・・・頑張れ!とは言わない。
だって・・・それが一番きついのだから。
だから、俺は言うよ。「一人じゃない」と。
思い出される上司の罵声。
頭を過る部下のため息に胃がキリキリと痛む。
「もう駄目かもしれない・・・」
職場に行くのが苦痛になったのは何時からだろう。
仮眠室のベットの中、俺は呟いた。
「勝手にせー!」
親父の怒った声が脳裏に甦る。親父が怒るのも無理はない。
最上級とはいかなくてもそこそこ名のしれた総合商社。
今の職につけたことを誰より喜んでいたのは、他ならぬ彼だったのだから。
都市部に住む者にとっては気にも留めないことだが、K県の片田舎で農業に勤しむ親父にとって東京に本社を持つ「立派な会社」に息子が勤めていることは何事にも変えれないステータス、一種の夢でもあった。望まぬ家業を無理やり継がされた親父のコンプレックスの裏返しと笑うのは簡単だったが、満面の笑みを浮かべる顔を見ると少しは親孝行をしたのかなと思っていた。
しかし・・・
「無理はないけどさ」
俺は暗い天井を見上げた。
無理はないけど・・・心の中ではどこか今の自分のことを認めて欲しいと思った。
認めて欲しい?少し、言葉が違う。許して欲しかった。
(本当の自分は何所にあるのだろう?)
反射的に壁に掛けてあった鏡を見た。
「自分探しの旅?自分の本当のやりたいこと?そんなもの何所にあるんだよ!?鏡でも見ろっての。いい大人が仕事もせずに現実逃避してんじゃねーよ!」
言葉には魂が宿る。いつか自分が嘲笑とともに吐いた言葉が、今の己の姿をあざ笑う。
落ちた頬。どす黒く染まった目の下の隈。
鏡には生気を失った情けない顔が映っていた。
「はあー」
俺は大きなため息をついた。
ほんの少し前まで・・・希望に満ち溢れていたはずなのに・・・。
一般職から管理職へのステップアップ。
勿論、大きな不安もあった。だけど、それ以上に今後の人生に希望、夢を見ていたはずだった。
何も分からぬ職場。
自分が分かるのはそれまで専門としてやっていた〇〇だけだった。
きつかった。それ以上に情けなかった。
10年以上に渡って積み上げてきた経験が役に立たない。
前に進もうにも道が見えないのだ。
笑う部下。口うるさい同僚。身勝手極まりない上司。
一日、一日が苦痛だった。
「怒るのも無理はないわな・・・」
俺は使える咽喉を必死に震わせながら呟いた。
もう若くはない。30歳を過ぎた「おっさん」なのに年柄もなく目頭が熱い。
「面白くない。仕事がつまらないんだ」
先ほど電話越しに親父に言った言葉だった。
実に子供じみた言い草だ。少なくてもいい歳の大人が言ってよい言葉ではない。
「ふっふっ・・・」
一人、クツクツと暗い笑みを浮かべる。
笑いながら、また気持ちが沈んだ。
(・・・もういいかな・・・)
弱った心は際限なく落ちていく。
契約している携帯会社の名前や通帳残高・・・行き場のない手は、いつの間にか遺書じみたものをメモ用紙に書き募っていた。
(・・・終わろうかな・・・)
頭を振り、浮かんだ思いを必死に打ち消す。
ガサガサとバックの中を漁った。手に当たる小さなビンと紙箱。
買っておいたミネラルウォーターで胃薬を流し込む。
寝ていると天井が回る。
意も知れぬ不安に襲われ恐ろしくなる。
心がバランスを崩し、自分がおかしくなっていることは十二分に承知していた。
承知はしていたが、現状では医者にもかかれない。
カウンセラーの紹介?社内相談員の設置?
会社を上げてのメンタルヘルスも全てがまやかしで外面を意識したスローガンでしかない。
人の口に扉をたてることはできない。
そして組織は壊れた人間を雇うほど優しくはない。
精神医学が進んだアメリカならともかく「根性」論が支配する日本ではそうはいかない。
精神科への受診など人事評価を下げに行くようなものだ。誰が信じるものか!
「俺はおかしくない」
常態的に続く吐き気と胃の痛み、そういえば最近は下痢ばかりだったな。
辞めようと・・・あまつさえ人生を終えようとまで考えているのに評価が気になり病院に行くこともできない。そんな自分がなんとも滑稽に思えた。
腕にはめた無骨な時計。
見てくれは悪いが、驚異的な丈夫さを誇るその腕時計は電波時計だった。
文字盤の上を滑る時計の針は2300を僅か過ぎようとしていた。
「はあー」
寸分の狂いもなく刻まれる時間に再び溜息が漏れた。
後、一時間で今日が終わる。それは明日の始まりでもあった。
また始まる・・・。
きつかった。頭に鈍い痛みが走る。
体が明日を拒否していることが分かった。
それでも・・・壊れかけたゼンマイ人形のようにギシギシと軋んだ悲鳴を上げる自分の体と心を無理やり動かし前へと進むしかなかった。
明日は戦えるのだろうか?
明日は良くてもあさっては?
1週間・・・1ヶ月・・・1年・・・俺はどこまで保つのだろうか?
枕元に投げ出した会議資料に震える手を伸ばす。
嫌だ・・・見たくない。表紙をめくるだけなのに酷く疲れた。
それでも・・・それでも前に進むしかない。
もうどちらが前かも分からないけど・・・出来ることは「進む」ことだけだった。
戦う社会人諸君!明日も生き残ろうな!
GOOD LUCK!