怪物は、己が状況をよく理解出来ていなかった。
把握しきれているのは、ほんのわずかな事だけ。
『暴れろ』『怒れ』『吼えろ』『狂え』などの身を焦がすような衝動とそして……微かに感じる、身体を食い破ろうとするかのような得体の知れぬ『疼き』。
ただそれだけであった。
元々この怪物には理性など殆どない。あるのは悪鬼羅刹の如き、凶暴凶悪な本能のみ。
だが知性だけは……本能の内に織り込まれた、付随物に近いものだが……多少ながらも備えていた。
その知性が訴えかける。
こちらに向かって空を駆ける、あの二名は己にとってさほどの脅威足り得ないと。
あの常識の枠を置き去りにしたかのような獲物を振るわれれば成る程、この身体を砕く事くらいは為せるだろう。
だがそれだけだ。
風の竜たるこの身は『本体』であり、同時に『端末』でもある。
たとえこの身が破壊されようと、もう一つの己ともいえる頭上の低気圧がある限り、即座に再生が可能。
そしてあの程度の代物では、両方を撃滅する事は到底不可能である。
怪物は二人から興味が失せたように視線を逸らすと、己の遥か下に点のように存在する者達を睥睨する。
赤銅の少年、銀の騎士、紅の乙女、白の少女、二対の従者……地を這う事しか出来ない、かの者達ではかつての力を取り戻しつつある己の障害とは成り得ない。
ただ、やはり鬱陶しい……一度目は凌がれたが、次で完全に終わるであろう。
そんな余裕を湛えつつ、怪物はスッと何気なしに視線を横にずらして……、
―――――心臓を鷲掴みにされたかのような、途方もない危機感に襲われた。
「小僧、そのまま奴の右側に回れ! 私は左側面から尾を狙う!!」
「あいよ! なら俺は頭だなっ!」
前方から声が響いてくるが怪物の耳には届かない。
怪物の目と意識は……地上に存在するある一つの存在に、どうしようもなく釘付けにされていた。
――――まずい。“あれ”は、“あの存在”だけはまずい。
“あれ”は己の存在を揺るがすものだ。
かつての記憶……己が滅された、あの時の生々しい感覚が怪物の脳裏にまざまざと蘇る。
あの時と今は違う。だが“あの存在”の所為で、このままではあの時の焼き直しだ。
だが、いったい何故そんな事が解る?
“あれ”は初めて目にするもの、しかしどういう訳かこの身は“あれ”を知っている、そして恐れている。
何故知っている?
“あれの所持者”に、見覚えがある所為か?
……いや、それとも。
――――元になった『狂戦士の器』と器の中のエーテル……そして“あれ”を所持している者の『記憶』から、この身が『再現』された所為か?
……待て、どうしてそんな事が解る?
そんな覚えも記憶もない。だが、どうしてそんな事を知っている?
いったいこの身に何が起こっている?
先程からどんどんと強さを増してくる、この疼きはいったい何なのだ?
どうしてこの疼きは、“あれ”と“あれの所持者”に反応するかのように発せられているのだ?
何故、どうして、何故……??
