「――――し、しずかちゃん!? なんでそんなムキムキに……それにどうしてぼくを追いかけてくるのさ!? って足速ッ――――っ、はっ!?」
がばと跳ね起きると同時に、はっとその目が開いた。
「……ゆ、夢?」
上半身を起こした体勢で、のび太の唇が動く。
「だった……のか」
つ、と視線を下に落とせばそこには布団があり。
枕元には見慣れた丸メガネ。
「っと」
横に目を移せば壁と、襖と障子。
そしてほのかに香る畳の匂い。
間違いなく、ここはどこかの家の一室であった。
「――――は、はぁあああ、よかったぁ……しずかちゃんがマッチョになって追いかけてくるなんて、そんな事あるはずないよね。ホント、夢でよかったぁ。いや、追いかけてくれるのは嬉しいんだけどさ、流石にアレはちょっと……」
額の汗を手で拭い、のび太は盛大に安堵の溜息を吐いた。
言葉尻から察するに、見ていた夢は乙女の尊厳もへったくれもないものであったようだ。
これまでの経緯を考えれば、ある意味仕方がない事なのかもしれない。
あんまりではあるが。
「ふぅ……それにしても、ここはいったいどこなんだろ?」
改めてのび太が周囲を見渡していると、襖の向こう側から声が響いてきた。
「――――ん? のび太君、起きたのか?」
「あっ、士郎さん?」
のび太がメガネを装着すると同時に襖が開かれ、その先に士郎が立っていた。
「じゃあここは……やっぱり士郎さんの家なのか」
「よかった、あの時いきなり気絶するもんだから心配してたんだが、その分だと大丈夫みたいだな」
士郎のその言葉に、のび太の首が傾く。
眉根が、不可解そうに歪められていた。
「あの時、って?」
「ん? もしかして……覚えてないのか、のび太君?」
「はぁ。えーと、たしか」
「い、いや、無理に思い出さなくていい! と、とにかく起きたんなら居間へ行こう! お腹、減ってるだろ?」
思い出そうと腕組みするのび太を、士郎が慌てて制止した。
彼の気遣いは、どこまでも正解であった。
「え、はい、まあ……っ!? う、意識し始めたら急に……お、おなか空いたぁ」
腹を押さえて呻くのび太。
昨夜から何も口にしていないので、胃の中はすっかり空であった。
遅れを取り戻さんとばかりに、ぐぅうっと盛大に腹の虫が鳴る。
「はは、これはまた凄いな。じゃあ行こうか。朝食用意してあるから」
「あ、はい……あれ? そういえば、今何時なんですか?」
「ちょうど朝の九時だよ。俺達はもう朝飯済ませちゃったから、あとはのび太君だけだ」
「俺……“達”? あの、もしかして凛さん達も?」
のび太の問いに、士郎が頷き返した。
「ああ。まあ、色々あってね。とりあえず、詳しい事は朝飯の後にしよう。まずはその喧しい腹の虫を鎮めないとな」
ちなみに布団は一片たりとも湿ってはいなかった事をここに記しておく。
「あ、これおいしい! ん、これもうまいや! これ全部士郎さんが作ったんですか?」
「今日は藤ねえも、どういう訳か桜も来なかったから俺一人で全部作ったよ。一人暮らしだから、これくらいはね」
目玉焼き、サラダ、味噌汁、炊き立てのご飯と、のび太は次から次へ口の中に放り込んでいく。
のび太の嫌いな物がメニューになかった事から、のび太の箸の動きは躊躇いがない。
居間には士郎とのび太の二人きり。
空腹も手伝い行儀悪く食事を続けるのび太を、士郎が対面からお茶を啜りながら眺めている。
「一人暮らし? そういえば、士郎さんのお父さんとお母さんは?」
「あー、俺は養子……貰われっ子なんだ。それで俺を引き取ってくれた爺さん、いや養父(オヤジ)も数年前に……ね」
ぴたり、と忙しなく動いていたのび太の箸が止まる。
その表情はしまった、とばかりのしかめっ面であった。
「あ、その……ご、こめんなさい」
「いいって。気にする事じゃないさ。それより早く食べちゃいな、味噌汁冷めるよ」
「あ……はい、すいません」
もう一度頭を下げ、気を取り直して今度は幾分落ち着いた様子で、のび太は食事を再開する。
そんなのび太を眺める士郎の目は、どこまでも穏やかであった。
「……あれ? 『爺さん』って……う~ん、これどこかで聞いたような?」
「ん、どうかしたか?」
「あ、いや、なんでも」
ふと、そんな疑問が脳裏を掠めたのび太であったが、良質の食事に没頭するあまり、ものの三秒ほどで頭の中から消え去ってしまった。
