「よぉジジイ、お楽しみのところワリィんだけどよぉ……ちょっとこの世から消えてくんねぇか?」
薄暗い……いや、文字通り闇に染まった石造りの地下室。
中には独特の湿っぽい空気、そして鼻が曲がりそうな凄まじい臭気が漂っている。
腐った死体でも置いてあるかのような、凄絶な腐乱臭。
一般人なら即座に鼻をつまみ、嫌な予感に苛まれ脱兎の如くそこから退避するだろう。
だが、ソレだけは違った。
鼻を覆う様子もなく超然と石畳の上に佇み、挙句嘲り笑いを浮かべ不遜な言葉を闇に向かって投げかける。
いったいどんな神経をしているのか。決してまともなものではない事は窺い知れる。
あるいは、これこそがソレにとっての『正常』なのかもしれないが。
「――――カカ、イキナリ失礼じゃのヌシは? 最近の若者は他人の家の尋ね方も知らんのか?」
もう一つ、今度はしゃがれた低い声が闇の石室に木霊する。
まるで百を超えた老人のような声。この地下室の異様な雰囲気と相まって壮絶な怖気を誘われる。
だがソレはまるで怯えた様子を見せず、むしろ愉快そうに凶悪な笑みを浮かべた。
「あん? 知るかんなモン。第一こんな地下室に玄関なんてあるわきゃねぇだろうが。で、返事は? 『はい』か? 『Yes』か?」
あくまで挑発する姿勢を崩さない、どこまでも傲岸不遜な言動。
しゃがれ声は今度は震えるような嗤い声を漏らした。
「クカカカ! 遠慮のない物の言いようじゃの、若いの……ま、姿を隠したままなのもなんじゃ。顔を合わせて話すとしようかの」
「オレはさして見たかねぇんだけどなぁ、テメェの小汚ぇツラなんざ。まあ折角こんな薄汚ぇトコまで来たんだ、好きにしやがれ」
その言葉を合図として闇の中から、ゆらりと一人の小柄な老人が浮かび上がってきた。
杖をつき、着物を身に纏ったこぢんまりとした体躯。
それだけならまだ普通の老爺なのだが、しかし明らかにこの老人は異様であった。
「――――カカッ」
落ち窪んだ両の目。
光を宿さぬ濁りきった瞳。
髪も髭も、眉すら一筋もない、まるで骸骨のような顔つき。
そしてなにより、その全身に纏った不吉な気配。
老人の姿をしたナニカが、そこにいた。
「さて妖怪ジジィ、返事はどうした?」
「カカ、言うまでもなかろうて。何故儂が死んでやらねばならん?」
「こっちの面倒事が減る。それにいたらいたでオレの宿題をポンポン増やしてくれそうだからな、テメェは」
「ふむ? 意味はよく解らんが、随分と自己中心的な理由じゃの」
「ヒトの事言えたクチかよ。数百年ムリヤリ生きてきたせいで耄碌してんじゃねぇかジジィ? 完全にボケて醜態晒す前にとっとと地獄へ行ってきやがれ」
六文銭は自腹でな。
ソレは挑発に挑発を重ねる。
対する老人は飄々とそれらを受け流して、泰然としている。
「……そういえば、まだヌシの名前を聞いておらなんだのう?」
「それこそどうでもいいんだよ、クサレジジィが。テメェは今この時、ここで死ぬ。それは決定事項だ。オレの名前なんざ聞いたところでたいした意味はねぇんだよ。第一もったいねぇしな。という訳で、さっさと死ぬかくたばるかしろ」
一刀両断。
ばっさりと要求を斬って捨てると、ソレは老人に向かって最後通牒を突き付けた。
「……フン」
その時、老人の目が怪しく輝く。
そして右手についていた杖を持ち上げ、カツンと床を軽く鳴らした。
「あん?」
首を傾げたソレ。
しかしその一瞬の後、なんとも怖気を誘う光景がその場に出来上がっていた。
「――――はあん。ったく、シュミのワリィこって。だからテメェは気にいらねぇんだよなぁ。まさに『ムシが好かねぇ』っての? ケケケケケ!」
蟲、蟲、蟲。
数えるのも億劫なほどの大量の蟲が、老人の周囲に広がっていた。
しかも、その蟲はただの蟲ではない。
『刻印虫』と呼ばれる、人間を喰らって己が血肉とする外道魔術の蟲なのである。
