文月青子が地域の基幹病院を勤務先に希望したのは理由があった。とにかく手術数が多い。特に胸部外科が優れていて、それは青子の専門だった。どんなことでも数をこなせば上手くなる。経験を積み重ねられるし、様々なアクシデントへの対処法も覚えられる。そして幸いなことにものすごく腕の立つ先輩がいた。研修生活をアメリカで送った先輩。研究も、術技もどちらも一級品である。本当なら大学病院でエリートの階段を上っていく人だった。けれど、一度外国へ出た人間はなかなか元の場所には戻れない。どれだけ力をつけ、どれだけ腕を上げようと、大学の医局ではそういうことは大きな意味を持たないからだ。むしろ一度離れてしまうことにより、戻るべきポジションを失ってしまう。従って、多くの場合、その後の留学経験者は地方の有力病院へと移っていく。どの地域にも一つや二つはやる気のある病院が存在し、先進的な医療を提供していたりするのだ。
青子が転出した病院はまさしくそういう場所だった。皮肉なことにその病院で青子はどんどん腕を上げていった。沢山の手術を任され、先輩から技術を吸収していった。大学での未来は閉ざされてしまったけれど、違う未来がそこに広がっていた。
それが理由の一つ目。もう一つの理由は――そういう地方の病院が末期になった患者を追い出したりしないという点だろう。
不意にそんな昔の感情を思い出しながら、屋上で煙草をふかす。この病院には喫煙所なんて有りはしない。病院だから当然と言えば当然だろうが、いちいち屋上まで来るのは面倒なことこの上なかった。
屋上は全面に人工の芝が貼られ、沢山のベンチが置かれている。いつもなら老人と、その家族と思われる何組かが、静かに言葉を交わしているものだが今はいない。
青く澄んだ空に鱗雲が浮かんでいた。雲は南に渡る鳥の群のように、地平線の彼方を目指していた。ひんやりとした風が青子の髪を揺らす。
「あの、文月先生」
一人いい気分になっていた青子に三日前に入ってきたばかりの新人看護婦が暗い顔で、声をかけてきた。
「三一二号室の患者なんですけど」
またか、と青子は思った。
その病室には山口梨沙という女の子が入っていた。歳は十二で、まだ小学生だ。自分の娘である紅璃よりも幼い。この病院に赴任し、受け取った患者の中で一番おもしろいのが梨沙であった。
要は子供なのだが、彼女には妙な強さがあった。やたらと可愛い顔をしているせいなのかもしれないが、彼女が我が儘を言い出すと誰もそれを叱れなくなってしまう。
青子の夫がその典型だった。
「梨沙がどうかしたの?」
「点滴、打たせてくれないんです」
新人看護婦は泣きそうだった。可愛さから思わず頭を撫でてしまう。
「腕を出してくれなくて……」
「うんうん、よしよし。そうだよねえ、初めてじゃあちょっとあの子はきつかったよね」
言って煙草に口をつける。
「これ吸い終わったら私が行くからさ」
「先生……」
「何?」
「病院で煙草はちょっと……」
「ふうん」
ニヤニヤしながら、青子は彼女を見つめる。涙を目に浮かべているが、多分これは嘘泣きだ。病院の中でもこの子はマドンナ的存在だ。煙草とかそういうのには無縁に見える。だが、青子は知っていた。
「あなたは吸わないの? 煙草」
「え?」
「赤マル、とか?」
「いや、私は……」
「見たわよ。あなたが裏口で煙草吸ってるとこ」
「……し、失礼します」
バツが悪そうに彼女はその場を後にする。知られたくない事実を知られて気まずかったのだろう。
「ふう……」
煙を口から吐き出すとそれは一瞬で消えてなくなる。
「やっぱり、いい女には煙草が必須よね」
それもマイナーなもの、誰も吸っていないようなものが好ましい。
「ブラックデビルとか最高なのになあ」
煙草を携帯灰皿に仕舞い込んで青子は三一二号室に向かう。まったく、彼女は自分の娘に似て我が儘だった。どうしたら説得できるのか未だに分からない。とにかくやたらと頑固で、一度ヘソを曲げたらこちらの言うことなんて聞きやしない。
