薄い重力が肺をつついて、取れない息苦しさが焦りを加速させる。
3ケルビンの漆黒に浮かぶ無数の瞬きは、それぞれが巨大な核融合炉の副産物だ。
幼い頃から親しんだ筈の宇宙空間は、だけど十年経ってもたった一人でたゆたうにはあまりに心細い。
眼前に広がる満天の星空――を映すモニタをぼんやり睨み付けながら、小さな宇宙船の船長であり操縦者でもある少年、カウノ・カトウは、やや苦み走った表情で溜息を吐いた。
宇宙服のメットは外してある。二酸化炭素が内側に籠ることはないのが幸いだった。
「とりあえず、もうできることはないかな」
船の内部の照明は最低限のものしか灯されておらず、ほの暗さがより際立っている。
またモニタの端には緑に光るウインドウが開いており、救難信号を発するビーコンが正常に動作していることを示していた。
「1046ペタヘルツ、正常です――ありがたやありがたや、ってかい」
カウノは毒突いた。センスのないビーコンウインドウに、ではない。自身の間抜けさに、であった。
端的に言えば、彼は絶賛遭難中であった。
長い夏期休暇を利用し、彼は地元の星に帰省していた。直線で、およそ十光年。
反物質エンジンの推進力による亜光速移動のみではいつまでたっても辿り着けないが、ワープドライブ航法が確立された現代ではまるで問題ない距離だ。
現にジュニアハイスクールに入学して以来、カウノはたった一人でこの間を何度も往復してきた。元々オートレース――と言っても旧式の二輪車や四輪車ではなく、宇宙船のものだ――が好きなカウノだ。その辺の大人顔負けの操縦技術を身につけていた。
かような背景が奢りを産んだのだろうか。およそ一ヶ月間、散々地元の旧友達と遊び、さあ帰るかと一気にワープドライブを試みた直後に、まさか超新星爆発の余波をそのまま受けてしまうとは。
教習所で一番最初に習う事故事例と言っても過言ではない。過去の遺物である自動車で喩えるなら、バック車庫入れで後部ドアを擦ってしまうようなポカミスである。
幸い機体を覆う斥力場は十二分に動作し、ダメージは皆無。しかし肝心の方位を見失ってしまい、カウノは広い広い宇宙で誰かに見つけてもらうまで、こうしてひとりぼっちで過ごさねばならない羽目に陥った。エンジンは切っているからエネルギー不足の心配こそなさそうだが、非常用食料は一ヶ月分しか積んでいない。場合によってはカーボン冷凍措置もとらなくちゃならない、と考えると、カウノの顔は憂鬱に歪んだ。
「サイアクだよ、ホント」
これでしばらくはヘンノ・サンド――ヘンノ鳥の胸肉を炙ったものにロン・ペッパーをきかせたソースを絡め、レタス、トマト、メルコロリロ山羊の塩辛いチーズを挟んだ、思い出すだけで唾液が止まらなくなるサンド――を食べることもできなくなるもしれない。せっかく旨い店を見つけたというのに、だ。腕を組んで深々と溜息を吐き、カウノは席に深々と腰掛けた。緩やかな曲線は彼の体型に合わせて、包み込むように形を変える。銀色のフレームは見た目に反して柔らかく、一ヶ月の航行でもストレスを感じないように作られている。
椅子が軋む音すらせず、無音が作り出すのは耳鳴りだけ。静寂がカウノの脳を揺らす。しんとした機内に不安を覚え、彼はまずラジオを開いた。しかしチャンネルを回せど雑音すら拾うことも出来ない。広い宇宙ではそんなものだ。大体やってくるのも数年前の番組なのだから、聞いたところでどうにも寂しくなってしまう。二回り前のシーズンのベースボールに、解散したアイドルユニットによるガールズトーク、おもいっきりガセ情報だったスクープ特番。空間だけでなく、時間にも取り残されてしまった気分になる。