『――――――――――――――――!!!!』
気炎を上げ、大気を鳴動させる事で怪物は無理矢理ループする思考を断ち切った。
疑問を感じている場合ではない。
とにかく、“あれ”を何とかしなければならない。
“あれ”の存在がある以上は、この身を粉砕される事さえ致命傷となりかねない。
だからこそ、疾く迅速に、潰さなければ。
即断即決。
警鐘を鳴らす本能のままに、怪物は悪寒の根源を全力で以て排除せんと、再びの突撃の体勢を整える。
力を取り戻しつつある今なら防がれも凌がれもせず、一瞬で片が付く。
身を縮め、全身を発条(ばね)のように収縮させると一気に身体を伸ばし、反動によって弾かれたように地上へと急下降した。
――――――が。
「――――タイミングを合わせろ、小僧!」
「こっちは素人だぞ、お前が合わせろアーチャー! うおおおおぉぉぉっ!!!」
全てが遅きに失した。
気づくのが一瞬、ほんの一瞬だけ遅かったのだ。
もう少しだけ早くそれに気付けていたのなら、結果は違っていたであろう。
あるいは空を飛ぶ小うるさいハエどもを即座に叩き落していたら、もしかしたらここまでの窮地には至らなかったかもしれない。
だがそれは今更の事、この帰結が覆る事はない。
凄まじい速度で大地へと迫る己が身の右舷・左舷側から迫る大質量の二対の剣。
レーザーが照射の中途で軌道を変えられないように。
もはや避ける事も、標的を変更する事もままならない。
「「――――いけえええぇぇぇぇ!!!」」
発生する衝撃波も大質量の前には無力。
白銀の刀身と武骨な岩塊が、振るうというよりぶつかるような形で竜の身体を三つに分断した。
『――――――――――――――――!!!!』
断末魔の絶叫。
耐えがたい苦痛などは怪物の存在の特性上さほど感じないが、それでもかなりの衝撃は走る。
故に怪物は叫び声を上げた。
「よぉっしっ! ……って、あれ!? こ、高度が落ちる!? なんで!?」
「小僧! 剣を捨ててさっさと地面に降りろ! “タケコプター”が過負荷でオーバーヒートを起こしていてもう持たん! 墜落死したくなければ早くしろ!!」
「なにぃ!? ……っと、わ、解った!」
獲物をポイ捨てし、強風と制御不良にヨタつきながらも一目散に地面目掛けて降下する二人。
分かたれた身体が崩れ落ちる中、それを視界の片隅に収めながらも怪物はある一点を見据えていた。
その視線の先には、地上にいた残る最後の一人が。
眼鏡を掛けた、どこにでもいそうなひどく凡庸な少年……のび太と、そして。
その片方の腕にはめられた腕輪――――怪物に脅威を感じさせたひみつ道具――――“精霊よびだしうでわ”があった。
ドクン、と怪物は己の体内で、何かが大きく脈動するのを感じた。
「や、やった……!」
「よっし、上手く三つに捌いたわね!」
「ギリギリのタイミングでしたが……どうにか、間に合いましたか」
「……デタラメね、もう。色々と」
ドゥンッ、という凄まじい音と震動を巻き起こし、超重量の二振りの剣が地面に追突する中、思い思いに心情を吐露する地上組。
歓喜、安堵、呆れと反応は様々だが、ともかくのび太の作戦における第一段階はクリアした。
次は肝心要の第二段階……しかしここが最も難しいところであり、それ以前にこの段階はある意味、バクチであるとしか思えない。
士郎や凛が当初渋ったのもそのためだ。
だが既に賽は投げられた。もはや後戻りは許されない。
「のび太、解ってるわね……? ここまで来て、失敗は出来ないわよ?」
分断された天空の怪物を視界に収めながら、凛はのび太に忠告する。
言った事には責任を持て、との意思を言外に乗せて。
「……大丈夫です!」
だがのび太はそれに微塵も臆する事なく、その場から一歩踏み出すとキッと真剣な面差しで空を見据えた。
そして徐に腕輪の嵌められた方の手に、もう一方の手を重ねる。
のび太の思いついた策。
それは一言で言ってしまえば、初めて怪物と対峙した時の“再現作業”だ。
まず作戦の第一段階、それは怪物の身体を三つに寸断する事。
過去、のび太が『封印の剣』によって行ったこれを、“ビッグライト”で巨大化させた『大・電光丸』とバーサーカーの斧剣で代用した。
怪物は過去に一度、“ビッグライト”で巨大化したドラえもんの“空気砲”で粉微塵にされた事があるので、神秘と魔力の込められた大質量のそれらなら『封印の剣』の代用品として使用しても問題ないだろうと踏んでいた。
もっとも、のび太が提案したのは『大・電光丸』一本のみで行う実行案だったのだが。斧剣が追加されたのはアーチャーのアドリブである。
そして、第二段階とは……。
「――――来い、“台風の精”……!」
のび太の手が腕輪の表面を擦り、声に反応して腕輪から一筋の煙が立ち上る。
“精霊よびだしうでわ”
それは、腕輪を擦って『○○の精』などと唱えれば、それに応じた人工の“精霊”を呼び出せるというひみつ道具。
のび太はこれを使って、怪物の“中”にもしかしたらいるかもしれない、かつて失ってしまった“存在”を呼び出す事を思いついた。
だが、これで呼び出される存在はあくまで道具の力によって現象から具象化された存在である。
のび太の思うそれである事は、論理的にまず間違いなくあり得ない。
しかし、のび太はその『≒0%』の可能性を真っ向から蹴飛ばして、余人には理解不可能であろう絶対の確信を持って挑んだ。
何故ならそれは……きっとその“存在”とのび太との間に、目には見えない強い繋がりがあるから。
自分がその名を呼ぶのなら、きっと必ず応えてくれる。
そうのび太は強く、強く信じている。
だからこそのび太は力の限り、天を貫けとばかりに声を張り上げる。
ありったけの力と感情と……、願いを籠めて。
「――――――フー子おおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
“彼女”の名を。
――――――――フウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ…………!!!
