う~む、と伊隅戦乙女部隊の隊長であるみちるは悩んでいた。
悩みの種は、つい最近入ってきたばかりの白銀武である。別に彼がみちるすら手のつかない問題児というわけではない。むしろ、態度を見るにそこら辺の軍人より軍人らしいだろう。
彼女を悩ましているのは彼の性格ではなく、戦術機の腕前である。卓越しすぎたといっても過言ではない彼の実力。この部隊長として身をおく自分すら軽く凌駕するその実力は、ある意味では頼もしく、だが、その反面、みちるの頭を悩ますものだった。
―――さて、あいつは何所に配置したものか。
普通に考えれば、突撃前衛であるB小隊に配属することは間違いない。現在の突撃前衛であるB小隊は水月、孝之、多恵の三人だ。そこに武を配属する。そこまでは問題ない。問題はその次に来ていた。
誰と誰をエレメントにするか。部隊最小構成単位はエレメントだ。故に小隊の中でも基本的にはエレメントで動くことを考えている。B小隊には四人いるためエレメントが二組出来る計算になるのだが、その組み合わせが決まらない。
まず水月と孝之のエレメントは決定だろう。この二人は、この二人でお互いを理解しているが故にエレメントでもその効果を得られる。もしも、孝之が武とエレメントを組んでも水月とのエレメントのときほどの結果を得られないだろうし、水月にしても同じことが言える。お互いがお互いを高める、ある意味においては理想的ともいえるエレメントが水月と孝之の二人だ。もちろん、作戦によっては二人がエレメントを組めないこともあるだろうが、そのときはそのとき。今は最善のときのポジションを考えているのだから、問題ないのだ。
そして、この二人がエレメントと決まってしまえば、武とエレメントを組めるのは一人しかいない。
―――築地多恵。
だが、彼女は新任。とてもじゃないが、武の高速かつ三次元の機動についていけるとは到底思えない。いや、彼がもしも多恵と同じく二次元機動をしていたとしても多恵と武とでは、腕が違いすぎる。多恵に腕を上げろというのは簡単だが、そう簡単に上がるのであれば、このBETAとの戦争は当の昔に終わっている。新任になって最低期間の三ヶ月すら超えていない今の段階でそれを要求するのは、最大時速160キロの車で200キロを出せ、と言っていることに他ならない。つまり、それは事故を起こせ、と言っているのと何が違うのだろうか。他の後衛のA,C小隊との陣営とも考えてみたが、前衛の適正が高い三人ですら、合わせられないのだ。後衛組みでは、さらに無理な話だろう。
ならば、武を後衛へ―――なんてバカな考えは浮かばない。最強を前衛に。それは当たり前の話だ。尤もみちるも最強の一人だろうが、指揮官としては後衛に下がらざるを得ないのだから仕方ない。
つまり、みちるが部隊長としてとれる陣形の中ではこれが最強だろう。みちるは己の判断を信じ、訓練の時間となったことを確認してシミュレータールームへと向かう。今日は、午前はシミュレータ、午後は実機訓練だからだ。
みちるが後にした部屋の机の上には一枚のメモが残ったままだった。
A小隊(右翼後衛)伊隅、朝倉、高原、築地
B小隊(突撃前衛)速瀬、鳴海、白銀
C小隊(左翼後衛)宗像、風間、涼宮、柏木
―――ただし、B小隊を白銀のワントップとした陣形を取る。
◇ ◇ ◇
「ふむ、今日は急なポジションチェンジのわりに中々上手くいったな」
満足そうにみちるが頷く。それが武が参加した夜のシミュレータ訓練の終了時におけるみちるの言葉だった。
武は現在、夕食前までは特殊な任務についていおり、訓練に参加できない―――ということになっている。つまり、他の隊員と連携を合わせる時間は夕食が終わった後の訓練の時間しかないわけだ。だが、そこから実機を動かすわけにもいかず、必然的にそこからシミュレータによる訓練となる。