「あら、のび太起きたの?」
ちょうど、のび太が食事を終えた直後、凛が居間へと入ってきた。
寝不足なのか、目の下には微かにクマが出来ており昨夜のような覇気も薄れている。
「おや、もういいのですか」
凛の後ろには、白のシャツに青いスカート、黒のタイツを身に纏ったセイバーがいた。
あの物々しい装いではなかった事に、のび太の目は意外そうに見開かれていた。
「セイバー、その服……」
「ああ、リンがくれたものです。流石にずっとあのままではマズイという事ですので」
「それはそうでしょ。セイバーは他のサーヴァントみたいに霊体化出来ないんだから、せめて普通の服を着て一般人の目を誤魔化す必要があるの」
「霊体化……? ああ、そういえば昨日そんな事言ってましたっけ。でもセイバー、その服似合ってるね」
「……あ、その……どう、も?」
のび太の褒め言葉にも、セイバーの返答は歯切れが悪かった。
こういう恰好にはあまり慣れていないせいか、どう反応すればいいのか解らないようだ。
その間に、士郎が人数分のお茶を用意し、四人で居間のテーブルを囲む形となった。
「あれ? おじさ……じゃなかった、アーチャーさんは?」
「アーチャーなら霊体化して屋根の上で見張り番よ。というかのび太、いい加減アーチャーを“おじさん”って呼ぼうとするの止めなさい。ああ見えて結構繊細みたいだから、今度それ聞いたらたぶん、アイツ泣くわよ」
泣くだけで済めば御の字かもしれない。
「さて、まずは昨夜の事から話そうかし……って、なによ士郎?」
茶を一口啜り、話を切り出そうとした凛の袖を、隣の士郎が引いて止めた。
ついでにセイバーに向かって手招きをする。
「はい?」
首を傾げつつ、セイバーは彼の方へと膝を寄せる。
お呼びのかからなかったのび太の顔は、狐につままれたような表情となっていた。
「あの、どうかしたんですか?」
「ん、いやちょっと……ちなみにのび太君。昨日の事、どこまで覚えている?」
「え……っと、たしか」
士郎から確認の言葉が飛ぶ。
のび太は額に指を当てて考え込み始めた。
「アーチャーさんと一緒にバーサーカーの剣をへし折って、それからパンチでセイバーに攻撃してきたバーサーカーに“ショックガン”を撃ったら一瞬だけ効いて、あとは……」
片手で指折り数えながら、のび太は記憶の底を浚う。
だが、ややもしてふと、動きが止まった。
「あれ? それからどうなったんだっけ?」
「はいそこでストップ。今からその後の事を説明するから、そこからは思い出さなくていいよ」
「は? はあ……」
士郎の待ったに、のび太の思考が打ち切られる。
頭に『?』マークを浮かべる少年を尻目に、士郎は凛とセイバーに小声で耳打ちした。
「という訳なんだよ、二人とも」
「なにが『という訳』よ。今のやり取りだけで解る訳ないでしょ。ちゃんと説明しなさい」
士郎の耳に、凛の要求が飛ぶ。
彼女の声も、士郎に倣って小声であった。
「いや、つまりな……どうものび太君、セイバーがバーサーカーの首を刎ねたところの記憶“だけ”すっぽり抜け落ちてるみたいなんだ」
「は? まさかそんな事が……しかし、あの様子ではたしかに覚えていなさそうですね。でなければ十歳かそこらの子どもが、これほど落ち着いていられるとは思えませんし」
セイバーの相槌も、これまた士郎と凛に倣ったものであった。
人間の脳には『自己防衛機能』が備わっている。
これは、たとえばショッキングな出来事や耐えがたい恐怖に晒された際、過度のストレスから脳を護るため、無意識的にその記憶を改竄ないしは抹消してストレスをやり過ごすという物だ。
バーサーカーの首が大量の血潮と共に空中にすっ飛ぶなどというスプラッタを、のび太はその目でじっくり見てしまった。
小学五年生というメンタリティの弱さを考慮すれば、自己防衛のために記憶が跳んでしまったとしても不思議な話ではない。
逆に考えれば、“あの”バーサーカーを相手取った代償が一瞬に近い一場面の記憶の忘却(+気絶)という、たったこれっぽっちで済んでいるという事でもある。
普通であればトラウマになってもおかしくはないし、それ以前に小学生がバーサーカーという怪物に立ち向かう事などまずもって狂気の沙汰であろう。
