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No.28576の一覧
[0] 二里凛の人格診断[ryou](2011/06/28 19:22)
[1] 一章 第一人格[ryou](2011/06/29 04:01)
[2] 右門侘助[ryou](2011/06/27 22:26)
[3] 吸血鬼[ryou](2011/06/27 22:33)
[4] [ryou](2011/06/27 22:40)
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[28576] 二里凛の人格診断
Name: ryou◆1b08c348 ID:46eddab2 次を表示する
Date: 2011/06/28 19:22
 薄暗い路地裏を、頼りない電燈が月の代わりとばかりに照らしていた。
 雨雲に覆われた夜の空。闇が降ってくるような、冷えた空気が路地裏を包んでいる。
 そこを、走る少女が一人。
 背中まで流れた黒髪を振り乱し、息も絶え絶えのまま、それでも全力で走り続けていた。
 切れ長の凛とした瞳も、今は歪んでいる。ときおり後ろを振り返りながら、先の見えない回廊をひたすらに走り続ける。
 出口はまだ見えない。
 とっくのとうに限界は超えている。心臓は馬鹿になったような音を上げ、呼吸は十分な酸素を吸入できていない。
 しかし、何者かから追い立てられる恐怖は、限界なんて感じさせないほどに、大きかった。
 着ているセーラー服とスカートが翻ろうとも、意にも返さない。
 今はただ、その恐怖から逃げ出したかった。
 角を曲がったところで、少女はやっと立ち止まった。
 体全体が脈打つような疲労感。少女、二里凛《にさと りん》は座り込みたい衝動を抑えながら、コンクリートでできたビルの壁に背をつけた。
 こんな道、通るんじゃなかった。
 後悔の念が心を埋めた。凛が空を見上げる。
 そう。雨だ。雨が降りそうだった。
 それだけの理由といってしまうとあまりに粗末だ。しかし凛は帰宅を急ぎ、近道になる路地裏に入った。それが悪夢の、夢でしか味わったことのない、死ぬかもしれない恐怖の始まりだった。
 凛は見てしまったのだ。コンクリートの灰色に包まれているはずの路地裏が、壁と地面全てが赤く染まった景色。異様な臭気を放ち転がる、人だった破片たち。何人だかを判別することはできなかった。揃わない耳や、みかんのように剥かれた頭皮。手足がオブジェのように捨て置かれ、五臓六腑が撒き散らされていた。凛が見たのは、およそ人間とは思えない死体。それと、それを行った男の顔を。
 男の顔は、鼻先から口元までが真っ赤に染まっていた。男は血の海にしゃがみこみ、破片を拾い集めては夢中になってそれを喰らった。
 凛はただ、その光景を呆然と見つめていた。日常とかけ離れた非常識を目の当たりにして、凛の脳は完全に動きを止めてしまった。
 目の前にいるのは確かにヒトの形をしているが――
 ――あれはバケモノだ。
 そして、ようやく気を取り戻し、来た道を全速力で戻っていった。
 走っている間中、追いかけてこないかと怯え、今も角から化け物が現れないか、怯えている。
 呼吸はまだ治まらない。立ち止まったのは失敗だったな、と心中で舌打ちした。足が震えだしていたのだ。疲労か、恐怖か、そのどちらともだろう。きっと、今を襲われたなら、逃げることはできないだろう。ただじっと、生を諦めることしか、許されないだろう。
 だから、凛は祈った。目の前に、あの化け物が現れないように。
 ぽつ、ぽつと、凛の顔に水滴が落ちた。空を見上げる。
 ビルとビルと隙間から覗く小さな空。そこに敷き詰められた黒雲が、ついに降り出していた。一気に雨が強くなっていく。周囲の音は、水がアスファルトを叩く音だけに支配された。
 そろそろ動くべきだ。そう思って、凛が壁から背を離した。
 そのときだった。

