夜の緞帳の下で閃光が瞬いた。
遅れることわずか、静寂(を切り裂くようにして乾いた銃声が響き渡る。
銃――それは殺人の道具。
人類に示される究極の罪科を遂げるために、その手段の一として鍛成されてきた鋼鉄(。
その呪具はいとも容易く人の皮膚を食い破り、血を呑み下し、命を刈り取る。
中世欧州にて発明されてから幾星霜、弛むことのない研鑽を受け続けてきた。
人の世で成される技術的な革新と歩みを同じくしながらに、その銃なる武具は自身のアイデンティティーを強化してきたのだ。
多大なる血が流れ、数多の命が失われる――堆積された歴史とそこに内包される悲劇群は、その有用性を顕示するに十分なものであったろう。
だからこそ、その警官は自らが目にした光景が信じられなかった。
真っ直ぐ前方へと向かって突き出された彼の右腕、そこには携帯用の拳銃が握られている。
漆黒の紗幕を色づけるかのようにして白煙が揺蕩(い、また硝煙が発する独特の匂いも微かに漂っていた。
その状況が示すのは、彼が先刻銃撃を行ったという事実に他ならない。
治安の維持に資するこそを使命とする権力機構――なればこそ、彼はその一員であるに相応の能力と自制心とを兼備しており、当然ながらむやみやたらに他者を傷付けんと企図するような人間ではなかった。
そもそもが銃器の使用には法的な制限が存在し、それを満たす条件下においてしか許可されることはない。
しかし、彼は撃った。
厳密な意味では、認められるべき正当防衛の範疇に含まれない行為。
しいて表現するならば、人間生来の防衛本能に基づいたとでもするべきだろうか。
とにかく、その警官は自らの意思の下、対象に向かって発砲したのだ。
「……ッ!」
尾を引くような反響音が静まった後、息を呑むことになったのは撃たれたはずの対手ではなく、銃弾を放ったはずの警官の方だった。
そこに含まれていたのは困惑と、そしてまた恐慌にも似た畏(れ。
状況が理解できないことへの戸惑いと、状況の理解を拒まんとする恐怖感。
「ば、バ……バケモノだ……」
バケモノ――彼はそう口にする。
翻って彼の対面へと視線を向ければ、なるほど。
「ほう……ケモノと申したか? 中々に言い得て妙であるな。然(り然り、吾は化者(にして怪物(にして獣(よ――」
朧に仄明る月の下、そこに佇むは妖(なる異形。
その姿形が奇怪であるというわけではない。
むしろ外見情報のみを紐解くならば、それは紛れもなく人型である。
背丈は目算で六尺前後であり、痩身として類型されそうな体格をしている立姿。
眼差し涼やかなる面(の貌(りのみを切り取れば、爽やかな美丈夫であると評するに吝(かではないかもしれない。
しかし、そんな的外れな印象を抱くのは刹那のことに過ぎないだろう。
視界を彩るは黥面文身(――その体躯の表面を縦横無尽に走る大小の墨の文様(。
それはまさしく異様であり、異容であり、異妖であった。
さらに視線を移せば、次に見たるは異形なる所以(。
まず目に飛び込んでくるのは、縄に通されて上半身一面に巻きつくように吊り下げられた頭蓋骨の数多である。
人間のそれであるのは一目瞭然のこと、大小や形状からその中には老若男女の別なく取り揃えられていることが窺える。
遺物より立ち昇るは、生への執着と無念の残香。
どうしようもなく禍々しく、とてつもなくおどろおどろしい――濃密なる死の気配だ。
警官は我知らぬうちに震えていた。
対峙している存在の異常を改めて認識してしまったがゆえに。
自らがこれから辿るであろう陰惨な未来絵図を容易に描けてしまえたがために。
そんな彼の動揺を意に介する風でもなく、声が投げられた。
低き音階ではあるが明瞭であり、まるで脳内にて割鐘(を撞(かれたとでも錯覚してしまわんかのような――そんな重厚なる響きが伝導する。
「大和の狗(――大王(の簒奪者の子孫にして、皇(の僭称者の末裔よ。汝(、吾(らが結界(を踏み越ゆる者、その名を逸(く申すがよい」
威風を誇示するかのようにして放たれた誰何(の声。
しかし、警官は答えない。
いや、正確を期するならば、彼は応答が可能な心理状態下にはなかった、とすべきだろう。
任官時に留意事項の一つとして知らされていたし、これまでの経歴の中で様々な噂として聞き及んでもいた。
山(には関わるな――それは警察組織において口伝されてきた、暗黙にして絶対の不文律。
