「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり
抜けていく。
汚れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻らせないように、ゆっくり
と歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない
生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治三十四年創立のこの学校は、もとは華族の令嬢のためにつくられたという、伝統あるカ
トリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野の面影を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎か
ら大学までの一環教育がうけられる乙女の園。
時代は移り変わり、中高一貫の防衛女子校へと改められた平成の今日でさえ、十八年通い続
ければ軍国育ちの純粋培養女性士官が箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴
重な学園である。
GunParade-Murch 2000
TOKYO CARNIVAL
第二話 『Yellow Rose Evolution』
2000年3月11日
東京府武蔵野市 リリアン女学園
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
大捷を収めた翌日だけに、リリアン女学園の空気は明るい。
主計や整備など、後方任務に当たる学兵たちが、前線で戦う人型戦車の乗員を口々に賞賛する。
1号機。白銀の鎧をまとった現代の騎士。駆るは剣道部のエース、支倉令。
2号機。優雅にして冷徹な戦場の狙撃手。華族出身の麗しき戦姫、小笠原祥子。
人型戦車で幻獣の大群と渡り合うのは初めてだと言うのに、黄薔薇と紅薔薇の紋章を冠した二機の士魂号は、まるで歴戦の勇士のようだった。
1945年の幻獣出現以来、総力戦体制下で数多くの女性士官を輩出してきたリリアン女学園。
『薔薇』の称号を冠せられた高等部の生徒会役員は、同時に最強・最優秀の戦士でもある。
卒業もせぬまま、学兵――徴兵年限未満の戦時動員兵として召集されてなお、彼女たちはエリートの呼び声に相応しい活躍を示した。
それに引き換え3号機は――
ハンガーに固定された機体を見上げ、3号機射撃手(ガンナー)、島津由乃は唇を噛む。
損傷を受けた左脚を取り外された不恰好な姿。脚の替えが届くまで、本格的な修理にも取り掛かれない。
被弾の原因は、由乃がミサイルの諸元を誤って、敵をたくさん撃ちもらしたから。
なのに、面と向かって責める者は誰もいない。
由乃は1号機パイロット、黄薔薇のつぼみ(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)支倉令の“妹”だからだ。
戦いの後、リリアン女学園伝統の姉妹(スール)制度上での“姉”で、血縁上も従姉(いとこ)にあたる令は、追撃もそこそこに引き返してきた。
「大丈夫? ケガはない? 一緒に病院行こうか?」
気遣う台詞(ことば)が本物だから、それだけますます辛くなる。
1時間近く戦い続けた後だというのに。
自分の機体だって中破の判定が出てるのに。
令ちゃんのバカ、令ちゃんのバカ……
「ごきげんよう、由乃さん」
唐突に、背後から声をかけられた。
ハンガーを訪れる同年代の友人。3号機操縦手(パイロット)の福沢祐巳ぐらいしか候補は思いつかない。心臓に疾患を抱え病院通いを続けていた由乃に、友達といえる相手は少ない。
「祐巳さん…じゃないか」
「ごめんなさい、祐巳さんじゃなくて」
「あら、ごきげんよう、ちさとさん」
「わざとらしいわ」
苦笑するのは1号機整備班の田沼ちさと。敵の攻撃をいちばん受ける1号機の担当をわざわざ志願した変わり者。
理由は、支倉令のファンだから。つまり由乃のライバルということ。
「暇してるなら手伝ってくれない?」
言いながら、ちさとは棚からケーブルの束をかついでくる。
重さはともかく、長くて引きずりそうなので尻尾を支えてあげる。
床運動用のマットの上にコードを並べ、両側からコネクタを覆うフィルムを外す。
「カバー外したら、端末に差し込んでネジを締めて」