 凛の肩が、背後から掴まれた。背中と壁とは、数センチしか開いていないにもかかわらずだ。
 
 凛の肩を掴んだ手は壁より生えていた。水のように波紋をたたせ、その手は次第に伸びていく。獣のような尖った爪が、万力のように肩を締め付け、彼女を逃がさない。
 水面から浮かび上がるような形で、壁の中から、口元を赤く染めた男の顔が浮かび上がっていった。
 男はニヤリと表情を歪め、人のものではない鋭い牙を覗かせている。
 男は、凛の耳元に顔を寄せて、囁いた。
「逃がさない」
 底冷えするような暗い声だった。
 壁からもう一本の腕と上半身が現れ、凛の顎を強く掴んだ。強引に首を倒し、男が凛の首筋へ舌を這わす。
 不快さを感じるよりも、牙が皮膚に触れるたびに恐怖を感じた。ナイフをあてがわれてるような気分だと、凛は思う。
 ナイフとの違いは、脅しの類ではないということだけ。
 死がすぐそばまで近づいている。
 それも、およそ人らしさとは無縁の死に方だ。
 凛が見た、人間であったものの破片と同じように。元が人間だと想像もつかない姿にされる。
 ただ死ぬ事実よりも、凛はそれを恐れた。
 せめて、人らしく死にたい。
 雨に濡れた凛の肌に、男が牙を立てた。 
 途端、雨音の中に、硬い靴音が響いた。
 縋るように、凛は視線をそちらへ向ける。
 レザーパンツと灰色のタンクトップ。どこかみすぼらしい雰囲気の男で、しかし体格までがそうかというと違っていた。格闘技をやっているような、しっかりとした筋肉がついた長身の男だった。
 傘も差さずに現れた男は、凛の襲われている状況を見ても、然したる興味も見せず、何より視線は常に、壁から生えた男を見ていた。
「なんだ、お前。やけにのんびりとしているじゃないか吸血鬼。いつもは喰ったあと、すぐに消えうせるってのに、今日は食後のデザートときたか?」
 吸血鬼と呼ばれた男は、その言葉に反応を示さなかった。吸血鬼よりも、凛こそがその言葉の意味を考えていた。
 人が来たことにほんの少しの安心を感じていたが、それが霧散していくのがわかった。
 こいつは、この長身の男は、首筋を噛み切ろうとしている男と本質が同じなのだ。
 長身の男は無造作に凛たちへと歩を進める。五メートルほどまで近づいたところで、吸血鬼がようやく反応を返した。
「それ以上近づくな、餓鬼」
 吸血鬼が彼女の首から口を離し、言った。男は素直に立ち止まり、軽く顎を持ち上げた。見下ろすように視線を、吸血鬼へと向ける。
「どこから来たか知らないが、ここは俺の餌場だ。何より吸血鬼なんて厄介な奴がそばにいたんじゃ、迷惑ってもんだ」
 男は凛の存在を無視したまま、続ける。
「お前はたまに喰い残すだろ。それが堪らなく迷惑だ。魔術師たちや、坊主どもに気づかれてこの町に来られたんじゃ、それこそとばっちりだ」
 言って、男がまた一歩を踏み出した。

 それを見た吸血鬼は、凛の首筋を噛み切った。 
 皮膚を、肉を、動脈を、神経を、全て一緒くたにして飲み込む。
 少女――凛はは痛みを感じる暇もなく、ただされるままだった。声を出そうと思っても、すでに発声するための息を吐けない。自らの首が半分以上なくなったというのに、状況が理解できず呆けた顔のままだった。骨の見えた首からおびただしい血液が溢れ出し、周囲と少女を染めあげた。



 同時に、吸血鬼は壁に飲まれていた。先ほどとは違い、今度は自らの体を、壁に沈ませていく。
「だから、喰い残すなって言ったろう」
 長身の男は、五メートルの差を一息で詰め、少女がいることを意にも介さず、掌底を放った。
 それは最初に少女の胸を抉り、心臓を破り、背骨を砕き、終いには体を突きぬけ、少女の背後にいる吸血鬼を襲った。
 しかし、それは吸血鬼には届かない。吸血鬼はすでにそこにはいない。掌底はビルの壁に穴を穿ち、止った。
「逃げ足だけは毎回うまいな。まったく」
 男は、突き出した腕に刺さったままの少女を、腕を振るって抜き捨てた。軽い身体がアスファルトにぶつかり、転がっていく。
 雨は血肉を洗い流し、その色は次第に広がって、そして消えていった。