そして、今は武が入ったことによるポジションチェンジにおける連携を確認していたのだが、これが意外と上手くいき、みちるはその結果に満足していた。
―――まあ、伊達に長年戦っているわけじゃないからな。
武からしてみれば、急に配属された部隊にあわせることなど造作も無い。それだけの年月を戦っているつもりだし、経験もしている。前日に配属され、三日後にはハイヴ攻略戦、などといった無茶もこなしてきた武だ。彼の中で培ってきた経験と年月は嘘をつかない。
それに、このA-01部隊とあわせるのは初めてではない。過去に連携をあわせたこともあるのだ。その点から言えば、かなり楽だったといわざるを得ない。そもそも、A-01部隊のレベルは全体的に高い。低いようならばカバーが必要だろうが、むしろ、そのカバーが邪魔というぐらいにレベルが高い。
武は前面に出てきた敵を叩き、左右は水月と鳴海に任せる。さらに、その支援はA、C小隊の仕事だ。長年、水月と孝之はA-01の突撃前衛としてあわせていたためか、連携が上手く回らないということは無かった。それでは、初めて部隊に入る武に対する支援は、と問われると話は難しい。旧OSとはいえ、それなりに慣れてきた今となっては武一人で要撃級の大隊規模なら殲滅することぐらいは容易いのだ。そんな武に支援する必要があるかどうかすら疑わしい。そもそも、後ろは水月と孝之が固めているため、支援が必要ないのだ。これが武がワントップの配置による効果であり、もしも、誰かとエレメントを組まされていたら、武とて支援が必要ない、というほどに動けないだろう。つまり、すべてはみちるの采配は上手く回ったという結果だった。
―――やっぱり、さすがだな、大尉は。
出会って僅か一日。それだけで武の実力を見抜き、さらには隊員たちのレベルと照らし合わせ、この配置にしたのだろう。もともと、突撃前衛だった築地を後衛に下げてまでポジションチェンジを行ったその大胆な発想に武は、改めて尊敬する上官という意識を強くした。
「それでは、今日はこれで解散」
みちるの声でその場は解散となった。
今日、初めて同じ小隊となった多恵たちは支援の連携のことでも考えるつもりなのか、同期の仲間たちと一緒に出て行った。同じくC小隊の隊員たちも気になったところでもあるのだろう。部隊長の風間を中心してそのまま出て行ってしまった。
その場に残ったのは、みちる、孝之、水月、遙、武の五人だ。
さて、どうしようか、と考えた武の元に孝之、水月、遙の三人が近づいてきた。水月と孝之がいるから連携のことか? と思った武だったが、それは遙がいることから考えても違うような気がする。
「武、PX一緒に行かないか?」
「B小隊の親睦を深めるって意味も含めてよ」
「私もお邪魔かもしれないけど一緒していいかな?」
武の予想は半ば当たり、半ば外れという感じだ。B小隊に関することには違いないが、どうやら親睦を深めるという意味らしい。確かにこっちは孝之を除いた二人のことはそれなりに知っているが、向こうからしてみれば武は出会って僅か一日の後輩なのだ。知りたいことも山ほどあるだろうし、お互いのことを知るという意味合いでは、PXは最適だろう。
そう考えた武は、分かりました、と頷こうとしたのだが、それは彼らとの間を遮るように背後から呼ばれた自分の名前によって制止させられた。
「白銀、割って入るようで悪いな」
「あ、はい。なんですか? 大尉」
振り向くと、話に途中で割って入ったことを気にしているのか、少し気まずそうな顔をしたみちるが立っていた。だが、伝えるべきことを伝えるのが上官だ。だから、みちるは表情を引き締めなおすと、改めて武に告げた。
「博士が、訓練のミーティングが終わり次第シミュレータルームに来て欲しいそうだ」
「香月博士が?」