そう言って、ちさとはテスターの端子を投げ渡してくる。
差し込んでネジを回すだけなのに、どうしても整備のちさとよりは時間がかかる。
しかし、せかされたりするわけではない。
カバーを外して、テスターを繋いで。
単純作業に没頭している間は、失敗のことを忘れられた。
「そっち、いったん外して付け直してみて」
ちさとが眉をひそめていた。
こんな単純作業でミスを。そう思うと、気分が再び重くなる。
しかし、端子を繋ぎ直してもテスターの針は振れない。ちさとは配線の接続を自分で確かめて肩をすくめる。
「断線してるわ。たぶん製造工程での亀裂(クラック)」
中高生を戦場に送り出し、関東まで戦場になるぐらいだ。生産体制は既にボロボロ。老人や傷痍軍人や小学生までが、労働力として動員されている。
「そういえば。これ、なんだか知ってる?」
「え? ケーブルじゃないの」
「はずれ。表面はビニールの被膜っぽく見えるけど、中までずっと同じ素材よ。アームスレイブ用の筋肉組織(マッスル・パッケージ)、1号機の腕につけるの」
ちさとの指の先、1号機の腕と2号機の腕を見比べると、たしかに1号機の方が二回りほど太い。
「令さまって、近接格闘戦一筋でしょう。士魂号そのままだと、ちょっと腕力が不足で。
アームスレイブ用の人工筋肉を外付けして強化してるの。防弾にもなるし」
士魂号の駆動系はほとんどが蛋白燃料で動く生体(バイオ)素材だ。なにしろ生体パーツなので、ひとつひとつに癖があるし、標準以上のパワーやトルクを持たせようとすると培養液につけて1週間なんて話になってしまう。
その点、アームスレイブのMP(マッスル・パッケージ)は、単なる形状記憶プラスチックだから、8本、10本、12本と、スペースと電力の許す限りいくらでも増やしていくことができる。
人型兵器は無限の戦術を駆使するなんて触れ込みのわりに、機体が対応しきれないって詐欺よねと、ちさとは軍の整備方針を批判する。
士魂号の配備を推し進めたのは、陰謀大好き帝国陸軍の流れを汲む新興軍閥芝村だ。自称リベラルの海軍主導で軍事学校化されたリリアンでの評判はあまりよくない。
「射撃統制装置もひどいわ。姿勢制御プログラムと自動でリンクしてないなんておかしいよ」
昨日の由乃のミスのことを言ってるのは明らかだった。
熊本戦役のエース、速水・芝村機のデータを基に作られた複座型の射統装置は、たしかにタイトでピーキーな代物となっている。
「ねえ、なんでそんなに私を庇ってくれるの?」
たしか、ちさとは由乃のライバルだったはずだ。
いま、1号機の修理に追われてるのだって、誰のせいかと言えば由乃のせいだ。
「『あなたなんかより、私の方が令さまの妹に相応しいわ』って?
考えないでもなかったけど、誰がやっても同じような失敗したでしょうね」
初心者は必ず失敗するものだ。
外したネジを失くすのと、弾丸(アモ)を逆向きに詰めそうになるのは、整備員なら誰でも一度は経験することだとちさとは主張する。
「そういう危険をカバーするのも技術者の義務。
陸式には理解できなくても、ちゃんとわかってる人はいるのよ」
ちさとはコネクタから剥がしたフィルムをかざして見せた。
色は真っ赤で、大きくプラスの記号が書いてある。由乃の側は青色で、記号はマイナス。
これも個人の力量や練度を補うための工夫やシステム。
時代小説を愛好する由乃が思い浮かべたのは、戦国時代のこと。
精強を誇った武田や上杉、島津を破り、戦国を制したのは、長槍と鉄砲の集団戦術を駆使した信長と、兵站と土木の第一人者秀吉である。
織田家の兵は精強ではない。土台が濃尾や近畿の食い詰め者、いわば新兵の集まりだ。兵の力には頼れない。だから陣を組む。鉄砲に頼る。木柵を立てる。壕を掘る。その思想を突き詰めた結果が長篠での大勝利。
しかも信長はよく逃げる。伊勢では再三苦杯を舐め、金ヶ崎では秀吉・家康を殿に立て、信玄存命中は武田相手にいいとこなし。しかし、信長は何度でも体勢を立て直す。幾度となく追い散らされ、幾度となく再編された兵は、もはや濃尾の弱兵ではない。知識と経験が、農兵の頑健さを凌駕する。
いつしか由乃は呟いていた。
「明日がある、明日がある」
「生きてさえいればね。機体は修理も交換もしてあげるから」
二人は再び人工筋肉の検査に移る。
途中、テスターが刺せないほど潰れた端子が発見される。この国の兵站は、織豊政権のように磐石ではない。
回線のチェックが終わると、すぐに機体への取り付けが始まる。