その律するところは、上層から末端に至るまでの警察機構だけには留まらない。
政官済の有力者によって構成される国家の指導部はその存在を認識しながらに無視を決め込んでおり、また国民に対しては徹底した秘匿隠蔽が行われているのが現状だった。
山(は厳然として日本国の領土の内側に存在している。
しかしながら、その主権の及ぶを拒み、同様にその法規に則るを是としていないのだ。
公式に認められておらず、また自身も特段の宣言を行っているわけではないものの、それは一種の独立国家の体裁を有していると換言できるかもしれない。
山(とは一個の完結した共同体だ。
存在を周囲に喧伝することはないが、それは自分たち以外の社会共同体に対して一切の興味がないからであろうと推測されているのである。
いつの時代にその萌芽を見たのかは不明であるが、「孤高を保ち、隔絶を是とする」――その在り方は建国の古(より同一。
数多の戦乱を越え、幾多の争乱を経ながらに千変万化する国際社会や国家群――それらと一線を画すというよりはむしろ対照を成すかのようにして、微塵も変わらず、寸毫(も揺るぎなきままに。
合従連衡を繰り返す横軸とは関与せず、歴史という縦軸のみに沿って紡がれてきた現代の幻想譚だ。
しかし、隣接地域にて跋扈する組織群――それらを横目にしながらに干渉の一切を拒絶するという理念を長きにわたって貫くのは、言葉にして表すほどに易しいことではない。
是非を論じるまでもなく歴史に倣うとするならば、その最終的な帰趨は彼我の軍事的決定力に拠ってくる。
鎖国状態とは当事国の抱く理念のみによって成立するにあらず、他者間におけるパワーバランスの拮抗均衡によってこそ実現を見るのだ。
上記の文脈はとりもなおさず、山(が国家単位を向こうに回して抗し得るだけの暴力を保有してきたのではという憶測を暗なる形で肯定する。
なればこそ――。
「呵呵呵(ッ! 黙し秘するも悪しからんや。しからば吾もその蛮なる勇に敬意を表そうではないか、いと小さき狗(の仔よ」
山(について部外者が知る内容は多くない。
その存在は明らかなれど、共同体の内部についての情報が外部へと漏れ伝わってくることはないのだ。
それはなぜか――その問いに対する解答は、今この瞬間に警官の目の前にこそあった。
「四守門が一つ、坤(が彌馬獲支(――汝が生を終わらせる名よ。死出の旅路にて道中の誉れとでもするがよい」
名乗りは短く。
しかしまるで祝詞(を奉じるかのような荘厳を伴いながら、門番は自らの名を告げる。
涼やかなる風に乗って林へと吸い込まれていく響きは、さながら死刑宣告のようでもあった。
この段に至って、警官は自失から回帰する。
事の次第が呑み込めず茫然としていた彼ではあったが、これ以上の猶予を本能が許さなかったのだ。
抵抗しなければ殺される――異形を纏う雰囲気の変化からもそれは自明であった。
おそらく抵抗したとて無駄だろう、という諦念はあるが、それを運命(と肯んじ従うほどに人の心とは強くない。
なれば、ならん。
被食者たる警官が最後の希望として縋るべきは、自身の手による窮鼠の一咬みを置いて他にはなかったのだ。
「あ……あああああァァァァァ――!」
それは絶叫だった。
そして尾を引く余韻に呼応するようにして、数発の銃声音が交差する。
超至近ゆえに逐一狙いを定める必要はなく、ただ前方へと手を差し出しながら警官は引鉄(にかけた指に力を篭めて。
銃口から吐き出されるは、鉛玉。
それは極小不可識の螺旋的自転を伴いながら、標的過(たずに直進する。
彼我の最短距離を視認能(わぬ速度で襲い掛かる弾丸――傍目には、警官の銃撃によって対象が臓腑を食い破られる未来は、直近における確定事項にすら感じられたことだろう。
しかし、当事者たる警官の顔には勝者の高揚など欠片も存在しておらず。
それどころか、その表情を覆っているのは、翻(ったところの絶望であった。
届かない――彼とて薄々とは理解していたのだ。
これは、この怪物は――人たる己が身では敵わない存在であるのだ、と。
安穏と命永らえるを望むのであらば、決して出遭ってしまってはならぬ存在であったのだ、とも。
次の刹那に耳朶を打ったのは、音響であった。
しかし、肉を喰(み、血を啜り、骨を噛む――命の咀嚼音ではない。
辺りに鳴り響いたのは、硬質にして無機質な金属音。
(クソっ……! いったい何がどうなってんだよっ!?)
