お互いの無礼の謝罪も済み、二人は改めて向かい合う。
「――――そ、それでおじさん。『諦めるのはまだ早い』ってどういう事ですか?」
「……すまんが、出来れば“お兄さん”と呼んではくれまいか。これでも一応、肉体年齢は二十代なのでね」
「え……えぇえええーっ!? 嘘でしょ!?」
闇夜を劈き響き渡る、のび太の驚きの声。偽らざる、本心からの叫びだった。
「…………」
それを聞いた途端、アーチャーの背中が黒く煤け始めた。
肩が重くなりそうなほどの哀愁が、背後にどんよりと漂っている。
表情を繕わぬ、炎と硝煙の匂いすら纏っていそうな戦士然とした雰囲気の男が、こうまで悄然となる。
彼にとって、のび太の一言がどれほどの衝撃であったか。それをまざまざと示していた。
「……セイバー。私はこんな時、どうすればいいのだろうな」
「私に聞かれても困りますが……そうですね。事実をありのまま、受け入れるしかないのではないですか? “おじさん”」
「君までそう呼ぶのか! くっ、爺さん……今まで“爺さん”と呼んでいた事、今この場で誠心誠意、心から謝罪する! 年齢以上の呼称で呼ばれる事が、まさかここまで辛いものだったとは……」
剣の英霊の容赦ない言葉。『ブルータス、お前もか』と叫ぶカエサルにも似た絶望が、彼にどっすと突き刺さる。
ついに、アーチャーは膝をつき、天を仰いで二人の与り知らない人物に祈りを捧げ始めた。
訳の解らない事態の展開に、のび太はただただ目を丸くする。
「……ねえ、セイバーさん。この人いったいどうしちゃったの?」
「『さん』づけは結構。私の事はセイバーで構いません。まあ……とりあえず、ご希望通り“お兄さん”と呼んであげてはどうですか。このままでは話が進みません」
自分が引導を渡した事を棚に上げ、素知らぬ顔でセイバーはそう言ってのける。
果たして故意か天然か。真意はともかく、タチが悪い事に変わりなかった。
――――閑話休題。
「……つまり、この戦争でその『聖杯』を手に入れれば、元の世界に帰れるんですか? おじ……じゃなかった、お兄さん?」
「ぅ、む……そういう事だ。願いを叶える聖杯ならば、平行世界の壁などものともせずに帰還する事も可能だろう。数ある伝説にもあるように、元来聖杯とは万能の杯。そういう代物なのだからな。それから……あー、なんだ。呼びにくければアーチャーで構わんぞ。のび太少年」
気を取り直したアーチャーからの説明が終わった後には、表情に少しだけ熱を取り戻したのび太がいた。
死んだ魚のようだった目に輝きが灯り、俄かに活力の色が浮かんでいる。
だが、話にはまだ続きがあった。
「しかし、君はあくまで迷い人であり、参加者ではない。当然、令呪もサーヴァントも持ってはいない。であるからして、君が聖杯を手に入れる事は不可能だ……本来ならばな」
「えっ!? それじゃ意味ないじゃないですか!?」
期待を持たされたところで逆方向に話を覆されたのび太はアーチャーに食って掛かる。
しかしアーチャーは落ち着き払ったまま、手でのび太を制した。
アーチャーの話はまだ終わってはいない。
「落ち着け、少年。“本来ならば”と私は言ったぞ。要は、君が手に入れられなければ誰かに手に入れてもらうまでの話だ。そら、その人物に一人、心当たりがあるだろう?」
「……シロウ、と言いたいのですか、アーチャー? しかし、首尾よく聖杯を手に入れたとして、シロウがノビタのためにすんなりと聖杯を明け渡しますか?」
「明け渡すさ。間違いなく――――躊躇いなくな」
確信の含みも露わに、アーチャーは断言した。
まるで己の結論が真理であると言わんばかりの堂々ぶりに、セイバーの眉間に皺が寄る。