一瞬、何かあっただろうか、と考える武だったが、その解はすぐに導き出せた。
そうだ、彼女は昨日、言っていた。『明日の夜には出来るから』と。ならば、ここで自分を呼び出す理由は一つしか考えられなかった。
新型OSの開発が終わったということだ。
まさか、本当に僅か一日で出来るとは武も考えていなかった。前の世界でもそうだっただろうか? と記憶をたどってみるが、如何せんそんな細かいところまで覚えていられるほど記憶力のいい頭ではなかったようだ。どちらにしても、その新型OSが早いに越したことは無い。
武は、みちるに礼を述べ、孝之たちに悪いですが、と謝罪した後、強化服に着替えるために更衣室へと向かった。
◇ ◇ ◇
「あら、早かったじゃない」
今でも何かの設定を行っているのだろうか、、一機のシミュレータに何かを入力している夕呼に画面から目を離さないまま話しかけられた。
「まあ、終わってすぐに来ましたから。なにせ、副指令からの命令ですからね」
「はっ、もはやオルタネイティブの第四計画のすべてを握ってるといっても過言じゃない男がよく言うわよ」
武の冗談は、夕呼によってすぐさま嫌味として返された。ここら辺の感覚はどうやら、武はまだまだ夕呼には適わないらしい。この手の冗談ごとは、おそらく夕呼相手には軽く片手であしらわれるだろう。おそらく、謀略、知略なら互角をいっていると思うのだが。まだまだ、修行不足だな、と武はこっそり思った。
「それで、出来たんですか?」
「β版といったほうがいいかもしれないわね。とりあえず、あんたから聞いた機能は全部入れたつもりよ」
ようやく設定が終わったのだろう。最後にエンターキーを叩いた夕呼は白衣を翻し、武と向かい合った。
「β版としてもずいぶん早かったですね」
「まあ、社にもかなり手伝ってもらったからね。私は理論と根底部分。外回りとバグつぶしは殆ど社よ」
社。霞の苗字。彼女の名前が出てきただけで武の心を軽く揺さぶる。
そういえば、おそらく霞だと思われる今朝の行動も気になるということもあって武は夕呼に霞について尋ねることにした。
「―――で、その霞は?」
「さあ? あの部屋じゃない? なんか、このOSが完成してからずっとあの部屋にいるみたいだけど」
と、めんどくさそうに武の言葉に答える夕呼だったが、その途中で何かに気づいたのか、ん? と思案顔になり、少し考えると真面目な顔をして今度は夕呼が武に尋ねていた。
「そういえば、あんたが来るって言ったら、OSの動作パターン取りに付き合わないって言ったわね。珍しく……いえ、初めて『いやです』なんて言って」
事情を知っている夕呼はそこでくくっ、と笑う。
おそらくこの状況を面白がっているのだろう。狂科学者や魔女とまで呼ばれた自分を丸め込んだ目の前の青二才にしか見えない青年が、たった一人の少女の行動に一喜一憂している。まるで、じゃんけんの様な関係。その権力関係に夕呼が愉快に思うのは不思議ではない。
「あんた、まだ相当嫌われているわよ」
武は夕呼の言葉に衝撃を受けていた。武とて拒絶されているのは分かっていたが、まさか、同じ部屋に存在したくないほどに嫌われているとは思わなかった。しかも、半分仕事ともいえることを拒絶してまで。それは、夕呼がいれば、問題ないという判断をして霞が引いたのか、あるいは、本当にただ武がいるからという理由だけで彼女が拒絶したのか分からないが、どちらにしてもこのままの状況には到底していられない。
――― 一度……ちゃんと話さないとな。
その覚悟を武は決める。まだ、何を話していいのか分からない。だが、それでも、武は霞と話さなければと思った。
