見渡す限りの漆黒の闇。
地上から見上げる夜の闇よりも深く濃いその暗黒の空間に私は居た。
私は帰って来たのだ、この闇の中に。私は帰って来たのだ、母なる宇宙空間に、幼少の頃から慣れ親しんだこの無の空に。
全てに決着を付ける為に。
宙に浮かぶ悪意を消し去るために──。
あの日、作戦で降下した地球の姿に私は愕然とした。
私が教えられて来た地球は緑と光に溢れ、機械に頼らなくとも清浄な空気がそこらじゅうに充満する楽園のような場所であった。
そこでは人々は満たされた生活を送り、優しい笑いの中で日々を過ごしているのだと。
我ら月の民の生命線を奪っておきながら、自分達は満たされた何不自由ない生活を営んでいるのだ、と……。
しかし、私の眼に映る地球の姿はそのような夢物語とはかけ離れたものであった。
確かに、空は青かった。
月から見上げる宇宙空間とは違い、大気に覆われたこの惑星から見上げる宇宙は青く、真空の世界などは遥か遠く感じられた。
空に白く浮かぶ雲は、それを見るのが初めてである私にでさえ、言い知れぬ安心感と郷愁を感じさせるものであった。
ここが人類の発祥の地であり、人類の本来住むべき場所、心の拠り所であるという事を嫌が応にも感じさせるものであった。
しかし地は荒れ果て、草木の生える土地などはごく僅かであった。見渡す限りに荒野が続くばかりである。
そこには地を駆ける獣の姿などは無く、空を往く鳥も居ない。
人間の生活圏に入っても活気など微塵も感じる事が無く、まるで無人の荒野を進むが如くであった。
人々の笑いさざめく温かい空間などは存在せず、街を行き交う人々の代わりに戦闘兵器が襲い掛かってくるのみだ。
この街の住人は何処に居るのだろう? ここは街ではなく、ただの戦闘基地では無いのか? それとも、今襲い掛かってくる兵器の一つ一つに住人が搭乗しているとでも言うのか?
私の中に様々な疑問が浮かんでは消えてゆくが、矢継ぎ早に送られてくる指導部からの伝令が私の思考を停止させた。
元より、今回の作戦も奇襲攻撃である。
何よりも素早い展開と壊滅が肝心なのだ。
地球で言う所の夜の闇に紛れて作戦を開始し、一つでも多くの軍事拠点を、一機でも多くの戦術兵器を破壊し我らが祖国の勝利に一歩でも近づけられねばならない。
一つ目標の破壊を達成すればまた一つ、それも達成すれば更にまた一つと破壊指令は後を絶たない。
そんな風に次々と送られてくる指令を、私は死に物狂いで遂行していった。
私は兵士である。軍にとって、祖国にとっては歯車の一つ、使い捨ての駒の一つにすぎない取るに足らない存在ではあるが、私にとっては掛け替えの無いたった一つの命だ。
地上への奇襲と言う決死隊に志願はしたが、それは祖国の勝利……と言うよりも平和な時代が訪れるのを願っての事だ。
この作戦の成功が戦争を終結させ、月の窮状を打破させるものと信じるからこそ志願したのだ。
地上に降下したのは、私を含め三名。
たった三機の戦術戦斗機による奇襲作戦。そしてその後に控える起死回生の最終作戦を成功させる為の陽動作戦だ。
二度と月の土を踏むことは無いであろう片道切符の出撃ではあるが、この命、そう軽々しく捨てる訳にはいかない。
自分の犠牲の向こうには、きっと明るい明日が待っていると信じて操縦桿を握る。
自分は見る事は叶わないが、自分の子供や孫の世代もその先もずっと平和に暮らせる世界が待っている事を信じているからこそ、どんな過酷な指令でも遂行する事が出来たのだ。
その向こうに、必ずや平和な世界が待っていると信じたからこそ……。
だが、私は知ってしまった。