男性器を彷彿とさせる見た目と相まって、醜悪そのものであった。
「生憎と、儂はまだ死ぬ訳にはいかんのでな。蟲どもは女が好みなんじゃが、まあヌシでも構わんじゃろう。何者かは知らんが、存外に力があるようじゃしの」
ざざ、とさざ波のように蟲がざわめいたかと思うと、今度はあっという間にソレの周囲を隙間なく取り囲む。
数の暴力。
如何に親指大の小さな蟲とはいえ、それが何百何千と集まればそれだけで脅威となりうる。
老人の自信はこの数の優位性から来ていた。
「は、これが回答って事かよ。まあ予想してたけどなぁ――――だが蟲ジジィよぉ。いくらなんでもナメすぎじゃねぇか? こんなクソムシどもの栄養になっちまうほど、オレは弱かぁねぇぞぉ?」
しかし、それでもなお嘲笑う。
これでもかとばかりに嘲笑う。
狂気の嗤いを顔に貼り付け、ソレは徹底的に老人の浅慮を嘲笑っていた。
「それになぁ……」
「―――カカッ」
かつん、と響く杖の音。
それを合図に数百匹はあろうかという『刻印虫』がソレ目掛けて飛びかかる。
砂糖に群がるアリの大群のようであった。
「――――オレが手ぶらで来てるとでも思ってんのか?」
だが次の瞬間、飛びかかったすべての蟲が真っ二つに切り裂かれ、冷たい石の床へ悪臭漂う体液を撒き散らした。
「ぬ!?」
目を見開く老人。
その視線は無残に切り刻まれた蟲ではなく。
「あん、なんだジジィ。斬られたクソムシよりコイツがそんなに気になるかよ?」
徒手であった筈のソレの右手に握られた、一振りの日本刀。
その一点に注がれていた。
「まあ、コイツはオレの本来の得物じゃあねぇんだが、なかなかに使い勝手がよくてよぉ。なんせオレみたいな剣の素人がただ振ったって、百戦錬磨の達人と渡り合えるってバケモン刀だからなぁ。ケケケ……」
右手の刀を血振りの要領で軽く一閃、そのままおもむろに歩き出す。
ぐちゃぐちゃと、その足元で粘性のあるナニかが潰れる音が響き周囲に反響する。
『刻印虫だったモノ』を踏み潰しながら、ソレはくっくと心底楽しげに咽喉を鳴らして嗤っていた。
「ヌシは……もしや、サーヴァントか?」
「だ~いせ~いか~い……って言いてぇところだけとちょっと違うんだな、これが。でも教えてやらねぇよ。これからくたばるヤツに説明しても無駄だからな」
「ホッ……言いおるわ、御主人様(マスター)の飼い犬風情が」
再び響く、杖の音。
今度は先程の倍の量の『刻印虫』が襲い掛かってくる。
ソレの前方、後方、左右から迫る様は、さながら津波のようであった。
「ちっ……メンドくせぇ。やっぱ最初からコレ使っとくべきだったかぁ。遊びがすぎちまったぜ。ま、わざわざこんな魔窟くんだりまで来てる事自体お遊びみたいなモンだけどよ」
反省反省、と。
まるで反省してそうもないような軽い口調で呟くと右手の刀を肩に担ぎ、ぐっと左手を握り込む。
そのまま視線を上げ、冷めた目で眼前の蟲の大群を見据えると静かに告げた。
「――――消えな、クソムシども」
かちり。
ソレの握り締めた手の中で軽い音が鳴った。
その途端、圧倒的物量を以てソレを包囲していた『刻印虫』が一匹残らず、ソレの周囲から忽然と消え去った。
「ぬ!? ……ヌシ、なにをした!?」
またしても起こった予想外の出来事に、遂に老人の表情から余裕が消え失せた。
疑問と焦燥、驚愕と、そしてほんの僅かの恐怖。
初手は頼みとしていた蟲を日本刀で細切れにされ、今度は武器すらも一切触れる事なく蟲の存在を、まるで霞のように綺麗さっぱりと消し去られた。
老獪な老人の鉄面皮が剥がれ落ち始めたのも、無理からぬ事であった。
「いや、見て解んねぇかジジィ? 鬱陶しかったからクソムシどもを消したんだよ。ここに来て遂にボケが始まったか?」
「消した……じゃと?」