1号機の腕から金属のカバーが外され、傷つき焼き焦がされた古い電磁筋肉を取り外す。
露出するのは剥き出しの生体組織。芝村御自慢のブラックボックスだ。周囲を覆うMPが盾になったので損傷はない。
肩と肘、肘と手首。コネクタに新しい筋組織が取り付けられていく。
自分の働きが形になるというのはうれしいものだ。
「動くとこが見たい?」
「うん」
「動作チェックは令さまが来てからね。あと30分もかからないと思うわ」
荷物運びとか、数値の書き取りとか、雑用にこき使われてるうちに30分なんてのはすぐ経ってしまった。
昼の時間になると、格納庫の人口密度が一気に増える。
入ってくる整備員たちに混じって、令と祐巳の姿が見える。
「由乃、こんなところにいたの? 授業に出てないって聞いて心配したんだよ」
そう、学兵には授業というものがあるのだ。
戦闘が本格化してからは、出るも出ないも自由というような状況になっているけれど、真面目な令や祐巳は戦闘でもなければサボることはない。
由乃は口ごもる。醜態をさらしたから登校拒否なんて話はしたくないし、また体調が悪くなったなんて思われるのも困る。
「ごめんなさい、令さま。少し手が足りなかったもので、由乃さんをお借りしました」
「ノートはちゃんと取ってあるから、後で貸してあげるね」
黙り込んだ由乃を、友人たちはそう言ってかばってくれる。
ちさとなんて、憧れの令さまから心象悪くなるかもしれないのに。
由乃の胸が熱くなる。
私が教室に居辛いのを、二人はちゃんと察してくれていた。
それなのに、「暇してるなら」なんて台詞を言葉どおりに受け取って。
私は子供だ。どうしようもなくお子様なんだ。
「あなたたちと友達でよかった」
二人の手をぎゅっと握って告白する。
「褒めてもなにも出ないよ」
そんなことを言いながらまんざらでない様子のちさと。
祐巳の返答はいつだって明るくストレートだ。
「私もいつもそう思ってるよ」
◇◆◇
脚の換えは軽トラで届けられた。
軍用には見えない青色のトラックの荷台に、ワイヤー留めされている士魂号の脚。ビバ、現代芸術。正規の輜重部隊ならこうはならない。
車体の脇には、白ペンキで『ジンコー』の4文字。東京府下有数の名刹、深大寺ゆかりのジンコーこと陣代高校は、ともに多摩地区高校自治連絡会に所属する近隣校だ。
3号機脚部の修理不能を知るや、情報士官の白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)は、同じ士魂号複座型を装備している同校に、メガホンでも借りるかのような気軽さで借用を申し出た。
そんな無茶なと思ったものだけど、現にスペアパーツは運ばれてきている。陣代の指揮官はよほど気前のいい人らしい。
「よかったね」
由乃の言葉を、祐巳は聞いていなかった。
「なんであなたがここにいるのよ」
ぼそりと、不機嫌そうに呟く。
誰にでも優しく丁寧な彼女にしては珍しい。
荷台から降りてくるのは、祐巳そっくりの狸顔。
「姉がお世話になっています。祐巳の弟の福沢祐麒です」
「ごきげんよう。祐麒さん、今日は私たちのためにどうもありがとうございます」
姉を無視して挨拶する祐麒。
他所行きの笑顔で応じる由乃。
そして居心地の悪そうな祐巳。
「わざわざ来なくたっていいじゃない」
「仕方ないだろ。打ち合わせとかいろいろあるんだから」
犬も食わない姉弟喧嘩を、助手席からの声が一言で断ち切る。
「ユキチもさ、お姉ちゃんの3号機が壊れたって聞いて心配なのよ」
『ちょっと千鳥/かなめさん!』
息の揃った二人の台詞。
生徒会副会長、千鳥かなめは、してやったりという笑みを浮かべている。
なるほど、仲良しじゃない。かなめと由乃はアイコンタクト。
ともに入学早々、生徒会と関わる羽目になった身だ。かなめは由乃の猫かぶりなどとうに見抜いている。それでも、距離を置くでなく、やめろと言うでなく、彼女は当たり前に接してくれる。
「それじゃ、ヨシノ。生徒会長んとこ案内してくれる?」
「はい、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)もお待ちしておられますわ」
“薔薇の館”なる呼称のついた生徒会棟へと先導する由乃の後を、かなめと福沢姉弟がわーわー騒ぎながらついてくる。
かなめにからかわれるたびに、オーバーにリアクションをする祐巳と祐麒。
さすが祐巳の弟、福沢祐麒は面白い。百面相するし。