心中で悪態をつきながら、同じ工程を幾度繰り返そうとも、結果は一向に変化しない。
思えば先刻もそうだった。
命中したと思った瞬間に金属音が鳴り響き、すべてを打ち消してしまったのだ。
それは銃弾という物理的な実存のみならず、定められていたはずの帰結という非実存概念ですら捻じ曲げてしまったのだから。
(なんだ……これは!?)
次の瞬間、信じられない光景が顕現した。
警官は思わず膝を屈し、我知らず身体を震わせる。
それはまさに世の法理(の及ばぬ遠きより遣わされた力であった。
眼前にて繰り広げられる現象を表現せんとて哀しきかな、警官はそれ以上に嵌る形容を知らない。
異常であり、尋常ではない――ただそのことだけは理解できた。
ゆえに、それは異能の業(である、と。
戈(――それが彼の視界を埋め尽くしていたものである。
大小や形状や材質の一切が明瞭とせず、果ては虚実に至るまでも曖々昧(たるが――それが一個の戈(であろうことは、朧気な認識の中にありながらも判別が可能であった。
「ほう……その洞(のごとき眼(にして吾が得物(を捉えるか。これはこれは異なこともあるものだ。誇るがよいぞ、狗の仔よ」
彌馬獲支(と名乗った異形は少しばかりの驚嘆を滲ませながら警官へと笑みを投げ、中空にて静止状態にある戈の柄に手をかけて、無造作極まる粗雑な所作にて掴み取る。
一人と一振り――その両者が並び立つ情景からは、現実感がまるで抜け落ちていた。
禍(き情念が塒(を巻き、死なる概念が鎌首(を擡(げている――それは幽世(の写し絵のごとくして。
人の認識の範疇には存在し得ぬ、人ならざる身にのみ居(すを許されし場所(であった。
「死ぬるが恐ろしいか?」
異形は警官に問う。
そこに浮かぶは、弱者への憐憫や越境者への憎悪に非(ず。
ただ純然たる疑問として吐き出された言葉のようであった。
しかし、やはり答えは返らない。
警官は既に理解し、完全に諦めてしまっていたのだ。
規格外の悪夢が現実となった時、人に提示される選択肢は多くない。
抗うか、屈するか、逃げるか――しかし、それらのいずれを採ろうとも行き着く末は同一であるだろう。
ならば、せめて最期の時くらいは尊厳を保ったままでと、彼は望む。
それは弱きに許されし最後の矜持でもあった。
「呵呵(ッ――然(り然り! 見上げた意気ぞ、狗の仔よ!」
無言の抵抗を受けて、異形は意を得たりとばかりに身体を震わせながら哄笑を上げる。
その動きに合わせ、その胴に幾重にも巻きつけられた髑髏(が耳障りな音を立てた。
まるで各々が己が手をもってこそ生者を死人の帝国へと誘(わんとしているかのような不協和律。
その中でゆっくりと死神の罐(が振り上げられる。
それは古来より黄泉(に比定されることも多い夜空の円灯――今宵の朧月に向かって捧げられるかのようにして。
鈍(びた呪法を煌(かせながら、命を刈り取らんとばかりに凶悪な顎(を開き、吼(える。
「なれば――さらばだ」
別離(の台詞は、簡潔にして厳粛。
遅れることわずかして、山道(沿いに繁茂する緑を揺籃(するかのようにして、空気の唸(りが谺(した。
漆黒(の緞帳(が全てを覆い隠し、跡にはただ静寂のみが滞留する。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