「だからそう言ってんだろ。繰り返し言わせんなよ」
「バ、バカな……何故そんな事がおヌシに出来る?」
「あぁん? まあそれぐらいならいいか。ケケケケ、タネはコイツだよ」
薄ら嗤いを浮かべながら、ソレは左手の中にあったモノをボールのように放り投げて弄ぶ。
老人の目がそれを捉えると、表情がさらに不可解なものへと変わった。
「それは……」
「コイツもまあ借りモンなんだけどなぁ、なんかオレの色に染まっちまったのよ。だから機能の多少の改竄は出来るワケ。本来ならコイツで消された対象は消した本人……つまりオレ以外は覚えてねぇハズなんだが、なんか勿体ねぇしよ。折角だから覚えていられるようにしたってこった。ついでに言や、消されたら二度と戻って来る事はねぇぞ」
「う……ぬ?」
余裕綽々と語る目の前のソレの言葉に、老人の疑問は増すばかり。
話の内容に脈絡がないため、ソレがなにを言っているのかさっぱり理解が追いつかない。
そんな様子を知ってか知らずか、ソレは唐突に説明を打ち切った。
「さて、質問には答えたやったぜ。オレって親切だろ? まあ、テメェが理解出来たかどうかは知らねぇけどなぁ、ヒャハハハ! ……さぁて、いい加減冥土へ旅立つ覚悟は出来たか?」
「……ぬうぅ」
刀で捌かれた『刻印虫』の死骸を踏み越え、ソレは老人へとゆっくりゆっくり迫っていく。
その表情は嗜虐心がこれでもかとばかりに溢れる、どこまでも暗い嗤い顔。
見る者に狂気と絶望を抱かせる、どす黒い瘴気を華奢な全身から迸らせ。
漆黒よりもなお深く、果てしなく黒く濁りし双眸から放たれる異常な威圧感は、老人のそれの比では断じてない。
右手に『白刃』を、左手に『絶対抹消の理』を携え、この戦争の『闇』は聖杯戦争を興せし『御三家』の当主の一……間桐臓硯を、この戦争から抹殺(デリート)しにかかる。
「儂は……儂はまだ死ぬ訳にはいかん! いかんのだ!! 聖杯をこの手にするまで、死ぬ訳には……!」
臓硯が叫ぶ。
それを合図に再び『刻印虫』が地下室の奥からわんさと湧き出し、ガサガサと蠢きながら臓硯の周りに集い始めた。
この自分以上のバケモノに己は目を付けられた。仮にこの場から逃げおおせても、このバケモノは自分を闇に葬るまでどこまでも追いかけてくる。
ならばこの場で消すしかないと、臓硯は焦燥の中でも冷静に判断していた。
そしてその判断はどこまでも正しい。
「おおっと、まだそんなに残ってやがったか! まあ抹消(デリート)の対象はオレの周りにいたクソムシどもだけだったからなぁ。あぶれたヤツらがいるのも当然か」
びちゃりと足の下の『刻印虫だったモノ』を蹴り上げ、この戦争の『闇』は嗤いながら担いでいた白刃を構える。
一方で左手を握り締め、新たに湧き出した数百匹の『刻印虫』と臓硯を諸共に消し去ろうとする。
「クカカ! させはせんぞ、若いの!」
しかし一瞬早く、臓硯が『刻印虫』を『闇』目掛けて一斉にけしかけた。
「ちっ。だが、無駄無駄ムダムダむだぁ! ヒャアッハハハハハハ!」
斬る、斬る、斬る、斬る、斬る。
右手の白刃が閃き、雪崩のように押し寄せる『刻印虫』を一匹一匹、あるいは数匹纏めて確実に屠っていく。
もはや刃の動きは肉眼で追う事は不可能。
刃が大気を切り裂く音だけが、刀が振られているのだという事を示す唯一の証明となっている。
高速の太刀捌きが生み出す『闇』の前面の空白地帯は、さながら『剣の結界』だ。
細切れにされた『刻印虫』の成れの果てが、汚物の雨となって石畳に水溜りならぬ肉溜りを作り上げていく。
「ハハハハハハ――――あぁん?」
『刻印虫』の虐殺に精を出していた『闇』であったが、ふと視界の中からいつの間にか臓硯が消えている事に気づき、僅かに首を傾げた。
ついさっきまで視界の片隅に捉えていたのである。