◇◆◇
薔薇の館につくやいなや、由乃たちはいきなり更衣室へとさらわれた。
強引に連れ出されたのは祐巳だけなのだが、パートナーを一人生贄に差し出すわけにもいかないということで、由乃と祐巳は体操着を着てグラウンドにいる。誘拐犯、じゃなくて祐巳のお姉さまで2号機パイロットの小笠原祥子は、なにを血迷ったのか赤いジャージを着て赤いハチマキを巻き、妙に芝居がかった仕草で宣言する。
「これより特訓を行います」
特別訓練。略して特訓。
リリアン女学園においては特別な響きを持って語られる単語だ。
姉妹(スール)制度の下では、妹を指導する責任は姉が負う。そして私的制裁などに享じている暇があるなら訓練しろというのが、軍事学校化の際に学園長を務めた堀・大神両提督の教えだ。
かくて、リリアンでは事あるごとに姉妹間での「特訓」が行われることになる。
祥子と祐巳の属する紅薔薇姉妹は、代々その伝統を強く継いでいる。
「島津由乃」
「はい」
「声が小さいっ」
「はい!!」
「福沢祐巳」
「はいっ」
「そんな声、戦場では届かないわ」
「はいっ!!」
出席簿のようなものを見ながら大声を張り上げる祥子。芝居のような光景だが、やってる当人たちは真剣である。
きつい言葉を放つことがあっても、いつも祐巳たちのことを大切に思っている彼女は、そういう「仮面」でもつけなければ、厳しい指導を行う役目に耐えられないのだ。
特訓といっても、実際のメニューが別に特別なわけではない。
屈伸とか、腹筋とか、体育の準備運動のような、基礎体力育成メニュー。
回数はちょっとシャレにならないけれど、体力のない由乃に厳しいものは、条件や回数をいちいち勘案してくれる。
前屈が地面に届かなくても、腹筋で力尽きても、祥子は決して怒らない。
けれど、勝手に休もうとすると、すぐに怒声が飛んでくる。一人でできないものは別として、自分だって同じ運動量をこなしているのに。余所を向いているように見えても、後輩の怠慢を祥子は決して見逃さない。
祐巳はスタミナあって真面目だから、怒られるのはほとんど由乃。これでは由乃が個人指導を受けているようなものだ。
何度目かの休憩時間。
腕立て…というか肘立て伏せをようやく終えた由乃に、祐巳がスポーツドリンクを注いでくれる。
「ありがと。祐巳さん、ごめんね」
「平気だよ。もう痛くないし」
馬飛びで思い切り蹴飛ばしてしまった頭に手をやって祐巳が笑う。
「じゃなくて。祥子さま、取ったみたいになっちゃって」
令が他の後輩ばかり構っていたら、由乃は祐巳が相手でも嫉妬したかもしれない。祐巳でなくてちさとなら、大爆発は必至だ。
「あ、うーん」
額に手を当てて考え込む祐巳。即座に否定しないあたり、そういう気がまったくないわけでもないらしい。
「そう思うなら、祐巳を見習ってもっと集中なさい」
薔薇の館から戻ってきた祥子が、1枚ずつ替えのタオルを手渡してくれる。
間接的に褒められた祐巳は、緩む頬を隠すようにそのタオルに顔をうずめた。
「祥子さま、私、ご迷惑じゃ……」
「あら。いまさらやめようったってそうはいかないわ。
一度決めたら絶対逃げないのが、由乃ちゃんのいいところでしょう?」
逃げるなんて単語を使われると、負けず嫌いの由乃はなにも言えなくなる。
「私たちだって助かってるのよ。祐巳ったら、私と訓練すると固まってしまうんですもの。馬飛びとか、腹筋とか。こればかりはあまり怒るわけにもいかなくて」
祥子は口元に手を当てて上品に笑う。格好は赤いジャージだけど。
祐巳は顔の半分までをタオルに隠したままで、そんな祥子を上目遣いに見上げている。
お姉さまにおへそが見えちゃうよー、などとうろたえている祐巳の姿は、由乃にも容易に想像できた。
祥子はタオルなどと一緒に無造作に置かれた腕時計を手に取る。
「最後の課題はランニングよ。校庭30周、由乃ちゃんは20周で構わないわ」
◇◆◇
リリアン女学園の校舎の隅には、エレベーターなる機械がついている。
陣代高校なら生徒が飛んだり跳ねたりして三日で故障間違いなしだが、自他共に認めるエリート軍学校であるリリアンでは『生徒の使用を禁ず』なる貼り紙ひとつで、生徒は近づきもしなくなる。
もちろん、荷物の上げ下ろしなどに使う時は別だ。
今も、士魂号パーツの“お返し”を軽トラに積んで、台車を返しにきたかなめたちは、堂々とエレベーターに乗っている。
「よっこいしょ」
空の台車を持ち上げ、支倉令がエレベーターから降りる。