早々に切り上げ、カウノはライブラリを開いて、お気に入りのプレイリストを再生する。こういう気分が滅入ったときは、いつもは絶対に聞かないようなやかましい下品な音楽がいい。一緒に口ずさめば、まあ少しは気も晴れるというものだ。
せっかくだから、とついでにカウノはモニタを叩いて、フォルダ奥底にため込んだテキストを開いた。夏休みの宿題のためだ。時代も星も違えど、ジュニアハイスクールの生徒がやることは変わりはしない。
彼はここ一ヶ月、ずうっと放っておいた物理の教科書を開いた。相変わらず、発音すらためらわれるような文字が並んでいる。なに? 高温プラズマ中での原子の振る舞いがなんだって? なんでここにこんな式が出てくるの? 意味不明すぎる。
意味不明と言えば、そう、まさに今耳から入ってくるこの歌だ、とカウノは心中で八つ当たりした。なんだこれ。いつこんなの拾ってきたっけ、と首を捻る。音楽プレーヤーには勿論ロボット検索機能がついており、所有者の趣味を解析しては古今東西の音楽を勝手に集めてくる。これもその一つだろう。でもでもそれにしては随分と、だ、とカウノは再度首を捻った。趣味に合わない。いくら相手がプログラムだと言っても、プレーヤーは大手アンドレ&ボーイ社製の定番、『Speakerboxxx』。ここ100年はライブラリ更新以外、特にエンジン部に関しては全く変更が加えられていないほど安定したソフトだ。今更こんなバグがあるとは信じがたい。
しかし現にスピーカーからはこうしてなぞのうたが延々と流れている。歌詞も不穏なら歌い方もなんだか自棄で投げっ放すような感じでとっても不穏。加えて立体音響まで入ってるのか臨場感が凄い。歌手サエコ・チバの息づかいまで聞こえてくる。おっかしいなあ、俺後部座席にスピーカーつけたっけ。つけてないよな。あれだけ値切ったんだから、買ったときディーラーのお兄さんが吐き捨てるように言ったもんな。「オプションなんてありません!」って。
怪訝に思いながらも振り向いた瞬間、カウノの視界に映ったのは、満面の笑みで拳を突き上げ朗々と歌い上げる、見覚え皆無の少女であった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ええ……?」
カウノは引いていた。どん引きだった。
カウノは宇宙船を二つ持っていた。一つはオートレース用の『TG-II』。ターボもついて、規定ギリギリにチューンナップされた恐ろしく速い船だ。そしてもう一つがこの船『ビッグフット』。小型で馬力は今ひとつだが、燃費が恐ろしく良く、宇宙環境に優しい隠れたヒット商品だった。彼にとってこの『ビッグフット』は最早もう一つの部屋のようなもので、
「ぼぉーくぅーさぁーつぅー」
そんな心安らぐ最後のオアシスに突然異物が飛び込んできたら、固まって全く身動き取れなくなるのも当然の反応である。誰がカウノを責められようか。彼はまだ年端もいかぬ14歳なのだ。
「誰、誰で……ど、どちらさまで……」
カウノは身を縮めて、首を竦めては後を振り返り、ぼそぼそと口を開いた。
『ビッグフット』は小型船のため、座席は前後に一つずつ。誰もいるはずのない後部座席に、一人の少女が座りながら、足をバタバタさせては歌っていた。ぴぴるぴるぴるぴぴるぴー。
カウノの問いに答える素振りを見せず、少女はおよそ四分にわたる元祖電波ソングを歌いきり、満足げに微笑んだ。
「えー、それではランキングに戻りましょう。今週の第三位です、初登場! 『巫女み○ナース・愛のテーマ』」