そして、のび太にとって懐かしい“彼女”の声が、嵐吹き荒ぶこの地に響き渡った。
「えっ……な、何よ今の声?」
「あっ!? お、おい遠坂、あれは!?」
「……オレンジの、玉?」
凛達の下に合流した士郎の指差した先。
分かたれた怪物の三つの身体の内の一つが、淡く輝くオレンジ色の玉へと変化していた。
宵闇よりもなお暗いこの場において、太陽にも似た光を放つそれは見る者に安堵感と明るさを齎さんばかりに周囲を煌々と照らし出す。
暴風は一挙に鳴りを潜め、微風と言って差し支えないものへと様変わりしている。
オレンジの玉はその場でクルリと円を描いたかと思うと、次の瞬間にはそのまま一直線に、のび太の方へと脇目も振らず飛翔してきた。
「こ、こっちに来た!?」
「あ、あぁ……!?」
慌てふためく士郎の横で、のび太は大きく目を見開く。
やはり自分の直感は間違ってなかった。
次第に昂ぶり始める感情に身体を細かく振るわせながらも、のび太はそれを受け止めようと手を広げる。
英霊二人が僅かに身構える中、オレンジの玉は“精霊よびだしうでわ”から湧きあがった煙の中へと飛び込むと煙諸共パン、と閃光弾のように眩い光を発して弾け飛んだ。
そして次の瞬間。
「――――のびたっ♪」
光の中から幼い“女の子”が姿を現し、そのままのび太に抱きついてきた。
「「「「「――――――へっ?」」」」」
全員の目が点になる。
「フ、フー子……なの?」
「フウッ♪」
その中において、最も衝撃の度合いが大きかったのはやはりのび太であった。
先程とは違った意味で、目を皿のように大きく見開いている。
ニ、三秒ほどそのまま固まっていたが、やがて信じられないものでも見るかのように、おそるおそるのび太は腕の中に収まる女の子に視線を向けてみた。
「のびた……あいたかった」
のび太よりも頭一つ分ほど小さく、およそ二~三歳は年下であろうか。
薄いオレンジのショートカットに、青い空と澄んだ風を思わせるような曇りのない、綺麗なブルーの瞳。
目鼻立ちはすっきりと整っており、将来はかなりの美人になるであろう事が容易に想像出来る。
若干大きめの、ゆったりとした浅葱色のローブを身に纏い、のび太の胸に頬をスリスリと押し付けるその表情は心底嬉しそうである。
パッチリとした大きな目をこれでもかとばかりにゆるく細め、ともすれば猫みたいにゴロゴロと咽喉を鳴らさんばかりだ。
「えっ、な、なんでフー子が女の子に!? い、いや女の子なのは知ってたけど……どうして人型なの!? それに言葉も喋ってるし……!?」
「フゥ? ……ん~、それ」
「へ? それ……って、“精霊よびだしうでわ”? ……あ!」
いまだに笑顔の女の子……フー子の指差したものを見てのび太は怪訝な表情になったが、ふとある事に思い至った。
“精霊よびだしうでわ”によって呼び出された精霊は、基本的に人型で現れる。
火の精しかり、のび太がかつて呼び出した雪の精しかりだ。
今回のび太が腕輪によって呼び出したのは、実はフー子とはまったく関係のない“台風の精”であった。
だが偶然か必然か……いや、諸々の関係を鑑みればきっと後者であろう……のび太の呼びかけを切っ掛けとして怪物から解き放たれたフー子は、腕輪から発せられた“台風の精”を人型として具象化する煙の中へと飛び込んだ。
そうした結果、煙の影響を受けてフー子が“台風の精”として人の姿を象り、のび太の目の前で復活を果たした。
とどのつまりは、そういう事である。
「のびた。ボク、ずっと、のびた、よんでた。のびた、きづいてくれた」
「え、いや……そういう訳じゃないんだけど。ただ、この腕輪を見た時、なんでかフー子を呼び出せるって思ったんだ。それってもしかして、フー子が僕を呼んでくれてたから?」
「フゥ♪」