昨日は大活躍をしたエースパイロットだそうだけど、その掛け声はどうにかならないものか。
もう一台の台車を、かなめの付き添い、相良宗介が降ろす。
実は陣代高校の1号機パイロットで、学曹長などというレアな階級を持っている宗介だが、今の役目は軽トラの運転手兼荷物持ちだ。護衛などという不愉快な単語のことは、かなめの脳内からは意図的に消去されている。
「出発進行ー」
「大尉殿、立って乗るのは危険です」
「うむ、よきにはからえ」
宗介の台車の上に座り込むのは、この学園というか小隊の“いちばんえらいひと”の片割れ、“白薔薇さま”(ロサ・ギガンティア)こと佐藤聖一等学尉。
2つも年上の人をしばくわけにもいかないので、とりあえず宗介の後頭部を張り倒してみた。
「あ、意外とまともなことしてる」
3階の廊下から校庭を見下ろす光景に、かなめは『エリート部隊』という単語を「いらないモノ」箱に放擲するのを取りやめた。
眼下では、体操着を着た祐巳と由乃が、ジャージを着たきれいなお姉さんに指導を受けている。たぶん小笠原祥子さんなのだろう、あれが。生徒会同士の会合には滅多に姿を現さない謎の人物。多摩自治会連合の稀少生物(ヤンバルクイナ)。
かなめの声に釣られて、この場にいる全員が窓の傍に立つ。
約一名、あるとも思えない攻撃を警戒している奴がいるけど。
聖はその約一名に話を振った。
「相良くんはどう見る? 祥子の指導」
「よく考えられた訓練プログラムです。目的は基礎体力、とくに持久力の向上でしょう。休憩や給水などの間隔は医学上の基準に照らして理想的です。指導も非常に丁寧で目が行き届いています」
聖の言葉を受け、元傭兵隊員(プロフェッショナル)は紅薔薇のつぼみに賞賛を送る。
まるで自分が褒められたかのように聖は満足げに頷く。
「でも、あれはひどくない。由乃、由乃、由乃って。ヨシノばかり怒られてる。体力がないのは彼女のせいじゃないでしょうに」
「祥子はちゃんと課題を軽くしてあげてるよ。指導を“甘く”しろというのはお門違い」
「動作が散漫で集中力が足りない。あのまま戦場に出したら大変だろう」
二人に言われてよく見てみれば、由乃は別に非力さ自体を責められているわけではない。
祥子が声をあげるのは、体力の不足に甘えて勝手に休んだり集中を切らしたりする時だ。
祐巳が真面目で、由乃が不真面目だというわけではないのだと思う。尋常小学校から義務付けられている軍事教練を、由乃はほとんど受けていない。
しばらく、4人は訓練の様子を眺めていた。
赤いジャージを着た2号機パイロットは、自分も同じだけの運動量をこなしながら、二人に等分に目を配って、厳しく指導を続けている。エリートパイロットとしての風格と、後輩への愛情が、その動作のひとつひとつにあらわれていた。
由乃の従姉妹で、本来なら彼女の指導を受け持つはずの令は、無言のまま窓枠を握り締めている。
ランニングをしていた由乃の足がもつれ、膝と手をつき倒れ込んだ。
「由乃っ」
あわてて駆け出そうとする令。
聖が手をのばすが、間にかなめが入っているので届かない。
代わりにというべきか、宗介が令の腕をつかむ。
振り切ろうと乱暴に振り回された拳が宗介の顔面に当たる。
それでも宗介は、つかんだ腕を放さなかった。
「ご、ごめん」
「たいしたことではない」
無愛想に答える宗介。
「ケガとかしたわけじゃないみたいね」
かなめは独り言のように呟く。
祥子の差し出す手を借りて、由乃が立ち上がった。
3階の窓からでもわかるほどに息を切らせて、走って――というか歩いている。
「祥子の奴、由乃に無理させて――」
苦々しげに令が呟く。
多摩自治会連合の席で見かける、思いやりのあるカッコいいお姉さんの姿はそこにはなかった。
「ヨシノが一生懸命なのはさ、たぶん令さんのためよ」
「祥子はそれに応えてあげているだけ。それは本当は、令、あなたの役目なんだよ」
令が病弱だった由乃のことを気遣っているのは、かなめもよく知っている。
でも、パイロットの資格を得た由乃は、もう守られるはずのお姫様ではないはずだ。
「私は由乃を守るって。辛い思いなんてさせないって誓ったのに――
それが、間違ってたのかな」
自嘲するような令の言葉に答えたのは、かなめでも聖でもなく、宗介だった。
「守りたい…相手がいるのだな」
こくん。
令は強く頷く。
「由乃のためなら、この命だって惜しくないって思ってる」
宗介の口から放たれるのは、いつもの軍人らしい簡潔な言葉ではなかった。
