――まずは、夢の話をしよう。
ふわふわと揺れる草花の中から、ふわりと浮き上がった麦藁帽子を被った女の子の姿を認めて、ぼくは首を傾げてみせた。夕焼けともつかない不思議な色合いの太陽が一定の位置で地上を照らし続けていて、冷たくも温かくもない風が肌を撫でる。これは感覚ではなく単に想像力の欠如だ。まるで生気の感じられない世界にぼくは一人で佇んでいたけれど、そこには寂しさなんて感情はなく、ただ何も考えていないから、という結論が全てだ。
遠目に見える彼女の表情は窺い知れず、かろうじて服装と女性的なシルエットから、彼女である、と読み取れるくらいだ。ひょっとしたら彼、なのかもしれない。ぼくにはわからない。
想像する。脳が身体の各部に電気信号を送り、間接を駆動させ、歩行を始める自分を想像する。暫く繰り返していると、やっぱり彼女だった――は、すぐに目の前になった。彼女は目深に帽子を被っている。一体誰なんだろうか。
そうした疑問はすぐにどうでもよくなる。例え誰であったとしても、自分が知らない人である可能性はないのだから。もう少し正確にいうと見たことのない人、だが。
この世界では全ての事象が、ぼくの記憶と、それに拠った想像力によって紡がれる。
即ち、夢の世界だ。明晰夢、というのが一番わかりやすいだろうか。勿論、他人の夢の中に行ったことのないぼくがそうだと断じることはできないのだが、しかし敢えてそう言い切ってしまおう。語彙が貧弱なぼくは他に例えるべき言葉を知らない。それに強ち間違っていないような気もする。
例えば、風を止めるイメージを行う。風というのはそもそも日照や重力によって生まれる気圧の違いによって引き起こされるものなので、気圧差を消すところから始める。
頭痛を引き起こす一歩手前まで集中し、想像力を高める。自分の認識できる範囲の全て――原子すら掌握し、そしてそこに一つのイレギュラーを投入する。夢の世界では精密な想像と認識は同義だ。脳内で演算された結果に基づいて投入された一つの要素は連鎖的に現象に介入し、結果的に気圧差はなくなる。
風がなくなり、全てが停止したような世界の中で、温度の感じられなくなった日光を視覚にだけ捉えながら、ぼくは彼女と向き合う。
基本的に自分の想像だけで成り立っている世界に、意図しない現象が引き起こされるのは、要するに思考のノイズが原因である。常に無意識を制御することのできないぼくには、まずそれらを認識するところから始める必要があった。
一度思考を打ち切ると、いつの間にか足元を向いていた視線を彼女に移した。見慣れないワンピースをしげしげと眺める。
――誰?
そんな言葉を投げかけると、ようやく彼女は僅かに身じろぎした。少なくともぼくの周りにはこういった女の子は居ない。そもそも幼馴染以外に学校の外で出会うことが殆どないので、私服を着ているというだけでぼくと同じ学校の生徒である可能性はなくなる。だとすると街ですれ違っただけの女の人や、テレビに出てくる有名人、といった線も十分にあり得る。
「……あの。お邪魔してます」
想定外の言葉に動揺する。度々夢の中に覚えのない人が出てくることはあったけれど、まともに会話ができることは殆どと言っていいほどない。何故なら、それはぼくの記憶の残滓に過ぎないからだ。
ああ、とか、うう、とか言葉を形成できずに喉から漏れる呻き声を、彼女がどう解釈したのかは全くもって不明だが、ようやく彼女は帽子を脱ぎ、ぼくに素顔を見せた。
――ところで余談だが、恋をすると人は変わる、なんて言葉を聞いたことないだろうか。
確かに誰かに好かれる為に容姿を気に掛けたり、少しでもよく思われるような行動をしたり、理解ができないわけではないのだが、ぼくは綺麗な人を見ても、ただ綺麗だなと審美眼越しに思うだけで、本気で誰かを好きになったことがないので、いまいちその言葉を信じることができなかった。だってそうだろう。人を好きになるくらいで、人間の本質が変わるなんてことはあり得ない。いい奴はいい奴のままだし、嫌な奴はやっぱり嫌な奴のままなのだ。そう思う自分を、まだ二十年も生きてない癖に、と苦笑することもあったが、大体、人生四分の一も浪費すれば大抵の情報は得られると考えていたので、つまるところ、ぼくはぼくのままで、まあ、そんな感じで、――一目惚れだった。