一度は、拒絶されたことに心の傷を負い、霞が怖がっていることもあって、ゆっくりと武に慣れてくれればいい、と霞の積極性に期待したが、そもそもそれが間違いだったのだ。こちらか行かなければ彼女は頑なに武を拒絶するだろう。彼女が恐怖で壊れない程度にこちらから出向いてやる必要があるということを武は改めて考えた。
しかし、その前に武にはやらなければならないことが目の前に存在している。
もちろん、霞のことは武にとって重要事項の一つだ。だが、仲間たちのことも霞と同じぐらいに大切なのだ。だから、武は目の前のことに集中する。この一つの新型OSが仲間を護る新しい鎧、あるいは剣となることを願って。
「―――先生、新型OS動かしましょう。たぶん、まだ調整が必要なはずですから」
落ち着いた様子でシミュレータへと向かう武に夕呼は面白くない、といった表情をする。おそらく、霞から嫌われているという事実を知って落ち込む武でも想像していたに違いない。だが、その様子を一切見せないのだから、夕呼からしてみれば、期待はずれもいいところだったのだろう。
だが、それで不貞腐れるほど夕呼も子供ではない。分かったわよ、と残してシミュレータへと入る武に代わって自分はシミュレータを制御する管制室へと入っていった。
結局、その日のシミュレータは一時間程度で終わった。
武が、気になったいくつかを指摘し、その日はすぐに解散となった。夕呼は、明日には軽く修正しておくわ、と言ったが、夕呼の目の下の隈が気になった武は、無理しないでくださいね、と労わりの言葉を掛けて、その場を後にするのだった。
◇ ◇ ◇
新型OSのシミュレーションが終わった武は外に出ていた。
なんとなくではない。少し外で走り込みをしようと思ったのだ。如何せん、訓練の量が足りない。日中に行う訓練は訓練兵の訓練であり、衛士としての訓練ではない。故に、昼間の運動量では武の身体が鈍ってしまうと考えたからだ。
ちなみに、戦術機に乗るのはシミュレータとはいえ、かなりの体力と精神力を使うため、一日中戦術機に乗ることは走りこみよりもよっぽど鍛えられるため、一日戦術機に乗る日はこんなことはしない。
さて、走りこみを行おうか、と考えていた武だが、その前に武の目に入ったものがあった。
―――月だ。
遥か上空に浮かび、この漆黒の闇を優しく照らすかのごとく輝く月。
あの世界にいた頃、縁側から月を息子と娘を膝の上に乗せて月を仰ぎ見ることがあった。
『あの月は、父さんたちが戦って取り戻したんだぞ』
と、自慢するように息子と娘によく語り聞かせたものだ。あの地に散っていた英霊たちの英雄伝を。
あの世界で月を取り戻した作戦は『ムーンティア作戦』と呼ばれた。月の涙――それを拭うための作戦だと。
概要は簡単だった。一番最初に攻略するハイヴをオリジナルハイヴで行うというもの。幸いにして地球のハイヴの情報は月のハイヴには届いていない。つまり、人類に対抗する情報を一切持っていないということだ。ならば、人類に対抗するために生まれてきた光線級は一切存在せず、制空権はこちらにある。そこに勝機を見出したのだ。
結果から言えば、その計画は多大な犠牲を払ったとはいえ、上手く運ばれた。月のオリジナルハイヴ攻略は桜花作戦と同様に月ハイヴのすべてのハイヴの進化を止めることに成功したのだった。
武はその記憶を目を瞑って反芻する。決して武は忘れない。あの世界での月を奪還するために散っていった英雄がいたことを。その犠牲の元に自分はそこに立っていたことを。
やがて、彼らのことを思い返した武は、目を開き、月に手を伸ばし、手の平にその月を収めたかと思うと、その手を月を握りつぶすようにぎゅっと握った。それは、未だこの世界ではBETAに支配されている月への宣戦布告。
―――待ってろよ。地球の次は……お前たちだ。
「ん? 白銀か」
月への宣戦布告を行っていた武に近づく影が一つ。ん? と呼ばれたことに疑問を持った武が振り返ってみれば、そこに立っていたのはポニーテルのように髪を束ねている御剣冥夜の姿があった。
