私には祖父が居る。人間としても、剣の師としても尊敬している自慢の祖父だ。 そんなあの人との思い出は、思えば常に剣を介していた気がする。 物心ついた頃、最初に教わったのは剣の握り方だった。 口が利ける様になって、初めてかけた言葉は「お爺ちゃん」で無く「師匠」だった。 常に修業と共にあったあの人との記憶。けれど私は、それが辛い事だとただの一度も思わなかった。 何故なら私は、剣を振るう事で祖父と様々な会話をしていたのだから。 だがある日、祖父は突然白玉楼を去った。私に白玉楼の庭師と……幽々子様の剣の指南役を任せて。 私がそれを知ったのは、すでにあの人が白玉楼を離れた後の話。 唖然とする私に、幽々子様は祖父から預かった言葉を伝えてくれた。 “魂魄流の全てをお主に叩きこんだ。後は己で引っ張りだせ” あれから、どれほどの月日が経っただろうか。 ――私は未だに、祖父の伝言の意味を理解していない。幻想郷覚書 緋想の章・拾「意気天候/斬れぬものなど殆ど無い」「―――覇ぁっ!!」 小町殿の懐に飛び込み、私は右手の楼観剣で彼女に斬りかかる。 間合いは完璧。外れ様が無い――はずなのに。「残念、一歩遠かったね」「……くっ」 気付けば、刃の一歩先に小町殿の姿が。 私の剣はあっさりと、何も無い空間を通過していった。 しかし、私には二の太刀がある。 空振りの勢いを利用して、私は続けて左手の白楼剣を彼女へと突き出した。「おっと甘い」 だが、それすらも届かない。 先程よりもさらに踏み出したはずの一撃を、小町殿は一歩も動かずに避けた。 以前の、花の異変の時と全く同じ状況。 微動だにしていないはずの彼女に、何故かこちらの攻撃は紙一重で届かないのである。 呆然としながらも、身体は用心のため小町殿から距離を取った。 険しい表情の私に対して、彼女は退屈そうに肩を竦めると大きな欠伸を一つ吐き出す。「何だい、何か変わったのかと思えばそのまんまじゃないか。それで良くあたいと戦う気になったね」「くっ、まだです! まだ勝負がついたワケではありません!!」「このまま馬鹿正直に剣を振ってたら、結果は同じだと思うけどねぇ」「うっ――」 私とて、このままではダメだと分かっている。 何とか紙一重の秘密を暴かなければ、無駄に体力を消耗するだけだ。 ……晶さまなら、容易く仕掛けに気付くのだろう。ひょっとしたらすでに対策を打っているかもしれない。 ふと頭をよぎった憶測に苦いモノを感じ、私は自然と顔を顰めていた。 情けない、情けない、情けない! 分かってはいるのだ。私など、まだまだ晶さまには遠く及ばないと言う事は。 けれど、どうしても不安になってしまう。 あの人の、私が今まで全く知らなかった‘強さ’を見ていると。「――はぁぁぁぁぁぁぁあああ!!」 半ばヤケクソ気味に、双剣を振りかぶり突撃する。 しかしそんな勢い任せの攻撃が小町殿に通用するはずも無く、我武者羅な連撃は全て宙を斬ってしまった。 どうすればいい、どうしたらいい。こんな時、晶さまならどうする。 頭の中では、案にも満たない思考が集中力を削り取る様に暴れ回っていた。だがそれは、一向に纏まろうとしてくれない。「甘い甘いよっと――とりゃっ」「ぁぐ!?」 そんな風に考えを散乱させたこちらの隙を付き、小町殿の弾幕が勢い良く私を吹き飛ばす。 衝撃と共に大地へと叩きつけられ、呼吸が出来なくなる感覚。 それでも何とか立ち上がろうとした私に、小町殿の呆れ混じれの声がかかった。「やれやれ、やっぱり半人前だね」「――――っ」「と言うかだ、前より動きが悪くなってるのはどういう事なん――」 そこから先の言葉は聞けなかった。 心の奥底から湧いてくる、無力さと不甲斐無さに塗れた自己嫌悪で頭の中が一杯になってしまったからだ。 