その思いの外図太い一面に、果たしてこの三人は気づいているのかどうか。
「とにかく、そこのところだけには触れない事にしよう。下手に思い出させるのもアレだし、忘れてるのならそれはそれで問題ない事だし」
「そうねぇ……ま、そうしましょうか。もっとも、これじゃあこれから先がかなり思いやられるけど」
「下手に心に傷を負われるよりマシですから、私もそれに異存はありません」
こく、と三人が同時に頷いたところで状況は再開する。
結局密談の内容を知る事もなく、のび太は出されたお茶をぼんやり啜っているだけであった。
「え? 結局バーサーカーは倒せなかったんですか!?」
「結末を先に言えばそうよ。のび太のアシストでセイバーが“一太刀入れて”倒したんだけど、その後に蘇生……復活しちゃったの」
細々した描写を省きながら、凛がのび太の途切れた記憶の先を語る。
“復活”というくだり部分を聞いた瞬間、のび太はテーブルから身を乗り出していた。
「ふ、復活!? アレ、ゾンビかなにかだったんですか!?」
「だったらどれだけよかった事か……あのねのび太。一応言っとくけど、サーヴァントっていうのは基本的に神話とか伝説とかの、名のある英雄が召喚されるのよ。マスターが誰であれ、ゾンビなんて間違っても呼び出さないわよ。それにあんな強力なゾンビがいる訳ないでしょ。モノにもよるかもしれないけど」
お茶を啜りつつ、凛の口から溜息が漏れる。
そんな落ち着き払った凛とは対照的に、のび太は混乱の坩堝にはまり込んでいた。
年少の者には勿体ぶった語りのせいで、まるで事情の理解が追いついていない。
倒したはずなのに復活した。その事実が示すものを、凛は未だ提示していない。
おそらく凛の性格が無意識的にそうさせているのだろうが、小学生相手にはやや意地が悪いかもしれない。
「じゃ、どうして?」
「簡単に言うとね、アイツ命を“十二個”持ってたのよ」
かっくん。音にすればこうなるであろう。
のび太の顎が面白いくらいに落ちた。
「い、命が十二個!?」
「そうです。あのバーサーカーの持つ宝具……『十二の試練(ゴッド・ハンド)』によって、確実に絶ったはずの命が蘇りました」
「宝具、ってセイバーの持ってる見えない剣みたいなアレの事?」
「ええ。サーヴァントはそれぞれ最低一つ……あるいは多くて複数個、『宝具』と呼ばれる強力な攻撃手段を持っています。私は不可視の剣、あの晩いたランサーはあの紅い槍というように。そしてバーサーカーの宝具はその肉体……正確にはその中にある十二個の命だったという訳です」
「オマケにある一定水準以下の攻撃は全部無効化……それ以上の攻撃でも一度受けたものに対しては耐性がつく、つまり効かなくなるっていうデタラメなものよ。もっと正確に言うなら、たとえ死んでも十一回自動的に生き返るようになってるって事なんだけど」
「な、なにそれ」
二の句も告げなかった。
そんな規格外すぎる相手と命のやり取りをしていたのかと思うと、のび太の背筋に改めて冷たい物が走る。
知らず、唾を飲み込むのび太であったが、次に士郎が漏らした言葉がなによりも大きい衝撃をこの少年に齎した。
「で、バーサーカーの正体なんだけどな、イリヤ……あのバーサーカーのマスターの女の子の話によると、『ヘラクレス』らしいんだ」
「へ、『ヘラクレス』? そ、それって」
「うん……神話で出てくる、“あの”『ヘラクレス』だよ。のび太君が気を失った後、あの子が声高々に宣言していた。宝具の事も含めてな」
ヘラクレス。
ギリシャ神話最大級の英雄で、最高神ゼウスの息子である。
自分の妻と子を自ら殺した罪を償うために十二の難業を為し、不死身の肉体を得た。
ゼウスの妻であるヘラによって謀殺された後はオリュンポスの神々の末席に加えられたという。
のび太でも知っている超ビッグネームであった。
乗り出していた身体を引っ込め、のび太は放心したように元の場所に座り込む。
「そ、そんな……それじゃ僕たち、『ヘラクレス』と戦ってたの?」
「そういう事よ。しかも狂戦士と化した『ヘラクレス』とね。元々バーサーカーというのは、力の弱い英霊を狂わせる事で英霊自身をパワーアップさせるクラスなんだけど、それが『ヘラクレス』なんて……“鬼に金棒”どころの話じゃないわ」