「……そっか。あははっ!」
舌足らずな口調でたどたどしく、だが一切の屈託のない笑顔で頷くフー子。
のび太は込み上げる感情のままに、フー子を両の腕でギュッと抱き締めた。
視界が涙で滲むが、そんな事はお構いなしに。
万感の思いを込めた、のび太の歓喜の笑い声が響いた。
「……盛り上がってるトコ悪いんだけど、アンタらね。まだ終わってないのよ?」
「へ?」
「フゥ?」
傍から聞こえた、呆れ混じりの的確なツッコミの声に二人はようやく現実に引き戻された。
顔を向ければそこにはポカンとしている士郎、額を抑える凛、難しい表情のセイバー、気を抜いていないアーチャー、そして展開についていけずにどこか諦観気味のイリヤスフィール。
一応事前に簡単な説明を受けてはいるものの、理解を超えた超展開続きの渦中においてやはり全容を掴み切れてはおれず、疑問の種は尽きないようだ。
だが質問も追究も一旦棚上げ。状況はいまだ気の抜けるようなものではない。
混乱と謎がラッシュ時の立体交差点なみに錯綜する中でも、優先順位は忘れられてはいない。
「アレ見なさいなアレ。あのマフーガとやら、まだくたばっていないのよ。そんな事してる場合?」
「感動の再会……と言うべきなのか?……もいいが、少年よ。まずあれをどうにかせねば話にはなるまい? 気持ちは解らんでもないが、な」
「あ……、そ、そうですね。ごめんなさい」
「……ごめんなさい」
二人揃って、ションボリとしながら頭を下げる。
そのおそろしく素直な反応には、流石に罪悪感が湧いたのか凛とアーチャーは気まずそうにツツ、と目を逸らした。
『――――――――――――――――!!!!』
凛の指し示した先では、後に残った怪物の身体のバーツと破片が再度集束。渦を成して組み合わさり、再び竜の姿を形作っていた。
赤々とギラつく獰猛な眼光はそのまま……いや。
以前よりも、どこか禍々しさが増していた。
……とはいえ。
「しかし……ノビタの言葉通りですね。その娘が怪物の身体から離れてここに現れた瞬間、明らかに台風の力が弱まりました」
「ああ。風も暴風ってほどじゃなくなってるし、雨脚も雷もひどくなくなってる。ひょっとしてそのフー子って娘、マフーガの重要な部分だったのか?」
「あ、はい。フー子はマフーガの封じられていた珠の内の一つで、そしてマフーガの一部で……えーと……ねえ、どこの部分だったの?」
「ん~……ちせい?」
「ちせい……知性? だそうです」
コテンと首を傾げたフー子が発した答えに、一同は納得したような表情になる。
今の怪物は、前のものとは明らかに異なっている点が一つある。
それまでの怪物はのび太達を吹き飛ばした後、空を悠々と旋回し、力を蓄えるなどといった余裕のあるところを見せていた。
だが今は上空でのたうちまわるように荒れ狂い、奇声のような咆哮を上げている。
その姿からは理性や知性の欠片も感じられない。
凶暴な本能を持て余し、湧き上がるどす黒い情動に翻弄されている。
知性を司っていたフー子が削ぎ落とされた事で、怪物は本能のストッパーを失ってしまったのだ。
フー子を奪われ、単純計算でおよそ33%力が減少したとはいえ、いまだ脅威の存在である事に変わりはない。
しかも己が意思で感情の制御すらも不可能と化してしまったとなれば、もはやメルトダウンを起こした原子炉なみに始末が悪いものへと成り下がっている。
「力を落としても、前以上に凶暴化されたんじゃねぇ……。タチが悪すぎよ。これは早いトコ片を付けないと……」
「そうですね。時間が経てば、取り返しのつかない事にもなりかねません」
セイバーはそう告げると腰を落とし、不可視の剣を顕して構えようとする……が。
「…………ッ!? くっ」
「? セイバー、どうしたの?」
「いえ……」