その時の表情は、『闇』をして思わず腹を抱えて嗤い出したくなるような、それはそれは悲壮感漂うものだった。
しかし、いない。
「クソムシどもを囮に逃げ出したか? いや、あの表情を見る限りじゃその可能性は低い。ってえ事は、だ……」
にぃい、と『闇』の表情が歪む。
面白いとでも、言わんばかりであった。
「死角からの強襲か」
そう呟いた次の瞬間、『闇』の背後と頭上から大量の蟲が躍りかかって来た。
さっきの攻防では正面からしか来なかったため、後背と頭上に隙が生じていた。
『カアアアアアア!』
臓硯は五百年の時を生きてきた魔術師である。
だが、ヒトの身ではせいぜい百年程度しか生きられない。
そのため臓硯は遥か昔にヒトである事を止め、己が肉体の在り様を変貌させた。
『刻印虫』が喰らう人間の血肉を己が肉体として蟲諸共再構成し、常時肉体を新しい物へと再生させる。
そうして臓硯はヒトではなく『刻印虫』の群体として、五百年の歳月を生き永らえていたのである。
臓硯は『刻印虫』を目晦ましにしつつ己が肉体を夥しい数の『刻印虫』へと戻し、『闇』が襲い掛かる『刻印虫』を屠っている隙にそれとなく『刻印虫』の群れに己を紛れ込ませ、素早く死角へと回り込んだ。
ある意味では『肉を切らせて骨を断つ』戦法。
己が眷属である『刻印虫』を犠牲にし、乾坤一擲の奇襲で捕食、目の前の脅威を葬り去る。
その目論見通り、臓硯は死角から『闇』へ喰らいつかんと仕掛けた。
「目の付け所は良かったが……生憎だったなぁ。コイツは自動追尾なんだよ、しかも前後左右関係なしになぁ!」
しかし、『闇』は振り返りもせず、頭上を仰ぎもせずにただ出鱈目に白刃を振るう。
その斬撃は前面後背上下左右、三百六十度すべての間合いをカバーしきっていた。
『闇』の意図するしないに拘らず、白刃は縦横無尽に襲い来るそのすべてを切り裂き、薙ぎ払い、突き穿つ。
まるですべてが見えているかのように、まるで刀自体に意思があるかのように。
果たして刀を振るっているのか刀に振り回されているのか。
真実はもはや、担い手にしか解らない。
『グオッ!?』
眷属諸共に屠られる『肉体』。
対処など不可能と思っていたはずのものがひっくり返され、瞬く間に『刻印虫』の数が減らされていく。
既に半数近くがあの白刃の餌食となり、このままでは臓硯の肉体の構成にも支障が生じるレベルにまで陥る。
そうなる前に、臓硯は一旦身を引いた。
「ぬ……ぐぅ!」
『闇』から幾分離れた場所で、臓硯は歯軋りしながらけしかけていた『刻印虫』を寄せ集め、肉体の再構成を開始する。
だが、それは下策も下策。
必要に迫られていたとはいえ、臓硯の選択は単に『闇』に十分すぎる好機を与えただけにすぎなかった。
「おいおいジジィよぉ。オレから距離取っていいのかよ? テメェ、コイツの存在を忘れてんじゃねぇか? やっぱもう耄碌してやがんな、ケケ!」
溜息交じりに言い放ち、臓硯に向かって左手を開く『闇』。
掌の上には、スイッチのような物が一つ存在していた。
狂笑のまま刀を一振りし、『闇』はこびりついた蟲の血肉を振り落すと左手を閉じる。
「カッ!? 待っ」
「てやらねぇ。ケケケ、あばよクソジジィ。この地下の全クソムシ諸共、とっととオレの目の前から失せやがれ」
「ガアアアア!!」
かちり、と鳴る乾いた音。
絶望の叫びの余韻だけを残し、醜悪な蟲の老人は『闇』の視界から消え去った。
「……ふん、こんなモンか。なんつーか……あっさり終わりすぎて、面白くねぇな。直にあの世に送った方が面白そうだからわざわざ足運んだっつうのに」
鼻を鳴らし、『闇』は周囲を見渡す。
白刃の餌食となった『刻印虫』の骸がそこかしこに、それこそ足の踏み場もないほど散らばっている。
加えてそこからなんとも言えない悪臭が立ち上り、この空間の淀んだ空気をさらに悪化させている。
「邪魔くせぇな」
