次の瞬間、金属同士が擦れ合う、嫌な音が鼓膜を揺らした。
のび太がそっと視線を上げると、そこにはライダーの釘剣をセイバーの銀の手甲が真ん中から掴み取っている光景があった。
「す、凄……!」
セイバーの神技に、もう少しで命はなかったという恐怖を飛び越えて瞠目するのび太。
だが、その声に頓着する事もなく、セイバーは表情を引き締めたまま左手の中の不可視の剣を引っ込めると、
「はああああぁぁぁっ!!」
釘剣の柄に繋がれているピンと張った鎖を、両手で即座に掴み直して、思い切り自分の方へと引っ張った。
“竜の因子”と『魔力放出』で強化された、セイバーの金剛力で鎖が引き千切られんばかりに張り詰め、ギシリと軋みを上げる。
反対側のライダーにとっては堪らない。
「ぬっ……ぁあ!!」
対抗しようにも、ライダーの力では綱引きにもならない。
手を離す暇すら与えられず、両肩がもげそうなほどのパワーになす術もなく引きずられ、ライダーの身体がセイバーの方へ目掛けて宙を舞う。
その自由のきかないなところへ、セイバーは足元で魔力を爆発させて神速の勢いで踏み出し、ライダーの懐に矢のように飛び込む。
そして、ライダーが反応するよりも速く、ガラ空きの脇腹へ向けて渾身のボディブローを叩き込んだ。
「っか、は!?」
容赦のない、凄まじく重い一撃。
肺の中の空気が強制的にすべて吐き出させられ、ライダーは空中で硬直してしまう。
「せいっ!!」
その隙を見逃さず、セイバーはライダーの両腕を掴むと、
「落ちろぉおおお!!」
背負い投げの要領でライダーの長身を担ぎ上げ、自らの右手にあった廊下の窓目掛けて思い切り放り投げた。
息が出来ないのだろう、顔を蒼白に染めたライダーはガラス窓を猛烈な勢いで突き破り、そのまま力なく、窓の外へと落下していった。
「う、うわぁあ……」
やり過ぎと言っても過言ではないセイバーの猛攻を目にして、のび太の顔からは血の気が引いている。
ここは三階である。普通の人間ならば、落ちたらただでは済まない高さだ。
「し、死んじゃった……?」
「仮にも英霊です。流石にそこまではいかないでしょう。もっとも、ダメージはすぐには抜けない筈なので、多少ながら時間は稼げます」
戦闘の高揚も冷めやらぬまま、セイバーは簡潔にそう述べると、いまだしゃがみ込んだままでいるのび太の隣へ歩を進める。
「それで、読めなかった字というのは?」
「え? あ。うん、これの……ここ」
士郎から託されたメモを受け取り、セイバーはのび太の指差したところに視線を落とす。
途端、セイバーの表情が呆れの混じった、何とも言えない微妙なものとなった。
そこにあった文字は……『教卓』。
「……ノビタ、これは『教卓(きょうたく)』と読むんです。3-Dの教卓の下」
「あ、あ~、『きょうたく』って読むんだ……じゃ、これは?」
セイバーの表情に気づかぬまま、のび太はメモ上の別の文を指し示す。
「……なんと読むと思います?」
書かれている文は『三階廊下の消火器の壁』。
「え? え、っと……さん……さん……した、の、け……け、けひき? ……の……」
しどろもどろに読み上げていくのび太に、セイバーはますますげんなりした表情となる。
あまりにも見事な解答のデタラメさに、頭を掻き毟りたくて仕方がないといった感じだ。
「……『三階廊下の消火器の壁(さんかいろうかのしょうかきのかべ)』です。最初の“さん”しか合っていないではないですか!」
「あぅ! ……で、でも、習ってない漢字が多いし……!」
「最初の『教卓』やこの『廊下』、『壁』は、まぁ百歩譲っていいとしても、『消火器』くらいは読めるでしょうに……。『けひき』は、流石にないと思いますよ……はぁ、もう少し勉強したらどうなのです? テストも0点ばかりなのでしょう?」
「あ、あは、アハハハハ……」
現代日本の小学五年生が、千五百年も前のイギリス人に呆れられながら漢字を教わるという、この果てしないまでの情けなさ。
セイバーはやれやれと肩を落として、のび太の頭をコツン、と軽く小突く。
それに対しのび太は、バツが悪そうに力のない笑いを返した。
まるで出来の悪い弟を教え諭す、世話焼きの姉みたいな構図である。
「とにかく、場所が解ったのなら、ライダーがダウンしているうちに手早く消してしまいましょう」
「う、うん、そうだね!」
セイバーの指示に頷きを返し、のび太は、一番手近な廊下の真ん中にある消火器へと足早に近づく。
(……あれ? なんでセイバーは、僕のテストがいつも0点だって、知ってるんだろ? 話した事あったっけ?)