ため息をつきながら廊下歩いていると、後ろから声がした。
「あ、文月先生」
夫だった。彼と青子は同じ病院に勤務しているため、社内結婚という形になる。彼と乾坤に至るまで色々なことがあったが、青子は何一つとして後悔はしていなかった。
「あら、あなた。いいのよ、別に呼び捨てで」
「いや、病院だとほら、何かとまずいだろ?」
頭をボリボリとかきながら彼は言った。
「そう。で、どうしたの?」
「ああ、そうそう。さっき新人の子から文月先生が梨沙ちゃんの説得に行くって聞いたから」
心配になって来てみたんだ、と彼は言った。
「そっか。まあ、何とかなるわよ」
「面目ない。こういうのは看護師の仕事だっていうのに……」
「いいのよ。私の担当の子なんだし、それに一児の母でしょ? 私」
「まあ、そうなんだろうけど……僕も一緒に行くよ。先生にばかり苦労をかけるわけにもいかないし」
「そう? じゃあ行きましょうか」
そう言って、二人で廊下を歩き出す。
問題の三一二号室につくと、ベッドの上で山口梨沙が怖い顔をして本を読んでいた。たかが十二のくせに結構な迫力である。
ノックを二回して青子は病室に入った。
「点滴、嫌?」
ちら、と彼女がこちらを見てくる。
でもすぐに視線を戻した。
いつもこうやって彼女は無視をする。看護婦然り、青子然り。
「痛いの、怖いの?」
そうでないことは青子だって知っていた。
彼女は何も答えない。
「じゃあほら、この文月さんが針入れるから」
「ええっ? 僕がっ?」
急に話を振られて夫は酷く驚いていた。
「彼、針入れるのすごい上手いわよ? 殆ど痛みなんてないんだから」
「いやちょっと、青子……」
「先生じゃなかったの?」
「それは……」
「いい、別に」
青子たちの言葉を掻き消すように、彼女は言った。
「いいって、どういうこと?」
「本読んでるの。うるさい」
医者に対してうるさい、などとほざく小学生は彼女を除いて他にはいないだろう。青子は思った。
それでも、青子のこめかみが引きつったりすることはない。
「り、梨沙ちゃん。先生に対してそれは」
「だから、うるさい」
夫の顔がにやけてきた。これは多分怒りの針が行き過ぎて笑ってしまうという現象だろう。そんな彼を青子は制する。
「まあまあ、落ち着いて」
「で、でも……」
「いいのよ」
言って、ベッドの脇に置いてある椅子に座り込む。こんな患者を青子は以前にも診たことがあった。研修医の時代に。
「ねえ、梨沙ちゃん。何で点滴、したくないの?」
彼女は何も答えない。
「――自分はもう助からないからいつ死んでも同じだって?」
「ちょ、青子! それは」
「別に」
「違うって?」
「…………」
相変わらず彼女は黙り込んだままだった。
「……ふう。じゃあ、こうしましょう。明日か明後日、あなたを楽しませるものを私が用意する」
「何それ」
あてはあった。娘の愚痴を聞いている間に青子はそれを思いついていた。娘が恐らく恋をしている相手にはきっとそれができると。
「青子、それって……」
「だから、今日は点滴を受けてちょうだい。もし面白くなかったら、これからはもう何も言わないからさ」
彼女は青子の顔を見てくる。
異様な迫力があった。
「点滴」
「え?」
夫が驚くような声を上げる。
「点滴、するんでしょ」
「あ、うん、分かった。じゃあ準備するからちょっと待っててね」
彼は慌てまくりながら点滴のパックを探し始める。それを見て、青子は椅子から立ち上がり屋上へと戻って行った。途中で彼が転んだような音がしたが多分大丈夫だろう。
大丈夫、何とかなるのだ。女の感がそう言っていた。
■■
「おい、青子」
屋上で再び煙草をふかしていた青子に声をかけてきたのは夫である潤だった。その表情は怒りに満ちていて少し怖い。
「あら? 病院では先生じゃなかったの?」
彼の言いたいことは青子にだって分かっていた。それでも青子はこういった態度を取らざるを得ない。それが、青子の人間性だった。
「それはどうでもいいだろ。なんであんなこと」
「いいじゃない。結果的に点滴はできたんだし」