ぼそっと言い放った『闇』。
刀を掴んだままの右手を前方に突き出し、人差し指を眼前の遺骸の山へと向けると。
「―――――『チン・カラ・ホイ』」
呟く。
すると指先にあった『刻印虫』の遺骸が黒い炎に包まれ、瞬く間に黒い消し炭にされていった。
「ちっ。やっぱパクリの呪文と“即興で創った魔法”じゃこんなモンか? 思ったより威力がねぇ。便利なんだがメンドくせぇな、あの“事典”。こちとら教育なんざマトモに受けちゃいねぇんだぞ、ハッキリ言ってあのクソガキよりも……あ~、まあいいか」
黒髪を掻き毟り、“ナニカ”について毒づく『闇』。
だがその間もその手は止めず、辺りに散乱している『刻印虫』の遺骸に次々と黒い炎を灯していく。
やがて周囲には真っ黒に炭化し、もうもうとした煙を上げる“遺骸だったモノ”と、タンパクの焼けついた臭気だけが残された。
「ふぅ、や~っと終わったぜ。あのクソジジィ、どんだけクソムシ飼ってたんだよ、まったく。くたばってまで手間取らせんじゃねぇよハゲが!」
悪態混じりに手近にあった消し炭を荒々しく蹴り飛ばす。
ぼふ、と黒い灰が舞い上がり、石畳に地下室の奥へと続く一筋の路が出来上がった。
「けっ……さあて、と」
一通り鬱憤を晴らし終えると、『闇』は地下室の奥へと歩き出す。
そこは『刻印虫』が湧き出してきた場所、臓硯が使役していた蟲達の巣穴。
ただでさえ薄暗い地下室の中にあって、さらに深い闇を湛えたその場所。
「……おい、さっさと起きやがれ“女”。じゃねぇと犯すぞ?」
そこに一人の少女がいた。
学生服を身に纏ったまま冷たい床に横たわり、ぴくりとも動かない。否、動こうともしない。
微かに身体が震えているところを見ると、どうやら死んではいないようだ。
「ちっ。ったく、テメェまで手間とらせんじゃねぇよ。おら、起きろっつってんだろ!」
語調荒く、『闇』はその華奢な身体を容赦なく蹴り飛ばした。
ごろりと力なくその場で転がり、少女は強制的に仰向けにされる。
青く長い髪が振り乱され、石畳の上にばさりと散らばった。
そしてその少女の表情はというと。
「あん? なんだテメェ、死んだ魚みたいな目ぇしてやがんな。あの蟲ジジィにさんざん可愛がられたからか?」
「……ッ」
「図星か、ケケ」
きゅっ、と少女の唇が噛み締められた。
ゆるゆると顔を自分を睥睨する『闇』へ向け、じっと視線を送る。
この地下室の暗さのせいで、顔など視えようはずもないが。
「なんだ? 気に障ったか? ハッ、テメェなんぞに凄まれたって別になんとも……ぁあ?」
へらへら嗤っていた『闇』の目つきが、突然鋭くなった。
その視線は、少女のふくよかな胸元に注がれている。
といっても、別段よからぬ感情に突き動かされたという訳ではなかった。
『闇』のある点において図抜けた尋常ならざる感覚が、この少女の内に潜む『ナニカ』を感じ取っていた。
「……?」
急に静かになった『闇』に、少女は仰向けの状態のまま僅かに首を傾げる。
すると『闇』は徐に身に着けている紅い腰巻から“ナニカ”を引っ張り出した。
どす黒く漆黒に染まった袋状の“それ”。その中に『闇』は手を突っ込むと、取り出す。
人差し指を突きだした巨大な手が付いた、円盤状の奇妙な帽子を。
「どれ?」
頭にそれを乗せ、なおも少女に視線を送り続ける『闇』。
傍から見れば甚だ違和感の漂う光景だが、やがて『闇』の表情が険しく歪められた。
「やけにあっさり終わったと思ったら……こういうカラクリがあったとはなぁ、クソジジィが!」
ぱちん、と『闇』が指を鳴らす。
次の瞬間、『刻印虫』に酷似した小さな蟲がなんの前触れもなくその場に出現し、『闇』と少女の間の空間に浮かび上がっていた。
『ゥヌ!? こ、これは一体……!?』
「まさか魂を二つに『株分け』して、この女の体内に隠してやがったとはなぁ。随分と狡いマネしやがるじゃねぇか。おかげで見逃すトコだったぜ」