一語一語自分の考えを確かめるように言葉を選んでいく。
「自身の生還を度外視すれば戦術の選択肢は大きく広がる。命を捨てる覚悟があれば、その場は相手を守れるかもしれない。
だが、戦いはなおも続くだろう。次にその人に危機が訪れたとき、死人は傍にはいられない。それはとても悲しいことだと思う。
いつまでもかたわらに立ちたいと思うなら、おそらく、ともに強くなければならないのだ」
「由乃は、強くなろうとしているんだね。
私は、強くなんてなかったのかもしれない。由乃が私がいなくてもやっていけるようになるのを恐れてた」
「誤りは正せばいい。最後に勝つのは多く学ぶ者だ」
「ありがとう」
聖と宗介に一礼して、令は階段を下りていった。
「ところで、相良くん」
「なんでありますか」
「令も士官さまだって言ったら、どうする? 二等学尉…中尉だよ」
ピキリ。硬直する宗介。
実は聖は令のことを1号機パイロットとしか紹介していない。
学兵部隊のパイロットは多くが下士官だから、相良“学曹長”は、明らかに下級者に対する口調で話していた。
「気にしない気にしない。学兵の士官なんて権威も権限もないし。かなめちゃんだって祐麒くんだって8週間少尉じゃない」
「任官の経緯がどうあれ、士官は士官です」
相良“学曹長”はちらりと千鳥“三等学尉”を見る。
「相良くんが守りたい相手って、かなめちゃんでしょ」
「それは軍事機密であります。サー」
「……軍隊流で行く方が楽だって言うなら、別にそれでもいいんだけどね」
落ち着かない様子でいる宗介に、すべてお見通しといった様子で白薔薇さまは書類を一枚差し出す。
「悪いけど、この書類、薔薇の館に届けてくれない?」
「ありがとうございます、サー」
微妙に返事のおかしい宗介。
残されたかなめは白薔薇さまに呼びかける。
「世話焼きなんですね。白薔薇さま(ロサギガンティア)は」
「こんな時代だからね。悔いのないようにしたいでしょ」
「あなたがやりたいようにしてるだけじゃあ――」
呆れたように呟きながら、かなめはそこそこ満足だった。
守らなければならないでも、守るべきでもなく、守りたいと言ってくれた。
その程度でも、ソースケにしては上出来だろう。
◇◆◇
祐巳と同じペースで走ろうとしたのは、正直言って無謀だった。
2周ほど回っただけでついていけなくなり、その後も自分なりのペースを作れないまま、速度は上がったり下がったり。
みすみす乏しい体力を無駄にしている由乃が歯がゆいのか、祥子は唇をかみ締めている。
でも、訓練最後のランニングは自分でペースを作るものだと決まっている。あるときは厳しい顔、あるときは心配そうな顔、まるで“妹”の祐巳のように表情を変えながら、祥子はタイムを一周ごとにプロットしていく。
10周を越えたあたりで、周りを気にする余裕がなくなった。
追い越していく祐巳の顔さえぼやけて見える。振り返るのは心配してくれてるからだと分かっているのに、高みから見下ろされてるようで腹が立つ。
「あと5周よ」
「え?」
祥子の言葉を聞き直そうと顔を後ろに向け――
そんな些細なことで、由乃は足を滑らせた。
「由乃ちゃん、怪我はない?」
「ちょっと、転んじゃっただけです」
「心臓の異常ではないわね。吐き気とかがあるなら言いなさい」
「すごくどきどきしてますけど…平気です」
吐き気もしない。意識が薄れたりもしない。
ただ、体力が追いつかないだけだ。
手のひらを少しすりむいたほかは外傷もない。軽くひねった足首にも違和感はない。
まだ行ける。
差し伸ばされた手をつかむと、意外と力強く引っ張り上げてくれた。
「残りはあと5周、歩いてもいいわ」
「はい」
グラウンドを早足で歩くだけで、軋みを上げる非力な身体。
自分を叱咤しながら足を進める。
もはや何度目か分からない追い越しざまに、またも祐巳が振り返る。気遣う表情もきちんと見える。福沢祐巳さん、本当に人のいい由乃の親友。
バテバテで歩く由乃を笑う心無い生徒を、祥子が声を張り上げて追い払う。小笠原祥子さま、厳しいけれど頼りになる祐巳さんのお姉さま。
大丈夫、大丈夫。私は一人ではない。
胸の中に湧き上がる心細さを押し殺す。
歩き通すと、祥子がタオルを肩にかけてくれた。まるでマラソンランナーがゴールしたときみたいに。
そのすぐ後に、由乃より10周多く走った祐巳が戻ってくる。
祥子の手元にもうタオルはない。
由乃が渡されたタオルは十分大きかったから、1枚のタオルに2人で包まる。