「しかもな、のび太君……これは心して聞いてくれよ」
少々の間を置いて。
士郎が固い口調で重い事実を、ゆっくりとのび太に告げた。
「どうやらのび太君は……バーサーカーに目を付けられたらしいんだ」
信じられないとばかりに、のび太は目を合わせた。
士郎の表情は、とても冗談を言っているとは思えない、真摯なものだった。
それどころか、眉をこれでもかとばかりに顰めたかなり厳しい物であった。
「実はあの後にな……」
茶を一口啜って喉を潤し。
一拍の間を置いて、士郎が経緯を説明する。
『ふうん、やるじゃない。バーサーカーを一度だけとはいえ殺すなんて。ご褒美として、今日はここで退いてあげる』
『あ、それから……バーサーカー、お兄ちゃんが抱えてる気絶しちゃった男の子が気になってるみたい。くすくす。起きたらよろしく言っておいてね。わたしも興味あるし』
聞き終えて、のび太の喉が再びごくりと鳴った。
額から流れる冷たい一筋の汗が、彼の心情を物語っている。
「そう、言ってたんですか? あの女の子が?」
「ああ。口調は冗談を言ってるみたいだったけど、目は本気だった」
「その後、士郎がアナタを背負って全員でここまで戻ってきたって訳。これが昨夜の顛末よ。それで……のび太」
「は、はいっ!?」
きっ、と凛から真面目な視線を向けられ、反射的にのび太の背筋が伸びる。
凛はそれを気にする風でもなく、射抜くような眼光をのび太に突き刺しながら厳かに告げた。
「改めて言うわね。もう、アナタは後戻り出来ない。たとえ『嫌だ』と言っても逃げる事は許されない。アナタに与えられた選択肢はたった一つだけ。この狂った戦争の真っただ中で、力の限り『生き延びる』事よ。この意味、解るわね?」
「あ……」
――――このイカれた戦争のただ中で、誰よりも生き延びてみな。
あの夜の見知らぬ“誰か”の言葉が、のび太の脳裏にフラッシュバックした。
全身が粟立つ。
心臓が狂ったように早鐘を打ち始め、咽喉が干上がっていく。
実感を伴って、じわじわ顕れてくる“死と隣り合わせの世界”に、のび太は逃げたしたいほどの恐怖を覚えた。
昨夜の興奮した状態ならばいざ知らず、今ののび太は平常運転。
自らが選んだ運命の過酷さを突き付けられて、底冷えするような怖気に苛まれるのも無理はなかった。
「……はい、解ります。それにぼくはもうあの時、決めましたから。『助ける』って言ってくれた、士郎さん達の力になりたいって。だから……元の世界に帰るために士郎さん達と、この戦争の真っただ中を力の限り『生き延びて』みます」
それでも眼の輝きだけは色褪せず、のび太の決意は揺らがない。
誰よりも臆病で、弱虫。しかし根っこの方では優しい心を持っているのがのび太である。
自分自身の危機よりも、士郎達の危機こそがのび太にとってなによりの恐怖であった。
その恐怖を払拭するためならば、のび太はどんな困難でも立ち向かうつもりだった。
たとえ足が震え、怖気づいたとしても、なけなしの勇気を振り絞ってそこへ飛び込んでいこうという気構えがあった。
「……それに」
「それに、なに?」
「え? いえ、なんでも」
顔も姿も見せず、言いたい事だけ言い放って、なにもかもを煙に巻いて風のように去った、謎の人物。
言葉の真意を理解するには至らなかったが、きっと大切な事なのだという事だけは呑み込めた。
だからこそ、のび太は知りたかった。
あの声の主が告げた言葉が指し示すものを。
自分の世界への道のり、その行く手に待ち受けるものを。
そのためにも、逃げ出すつもりは毛頭なかった。
「――――ふぅん。アンタ、ホントに小学生?」
「え? はい……あの、なにか?」
「ああいや、そうじゃなくてね……セイバー、アナタなら解るでしょ?」
「ええ」
凛の言葉に、セイバーは深々と目を閉じ頷いている。
しかし、のび太は訳が解らない。
疑問符を頭上に浮かべたまま、視線を横へとずらしてみる。
「士郎さん。あの、どういう事なんです?」
「ん、まあ……のび太君は凄いなって事だよ。いっそ羨ましいくらいにさ」
「は?」
頻りに首を捻るのび太に対し、三人はただ薄く笑みを湛えてそれを見ているだけであった。
「……本当に、眩しいくらいに羨ましいよ」
ぽつんと漏れ出た士郎の言葉は、この場にいる誰の耳にも届く事はなかった。