昨日のこともあるが、お互いの間に気まずさは無い。それは今日の訓練の間で武も確認した。確かに、最初は若干硬いような気がしたが、それも最初に武が普通に挨拶したことから霧散した。
一緒に朗らかな顔をしてやってきた千鶴も関係してるのかもしれない。もちろん、慧が一緒にやってきたことを邪推してまりもからとめられるまで騒ぎになったのは言うまでもない。ちなみに、武はその様子を懐かしいな、という思いを抱きながら見ていただけだ。どうせ、何か言っても巻き込まれるだけなのだから。
「めい―――御剣か」
あまりに不意を突かれたせいで、危うくあの世界で呼んでいたように『冥夜』と口に出しそうになるが、それを何とか押さえ、苗字で呼ぶことが出来た。
武が冥夜たちのことを昔のように気安く呼べないのは、やはりあの世界での数十年が原因だろう。良くも悪くも武は大人になってしまったのだ。武からしてみれば、仲間。だが、相手からしてみれば初対面の相手からいきなり気安く呼ばれる。それはいらない警戒心を呼びかねない。そのことを懸念して武は無難に苗字でしか呼べないのだ。
だが、気を抜けば先ほどのように前の世界のように呼んでしまいそうになっていた。
しかも、相手は勘の鋭い冥夜だ。現に今も武が一瞬、別の言葉で冥夜を呼ぼうとしていたことに気づいたようで訝しげに武を見ているような気がする。だから、武は冥夜が何かに気づく前に問いかけることで何とか誤魔化すことにした。
「なにしてたんだ?」
「あ、ああ、見て分かるだろう? トラックを走っていたんだ」
冥夜も武の問いで考えることを中断させられたのか、特に気にした様子もなくなっていた。とりあえず、誤魔化すことには成功した、と内心安堵の息を吐きながら武はさらに言葉を続ける。
「何か罰でも受けたのか?」
「そんなわけ無いだろう。日課だ」
はて、冥夜にそんな日課があっただろうか? と思うが、武には分からない。分からないというよりも忘れているだけだろう。60年前の記憶をすべて覚えていられるほどに武の脳は優秀ではなかったらしい。そもそも、冥夜はこんなことで嘘を言うような小さい人間ではない。だから、武の記憶に無くても、冥夜の言葉は信じられる。
「なるほど、自主鍛錬か」
自分に厳しかった冥夜だから、そんなことをやっていても不思議ではないといっても、武は素直に感心した。この訓練校に入って一年も経たない―――しかも、女の身で昼間の訓練だけでも相当きついはずだ。だが、それでも夜にトラックを走ることを日課とする。
もしも、冥夜の中の信念がやわなものであれば、そんなことを毎日続けるのは不可能だろう。
もっとも、武は彼女の中にある信念が真剣のようにまっすぐで曲がることが無いことは知っている。なにせ、信念だけなら、彼女とよく似た姉を知っているのだから。
そう、武は知っている。彼女の決意を、覚悟を。それはもはや霞んでいるといっても過言ではない記憶の中。もしも、このままこの世界で過ごせば軽く上塗りされるであろう記憶だ。
だから、武は忘れないように。あの世界で尊いと感じた冥夜の決意をもう一度聞きたくなった。それは、あの世界の記憶の冥夜ではない。この世界の御剣冥夜という一人の人の口から聞きたかったのだ。
その言葉を聞くために武は態と不思議そうな表情を浮かべて冥夜に問う。
「どうしてそんなに頑張るんだ? 昼間の訓練だけでも十分だろう」
「私は、一刻も早く衛士になり、戦場に立ちたいのだ」
「―――なぜ? と聞いていいか?」
武の問いに冥夜はやや考えるように腕を組んで目を瞑った後、何かに思いを巡らしているのだろう。しばらく、時間を置いた後に再び目を開けて、静かに答えた。
「月並みだが、私には護りたいものがあるのだ」