 其処がどこだかはわからない。
 暗く、何も見えない世界。何もない世界。私がいても、私の体は存在しない。概念だけの昏い世界。粘液の中にいるような、おぼつかない感覚。
 私は覚えている。
 首を噛み千切られたこと。心臓を貫かれたこと。それを思い出して、ここがどこかも想像がついた。
 きっと、ここが『死』なんだ。
 自分という概念が、だんだんと奪われていくような、雨に流される血液と同じ、希釈されていくような感覚。
 私の魂は、いつかはこの世界へ消えていく。そんな気がするのだ。
 ここは広すぎるのだろう。果てのない、遠い境界。だから、ここには何もないのだ。何もないことこそが、そこに存在することを許さない。
 広大な世界で、一人きりというのが苦しいように。
 しかし、私は一人ではあるのに、一つではないような不協和音を感じた。
 そう、六つだ。
 六つの光がそこにあった。その全てがきっと私。
 その一つ一つが私を構成する欠片で、それが一つになって初めて二里凛なのだ。
 その欠片が一つ、私から離れていく。
 それが何なのか、私にはわからない。
 それを拾い上げたくても、掴むための手がなかった。それを追いかけたくても、走る足がなかった。
 離れていく欠片を愛しく眺めながら、別れを告げるだけ。
 いや、それが離れていくのか、私が遠ざかっているのか、その確証さえ得られない。
 欠片が見えなくなった頃に、闇が明けた。
 色彩を持った大きな奔流が目の前に現れる。私は、その暴力的な奔流に飲み込まれていった。


 その中で、思う。


 ――きっとあれは、心の欠片で、失くしてはいけないものだったんだ。


 そして私は目覚めたのだ。鮮烈に、有体に死を実感しておいて、私は再び生きることを始めてしまった。



 2.


 目覚めて飛び込んできた世界の光は、あまりに乱暴なものだった。
 いつから目を開いていたのか定かではない。しかし、眩しいと感じたのは今だった。
 私は、生きている。
 それが不思議で、そして喜びを感じない自分が不思議だった。
 私はパイプベッドの上に寝ていた。
 煙草臭く、埃っぽい。黄ばんだ天井と壁。扉は一つ。ベッドの上に窓があり、そこから日差しが入っていた。ベッド以外には、机と、その上には花が飾られている。壁際には何も入っていない棚が置かれた部屋だった。
 こんな場所を、私は知らない。
 上半身を起こそうと力をいれると、全身に痛みが走った。どのくらい、寝ていたのだろう。いや、どのくらい死んでいたのだろう。
 全身の痛みと、酷い空腹とが私を支配している。
「やっとお目覚めか、二里凛」
 扉から入ってきた男が、軽い調子で言った。
 目元まで前髪で隠した怪しい男だった。声色から察するに、二十代後半を思わせる。
「……誰だ、あんた」
「八郎十郎《にはらい ろうじゅうろう》。お前の親戚、六洞家お抱えの医者だ」
 口元に笑みを浮かべたまま、八という男は机の前の椅子に座った。
「ん、知っているだろう? 二里家の家元にあたる名くらい」
 六洞家は確かに知っていた。親戚なんて軽くいえないほど、大きな家だ。なるほど、あの金持ちなら医者くらい抱えていてもおかしくはない。
「いや、驚いたけどね。まさか死体が道を歩いているなんて誰が思う。それに――」
「待て。私は何で生きている」
 八は着ている白衣の内側から煙草を取り出し、一本を噛み、火をつけた。
「死んだはずだって? 確かに、お前は死んでいたよ。どうやって死んだかは知らないがね。恐らく胸部に大穴を空けているはずだ。だが、お前は蘇生した。まあいい。ここは後々説明するとしよう。
 今は何より食事だ。見てのとおりここは、俺の仕事場、八医院ではあるが、治療機材は何もない。そして、死んでいるお前を見つけて今日、一月三日まで一週間がたっている。腹が減っているだろう? 寝ている間、何も食わせていないからな」
 紫煙を燻らせながら、八は笑った。
 医者と名乗っておきながら、なんて怠慢、と思う。
「どれ、飯でも取るか。ん、待てよ。お前は粥くらいしか食べられないか……」
 携帯電話を片手に八は動きを止めた。悩んだ末に、私を見つめて一言。
「お前、粥作れる?」