ひとかけらの悪意すら感じることのない、儚げな微笑みにぼくは釘付けになり、それに気付いた彼女が何事かと震えさせた瑞々しい唇に合わせて視線を上下させ、胸元で抱えた両手の細さと白さに恍惚とし、膝丈のワンピースから零れる素足のラインに見蕩れ、素足から醸し出されるミステリアスさに動悸を激しくさせ、そして怯えて後ずさりする度に揺れる不思議な色の髪の毛に心奪われた。
「一目惚れを信じますか?」
「……え?」
ドン引きされているようなので紳士的に行くことにした。一度頭を振って、雑念を打ち消す。
「間違えました。あの、あなたはどうしてここに? なんていうか、その……。普通の人が立ち入れるところじゃないと思うんですが、ここは」
そう問いかけてから数秒後に彼女は眉根を寄せて、困ったような表情を作り始めた。大分おっとりとした性格のようだが、そこがまた可愛く思える。そこで、この人は一体なんなんだろう、とか疑問を持たない自分の思考の不気味さに気付いて、ああ、恋をする人は変わる、ってこういうことなんだな、と思ったりした。
「その……ですね、偶然なんですが、偶然じゃないと言いますか、あの……」
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」
あくまでも優しげに語りかけようとする。
「――を――きたんです」
ぼそぼそと呟く彼女の唇に夢中になっている内に、彼女が何を言っているのか聞き逃してしまった。その小さめな手は頼まれもしないのに、何度も握ったり、開いたりを繰り返している。
「――をしにきたんです」
今度は聞き取り辛い声だった。それでいてなんだか眠気を誘うような声で、ちょうど耳の真ん中、頭の奥の方をじんわりと刺激してぼくを夢見心地にさせる。ぼくは明晰夢を趣味にし始めてからは完全に意識を失うということがなくなったので、久々に味わった自分の脳が意識を放り出してしまいそうになる感覚が気持ちよく、身を任せてしまいそうになる。
だけど、繰り返した彼女の言葉をようやく把握できたときには、本当に意識を手放しそうになった。
「戦争をしにきたんです」
訂正しよう。把握なんて微塵もできていなかった。
「戦争をしにきたんです」
「…………そうですか」
馬鹿みたいに呆気に取られて、間の抜けた表情をしているのが自覚できる。彼女は何て言ったんだろう。こればかりは想像ではなく、現実的な思考で物事を処理する必要があるみたいだった。
集中する。
かわいい。
集中する。集中する。
よし。
まず最初は?
――お邪魔します。
次は?
――戦争しにきました。
うん。
色々と考えてみたものの、その台詞からは最終的にぼくは諦めるべきであるという結論に達した。
客観的に見ると先ほどのぼくも十分変態的だったかもしれないが、しかしぼくと彼女とでは地球と宇宙くらいにスケールが違う。早く夢から覚めよう。この恋からも冷めよう。初恋は叶わない、とかいう言葉も本当なんだな、なんて取りとめなく考えながら瞼を閉じて起床のイメージを固めようとする。
「ちょっと待ってや、兄ちゃん」
唐突に至近距離で聞こえてきた、そんな野太い声に反応して目を開けると知らない男が居た。派手なスーツにオールバック、極め付けにサングラスといった出で立ちのその男は、骨ばったぼくの両肩に指を食い込ませて揺さぶっている。わけがわからない。痛い。笑えない。
女の子はどこに行ったんだろう。泣きそうだ。
「知りません。ぼくは起きます。朝が来たので起きます」
「待てっつっとるやろ、おい」
殴られた。よろめき、バランスを崩したぼくは地面にもんどりうって倒れる。
処理の追い着かなくなったぼくの頭脳はそのまま思考を放棄したので、もうどうにでもなればいいや、と夢から覚めることにした。
でも、一つだけ。
――かわいかったなあ。
そうして、ぼくが、ぼくの夢を離脱するときに考えたのは、情けなくも殴られたらやり返すとかそういった類のことではなく、あの女の子の笑顔だけで。
――だから、そんなぼくがこれから話すのは夢の話ではなく、ましてや恋の話でもなく。
ただの戦争の話なのだ。