私の信じたものなど、最初から存在などして居なかったのだ。
この戦争の目的など、とうの昔に失われてしまっていたのだ。
目の当たりにした地球の惨状。指導部の言う理想郷など、地球には存在していなかった。
今の地球に、多くの犠牲を払ってでも手に入れるだけの価値が無いと知った時、この戦争の真の目的が見えて来たのだ。
これは国の存亡を掛けたとか、正義の為とかそんな戦いじゃない。
戦争の為の戦争。争いを長引かせる事によって、地球国家と言う絶対悪の幻想を国民に抱かせる事によって自国の窮状から目を背けさせる口実にすぎなかったのだ。
きっと今回の作戦が成功を収めたとしても、争いは無くならないだろう。
闘う事に疲弊しきった国民を、さらなる戦いに叩き落とす結果しかもたらすまい。
今の指導部にとっては地球を手に入れ、そこに月の民全てを移民させるとかそういう事はどうでもよいのだ。
ただ、少しでも長く戦争を長引かせ、国民にありもしない幻想を抱かせ続ける事によって自らの権威を守ることしか考えていない。
一度首をもたげたこの疑問は、夜明けが近づくにつれ更に濃くなる夜の闇のように私の心を支配していった。
そして地球軍の切り札とも言える攻撃衛星の打ち上げ阻止と破壊に成功した私の前に、悪夢が訪れた。
抜ける様な青空を背に目の前に現れた、数十機の自軍の最新戦斗機“EOS”。
それは私の戦闘記録を元に造られた戦闘データを搭載した無人戦闘機であり、私の影と言える存在であった。
そしてHYPERIONからの入電。
『名誉ナコトニ 貴官ハEOS最終テストノ 標的トシテ選抜サレタ オメデトウ ナオ、死後ニハ 二階級特進ノ上 シリウス勲章ガ授与サレルデアロウ』
やはり、指導部は戦争の終結など考えてはいなかったのだ。私の中の疑問が確信へと変わる。
『月ニ栄光アレ 地球ニ慈悲アレ』
その入電がされると同時に、新型無人戦斗機たちは一斉に私に牙をむいた。
搭載されたデータのままに、敵意も殺意も憎悪も無く、ただただ攻撃を仕掛けて来るその姿に、私は今まで感じた事の無い心の底から凍りつくような恐怖を感じた。
夜を徹しての強行軍を成し遂げ、肉体的にも精神的にも限界を迎えていた己を奮い立たせ、なんとかして目の前に迫る無邪気な殺意から逃れんと操縦桿を握る。
新型機の性能自体は、私の機体と比べてもそう代わり映えするものでは無かった。
無人機であるが故、不要となるコクピットのスペースに多少の弾丸を搭載出来たり、パイロットの体を心配しなくて良いから多少の無茶な機動ができる程度であった。
しかしながら私を震え上がらせたのは、無人機の攻撃の癖が私と全く同じであったことだ。
まぁ私の戦闘記録を基に攻撃パターンを組んだのであろうから、冷静に考えて見ればそれも当然ではあろう。
だが、極限まで疲弊した私に襲い掛かる無数の自分の幻影に、私は地獄の姿を垣間見た。
雨霰と降り注ぐ弾丸を潜りぬけ、私はなんとか生き延びる事に成功しはしたが、既に心も体も機体すらボロボロに打ち砕かれてしまっていた。
今まで自分が正しいと思っていた全ての事が、目の前で崩れ去った。
守るべきものを失ってしまった兵士は、何の為に戦えば良いのだろうか。
信じる物に裏切られた兵士は、何を糧に生きてゆけばいいのか。
私の心は深い絶望に囚われた。
生きる意味も目的も、全てなにもかも失い、傷ついた体のまま朽ち果てていくのを待つばかり……そんな心境であった。
しかし、辛くも生き延びた私に訪れた地球で二度目の夜は、私に新たなる意義をもたらしてくれた。