やっと聞きたい言葉が聞けそうだった。武が聞きたい言葉はその言葉の向こうにあった。武は、ともすれば、急かしてしまいそうな口を押さえてゆっくりと問いかける。
「なにをだよ?」
武の問いに冥夜は遠くを見つめながら感慨深く、彼女が護りたいものを口にする。
「――――この国を、この国の民を、そして、日本という国をだ」
―――ああ、それでこそ冥夜だ。
その言葉を聞いて武に笑みが浮かびそうになる。
その想いにどれだけの決意が篭っているか白銀武は知っている。
もしかしたら、それは彼女が政威大将軍の妹だからかもしれない。将軍家に生まれたものとしての血がそうさせるのかもしれない。だが、武からしてみればどっちでも構わない。どちらにしても、その思いは本物だ。源流が何であったとしてもその気持ちが嘘でないならば、構わない。
どちらであろうとも、御剣冥夜が、この国と民を愛していることには違いなのだから。
「そなたにも何かあるだろう? 護りたいものが」
冥夜はやっぱり冥夜だった、と武が懐かしい思いをかみ締めている最中に今度は冥夜が尋ねてきた。冥夜が答えたのに武が答えないなのは不義理だろう、と考えた武はふと思い浮かべる。自分が前の世界で護りたかったものを。
一番に思い浮かべるのは―――やはり、愛しい霞、子供、孫だろうか。武が軍人という場所にいて一番護りたかったのは彼らだ。だからこそ、武は世界の平穏のために軍のトップに立ち続けた。
だが、それは前の世界ですべて失った。だから、今、一番護りたいものは? と尋ねられたなら、答えは言うまでもなく仲間だ。
前の世界で誰も救えなかった、と嘆いた自分が、この世界では護れるかもしれない、と思っている仲間だ。その中には当然、目の前にいる冥夜も含まれている。
それを口に出すのは簡単だ。だが、それを聞いて冥夜はどう思うだろうか。出会って一日もたっていない男が仲間を護りたいという。怪訝な思いを抱かせるのは間違いない。だから、口にしたのは―――
「オレは―――明日を護りたい」
「明日を?」
「ああ、誰もが明日が来ることを当然と思えて、今日を笑って過ごせる時間を護りたい」
今の時代では困難と思われること。だが、それでも武は護りたいと思った。
過去に失った仲間たちと当たり前に明日が来ることを確信して笑って過ごせる今日を。
武の言葉を聞いた冥夜は一瞬、呆然としていたが、それでも武が言いたいことを租借したのか、ふぅ、と息を吐いて尊敬するような微笑を浮かべながら口を開いた。
「何故にそなたが『特別』といわれる意味が分かった気がした。日頃から自主鍛錬をし、己を磨かなければあのように鍛え上げられることは不可能だからな。そして、そのためには強い気概が必要だ」
冥夜が言っていることは、今日の昼間の訓練のことだろう。完全装備で走る武に対して、完全装備ではない冥夜たちを半周程度置いてきぼりにしたままゴールしたのだから。
確かに武の身体は20歳の全盛期の身体なのだから、当然だ、と言ってもいい。だが、そこまで鍛えるためには、武とて信念を持って日頃から鍛錬に費やした結果なのだ。
仲間が犬死ではなかったことを証明するため、仲間の願いであったBETAの殲滅を心に誓っていたから。当然、苦しいこともあった、逃げたいと思ったこともあった。それでも、霞に支えられ、仲間たちの思い出にしか残っていない言葉に支えられ、武は戦い抜いたのだ。
武の心の中に刻まれている言葉の一つ――――
「目的があれば、人は努力ができるからな」
元は冥夜の言葉。だが、それは武の中で息づいてきた。そして、武の教え子たちにも生きているはずだ。冥夜の言葉はきっと、あの世界で武が死んだ後にも生きているだろう。
冥夜も武の言葉を聞いて、感心したように頷く。
「目的があれば、人は努力できるるか……簡潔だがいい言葉だな」