嗚呼、私は何故こんなにも無知なのだろうか。 晶さまと共に居る間――いや、晶さまと出会った頃からずっと奥底で溜まっていた無力感は、ついに私の中で爆発してしまった。 あの人は、強い。初めて相対した時、私はその強さを剣の腕前によるものだと思い込んでいた。 だが、二度目の戦いで気付いた、気付いてしまったのだ。 あの人の強さは、剣とは違う所にあるのだと。 それは、私の全く知らない力。私が今まで見ようともしなかった、私の知る強さの外側にあった強さ。 世界が広がるのと同時に、私は己の矮小さを思い知った。剣だけを振るっていれば良いと、安易に構えていた自身の浅慮を嘆いた。 もっと考えなければ。周囲の状況を、相手の能力を、動きを、思考を、戦略を。 そして決めなければ。次の行動を、必勝の策を、剣に代わる新たな決め手を。 もっと、もっと、もっと――「はいはーいっ、作戦ターイム!!」「晶、さま?」「ちょいと久の字? いきなり何を――」 突然、私と小町殿の間に晶さまが割り込んできた。 彼はそう言い切ると、こちらの言葉を待たずに私を大木の近くへと引き摺って行く。 ……何も思いつかない、不甲斐無い私に何か策を与えてくれるのだろうか。 だとしたら、断らなければ。私は私の頭で、小町殿への対抗策を考えなければいけないのだから。 「晶さま、私は――」「以前にね、とある剣豪が僕に言ったんだ。僕には剣の才能はあるけど、剣士の才能は欠片も無いって」 何故そんな事を急に。そう尋ねる事は出来なかった。 それほどまでに晶さまの瞳は真剣で――かつ、怒りに満ちていたのだ。 「何が違うのかって聞いたら、先生はこう答えたよ。僕には剣に全てを委ねる覚悟が無いんだと」「剣に、全てを……?」「僕には誇れるものが無い。最後に頼れる力も、力から生まれるプライドも無い。――だけど、君は違うはずだ」 晶さまが、私の両手を掴んで持ち上げる。 そこで、初めて気が付いた。 私の手が、ずっと握っていた物に。私が誇るべき、二刀がそこに或る事に。「考えなくて良い、見なくて良い。視界は狭めて、頭は空っぽにして――君は、馬鹿みたいに剣の事だけ考えていれば良いんだ!」 ――その時の感情を、果たしてどう表現すれば良かったのだろうか。 私は啼いた。声も出さず、涙も流さず、ただただ感情のままに啼き叫んだ。 強いて言うなら、それは生誕の産声だったのかもしれない。 魂魄妖夢はこの時、間違いなく二度目の生を迎えたのだ。「晶さま」「……何かな」「――行って、きます」「うん、行ってらっしゃい」 それ以上の言葉は、必要無かった。 私は大きく息を吸い込むと、再び小町殿と相対する。 けれど私の瞳は、すでに彼女を捉えていなかった。「作戦会議は終わったのかい? やれやれ、久の字の入れ知恵があるとなると厄介だねぇ」 いきなり割り込まれて機嫌が悪いのか、小町殿があからさまな皮肉を漏らす。 だが不思議と、怒りも焦りも湧いてくる事はなかった。 やるべき事がすでに、分かっているからだろう。 私は二刀に話しかける様に、ゆっくりと剣を構え――そのまま全速力で駆け出した。「いきなり不意打ちかい。アイディアは悪くないけど」「―――破ァァァァァ!!!」「って、危なっ!?」 楼観剣が小町殿の服を掠めた。だがこれは、別段驚くべき事ではない。 彼女は今までの、迷っていた時の私を想定して動いていたのだ。 迷いを捨てた私の速さを、うっかり‘計り損ねる’事もあるだろう。 そして恐らく、うっかりに二度目は無いはずだ。次の一撃は、再び紙一重で回避するに違いない。 それで良い。そうで無いと困る。 私は何も掴めていない。何も出しきれていない。何も試していない。 