何故かそのままギシリと硬直し、動きを止めてしまった。
不思議に思ったのび太が声を掛けるが、セイバーは次第に俯いていく。
そしてきっかり三秒後、セイバーの口が躊躇いがちに開かれた。
「……斃せ、ません……!」
「……は?」
「今の……私の宝具では、あれを、討ち果たせないのです」
「え……ちょ、ちょっと!? それってどういう事よセイバー!?」
「……彼我の差が、思ったより遠い。僅かに、威力が足りないのです。ノビタの策で力は確かに削がれましたが、今宝具を解放したとしてもおそらく……奴は生き残るでしょう」
「そ、そんな……!」
一同の背に、絶望が重くのしかかる。
ここまで来て致命的な、想定外のアクシデント。
セイバーの計算では、今の段階で宝具を解放して怪物を殲滅出来る確率は僅か十%。
ただしこれは、己が無理なく現界出来るところまで魔力消費を抑えた場合の数値である。
魔力を当初の予定よりも注ぎ込めば宝具も威力を増すため、確率はまだ上昇するが、それではセイバー自身が魔力枯渇で消滅してしまう。
凛の予備の宝石を余さず注ぎ込んで宝具を放ったとしても、殲滅可能な威力とまでには至らないであろう。
燃費の悪さが尋常の域ではないのだ、このセイバーの宝具は。
ここまで追い詰められた原因は、怪物が予想以上に力を取り戻していたという事。
知性の象徴でもあるフー子を奪われ、力が激減した上でもなお、勝ちの目を引き寄せるくらいに。
腐ってもマフーガは神話級の魔怪竜である、その程度の事が出来ずしてどうして封印など施されよう。
恐るべきはその予想の斜め上を行く底の知れなさ。
やはりこの怪物は、劣化していたといえども格そのものが段違いであった。
「……進退窮まった、か」
唸るようなアーチャーの声。
劣勢どころかまさに崖っぷちの状況。
退く事は出来ぬ、だが踏み出す事も出来ぬ。
この戦いにおいて誰一人欠ける事なく生還出来る可能性は、ほぼゼロと化した……
「……だいじょうぶ」
「え?」
……筈だった、が。
その絶望の闇に光明を射し込んだのは、他ならぬ台風の子どものこの一言であった。
フー子の持つ、幼くも柔らかな声音と雰囲気に、ほんの少しだけ凍てついていた空気が緩む。
宝石のように澄んだ青の瞳をのび太と通い合わせ、口遊(くちずさ)むようにこう告げる。
「かてる」
「勝てる……って、フー子?」
「ボク、のびた、まもる。みんな、まもる。あいつ、やっつける。だから……」
「ッ!? ま、まさかっ、ダメッ! ダメだよフー子!! せっかく……せっかくまた会えたのに!?」
のび太の脳裏によぎったのは、あの時の光景。
のび太達を護るため、自らの命を投げ打って怪物に特攻を仕掛け散った、あの悪夢のような記憶。
心を壊れんばかりに掻き毟られ、やりきれない気持ちを抑えきれずにただ慟哭するしかなかった。
そんな事はさせられない、させる気など毛頭ない。
だがそんな心配を余所に、フー子はプルプルと首を振る。
「ちがう」
「……へ? 違う?」
「のびた、かんがえる、ちがう。ボク、しなない」
「そ、そっか……あぁ、よかったぁあ。……あれ? でも、じゃあどうするの?」
一同の視線が集まる中、フー子は「ん~……」と口元に指を当てて少しの間、考え込むような素振りを見せると、
「フウ♪」
「……はい? 私、ですか?」
「フ!」
ニコリと微笑みを浮かべながら、セイバーを指差した。
突然のご指名に、まさか自分に水が向けられるとは思わなかったセイバーはキョトンとした表情を形作ったが、こいこいとフー子が手招きするのでとりあえずそちらへと向かう。
するとチョイチョイ、とのび太とセイバーにお互い向かい合うように、と手振りでジェスチャーしたので、二人は首を傾げながらも言う通りに向かい合った。