「よくないよ! いくら我が儘な子だからってあんな酷いこと――」
「酷くなんてないよ」
彼の声を遮って青子は言った。
「酷くなんてない」
「何を……」
煙を吐き出して、また言葉を紡ぐ。
「あの子は自らの死を受け入れている。それは別に悪いとは言わない。むしろいいことよ。人はいつか必ず死ぬ。それが早いか遅いかの違い。でも、私が許せないのは死を受け入れて、なおかつ残った自分の生を諦めていることよ」
「青子……」
「死を受け入れることと生を捨てることは同義じゃない。あの子は、それが分かっていない。それが、許せないってだけ」
彼は黙り込んだままだった。
「まあきっと、そんなあの子なら私の言葉にもダメージなんて受けていないだろうから大丈夫よ」
「でも、あれだろ? 青子が言ってた梨沙ちゃんを楽しませることって……やっぱり……」
「そうよ? 大丈夫。紅璃があれだけ言うんだからきっと、大丈夫」
「…………」
「心配しないで、あなた。恐れはね、形のない怪物なの。人の心を惑わして悪い結果を呼び込むんだから」
そう言って、青子は笑った。
■■
教室の掃除が終わったあと、俺は司から労働の報酬を受け取っていた。結局、あの後は時間が無くて紙芝居をする時間がなかった。全部文月のせいなのだ。あれも、これも。
「……ってわけで、お前の仕事をボランティアで請け負ったお陰で散々だった」
「そっか。だから大盛りを奢らせたんだね。……言っておくけど、報酬貰ってる時点でボランティアじゃないから」
「ふん、チャーシューメンを頼まないだけいいと思え」
「まあいいけどね」
麺をずるずるとすする。
川のほとりにある屋台には俺たちの他に客はいなかった。案外儲かっていないのかもしれない。ここは俺と司が見つけた行きつけの店だ。
「でもそんなことがあったなんてねえ。やっぱり誠の態度おかしかったし」
「まあな……」
ここまでの経緯はすでに司に話してあった。文月と勝負することになったこと。その他、色々。文月がオッドアイであるということは伏せて置いた。あいつにとってはあまり知られたくない事実だろうし、これが賢明だ。
「思ったんだけどさ」
箸を器の上に置いて司が言った。
「なんだよ」
「文月さんって、僕とはまるで正反対だよね」
「はあ?」
「裏表がなくて、さっぱりとしてて、まあ頭がいいって点では似てるかな」
「だから?」
「誠もそういうタイプの人間のほうが付き合いやすいのかなって思った」
「なんだよそれ」
聞いてみたが結局下らない話だった。
再び麺をすする。
「案外仲よさそうじゃん、文月さんと」
「そんなわけあるか。敵だぞ敵。それにあいつのせいで今日の紙芝居も潰れたし」
「そうなの?」
「色々あってな……」
深くは話すまい。
「でも、嫌いじゃないでしょ?」
「はあ? そりゃあお前……」
嫌いかどうかと聞かれて少し迷った。
先ほどのことがあるまでは嫌い、だったのかもしれない。だが、今は違う。ゆかりと同じ悩みを抱えている文月のことを心底嫌いになれるわけがなかった。
あいつもきっと、今まで悩んできたはずなのだ。
「……まあ、嫌いじゃないけどさ」
誤魔化すように言って、多めに麺をすすった。
「やっぱりね。誠ってさ、人の好き嫌いがはっきりしてるじゃん?」
「そうか?」
「そうだよ。だから友達できないんだよ? その人相の前にね」
「……そこまで酷くないだろ、人相は」
ちょっと心外である。
「そんな誠がさ、一人に対してここまで言うなんてないことじゃん?」
「うーん……」
自分のことほど自分が思っている以上に分からないもの。だから、親友である司の言葉は俺には絶対のものであるように感じられた。
本当にそうなのだろうか。
「いいんじゃない? 文月さんと付き合っちゃえば」
「ぶっ!」
すすっていた麺を思い切りはき出した。
気管に汁が入り込んで思わず咳き込む。
「ちょっと兄ちゃん、あんまり汚さないでくれよ」
「は、はい……すいません……」