「ありがとうございました」
「お疲れ様」
“優しいお姉さま”に戻った祥子が、祐巳の乱れた髪を梳く。
二人が由乃のことを軽んじているというわけではないけど、姉妹仲睦まじい光景をそばで見ると少し寂しい。
「由乃、よくがんばったね」
聞き慣れた声に振り向けば、濡れタオルと塩化ビニルのタッパを持った由乃のお姉さま。タッパの上には運動部がよく食べているレモンの蜂蜜漬け。
「令ちゃんっ」
嬉声をあげてしまってから、由乃は慌てて口をつぐんだ。
「こ、こんなんでご機嫌取ろうったって知らないんだからねっ。私、祥子さまのうちの子になっちゃうからっ」
「ごめんね、由乃。私も一緒に強くなるから。明日は一緒に訓練しよう」
訓練のお誘いなんて初めてだった。
こくんと頷いて、照れ隠しのようにレモンの蜂蜜漬けを頬張る由乃。
今日ばかりは妙に初々しい由乃と令を、祐巳と祥子は笑いながら眺めていた。
◇◆◇
夕方頃、呼び出されて整備所に行くと、3号機の機体修理は既に完了していた。
3号機の前に空けた空間を取り囲むように、整備班のほぼ全員が集まっている。
「待ってたよ、それじゃあ始めようか」
情報士官という名目で栄えある無職を勤めている佐藤聖一等学尉は、そのスペースの中央にミカンの空き箱を置くと、上に乗って大声を張り上げた。
「陣代高校の協力を得まして、3号機の修理は無事終了いたしました。陣代高校の方々に拍手ー」
スポットライトが当てられた先には、陣代高校から来た人たち。
整備員一同からの拍手を浴びて、一礼するかなめと、ばつの悪そうな祐麒&宗介。
「つきましては、かねてからの懸案であった、3号機のパーソナルマークを公開させていただこうと思います」
ヘリが白薔薇、1号機が黄薔薇、2号機が紅薔薇というのが、山百合小隊各機の識別記号である。
しかし、紅薔薇のつぼみの妹と、黄薔薇のつぼみの妹の二人が駆る3号機のマークは、いまだ決まっていなかった。便宜上『L3』という文字だけが書いてあった右肩は、今は黒い布で覆われている。
「聞いてないわ」
当事者を差し置いて、真っ先に金切り声を上げる祥子。もちろんジャージはもう着替えている。
鋭い視線を受け、由乃と祐巳はぶんぶんと首を横に振る。
「パイロットの同意を得ずにパーソナルマークを決めるなんて!」
「全後方要員の総意です。もち紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)公認。
これを見せるため、整備の方々は通常の3倍のスピードで働いてくださいました。整備の方々に拍手ー」
いかな“紅薔薇のつぼみ”の2号機パイロットとはいえ、相手が白薔薇さまでは役者が違う。聖は司会の立場を利用して強引に押し切る。
通常の3倍って、単に3機分の整備士を動員しただけの話ではなかろうか。
「陣代の方をあまり長くお引止めするわけにもいかないので、ここらで除幕とさせていただきます」
ダラララララララララララ♪
聖の合図で、口でドラムリールを試みる整備班有志。
「それでは、内藤博士、どうぞ」
内藤克美整備班長が、梯子を上がって3号機の方に近づいていく。いつでも糊の利いた白衣を着て、キャットウォークの上でも背をのばして颯爽と歩く姿は、博士号などなくてもドクターの称号に相応しい。
布が取り払われると、爆笑が起こった。
どこまでも真面目な姿勢を崩さない内藤博士と、その“マーク”の対比が、居合わせた誰ものツボをつく。
聖が笑う。悪戯っ子のような笑顔で。
ちさとが笑う。どうだと言わんばかりに親指を立てて。
かなめが笑う。悪意なく、大声をあげて。
令と祥子は笑いを抑えようとして抑えきれない。
「ちょっと祐麒! あんたまで笑うことはないでしょう!」
祐巳は弟に八つ当たり。というか二人してじゃれ合っている。
由乃は何も言わない。無言で堂々と立っているだけ。
その様子が意外だったのか、笑いの収まった者から順に、視線が由乃に集中する。
士魂号3号機の右肩に燦然と輝くその「若葉マーク」を由乃はきっと見上げた。
「かまわないわ」
朗々たる声が整備所に響く。
整備員にはいまだ由乃の本性を知らぬ者もいる。自分を守るための「か弱い少女」というカバーしか知らぬ者も。
そのカバーを振り払うように由乃は声を張り上げる。
よく通る声。力のある声。
「たしかに私たちはまだつぼみにもなれない若葉だもの。
若葉マークって、半年だか1年だかで外れるんでしょう?