まだまだ、届いて貰っては、困るのだ!「ちょ、魂魄の!? 何か滅茶苦茶良い笑顔してない? 怖いよ? 何か怖いよ!?」 返事をする間さえ惜しかった。 空振りの勢いで小町殿の隣を駆け抜けた私は、充分な距離を取って反転する。 そして私は再び加速し、小町殿へと斬りかかった。 当然彼女は紙一重で回避するが、そんな事はもうどうでも良い。 ただただ我武者羅に、無心に、より早く、より強く、私は剣を振るい続ける。 ――そうやって、何度同じ事を繰り返しただろうか。 気付けば小町殿は、大きく距離を取って攻撃を回避する様になっていた。 息遣いも荒く、所々に切り傷が見え、激しく消耗している事は目にも明らかである。 だが、まだ届いていない。 その事に対して焦りを感じる事は、もう、無い。 むしろ楽しい……そう、楽しいのだ。 届かない事が、足りない事が、未熟な事が――楽しくてしょうがない。 それは、いつの間にか忘れていた感覚だった。 成長する喜び、知らない事がある喜び。修練を重ねる事で失っていった、私の初心。 止まらない。止まらないっ! 止まらないっ!! 私はこんなにも早く走れたのか。こんなにも力強く剣を振るえたのか。 剣を振るう度に、攻撃を重ねる度に、私は剣の新たな側面を知り――もっと知りたくて剣を振るい続ける。 ああ、本当に楽しい。いつまでもこんな時間が続けば良いのに。「ええいっ、付き合ってられるかっ!!」 私が剣との対話を楽しんでいると、半泣きの動く的――もとい小町殿が叫ぶと共に大きく距離を取る。 それは、移動と言うよりも距離を弄った様に見えた。 なるほどさすがは三途の渡し守、距離を操るのはお手の物らしい。 そうしてようやく明かされた回避の『タネ』にさほど興味が湧かなかったのは、きっと相手を気にする必要が無くなったからだろう。 私が無目的に小町殿を眺めていると、何かが気に障ったらしい小町殿がさらに怒声を重ねてきた。「猪みたいに突撃ばっかりしやがって! お前さんの頭には、知略を働かせるって言葉は無いのかい!!」「要りません」「いや、要らないってお前さん……」「と言うか小町姐さん。それ、負けてる方の台詞じゃないよね」「うるさい久の字! 魂魄のがケロっとしてるだけで、ダメージはどっこいどっこいなんだよ!!」 言われてみれば、私の身体も弾幕でボロボロだ。 先程までの記憶を洗ってみれば、小町殿は何回かスペルカードを使っていた様な気がする。 もっとも直撃した記憶は無いので、迫ってきた弾幕は恐らく反射的に切り落としていたのだろう。 それでも避けきれなかった何発かが身体に当たり、蓄積した結果これほどのダメージになってしまったようだ。 ――まぁ、良いか。 自分でも恐ろしいほどあっさりとそう結論付けた私は、次の一撃のため身体を弓矢の様に引き絞る。 多分私は今、本当に剣の事しか考えてないのだろう。 身体も、心も、半霊も、全てはただ剣を振るう為の――否、一振りの剣その物になっているのだ。 恐らくは、両手に握られたこの二刀も。 ただ、斬ると言う目的のためだけに。この場は存在しているに違いない。 「―――小町殿」「な、何さ」 「今から全力で、斬ります」 それがどれほど傲慢な一言か。十二分に理解はしているつもりである。 今までもすでに全力だった。しかし、私は悟ってしまったのだ。 次の一撃が、間違いなく全力の――今の私では、まだ意図して出せない――最高の一撃に為り得ると言う事に。 故に、私は微笑む。 身体を緩ませ、全ての準備は完了させるために。結果を生み出す、最初の一歩を踏み出すために。 私は、最強の――そして最後の一撃を放つ為駆けた。 ―――――――断迷剣「真・迷津慈航斬」 二つの剣から放たれた剣気が重なり、巨大な一本の刃となった。 