それを確認したフー子はフワリ、とローブを靡かせ、まるでそれがごく当然の事であるかのように宙に浮かぶ。
フー子をよく知るのび太以外の人間がその光景に一瞬ギョッとしたが、フー子はそれを知ってか知らずかフワフワとセイバーの方へと近寄っていく。
「おねえちゃん、かがむ」
「あ、はい……」
のび太よりもセイバーの方が身長は高く、その差は十センチメートル以上ある。
それがフー子としてはダメなようで、ペチペチとセイバーの頭を小さな掌で叩いた。
フー子が浮いた事に戸惑いつつも、見ていて微笑ましくなるような幼い子供に逆らう気など毛頭ないセイバーはその通りに膝を曲げ、のび太と同じ目線になるまで身体を落とした。
……非常に今更かつ改めて言うが、セイバーは世界中探してもなかなかお目に掛かれないであろうほどの、頭に“超”が付く美少女である。
そんな相手と見つめ合うようなこの状態に、のび太の頬がほんの少しだけ赤らんだ。
「そ、それでフー子。ここからどうするの?」
「フゥ? フ!」
慌てたようにフー子に伺いを立てるのび太。
フー子は二人の間に宙に浮いたまま、セイバーの頭に置いた方の手とは反対の手をのび太の頭の上に置く。
やはりその意図が解らず、のび太とセイバーはお互いに目を見合わせ、二人同時に疑問符を浮かべる。
しかし意外にも答えはすぐに出た。
――――この場の誰もが予想しえなかった、ある意味ぶっ飛んだ形で。
「ちゅー」
「「――――――――んむっ!?」」
次の瞬間、フー子の手が内側に引っ張られ、互いに正面からぶつかるような形でのび太とセイバーの唇が重なり合った。
「……え!?」
「は!? ちょっ!?」
「むぅ……?」
「うわー……」
いきなりの事に慌てふためく外野陣。
だが当事者達の衝撃度合いはそんな程度では済まなかった。
(……へ? あれ?)
のび太は傍目からも解るほどに目を白黒させ、一体全体何がどうなっているのかはっきりと把握出来ていなかった。
解るのは、唇に感じる柔らかくも熱を帯びた、自分とは違う人間の生々しい感触だけ。
脳髄がピリピリと焼けつくような感覚。ドクン、とのび太の心臓が一際大きく跳ね上がる。
(今……はい? 私はノビタと……キスを?)
それはセイバーの方も同じだったようで、伝わってくるのび太の感触をただ呆然と、放心したように感じているのみであった。
一秒か、三秒か五秒か……いや、もしかしたらゼロコンマ単位の間だったかもしれない。
やがてして、二人の唇がフッと離れた。
今まで行っていた行動をまだ処理しきれていないのか、ぼんやりと顔を見合わせあう二人。
顔はお互いリンゴのように真っ赤である。
……しかし、事態はそれだけでは終わらなかった。
「のびた、ちゅ~♪」
「んむぅっ!?」
今度はフー子がフワリとのび太の前に現れたかと思うと、いきなりその唇を唇で塞いだ。
「「「「…………!?」」」」
外野陣はもはや声もなく、水面に浮かんだ鯉のように口をパクパクとさせるのみ。
セイバーに続き、フー子とも口づけを交わしてしまった。
再度感じる熱い感触に、のび太の頭はパニックを通り越して既にパンク寸前である。
「フゥ♪」
唇を離した時も、フー子は相変わらずニコニコとしたまま。
何のためにこんな事をしたのか、その真意がまったく読めない。
……だが。
(――――――え?)
のび太とセイバー。
(――――――これは?)
のび太とフー子。
(――――――ん♪)
この二通りの組み合わせの間に、何かが身体の奥底でカチリと繋がれたのをのび太は、はっきりと感じた。
ドクン、ドクンと先程とは違った意味で高鳴る心臓。
膨大な熱がカッと身体の芯から湧き上がり、肉体を突き破り四散させんばかりの圧力が身体中のあらゆる箇所にギシリと走る。
(……ッ!? なっ、なに、コレ!?)