私はそんなにかける気ないわ。早くお姉さまたちに追いついて、そのマークが不釣合いだといわれるようなパイロットになって見せる。
だから、今は若葉でもかまいません」
――パチパチパチ
真っ先に手を叩いたのはちさとだった。
賞賛か冷やかしか真意の定かならざる拍手は、周囲に伝染して万雷の轟きとなる。
祐巳が目をきらきらさせて両手を掴む。
「由乃さん、一緒にがんばろうね」
いや、あの。
勢いというか、思いつきというか。
そんなに深い考えで言った台詞でもないんだけど。
その若葉マークを見たときに、由乃は「上等だ」と思ってしまっただけなのだ。
いまさらそんなことを言い出せるわけもなく、3号機パーソナルマーク発表会は、由乃の決意表明の場として記憶されることになってしまった。
2000年3月12日
東京府武蔵野市 リリアン女学園
お座敷がかかった時、由乃は約束どおり令の指導を受けていた。
剣道部の主将の指導は厳しく、何くれとなく理由をつけて通りがかった祐巳やちさとが顔を顰めるほどだったが、不思議と由乃は辛いと思わなかった。出動命令を聞いて、残念だな、と思ったほどだ。
この日の戦場は多摩丘陵、日野市。任務は友軍陣地の支援。
まかり間違っても一昨日のような大規模会戦ではない。
「由乃、ゴブリンは任せたよ」
輸送車(キャリアー)から機体を起こす前に、令からの一言。
3号機の主任務は元々小型幻獣の掃討だ。
それに、新米に任せられるのは、そのぐらいということなのだろう。
機体につけられた若葉マークを思い浮かべる。
なんとかなる、なんとかなる。生きてさえいれば、きっとあの二人にだって追いつける。
「祐巳さん、ゆっくり行こう」
「うん」
To be continued......
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GunPradeMarch 2000
TOKYO CARNIVAL
第二話 『Yellow Rose Evolution』
CAST
リリアン女学園山百合小隊
(以下記載のない者は、原作:マリアさまがみてる)
1号機パイロット 支倉令 二等学尉 (2年) (黄薔薇のつぼみ)
2号機パイロット 小笠原祥子 二等学尉 (2年) (紅薔薇のつぼみ)
3号機パイロット 福沢祐巳 三等学曹 (1年)
同 ガンナー 島津由乃 三等学曹 (1年)
整備班長 内藤克美 一等学尉 (3年)
1号機担当 田沼ちさと 一等学兵 (1年)
情報士官 佐藤聖 一等学尉 (3年) (白薔薇さま)
陣代高校生徒会
副会長 千鳥かなめ 三等学尉 (1年)(原作:フルメタルパニック)
平委員 福沢祐麒 三等学尉 (1年)
生徒会長補佐官 相良宗介 学曹長 (1年) (原作:フルメタルパニック)
コメント
設定:リリアン女学園
・『マリアさまがみてる』の舞台となるカトリック系女子校。
同級生は名前に“さん”付け、上級生は“さま”という、乙女の園な別世界。
幼稚舎から大学まで一貫という名目に反して、実は外部入学もかなりいるのだが、
半年もすれば外部入学者もすっかりお嬢様色に染まってしまう。恐るべき感染力である。
・本作では海軍肝煎りの女性士官養成学校というさらに斜め上な設定が加わっている。
軍事化を主導したのは駐仏経験があり国際感覚豊かな堀悌吉・大神一郎両提督。
・生徒の多くはM駅こと三鷹駅北口からバス通学なので、所在は武蔵野市と思われる。
設定:府立陣代高校
・陣代高校は、『フルメタルパニック』の舞台となる都立高校。
本作設定では東京都が成立せず東京府なので府立高校である。
学園コメディの高校特有の、並外れた放任主義の伝統を受け継いでいる。
・元ネタは調布市の都立神代高校。最寄り駅は京王線仙川(原作中泉川)。
三鷹駅・仙川駅間は直線で5kmほどなので、リリアン女学園は近所である。
・本作では、祐麒の通う仏教校花寺など、いくつかの学校とちゃんぽんにされている。
キャラクター:島津由乃の人間関係
・由乃って、祥子と違って甘え上手。祐巳にもベタ甘えだし。ほら、修学旅行とか。
手術以前/祐巳登場以前の彼女はどうだったんだろう。
山百合会自体には興味もなくて、病弱少女モードで通してたというのが私の予想。
・本作では「身内」以外には猫かぶり。“ライバル”ちさとはもちろん身内のうち。
黄薔薇注意報、妹オーディションと、どうも由乃のお姉さんっぽい位置にいる彼女。
この二人には、容赦ない本音の応酬が似合うと思う。このフリルオバケ。小姑うるさい。
・祥子と由乃。原作ではちょっと微妙。一人だけちゃん付け。レイニーブルーの時の発言。
わがまま娘同士だからか。令を挟んで/祐巳を挟んでの三角関係のせいか。
本作では祥子がオトナで、由乃が素直な分だけいい関係。そして令ちゃん立ち場なし。