絶望に浸って見上げた夜空に浮かぶ白い月。
私の生まれ育った、不毛ながらも掛け替えの無いたったひとつの故郷。
まだ、終わってはいない。まだ、全て失ってはいない。
あの月には、まだ多くの人が戦争の終結と平和を祈って暮らしているのだ。私の家族、共に闘った仲間、そして愛しい人……。
あそこが私の帰るべき場所なのだ。
そしてあの場所に息づく全ての人の為に、私は戦わなくてはならない。
私は新たなる決意を胸に虚空を睨む。
肉眼では決して捕らえられない、地球の静止衛星軌道上に浮かぶ指導部の悪意の象徴ともいえる“それ”を見据えるように天を仰ぐ。
真実を知った者として、採るべき道は一つ。
私は激しい戦闘を潜りぬけた愛機に乗り込むと、もう一度命を吹き込む。
遥か遠くに見えるまだ見ぬ光を求めて、再び私は空へ向かって飛び立った。
あれから一ヶ月の時が過ぎ、私は宇宙へと舞い戻った。
私の抹殺の為に仕向けられた新型機を撃墜し、その部品で強化した愛機とともにこの暗黒の空間に戻って来たのだ。
HYPERIONからの警告を一切無視し、私は宇宙を駆けた。
『貴官ハ重大ナル 反逆行為ヲ犯シテイル 直チニ武装ヲ解除シ 投降セヨ 繰リ返ス 貴官ハ……』
どうやら私は反逆者らしい。
まったくお笑い草だ。国の為に命を駆けた人間の末路が、いわれの無い反逆罪とは。
今回と同じように今までに何度か結成された、奇襲降下作戦の為の特別機動隊の末路も同じような物であったのだろうか。
次々と襲い来るEOSの群れを蹴散らし、標的へと迫る。
狙いはただ一つ、宙に浮かぶ無人指令衛星“HYPERION”。
漆黒の宙に浮かぶ白亜の要塞相手に、単身戦闘を仕掛ける。
幸か不幸か、単機での地上制圧を目的に建造された愛機の性能は、月の最終兵器であるHYPERIONを相手にしても決して後れをとるものでは無かった。
破壊され、地球の引力に捕らわれ落下していくHYPERION。
燃え尽きてゆく月の最終兵器を視界の端に捕らえながら、私は大きく息をついた。
息を吐き出し終わると、キッと前方を睨む。
まだ終わりではない。
無人指令衛星は破壊されたが、それで戦争が終わる訳ではない。月にとっては指揮官を一人失ったのと同じ程度の損失でしかないのだ。
それでは駄目だ。
仲間に牙をむけるのは心が痛む。
だが、皆にも思い知らさなければならないのだ、この戦争の無意味さを。
そして私は月へと向かい漆黒の空を駆けた。
月面国家セレーネの誇る無人指令衛星「HYPERION」陥落から程なく、セレーネと地球の世界国家であるゾードム帝国の間に暫定的ではあるが休戦条約が結ばれた。
セレーネの強襲作戦「オペレーション・ジャッジメント」によってほぼ壊滅状態に追いやられていたゾードムと、HYPERIONを始めとする指令中枢に大打撃を受けたセレーネ。
最早戦争を継続させることのできるだけの体力が残っていない両国の実情が明るみに出るのにそう時間はかからなった。
そうなると一気に終戦への機運が高まり、驚くほどあっけなく和平条約が締結された。
40年近く続いた人類初の星間戦争は、たった一機の戦闘機によって終結に向かったのだ。
だがその事実を知る者は居ない。
戦争を終結に導いたその者の名は、両国の記録から完全に抹消されたのだ。
だが、戦場で実際にその猛威を体感した者たちの記憶の中に、鮮烈にその姿を留めていた。
そして何時しか語られるようになった戦地を駆ける英雄の話。
後年、その活躍を称え英雄視する者も、恐怖の記憶と共に蔑む者も、等しく彼をこう呼んだ。
──『アインハンダー』と──