キーキーと甲高い声を上げる蟲。
それはあの時消え去ったと思われていた間桐臓硯の魂の分身、スペアとも呼べる存在であった。
万一に備え、臓硯は魔術で以て己の魂を二つに『株分け』し、その片方をこの小さな蟲に宿して少女の体内に隠匿していたのであった。
『ば、馬鹿な!? なぜ儂の存在を……!? それにどうやってこ奴から儂を摘出した!? 儂はこ奴の心臓と完全に……!?』
「癒着していた、だろ? ハッ、透視(クレヤボヤンス)で見たら一発で心臓にいるって解ったぜ。他にもなんかヤケに覚えのある“ブツ”をクソムシに仕込んで、コイツに突っ込んでるコトとか粗方な。もっとも、オレ相手にクソムシ特有のミョ~な気配を消せていなかった時点でテメェは“詰み”だったワケだがよ」
『ク、透視(クレヤボヤンス)……じゃと!?』
「そ。で、瞬間移動(テレポーテーション)でテメェを心臓から引っこ抜いたってワケ。そもそも癒着してたら取り出しにくいだろうって考えたんたろうが、そりゃあくまで“外科的に”ってコトだろ? 瞬間移動(テレポーテーション)なら癒着してようがなんだろうが、んなモンま~ったく関係ねぇしな」
『……その妙な帽子が手品のタネか?』
「お~、百点満点。だいせ~いかい! ちなみにテメェがこの場に浮いてるのは念力(テレキネシス)で浮かせてるんだがな」
『…………』
透視(クレヤボヤンス)、瞬間移動(テレポーテーション)、念力(テレキネシス)。
これほど多彩な能力を扱え、しかも発動するのに一秒と掛からない。
先程振るわれた“刀”といい、己が片割れと『刻印虫』を根こそぎ消し去ったあの得体の知れない“スイッチ”といい……目の前の、己以上の“バケモノ”は一体どれほどの力を秘めているのかと。
『…………ッ』
臓硯はこの時、心の底から畏怖と……そして『恐怖』を感じた。
もしかしたら、それはこの老人にとって、初めての事だったかもしれない。
『儂は、儂は! ここで死ぬ訳にはいかぬのだ! 聖杯をこの手に、そして不老不死に……不老不死にならずして、死ぬ訳には……!」
もはや金切り音に近い絶叫を上げ、蟲の身体をくねらせる臓硯。
その矮小な、だが甚だ異質な外見からしてその悪あがきはみっともなかった。
「うるっせえなジジィ、この期に及んで喚くんじゃねぇよ。ったく……そもそもジジィよぉ、不老不死とやらになって」
溜息とともに『闇』が呟く。
「――――結局なにがしてぇんだよ?」
その言葉を聞いた瞬間、雷に打たれたかのように蟲の身体がびたりと動きを止めた。
金切り声も止んでいる。
「なにが……したい? “不老不死となって、なにがしたい”?」
ぼそり、ぼそりと繰り返される。
記憶の底を浚うように。
「――――そうか、そうだった。儂は……いや、儂が目指していたモノは……もっと、もっと……! その実現のために、費やされる永い時を生きるために、儂は、不死を……!」
蟲の述懐が、闇に響き渡った。
大切なものを思い出したかのような、奇妙な余韻がその声に滲み出ていた。
「……さて、懺悔は終わったか?」
だが、唐突に終わりは告げられる。
再び狂笑を漲らせた『闇』が、左手の“ソレ”に指をかけた。
「ギッ!?」
「テメェがなにを思い出したかは知らねぇし、興味もねぇが……ま、とっとと逝けや。これ以上、オレの時間と労力を割かせんじゃねぇ。この女の中の全クソムシともども――――間桐臓硯、この世から消え失せろ」
かちり。
刑執行の音が鳴る。
『ア、アアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァーーーー―――』
この瞬間。
間桐臓硯はこの世から完全にその肉体と魂を抹消された。