「ちょっと! ちょ、ちょっと、お嬢さん!」
今しかない。カウノは勇気を振り絞った。小惑星群の隙間を縫う時の、刹那の閃き。コンマ台の秒数でコースを定める決断力が、彼の背中を後押しし、何とか二曲目を阻止することに成功した。
「はい?」
少女は首を傾げた。その仕草にカウノは僅かに躊躇した。長い髪に白い肌、白いワンピース。麦わら帽子でも被れば眩しい日差しがよく似合う夏のお嬢さんの完成だ。間違ってもダークマターを添えるべき被写体じゃなくって、兎にも角にも全く宇宙らしからぬ格好をした少女には、いささかも邪気や悪びれた様子はない。当然と言えば当然だろうか。あんなに図々しく人の船で歌を歌うくらいなのだから、きっとここにいることにちっとも疑問を抱いていないのだろう。何かの手違いであってほしいと、カウノは思った。
しかしここで、カウノはあることに気付いた。言語が共通している。少なくとも同じ人間――ホモ・サピエンスに違いないだろう。それだけでも収穫だ。この星系では、人類の方がややマイノリティーに属するくらい――犬も歩けば宇宙人にコンニチハ、な世の中である。不法侵入者が意思疎通可能な相手であることはまっこと僥倖であると、カウノは小さく頷いた。そして次に、何か質問しなくてはとも思ったが、一体何から聞くべきかと考えてしまい、口が半開きになったままぴくりとも動かなくなった。この少女は一体何者なのか。いつからこの船内に忍び込んでいたのか。今までどこにいたのか。ここにいる目的は何なのか。
「あんた、なんで、ここに、いるの?」
我ながらいい選択をした、とカウノは心中で自分に快哉を叫んだ。そうだ、こいつが誰だとか、いつからいたのかとか、そういうのは二の次だ。勿論知りたい、知る必要がある、知らなければならない――でも最後に集約するのはここだ。なんであんたがここにいる。ちがうでしょ! ここ俺の船でしょ! きみんちじゃないでしょ!
「えー?」
「えー? って、えー?」
「ちょっとねー。そーゆーの、よくわかんないんすよ。はい」
「はい、じゃねえよ!」
さっきまで痛いくらいの静寂に包まれていた船内が、一転して慌ただしさでいっぱいになる。
頭をがしがしと掻くと、カウノは眉を吊り上げた。
「正直に言うんだ。正直に、だぞ。じゃないと、港に着いたら連邦につき出す」
宇宙船には事前に登録され許可の下りた生物以外、持ち込めないようになっている。
別の星に行く際には必ず検疫を受け、消毒に消毒を重ね、超のつくクリーンルームでホコリを落とし、きれいな身体で漸く乗船の許可が下りる。船がパブリックであれプライベートであれ、そこに例外はない。荷物も然り。星間国際法にみっちりと記されている、学生にも馴染み深い取り決めである。
今回カウノの『ビッグフット』では、勿論のこと、願いを出したのはカウノのみである。目の前の少女は知ったこっちゃない。向こうの空港に着いたとき、一体何と言って書類を出せばいいのか? 場合によってはカウノがキップ切られてしまう。それだけならまだいい。昔なら警察の厄介になればちょっとはハクがついたらしいが、オートレースが大好きなカウノとしては、免許剥奪だけは避けたいところだ。であれば、書類と共に連邦職員へ伝える言葉は決まったも同然。「弁護士を呼んで下さい」これっきゃない。
そこまで考えてカウノの思考に疑問が差し込まれた。こいつは一体いつこの船内に入ってきたのか……? 前述の通り小さな空港でも厳しいチェックが入る中、羽虫一匹忍び込むのも難しいのに、だ。
(職員の人が手続きを間違って、この娘が俺の船に誘導されたのか?)