ふとのび太の脳裏にそんな疑問がよぎるも、まずはこっちが先だと思い直して、消火器をどかしてその向こうの壁を調べてみた。
すると、床上十センチくらいの位置に、ぼんやりと発光している紋様があった。
発動前は魔術師でもない限り探り当てる事は不可能だが、結界発動後は基点が活性化するため光を放つので、魔術資質のないのび太でも視認する事が出来る。
「あっ、これだ! よぉし……!」
唇を舌で湿らせると、のび太は“スペアポケット”から“タイムふろしき”を取り出して基点を覆う。
そして数秒後にふろしきをどけると、基点はそこから跡形もなく消え去っていた。
「やった! あとひとつ!」
基点の消去を確認し、のび太が足を3-D教室へ向けようとしたその時、ガシャン、とガラスが砕け散る音が廊下に木霊した。
「――――へ?」
「ノビタっ!!」
音のした方へのび太が振り返るよりも早く、隣にいたセイバーがのび太の頭上を薙ぎ払っていた。
ガギン、とやたらと硬質な異音が、狭い廊下に反響する。
金属が何か固いものとぶつかり合う音だ。
「……え、まさかっ!」
甲高い金属音と同時に床に落ちた物を見ると、それはやけに見覚えのある杭のような釘であった。
自分に何度も襲い掛かってきていた、あの釘剣である。
ジャラリ、と鎖の音が鳴る。
釘が引き戻された先に視線を移すと、荒く息を吐いているライダーが割れた窓を背に、粉々に砕けたガラスの破片の上に立っていた。
地面から三階までを一気に壁伝いに駆け上がり、窓を突き破って戻ってきたのだ。
「ちっ! 思いの外、立ち直りの早い……!」
「はぁ……はぁ……流石に、数十秒は……動けませんでした、が。その矮躯(わいく)で、恐ろしいまで、の怪力……ですね」
「……褒め言葉と、受け取っておきましょう」
一応、見た目可憐な少女であるセイバーに対して、力が強いと評するのは流石に失礼に値するだろう。
だが、ライダーにとってはこれ以上ないくらいに、正直な感想であった。
いくら耐久力がそこまで高くないとはいえ、拳一発で自分をあっさりとダウンさせるとは。
いまだに激しく疼く脇腹の痛みを強引に捻じ伏せ、ライダーは息を整えながら、両手の釘剣を構え直す。
「はあっ!」
「ふっ!」
そして二人は、どちらからともなく一歩踏み出し、互いに獲物をぶつけ合う。
セイバーは己が身で以て敵を完全に釘づけにし、のび太を護るため。ライダーは変わらず、主命を全うするため。
太陽を動力源としてでもいるかのような、鮮烈な威圧感と豪力で刃を振るう剣士に、騎乗兵は表情を僅かに歪めながらも驚異的な粘りを見せる。
釘がアイスピックと化しそうなほどに火花を噴き上げるが、しかしそれでも折れずに繰り出される斬撃を逸らす、逸らす、逸らす、逸らす、逸らす。
その綱渡りだが、絶妙とも呼べる捌き様に、セイバーは僅かに瞠目する。
ライダーという、近接戦闘において不得手に近いクラスの英霊でありながら、フルブーストの自分を相手にここまで食い下がる。
だが、それは奇しくも、セイバーのこの戦闘における勝利条件を満たす事となった。
「今、のうちに……!」
ジリジリと、二人の死闘の場からゆっくりと後退っていたのび太が、3-Dの教室へ向けて一目散に走りだす。
ライダーはセイバーの対処に手一杯で、今なら妨害はない。
昼休みも終わりかけで、廊下に人がほとんどいなかったおかげで今まで意識していなかったが、教室に入るという事は二階で見た、あの死屍累々の惨状をもう一度見るという事になる。
それを思うと手足が恐怖に竦むが、今この場で自由に動けるのは自分しかいないのだ。
右手の“タイムふろしき”をギュッ、ときつく握りしめる。
――――頼む!
――――ノビタ、急いでください!
たとえどれほど怖くても、自分を信じて任せてくれた、その信頼に応えたい。
「……いっ、行くぞっ!」
一度逃げだし、再び立ち向かったあの夜と同じ言葉。
のび太の身体は、恐怖をも上回る熱い感情に突き動かされていた。
やがて、学校を覆っていた紅い牢獄のような結界は、陽炎のように揺らめいたかと思うと二度、三度と明滅して消滅し、元の真っ白な穂群原が姿を現した。
穂群原を舞台とした攻防は、第二局面に突入する。