「……けっ、やっと終わったか。ったく、やっぱ遠隔でさくっと殺っとくべきだったかなぁ、今なら出来る事だし。それだと面白さは半減以下だけどな」
『白刃』と『絶対抹消の理』、それから『指付き帽子』を黒い『袋』の中に仕舞い込み、その『袋』を腰巻へと突っ込む。
そしてもうここには用はないとばかりに、さっと踵を返した。
が。
「ぅう……」
唐突に、その足が止まる。
『闇』が振り返ったその視線の先には、上半身を無理矢理起こした少女がいた。
瞳はまだ茫洋としているが、意識は先程よりもはっきりしているようだ。
「……どうして、わ、たしを」
「ああ、『殺していかないのか』ってか?」
疑問を言い当てられ、少女は口を噤む。
『闇』はそれを気にする事もなく、心の底から面倒そうな表情で口を開いた。
「お前、オレがジジィ始末した時『自分も殺してくれ』って思っただろ」
「…………」
「だからだよ」
「……ぇ?」
意図が汲み取れず、少女は首を傾げる。
次に『闇』の口から出てきたものは、いっそ突き放した物言いであった。
「生憎、死にたいと思ってるヤツにワザワザ引導を渡してやるほどオレは慈悲深くねぇの。んなメンドくせぇコト誰がするかよ。死にたきゃ勝手に死ね。そもそも殺りに来たのはジジィだけであって、テメェは勘定に入ってねぇんだよ」
あまりにもな言葉の数々に、少女の表情と身体が石膏像のように硬直する。
どうも予想していた言葉と遥かにかけ離れていたため、相当な衝撃であったようだ。
「テメェ一人で自殺する度胸もねぇクセによ、だから他人に頼んで殺して貰おうってか? ムシが良すぎんだよ。つーワケで、せいぜい絶望を抱えたまんま残りの人生を生きてくこったな。ケケ」
最後に嗜虐に歪んだ嗤い顔を残し、今度こそ『闇』は踵を返した。
「あ、そういやテメェの中からジジィが仕込んだ“ブツ”を取り出すの忘れてた……んー、でもまあいいか。テメェの中のクソムシは全部消えてるし、よっぽどの事でもなければ変な暴走もしないだろ。ま、したらしたで面白そうだけどよ」
なんか親和性高いからパニックはさぞ見モノだろうしなぁ。
そんな事を呟いて、けたけた嗤いながら『闇』はゆっくりと地下室の隅へと歩いてゆく。
呆然としたまま、少女はその背中を見つめるだけ……ではなかった。
「あな、たは……誰、なん、ですか?」
辛うじて、その疑問だけが彼女の口からこぼれ出た。
『闇』はもう一度だけ足を止め、今度は首だけを後ろに倒して少女と視線を合わせた。
交錯する互いの視線。びく、と少女は肩を震わせる。
それを見た『闇』は、にぃいっと唇を吊り上げた。
「あん? オレか? オレはなぁ――――」
冗談とも、本気ともつかない口調で。
『闇』は、彼女にこう告げた。
――――『悪』のカミサマだよ。
それで本当に終幕。
チン・カラ・ホイ、と紡がれる呪文。
足元から漆黒の炎が立ち上り、それに取り巻かれた『闇』はこの地下室から忽然とその姿を消した。
「――――ま、個人的都合で『悪』にとっての『悪』もやってるけどな」
最後にぼそっと呟かれたその余韻が、地下室の湿った空気を通じて部屋中に木霊した。
「……セン……パイ?」
炎の揺らめきに照らされ、微かに浮かび上がったその顔貌。
その言葉を呟いた直後、彼女……間桐桜は肉体と精神の疲労から、再び意識を失った。
「――――さて、しばらくは静観だな。とりあえずは、あのクソガキのウォッチングと洒落込みますかねぇ……ポケットのリンクがブチ切れて、ついでにオレにパチられてひみつ道具の大半がなくなってるこの究極縛りの状況下で、果たしてテメェはどう動くよ? ま、強力なブツの粗方がないとはいえコピッただけのヤツも結構あるし、ワビ代わりに別のモンを二、三アイツにブチ込んであるからどうとでもするだろうがよ。せいぜい気張って生き延びやがれやクソガキ! ケケケケケケケケケケ……!!」