鼻水を垂らしながらラーメン屋の店主に謝った。元はと言えばこいつが変なことを言い出すのが悪いのだ。
「文月さんはねー、僕も付き合ってもいいんだけど、あれだよね。見てくれは悪くないんだけど僕ってああいう強気なタイプだめでさ」
腕を組みながら司は言った。
「恋愛では常に優位に立ちたいからさ、僕。尻に敷かれるなんて以ての外だよ」
司の恋愛哲学など激しくどうでもよかった。
「その点誠は間違いなく尻に敷かれるタイプだね。僕が保証するよ」
「……どうでもいいが、それはないだろ」
「なんで?」
首を傾げて司は尋ねてくる。なんで、と聞かれても俺は明確な答えなんて持っていなかった。
「そりゃあお前、何となくだよ、何となく。男の感だ」
「ふうん……ま、いいか。ちょっと僕も調子に乗りすぎたよ」
言って司は残っていたスープを飲み干した。俺のほうはと言うと、もらった報酬の二割を先ほどはき出してしまっていた。
「でも勝負かあ。勝てるの? 誠」
「勝てる。これは間違いない」
恋愛沙汰の話は全く自信がない。しかしながらこれだけは確信を持って言える。俺が負けるはずがない。
「誠に自信があるんならいいんだけどさ。でもアニ研って結構すごいんだよ」
それは俺だって少しは知っていた。全国大会でいい賞をもらっているとか、その程度だが。
「文化部の中じゃダントツで予算掻っ払ってるし、何に使っているのかは分からないけど。もうそこらの運動部に迫る勢いだよ」
運動部は文化部に比べて予算が多くもらえる、というのがうちの学校の常識であった。
「部員は三人だってのにね」
「そうなのか?」
それは驚きだった。たった三人の部活、しかも文化部で運動部並みの予算とは。確か同好会から部活に昇格するには実績と人数がいるという話だったが、多分三人というのがギリギリのラインなのだろう。
素直にすごいと思った。
「それでさー、結構反感も多いんだよね、予算について。特に映研から」
「ふうん……」
あまり記憶が定かではないが、入学式後のオリエンテーションで映研も部活紹介をやっていた。無駄に人数が多くいたことだけは覚えている。自分たちより人数の少ない文化部に予算が多くいくとは納得でないものもあるのだろう。
「ま、今は関係ないか。それに、そういう面倒くさい対応は全部他の人に任せちゃってるしね」
「いいのかよ、それで……仮にも副会長だろお前」
「いいんだよ、別にね。僕が言いたかったのは油断しないほうがいいよってこと」
言って司はラーメン代の八百円を店主に手渡した。
「毎度あり」
「さあ、行こう、誠」
「ああ」
箸を器の上に置いてのれんを潜った。
辺りはすっかり闇に満ちていた。夏が終わり、これから秋が来ることを伝えるように風は冷たく吹いていた。星がゆっくり西から東へ傾いていく。もうすぐ高校生になって二度目の冬が来る。そう思うと寂しくなった。
「なあ、司」
ポケットに手を突っ込みながら司に声をかけた。
夜の街は酷く暗い。田舎ということに加えてここにはあまり建物の類がないからだろう。バイクは家に置いてきた。何だか今日は歩きたい気分だったのだ。
「なにさ」
「お前、今楽しいか?」
我ながら変なことを聞いてしまった。
「どうしたの? 急に」
「いや、ほら……お前って俺に誘われたみたいな感じでうちの高校来ただろ?」
「うん」
「だから、後悔とか、してないかなって」
「いいんだって別に。僕は望んで来たんだし」
「人は変わる。考え方だって数年でガラッと変わる。その時は間違いないと思った選択肢だって後になって思い返せば……ってこともあるだろ?」
「ははっ」
司は俺が真面目な話をしているというのに何故か笑い出した。
「んだよ、真面目な話だぞ?」
「いや、そんなこと言われると思ってなかったからさ。……やっぱり誠は友達思いだね」
「なんだよ」
「そういうとこ、嫌いじゃないよ」
「別にそういうつもりで言ったんじゃないんだけどな」
「そっか」
司は石ころを蹴り出した。それは思いの外遠くまで飛んで行ってしまった。
「やっぱ、さっき塩ラーメンにしとけばよかったかも」