その訝しげな様に気づいたアーチャーは、自然な動作で瞑目し言葉を続けた。
「私もそれなりに人生経験を積んでいるのだ。人を見る目は多少なりともあると自認している。そして、あの小僧は極度のお人よしだ……いっそ病的なまでにな。少年が助かるのならば、たとえ聖杯であろうが安いものだと思うだろうさ」
彼の言葉は先の物と変わらず、揺るぎない確信を得ているかのように、自信に満ち満ちている。
やはり納得がいかないのか、頻りに首を捻るセイバーがそこにいた。
それから待つ事、およそ数十分。教会の扉が開き、中から士郎と凛が姿を現す。
そしてのび太の前に立つと開口一番、士郎はこのように宣言した。
「のび太君、俺は聖杯戦争に参加する。そして聖杯を手に入れたら……君を元の世界に返してあげるよ」
「……え?」
ぱちくりと丸くなる、眼鏡の奥ののび太の目。
それは士郎の言葉が意外だったからではなく、アーチャーの宣告通りの発言を士郎がしたからに他ならない。
セイバーとて、その例外ではなかった。
「シロウ、貴方はそれでいいのですか? あらゆる願いが叶う杯をこうもあっさりと……いえ、それ以前に先ほどまで、貴方は参加したくない素振りでしたが」
「……いいもなにも、俺には叶えたい願い事なんてないし、そもそもこの聖杯戦争、偶然とはいえセイバーを召喚してしまった時点で逃げ出せるようなものじゃなかった。そして、勝ち上がっていくしか選択肢がない事も、よく解ったよ。あの言峰って神父の話じゃ、俺にとってこの戦争は因縁のあるものらしいからな」
「因縁、ですか」
「ああ……ん、いや、なんでもない。とにかく、他のろくでもない魔術師(マスター)が聖杯を手に入れたら大変な事になる可能性があるし……なら、そうならないようこっちが手に入れればいい。それに聖杯なら、のび太君を元の世界に返す事だって可能なはずだ」
「……そうですか。貴方がそう決めたのなら、私からは何も言う事はありません。貴方の左手に令呪がある限り、貴方の剣として戦う事を誓いましょう」
士郎を見据えて宣言したセイバーは、徐に士郎へ右手を差し出す。
共に聖杯戦争を戦う主従としての意志、互いのそれを改めて確認するため。
「よろしくな、セイバー……はは、頼りない主(マスター)だけど」
士郎もしっかりとセイバーを見据え、同じく右手でその手を固く握り返した。
そして握手を終えると、今度はのび太に向かってその右手を差し出す。
「そういう訳だから、少しの間だけ辛抱してくれるかな? なに、大丈夫だよ。きっと元の世界に返してみせるから」
そう言って、実に頼りなさそうな笑いを浮かべる士郎。
それはあまりにも儚い、蜘蛛の糸の如き希望の光。
「士郎さん……あ、ありがとうございます!」
だが、それはのび太の目に確たる光を取り戻させた。
失った道が再び照らし出され、感極まる。
震える両手で士郎の手を握り返すと、のび太の目から大粒の涙が零れ落ちた。
その様子を、じっと見つめる者が一人。
無機質なような、それでいて熱が籠ったような、ある種不可解な視線が一行に注がれている。
それは、つい先ほど士郎と凛が出てきた扉の陰から送られていた。
「――――ふ、始まりの鐘は鳴った。さて、今回の聖杯戦争は一体どのような様相を見せてくれるのか……興味は尽きんよ。なあ、衛宮士郎」
微かに笑みを含んだ声が、闇に溶ける。
ただそれだけを呟き、戦争の監督役たる神父はカソックの裾を翻すと、自らの聖なる堂の闇へと消えていった。
――――希望と絶望が入り交じる、凄惨かつ高貴な五度目の争いは、こうして幕を開ける。
しかし、この監督役の予想をも上回る『闇』が、この戦争において跳梁跋扈しよう事など、誰の推測にも埒外の事であった。