まあ、あり得る話かもしれない。『ビッグフット』は非常にポピュラーな船で、今季販売台数では小型・軽量船カテゴリで三位。カウノの船は十年以上古いものであるが、それだけ長く愛されている船種だ。実際あの空港でも何艘かは見かけたし、この少女が間違って入ってしまってもなんの問題もないだろう。少なくとも、幽霊説よりは全然現実味もあるし、説得力もある。
――そう、幽霊。人類が縦横無尽に宇宙を飛び回る時代になっても、この手のオカルト話は尽きない。カウノの友人にも霊感が強いと自称する者は何人かいる。当初は鼻で笑っていたが、少女の姿を目の当たりにすると、一瞬だけでも彼はその存在を疑った。冷静になればなんて事はない、ないのだが、暗い船内、宇宙という本能的に心を圧迫する恐怖の対象に包まれては、心を静謐に保っておくことも困難極まるというものだ。
「おい、まさか、あんた、自分が幽霊とか言い出さないよな?」
「は? なんで?」
「違う?」
「そりゃ違うでしょ。ほら足生えてますよ。なまあし。おみあし」
セーフ。カウノは心中で一塁塁審として精一杯両手いっぱい左右に空を切った。
「そんで」
「はい」
「本題に入るけど」
「よかろう」
「あんた、なんで俺の船に乗ってるの?」
ん-、と少女は唇を尖らせて、
「やっぱほら、夏ですから。ね」
「ああ」
「わたしも年頃だし、こうして出会いを探して。一夏のアバンストラッシュと」
「アバンチュールな」
「AにBときたらCじゃなくってXですってよ。なんだか余計に表現があからさまと言うか、正直卑猥ですわよね奥さん」
「なんの話だよ……」
このボケ……ホンマ……
カウノは心中で少女を罵倒した。
「えっとね、まあ。言うのは恥ずかしいんだけど、寂しいんですよ。一人旅って」
気持ちは分かる、とカウノは小さく頷いた。今でこそ彼はこうして数日間の旅もなんのそのであるが、昔はこっそり一人でよく枕を涙で濡らしたものだった。宇宙の一人旅というものは、それだけキツい。
「それで、ツレが欲しい、と」
「あと、わたし、お金とかないんで」
「ああ」
「できるだけ財布に優しい旅にしたいなあ、なんて。
どうすか」
「でてけ」
カウノはにっこり笑って座席の後を指さした。
「宇宙服もある。緊急用脱出ポッドもある。
十分だろう」
「FF8ごっこっすか。まさにめぐりあい宇宙」
「なにがまさにだ。死ねっつってるんだ俺は。あんたに」
直接的な表現に、少女はえー、と眉を顰めた。
「あの、もうちょっと、こう、優しさを。未来のジェントルメンよ」
「うるせえ。大体そっちの方がいいかもしれないぞ、これじゃ」
「え?」
首を傾げる少女に向かって、カウノはシニカルに言葉を放った。
「実はだ」
「はいはい」
「俺とこの『ビッグフット』――『ビッグフット』って言うんだけどな、この船」
「お兄さんがつけたんですか? 名前」
「ちゃうわい。そういう商品名なの。メーカーがつけたの。名前」
「あ、そうすか。すんません、こういうの、疎くて」
「……で、この『ビッグフット』は目下現在遭難中。
漂流つってもいい。わかる?」
「え、ええ、まあ」
「一体、いつ、どこの、誰が、拾ってくれるかは全くの未定だ。
俺たちはあと何回寝つけば、ようやく家の温かいベッドにくるまれるか、まさに神のみぞ知る、っつうこと。
いや全く、あんたって運がないね」
「……ホント?」
「ホント」
言いつつも、カウノは怪訝な表情をしていた。少女はあくまで陽気なままに見えたからだ。
彼は戸惑いがちに、
「ずいぶん、いや……その、平気なのか?」
「え?」
「だから、心配じゃないのか?」
「心配? まさか!」
少女は満面の笑みでカウノの座席をばんばんと叩き、
「そんな寂しいひとり十五少年漂流記やってるあなたのために、わたしがいるんじゃないですか!
宇宙で遭難した寂しいあなたと、一人旅の寂しいわたし!