「ああ、オレの尊い人の言葉だからな」
その言葉を最後にお互いに沈黙が舞い降りる。
何を話していいのか分からないといったような居心地の悪い空気ではなかった。冥夜は先ほどの言葉をかみ締め、武はただその場の空気に身をゆだねているだけ。
そして、その沈黙を最初に破ったのは、冥夜だった。
「ところで、そなたは何をしにきていたのだ?」
ああ、走るために―――といいかけたところで、武の頭の中に不意にある考えが浮かんだ。
今朝は、千鶴が謝りに来た。少しだけ自分を自覚した。慧は分からない。彼女は、他人に頼ることが悪いことだ、と思っている節があるから。では、目の前の冥夜はどうだろうか。彼女が背負っているものはある意味で207小隊の中で一番重い。207小隊の仲間たちも気づいてはいるのだろう。だが、それでも口にはしない。口にしないことで、その冥夜との確実な隔たりを設けず、曖昧にすることでどうにか付き合っている。
もしも、本当のことが今、知られたら確実な壁が出来ることは間違いない。もう少し、彼女たちが仲間としての意識を持ってくれれば話は違うのだろうが。
だが、冥夜も今のままでは、知られまいと距離をとりがちになってしまう。ならば、その距離をとらないように少しだけ手伝いをしてやろうと考えた。
彼女が距離をとらないようにしてやるにはたった一つでいい。冥夜が恐れていることが起きないということを教えてやればいいのだ。少なくても、ここにいるたった一人の人間は。
「――夜を感じに」
「……白銀。そなたは詩人だな」
なんとなく呆れたような冥夜の言葉。自分でもそう思っているだけに苦笑してしまう。だが、いくらなんでも直接的にはいえないだろう。
「夜の静かさはいい。闇に包まれる夜は恐怖かもしれない。昼の影かもしれない。でも、夜は闇じゃない。太陽の輝きを反射した月も輝いてる。夜空には星も煌いてる」
最初は、笑いながら聞いていた冥夜も途中から表情が硬くなった。当たり前だ。その事実は、誰もが知っていい事実ではない。少なくとも訓練兵ごときが知っていい事実ではないのだ。
武は、冥夜の表情が硬くなるにも関わらず言葉を続けた。
「冥夜、当たり前だけどな、昼と夜が逆転することを信じているバカはいない。それにもしも、それが可能だと知ったところで、月がいなくなったところで、星は、煌くことをやめやしないさ」
そこで言葉をとめて武は、冥夜を真正面から見つめる。冥夜の目には先ほどとは違い驚きの表情を浮かべていた。
「白銀―――そなたもしや」
「ああ、全部知ってる」
武の答えを冥夜は予想していただろう。だが、それでも想像しているのと直接口から聞くのでは全然違う。故に冥夜はさらに驚愕したような目になっていた。
当然だろう。冥夜の頭の中では、彼女に関する事実が知られれば、誰もがどこかで壁を作ると思っていたからだ。いくら隠そうともそれは不自然な形となって現れる。
だが、冥夜の目から見て武の態度には何所にも不自然なところは無かったのだろう。朝食のときも、夕食のときも仲間のように話に加わってきた。だからこその驚愕。冥夜の中にあった事実が壊れたのだから。
そんな冥夜の心が手に取るように分かった武は、慈愛の笑みを強くし、冥夜から視線を外し、空に浮かぶ月に目をやった。まるで、夜を見守るように輝く月。それは、冥夜の傍にいるあの人を髣髴させた。
おそらく、武が冥夜の事実を知っていることと態度が普通に接してくることへの矛盾を感じて冥夜は戸惑っているだろう。顔を見なくてもそれを武は理解できた。だが、その行動は武からしてみれば、当然のことなのだ。なぜなら―――
「人から言わせると、オレは無礼者らしいぞ。だから、オレはお前が何者であっても態度を変えるつもりは無い。お前は、207小隊の御剣冥夜……そうだろう?」