「いや、すまんね。料理はまるで駄目なんだ。俺は男だし、何より金は困らない程度にもっている。手間を惜しんで金を使う生活しかしていないんだ」
 結局、私は食事を自分で用意することになった。痛む体を苛立ちでごまかし、なんとか拵えた。八が自分の分をせがんだが、無視した。あいつが今食べているのは、出前の蕎麦だ。
 立ち上がって気づいたが、私は今、患者衣を着ていた。それを八に尋ねると、意にも介さず「着ていた制服は脱がして捨てた。胸元にでかい穴が開いていたからな」といった。八の話では、新しい制服を買ってあるとのことらしい。
「でだ。お前はいったい何に殺された。胸に穴が開くほどの傷だ。事故なんかじゃないだろう? それほどのことなら、俺の耳にも入る」
 死因を問われて、答えていいものかを考えた。化け物に殺された、といったところで、果たして信用するだろうか。
 しかし、その思惑は杞憂に終わった。その話を聞いた八は、当たり前のように頷いた。
「化け物か。なるほど、それで納得がいった。首元を噛み切ったのは恐らく吸血鬼で、お前の胸を貫いたのは鬼だろう。
 簡単な話だ。お前を襲ったのは吸血鬼のほう。これは、ただ食事のつもりで襲ったんだ。
 鬼のほうは、首を噛み切られただけのお前を確実に殺すように心臓を貫いたんだ。何、これも悪意から来るものじゃない。
 吸血鬼に噛まれた人は、簡単な損傷では生き返ってしまう。リビングデッドという奴だ。それを嫌って、鬼はお前の心臓を貫いたんだ。死体を、完全に壊すためにね。まあ、どちらにしろ鬼も、正義の味方なんかじゃあないから、それが善意からだろうと悪意からだろうと関係はないんだがね」
「なら今の私は、なんなんだ。リビングデッドという奴なのか?」
「それは違う。もしそうなら俺が殺しておくし、何より日光を浴びても平気だろう。
 お前、眠っている間に何をみた? それが、答えだ。俺から聞いても意味がない。自分で理解するべきだ」
 まるで謎かけだった。知らないことを自らの内側から理解しろとはなんて難しい、と私は思った。
「そうだ。大事なことを忘れていた。これからいくつか質問する。よく考えて答えろ。お前の名前は?」
「二里凛」
「年は」
「十七」
 考えるまでもない事柄だった。なんの為の質問かすら理解ができない。
「なら、これはどうだ。殺されたのはお前だったか。本当にお前は二里凛か?」
 その言葉は、今までの質問とは違い、心の中へ静かに落ちていった。
 私は本当に二里凛か。私は本当に殺されたのか。
 しかし、そこに違和感はない。私は二里凛で、殺されたのは確かに二里凛だ。
 それを答えると、八は口元に手をあて、静かに頷いた。
「六洞の分家が発現する……か。六洞の当主が聞いたらなんと言うやら。まったく飛んだ皮肉だ。しかも六家より外の血からか。六家の生まれならまだ納得がいったというに。いや、むしろ当然というべきか。まあいい、二里凛。このことは、一切口外するな。親族には特にだ」
「いわれなくても誰がしゃべるか。死んで、生き返ったなんて、笑い話にもならない。いったところで、誰も信じはしないよ」
 八は、いいやと首を振った。
「誰もじゃない。確かにすぐには信じないだろう。だがな、六洞という家系と、それに連なる家系はそうじゃない。確証を得られれば、信じるのさ」
「お前はうちの家系を、変人か何かと勘違いしてないか? うちは至って普通だよ」
「普通? あれが普通ときたか。お前は六洞の人間と、その直系である六つの分家と会ったことがあるのか? あそこは異常だよ。異端の権化だ。起源こそが異端なんだ。始まりこそが異端。あれはそうあり続けるようにしている。もとより人間を生み出そうなんて考えてもいないのさ。お前の血はそこから離れてはいるが、しかしそれを含んでいるんだ。だからこそ、蘇生した。その蘇生が、本当に救いなのかは分からんがね」
 人間でないのなら、なんなのかと思ったが、八に問うことはしなかった。もし、それを聞いて、返ってくる答えが――