教科書通りのジョブマッチング! 完璧なウインウインの関係! どうよ!」
カウノは頭を抱えた。アホだこの女。全然事態を理解してない。
それとも俺の説明の仕方が拙かったのか? カウノは首を捻りながら、苦み走った顔で腕を組んだ。
「えっとな、もっかい言うぞ」
「え、あ、はい」
「あんたの乗ったこの船、現在漂流中。方角を見失って、どっちいったらわかんない状態なわけ。
下手に身動きとるのは自殺行為なんで、エンジン切って救難信号出して、それしかできないわけ。
おわかり?」
「はあ」
「いつおうちに帰れるかぜんっぜんわかんないわけ」
「へ、へえ」
「あんたも例外じゃないわけ」
噛んで含めるように言葉を重ねるも、少女の反応はいまいちだ。ぽかんと口を開いて、ゆったり相槌をうつばかり。
カウノは改めて頭を抱えた。
「あー、その……どうしました?」
「いいよもう。あんたなんも分かってないっぽいし」
「いや、わかってますって」
「わかってねえって。
死ぬかもしれないんだぞ。運が悪ければ。このまま」
「うわあ。でも、大丈夫なんでしょ?」
「……やっぱわかってねえな、あんた」
カウノはそう言ったが、内心ではさすがに死ぬとまでは思っていない。
彼のとった航路は船の通りが少なくはなく、せいぜい一週間もすれば誰か救難信号を聞きつけてくれると確信していた。つまるところ、苛立ちに任せて彼女を脅したのである。
「まままま、いいじゃないすか」
しかし少女にとっては馬耳東風、分かってて言っているのか全く理解していないのかも判別がつかないくらいの天真爛漫さで、座席にゆったり座っては手を振っていた。
「せっかくこうして二人が知り合いになれたんですから、なにはともあれまずは乾杯しましょうよ。乾杯。しってます? 乾杯」
「知ってるよそりゃあ……」
「じゃ話は早いですね! とりあえず生中でいいっすか?」
「は?」
「生中っすよ。生中。ドラフト・ビアー」
「……ああ、ビールのことね。ってんなもんあるわけねえだろ!」
「えええええ」
「えええじゃねえよきさま。アルコールがそんなに簡単に手に入るわきゃねえだろ、しかもドラフト――非加熱飲料なんて」
連邦の法制下において、現在アルコール――エタノールは飲料用であれ工業用と同じく、購入・管理には届け出が必要となる。というのも、連邦に属しているとある種族にとって、エタノールは猛毒となるのだ。一部の有機溶媒を体内に取り込むと内臓を構成する脂肪分が分解され、そのまま体組織の崩壊に繋がってしまう――とのことで、彼らの星では持ち込むことも製造することも禁じられている、一級の毒物・劇物指定を受けている。
非加熱飲料も同様に規制されている。一つの星でも様々な新種の細菌が生まれては進化を遂げているというのに、数十もの惑星で生まれる量ときたら想像もつかない。それらに対処するため、飲料は様々な滅菌過程――加熱に始まり、逆に吸熱、加減圧、消毒液、放射線――を経ることで、ようやくお役人からのハンコをもらえるようになる。星の中でのみ製造・販売するならこのハードルは低くなるが、一端宇宙に出すとなると恐ろしく厳しい基準をクリアしなければならない。例外とされているスタンダードな『宇宙食』を除けば、これらの基準をクリアする飲料・食品を作れるのは連邦広しと言えどたった三社のみ。嗜好品は、宇宙では、大抵が高級品となるのだ。
「え? そうなの?」
「あんた、ホントになんも知らねえんだな」
「でへへ」
「ちょっとは反省したらどうだ」
きっと睨み付けるも、少女はぽりぽり頬をかいて、僅かに照れた仕草を見せるばかり。
しばらく怒りを瞳に込めていたが、甲斐なしと悟ったのか、カウノは前方に向き直って、どっかりと椅子に座り直した。無視を決め込んだのだ。
「あ、ち、ちょっと、いや、怒っちゃいました? すんません、ほんとにわたし、何にも知らなくて」
「…………」
「ままま、そこでですね、お近づきの印と言っては何ですが、こちらどぞ」
腕を組み目を瞑ったまま黙り込んでいたカウノであったが、耳元で鳴った「ぷしゅ」という音に反応し、首を回した。目の前には汗をかくほどキンキンに冷えた黒色のアルミ缶。デザインはアンティークの域を軽々と飛び越え、最早文化財クラスというレトロっぷり。スペルは果たしてローマ字だろうか、じっと目を凝らしてそれを読む。
「ギネス……ドラフト……1756……?」
缶の口からはしゅわわわという柔らかい泡立ちの音が立ち上り、つられてフルーティーな香りがカウノの鼻を突いた。
「……なに、これ?」
「黒で恐縮ですが、生ビールっす」
「もってんじゃんあんた! つうかなんでそんなもん持ってるんだよ!