さらに私はその刃をより薄くより硬く研鑽させ、小町殿へと向かって振り下ろそうとする。「だぁぁっ、ちょっと待ったちょっと待った!」 ―――――――恨符「未練がましい緊縛霊」 そんな私の一撃に対抗するため、一手遅れながらも小町殿はスペルカードを顕現させた。 同時に白く半透明な霊魂が五つ程、私を絡め取ろうと襲いかかってくる。 恐らく私の攻撃よりも先に、こちらの動きを止めるつもりなのだろう。 どうやら小町殿は、よっぽど慌てていたようだ。 まさかよりにもよってこの私に、霊による攻撃を仕掛けてくるとは。 私は刹那の躊躇いも無く、そこに弾幕など無かったかの様に刃を振り下ろす。 それは、‘斬る’と言うより‘通す’と言った方が正しい感覚だった。 まるで世界その物をズラした手応えと共に、巨大な裂け目が三途の川辺に生まれ、霊魂による弾幕を綺麗に両断する。 ――だが、そこに小町殿の姿は無い。 彼女は唖然とした表情で、己の一歩手前で閉じている亀裂を眺めていた。 果たして、届かなかったのか届かせなかったのか。 今の私には、最早どうでも良い事だった。「……へぅう」「おっと、危ない」 全身の力が抜け、思いっきり倒れ込んだ私の身体を晶さまが支えてくれる。 その表情は、無言ながらも私の行動を確かに称賛してくれていた。 ああ、ありがとうございます晶さま。 得られた満足感からか、私の意識もそれに続いてゆっくりと薄れて行く。 それでも、気だるさや眠気に抵抗する気は起きなかった。 このまま気を失っても良いと、私の心も体もすでに納得していたのだろう。 私はそのまま、ゆっくりと目を閉じて―― 「ちょ、妖夢ちゃん大丈夫!? 何か真っ白に燃え付きかけてるんだけど?」「あたいの出番かね」「引っ込んでてください。つーか何でそんなに機嫌悪いんですか、姐さん」「死ぬかと思ったからだよ! 正直、身体が右と左に断たれたかと思ったからね!?」「実は僕も、右小町と左小町さんに別れたと一瞬思いました」「だろう!? ……ところで久の字、今どうして左の方だけさん付けしたのさ」「左の方が位が高いからです」「……久の字のボケは分かり難いね」「良く言われます」 いや、気絶するにはまだ早い。私にはまだ、するべき事があったはずだ。 危うく失いかけた意識をギリギリで保ち、私は何やら問答を繰り広げていた晶さまに向き直る。 いきなり顔を起こした私に晶さまはかなり驚いた様だが、余裕の無い私に謝罪をしている暇は無かった。「晶さま、一つ伝言をお願いしてよろしいですか」「良いけど……誰に? 幽々子さんとか、死亡フラグに直結しそうな相手は止めてね」「いえ、目を覚ました私に」「……随分と高度な伝言を残すね」 恐らく私は、この戦いの事を覚えていないだろう。 もちろんそれは、記憶の中から今日の戦いが消えてしまうと言う意味では無い。 ただ、この戦いで得た感覚。僅かに覗き見えた剣の秘奥は、どうやっても思い出せないと確信していた。 ――今は、まだ。だから……。 「貴方の言葉で、また私に言ってやってください。馬鹿になって剣を振れと」 あの一言があれば、きっと私は頑張れる。 私は私のままで良いのだと、胸を張って言いきれる。 だからお願いします、晶さま。私のちょっとした我儘をかなえてください。「お願いします、よ……」「ちょっと、妖夢ちゃん? 妖夢ちゃん!? そんな大役を気軽に任せないでよ!?」「あはははは。久の字ってば、えらく信頼されてるじゃないか」「嬉しい話ではあるけど……何だろう、この逃げ道を失った感じは」 言うべき事を伝えた私は、今度こそ完全に意識を失った。 後に聞いた話だが、晶さまに抱きかかえられた私はずっと笑っていたらしい。