 ――化け物であるなら。

 死んでも生き返る人間を、人間とは呼ばないだろう。分かっている。私自身わかってはいたが、それを言葉で聞くことは我慢できそうになかった。


   ◇

 私が目覚めた日から一週間が過ぎた。
 入院という形で八郎十郎との奇妙な共同生活を続けていた。
 私の体が痛みを発することはやっとなくなった。郎十郎の話では、もう退院していいとのことだった。
 落ち着いて観察すると、ここがただのマンションの一室であることがわかった。八医院など名ばかりで、2LDKの一室に私を押し込めていただけだ。なによりこの一週間、郎十郎が医師らしいことをした覚えがなかった。
 机の上の花は、水を替えなかったのか茶色に染まるほどに枯れていた。
 郎十郎が用意した真新しいセーラー服に着替え、窓の外を見た。
 雨が降りそうな、嫌な天気。
「着替え終わったか。退院祝いだ。何かほかにほしいものはあるか」
 扉を開けた郎十郎は、前髪で表情を隠した顔をこちらへ向けた。
 私はふと、考えもせずに言葉が漏れた。
「傘。傘がほしい」
 郎十郎は煙草を取りながら、聞き返した。
「そんなものでいいのか。それなら玄関にビニール傘がある。あ、いや待て。あれはダメだ。確かあっちに趣味の悪い傘があったはず……」
 そういって郎十郎は部屋をでて、別の部屋へ入っていった。物を動かすガサゴソという音が聞こえてくる。あまり整理のできた部屋ではなさそうだった。
 帰ってきた郎十郎は、片手にでかでかと唇が描かれた傘を持っていた。
「これをやる。どっかの誰かが置き忘れてった物なんだが、俺は要らないから」
 確かに趣味の悪い傘だった。拒否する間もなく郎十郎が私の手に傘を押し付ける。
「返品不可ってことでよろしく」
「……」
 黙っている私を見て、郎十郎はフッと笑った。
「そういや最初にお前は二里凛かと聞いたな? お前はそうだと答えた。だが、あれは間違いだ。お前はもう、二里凛じゃないよ。そのうち分かる」
「私は私だ」
「そうじゃない。物事の認識っていうのは、自身で行うものじゃない。自分が自分であるという認識は、確かに自分自身で行うことも重要だが、それを決定づけるのは常に他者だ。お前は変わっていないと思い続けてもいい。だが、周囲はそう見ちゃくれないという話だ。その癖、他者の意見に流されて、自分を見失ってしまうと、自分を殺すことになるんだがな。厄介な話だろ。他者は常に、自分を殺しにかかってくるんだ」
「他人の意見なんて、求めちゃいないよ」
「ま、それでいい。もうそうするしかないだろうからな。お前の自宅へは連絡なんてしてないから、帰ったら大変だろうけど、まぁ適当に誤魔化しておけ。男の家を渡り歩いて淫蕩に耽ってましたとでも言えば、五割の親は追及できずに疎遠となって、残りの五割が涙に暮れて道を正そうとしだすさ。君の親がどっちかは知らないが。あ、もしかしたら色情に落ちた娘を襲う父親もいるかも知れんな。ほら、父親にとって娘とは恋人と似たような物である場合が多いし。五割の確率で詰らん追求を避けられるならうまい手だと思わないか?」
「気持ちの悪いことを言うな。そんな馬鹿な話するわけがないだろう」
 ドアの前に立つ郎十郎を突き飛ばすように押しのけて、部屋を出る。狭く短い廊下を右に曲がり、玄関へ向かう。
 あの日、履いていたローファーとは別の、また新しいものを履いて、玄関を開けた。
「では、達者で。これは忠告だが、もう死ぬなよ。死なない命はない。少なくとも、破滅は向かっていくぞ」
 振り向いて、郎十郎の顔を見た。
「言われなくても、もうあんな経験はこりごりだ」
「そのうちにまた会おう。診察も含めてな」
 診察なんて。藪医者のくせに。
 言い残して、郎十郎が部屋へと戻った。さっさとこんな場所から出て行こう思った矢先、玄関先の傘立てが目に映った。立てられているのはビニール傘が一本。私は手に持った趣味の悪い傘と見比べた。
 返品は不可。郎十郎はそういっていたが、この傘、ここに捨てていくのなら返品には当たらないだろう。
 趣味の悪い傘を傘立てにさし、ビニール傘を手に取った。雨が降ったらその趣味の悪い傘、郎十郎が差すのかと考えると、少しだけ気分が晴れる。
 そうして、ようやく私は八医院を出て行った。一週間ぶりの外の空気。大して思うところがあるわけでもない。どちらかというと、足取りは重かった。それは別段、ここに居たいわけではない。ただ、家に戻るのが億劫なだけだった。



小説家になろうさんほうでも投稿させてもらってます。


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