何かが自身の内から込み上げてくるこの得体の知れない感覚を、のび太は訳も分からず受け入れ……そして、“ソレ”は目覚めた。
「――――――うあああああぁぁぁぁぁぁぁあああっ!!」
「っな!? 何ですか……この、異常な魔力は!?」
「フウ♪」
突如巻き起こる魔力の嵐。
三人を中心として迸る魔力の流れが渦を巻き起こし、閃光が周囲の闇を駆逐して全てを照らし出そうとスパークする。
木々は怒涛の魔力流に煽られてざわめき、撒き散らされる魔力による衝撃波が轟々と耳障りな音を辺りに反響させる。
「う……わっ!?」
「な、によこれ……!? 物凄い魔力!」
「ぬぅぐ!? 凄まじい圧力だな……これは!」
「……あら? でも、この魔力って……」
「すごく独特。普通の魔力と感触がちょっと違う」
「……ぅ、そ、れに、魔力が、“三つ”、存在しています」
水を満面に湛えたダムが決壊したかのような、膨大な魔力が齎す圧力に士郎達はおろかダウンしていたセラまでもが、たじろいだ。
ビリビリと肌を通して伝わる感覚が、この普通ならあり得ないだろうこの異様な光景が現実の物なのだと教えてくれる。
そして最後のセラの言葉……その事実が示すものは、ひとつ。
セイバー、フー子、そしてのび太から……これだけの莫大な魔力が発生されているのだ。
(いったなにが……!? 私の魔力量が増加して……っ、違う! “増幅”されている!?)
混乱の中、セイバーは己が身に起こっている変化に戸惑う。
自身にとって心許なかった筈の蓄積魔力量が、堰を切ったように爆発的に増幅されているのだ。
しかも今なお、それこそ際限など知った事かと言わんばかりに継続中ときている。
今ならば、たとえ十回以上宝具を解放しようと、自身の現界閾値以下まで魔力が枯渇するなどあり得ないだろう。
そして、まるで自身の中に潜む何かが猛り狂っているような、言い知れぬ力の漲りと異常な高揚感。
セイバーはこの感覚に覚えがあった。
(バーサーカーと初めて対峙した、あの時と同じ……ではない、それ以上だ! ノビタと口づけを交わしただけで、どうしてこんな……いや、待て。そんな事より)
ハッと、何かに気づいたかのようにセイバーはのび太の方を見やる。
「うぁ、あぁあ……! な、なに、これ!? ぅう、ぐぐ……!」
のび太は目を固く閉じ、歯を食い縛りながら己の内から溢れ出す力を必死に耐え忍んでいる。
そんなのび太の姿を視界に収めながら、セイバーはそっと目を閉じると己の内側に意識を向ける。
(……これは、ラインと……ッ、まさか!? という事は、この現象は……“共鳴”!?)
その時、セイバーはこの異常の原因を理解した。
己の中に存在する、とある“因子”。
それがキスによって繋がれたラインを通じて、のび太の奥底に潜む“なにか”と惹かれあい、互いが互いを刺激し合って共鳴反応を引き起こしているのだ。
バーサーカーと対したあの夜、セイバーの身に起きた変化はこの反応の劣化版。
ラインによる繋がりこそなかったものの、密着状態での視線の交錯と互いの意思の同調が不完全ながらも共鳴を引き起こした。
セイバーの傍らの宙に佇むフー子からの魔力の迸りも、セイバー達の物と質を同じくしている。
フー子ものび太と同じ、そしてセイバーと同じ因子を持っているのだ。
(疑問は多々あるが、間違いない。これは……)
セイバーは確信する。
のび太の奥底深くに眠り、セイバーとフー子との口づけによって完全に覚醒した、『莫大な魔力』を司る因子。
それは……。
「――――――“竜の因子”!!」
【蛇足】
その時。
「――――――ッ!?」
「ちょっと、速いよジャイアン……! って、あれ? しずかちゃんどうかしたの? 急に立ち止まったりなんかして……」
「あん? なんか忘れ物とか? のび太の家はもうすぐそこなのに……」
「ううん、ちょっと……。なんか、何かを横からパッと取られちゃったみたいな……そんな気がして」
「「はぁ?」」
「おぉ~い、皆! そんな道のド真ん中で立ち止まってないで、ついて来るなら早くしてよぉ~!!」
――――遠い異世界で、そんな事を呟いた小学五年生の女子がいたとか、いなかったとか。