未成年だろ!」
「いやあ。だって、ねえ」
まあまあまあと言いながら少女はカウノの手に缶を持たせ、自身もどこから取り出したのか同じ缶を片手に持ち、にやりと笑みを浮かべるとプルタブに手をかけた。ぷしゅ、という音と共に、亜麻色の泡が少しだけ吹き出してくる。迎えるように口を付け泡を啜ると、少女は満足げに頷いた。
「まあ何はともあれ! 二人の出会いに! 乾杯!」
ごちん、と二人のギネスが音を立てる。
あっけにとられるカウノを余所に、少女はごきゅごきゅと350 ml缶を一気に飲み干して、
「うめえ」
大きくゲップを一発放った。
「……………」
まじまじとカウノは缶の裏側、原材料その他が書かれている部分に目をやった。彼は古文――クラシカルな英文学は得意ではない。とは言えここ二年で最低限のことは習ってきたから、そこに書いてあることは少しは読むことができた。
結果。
「お、おまえ、これ、本当に本物のビールじゃねえか! しかも非加熱!」
「だから言ったじゃないですか。生中だって。
そりゃ生中って言ったら普通ギネスは出てこないでしょうけど、ちょうど手持ちがそれしかなかったんです。
がんばりましたよわたし」
だってやっぱり乾杯はビールでしょ-、なんてほんのり頬を上気させて言う少女を、カウノは横目で睨め付けた。
同時に、彼は内心で、この傍若無人な少女に対するある人物評を固めつつあった。
(こりゃあ……箱入りどころの騒ぎじゃないかもしれないぞ……)
最初は余程の世間知らずかただのバカか、最悪精神病(強力な高周波電磁波で神経をやられてしまうケースが、百年ほど前に大流行した。以来、連邦内の人口において二人に一人は潜在的な精神病患者と、大変メジャーな病気になっている)にかかってしまったのか、或いはそれらのまぜものかと、カウノは少女のことを疑っていた。しかしこうして高級品である生ビールをいともたやすく取り出した時点で、カウノの若い脳細胞では少しばかり推理が固まりつつあった。つまり、彼女は実は超のつく生粋のお嬢様で、なーんにも世間の常識とやらを知らずに、悩みも苦労も持たぬまま育ってきた、というものだ。偏見を核にステロタイプで包んだラベリングではあったが、それが彼に安心感を与えていた。逆にここから外れているというのは、カウノの狭い世界を大きく逸脱する話になり、もう手に負えない状況になってしまう。ありきたりでええねん。最後はみな定番に帰っていくのだ。食も、ファッションも、女の子の好みですら。カウノは若い身空で淡泊な世界観を抱いていた。
「そう、それで」
女の子が二三頷くと、後部座席から腕を伸ばし、カウノのそでをちょいちょいと引っ張った。
「乾杯の後は自己紹介。おにいさん、お名前は?」
「…………」
カウノは渋った。こいつの正体がなんであれ――一番突飛な想像としては、どこかの星のお姫様だったとしても――軽々しく友好関係を結ぶ理由はない。危険だ。
その逡巡の隙を突かれたのか、気がつくと少女は目の前のモニターを操作していた。画面に映し出されるのは、
「やさしいぶつり、なまえ、カウノ・カトウ」
朗々と読み上げる少女であった。
カウノは全身からみるみる力が抜けていくのを感じていた。この少女にどうやって相対すれば良いか、まるで見当もつかなかったからだ。突破口すら見当たらない。これまでカウノは様々な種族の宇宙人達と付き合ってきたつもりであったが、彼女はどのタイプにも属さない手合いに思えた。そんな一番厄介な人種と、この小さな『ビッグフット』で、たった二人きり、漂流する羽目になるだなんて――
「カトーさん」
「……カウノでいい」
カウノは自分のファミリー・ネームがあまり好きではなかった。そういった理由から、彼は自然とファースト・ネームを口にしていた。もうこれ以上不用な労力を使いたくない。意識は早くも逃げ道を探していた。
「カウノさん。よろしく! で、わたしは」
少女はすくっと立上がり、腰に手を当て、ギネスの空き缶をずいと突き出し、
「モーリェといいます! ちょっとのあいだ、ずうずうしくも、お世話になりやす!」
わかってるならもうちょっと遠慮してはどうか。この状況を見れば、原理主義的なリベラルだって俺に賛同してくれる筈だ。
カウノの皮肉混じりな視線は、モーリェと名乗った少女の笑顔に曇り一つ入れることもかなわなかった。