最初は驚愕に満ちていた冥夜の表情だったが、やがてその顔に笑みが浮かんでいた。
冥夜が恐れていたのは、彼女の出自を知られたら、そこに壁が出来てしまうことだ。仲間との間にできる壁。今でも、そこはかとなくできている壁に冥夜が気づいていないはずが無い。だが、その常識を覆す人物が目の前にいた。事実を全部知りながらそれでもなお、態度を変えずに接してきた男。
それは、おそらく冥夜の希望となりうるだろう。
『207小隊の御剣冥夜』
そのことだけを評価してくれる人間がいる。たとえ、冥夜のことが明確に知られても一人ではない。
その事実だけで、御剣冥夜はきっと前に進める。そう武は信じていた。
それに武が信じているのはそれだけではない。
「それに、さ。今はオレだけかもしれない。だけど、いつかお前のことが白日の下に晒されても大丈夫だろうって思ってる。お前がどんな出自であろうとも、あいつらだって仲間と思ってるさ」
「……そうだろうか?」
不安げに言う冥夜。そうだろう。常識的に考えれば、武の考えのほうが稀有なのは間違いない。そして、その稀有さが残りの四人に備わっているとは限らないのだから。
武は、その不安そうにしている子供を見たような感情を抱き、冥夜の不安を取り除いてやりたいと思い、考えないうちに言葉を口にしていた。
「ああ。もしも、そうじゃなかったら、オレが何とかしてやるさ」
もっとも、武が出て行く必要なんてないだろう。なぜなら、武の中に残っている最後の記憶の中では、彼女たちは、冥夜のことを知りながらも仲間だった。最期の最期まで彼女たちは207小隊だった。ならば―――ならば、何も心配は要らない。今は、ただ土台のようになればいいだけだ。
御剣冥夜という彼女が少しだけ仲間として前に進むために―――
「―――白銀」
「ん?」
「そなたに感謝を」
ただお礼を言われているだけ。それだけにも関わらず、武の心の中はたった一つの思いに支配されてしまった。
―――ああ、綺麗だ。
月明かりの下で、彼女が持つ黒髪が輝き、よほどに嬉しかったのだろう心の底からの綺麗としか形容できない笑みに、思わず武の胸が一瞬、息を呑んだ。
どれだけ年を経ていようとも、美しいものを美しいと感じる心までは失わない。さらに冥夜が持つ心の強さもその美しさを引き立てていた。
「いいさ。オレたちは仲間だからな。これぐらいは当然だ」
息を呑み、意識を一瞬奪われた武だったが、なんとかその言葉を口にすることができた。
どうやら、それは冥夜に動揺と取られなかったようで、特に気にすることも冥夜は次の言葉を紡いでいた。
「いや、それでもだ」
「なら、有り難く受け取っておくさ」
そういってお互いに微笑み合う。今度は沈黙を挟むことなく、本来の目的である走り込みに向かうために別れを告げようとしたのだが、それよりも冥夜に先手を取られてしまった。
「そうだ。白銀、私を仲間と思ってくれるならば、一ついいだろうか?」
「なんだ?」
「そなたを―――名前で呼んでも構わないだろうか? むろん、私のことも呼んでくれて構わぬ」
それは武にとっても願っても無いことだった。互いで名前で呼ぶことは仲間に近づける。あの時は、武から踏み込んだ領域だったが、今度は冥夜から踏み込んでくれた。これが、最初の前進というのなら嬉しい限りだ。
だから、武は快諾する。
「ああ、もちろん」
「―――感謝を。ところで、そなたは、今からどうするのだ?」
「ちょっと走りこむさ」
その言葉に冥夜は少しだけ残念そうな顔をしたのだが、武は気づかなかった。
「そうか。ならば、また明日だな。おやすみ―――タケル」
「ああ、また明日。―――冥夜」
お互いに別れを告げ、武はトラックへ、冥夜は基地の中へそれぞれ戻っていく。
基地へ入る前に冥夜が振り返るのを夜空に浮かぶ月だけが優しく輝きながら見守っていた。