極東の島国の片田舎――その山道脇で行われた殺戮劇。
目にしていたのは、夜空に瞬く金砂の群れと物言わぬ草木(たち。
そして、もう一人。
「美(から慈悲(へ――隠者(解除」
連繋させていた枝(を解いて姿を現したのは、妙齢の女であった。
その佇まいは貴(やかにして艶(やか――存在するだけで人目を惹くほどに端麗。
彼女が先刻まで視線を送っていた対象が異境の者であるとするならば、彼女自身は異邦の者であろう。
銀(に彩られた影が夜闇へと映える。
彼女は惨劇の跡へと一瞥を送り、軽い溜息を吐(いた。
(あれが物神崇拝(の彌馬獲支(――噂どおりに厄介な相手のようですわね……)
場合によっては、この場で討ち取ってしまおうかとも思っていたのだ。
しかし、彼女は最後まで隠行(を解くことをしなかった。
それは彼我の力量差を鑑みた上で、今回は慎重を期して自重したということに他ならない。
正面から戦(り合ったところで負けるつもりなど毛頭ないが、それでもそれなりの消耗は覚悟せざるを得ないと踏んだのである。
物神崇拝とは、「物には魔力が宿る」という前提に基づいて組み上げられた呪術である。
敵を討ち斃(すは武具に宿る魔力の力であり、なればこそそれを引き出すことにこそ重点が置かれている。
この種の原始の呪術については彼女とてそう造詣が深いわけではないが、それでもあの異形が身体に巻いていた髑髏もその一つであろうということくらいは分かる。
獲物の頭蓋骨に宿っている魔力が新たな獲物を呼び寄せるという考え方なのだろう。
(結果的には、それはあながち間違っているわけではなかったようですけれどね……。先だっての無能と私(の二人を呼び寄せた形になるのですから)
もちろん彼女は自身が扱う魔術については絶対の自信を抱いている。
その全てを紐解くことができれば、世界を創造することすら可能であるとされている秘術なのだ。
辺境に息づく呪術風情に遅れを取ることなど有り得ない――それは確信でもあった。
(焦ることはありませんのよね。私の目的はただ一つ――それを達成するためにこそ祖国を離れて、ここまで足を運んだのですから)
自らを納得させるようにして心中にて言葉を紡ぎながら、木々の傘の合間から零れる天蓋の風景へと瞳を走らせた。
この空は汚濁に満ちている――彼女が最初に抱いた感想はそれだ。
空だけではない。
地も水も、この地を構成している万象が――まるで煤塗(れの水晶に映し出されたかのようだ。
だから、彼女は嘆く。
嘆き、問いかける。
(ああ主(よ、我が偉大なる主よ……なぜに貴方様(は斯様(な地を選ばれたのですか?)
しばらく待ってみても、答えは返ってこない。
いつしかそのことに慣れてきてしまった己に対し、恐怖と慷慨(と悲嘆とが綯(い交ぜになったかのような――そんな名状しがたい感情を抱いてしまう。
(あの御方がお生まれおいでになった地へと御帰りあそばされること――それこそが私の願い、それこそが私の望み……)
それが叶うのならば、今日この時から己は魔にも修羅にもなろう、と。
肉で肉を拭い、血で血を洗い、骨で骨を払い、幾多の屍(が重なることになろうとも――すべては敬愛なる主(のために。
静けき林の中、女は人知れず決意を新たにした。