初めて見る芽があると、どんな花が咲くのか確かめたくなる。 退屈でただ長いだけの私の時間の中で、数少ない娯楽の一つだ。 育つ過程も、美しく咲いた瞬間も、それを愛でる一瞬も、極上の美酒に勝る快楽を私に与えてくれる。 ……けれど私は、どうやら自分で思っている以上に『甘い』性分をしているらしい。 丹念に育てた花が美しく咲いた所を見ると、摘むのは惜しいと思ってしまうのだ。 そして最後まで、花が枯れる時まで見守ってしまう。 ――もうすぐ、あの花は枯れるだろう。 結局、一度も本気でやりあう事は無かった。 最後まで触れぬまま摘めぬまま、こんな所まで来てしまった。 ……私は、どうしたかったのだろう。 どうしようも無くなった今だからこそ自問してしまう。 ――もしも、もしも違う結末が選べたのなら。幻想郷覚書 異聞の章・拾弐「異人同世/面影にのみ色を見せつつ」「おはよう、まだ生きているかしら?」 朝日の差し込む部屋に入り、お馴染みとなった挨拶を口にする。 それに返ってくる言葉は弱々しくて、かつてのような若々しさはもうどこにも無い。 私は朝食の入ったトレイを持ってベッドまで近寄ると、すっかり白くなった彼の頭を優しく撫でた。「無理に起きなくて良いわよ。身体、拭いてあげるわね」 トレイを脇のテーブルに置き、晶の身体を優しく起こす。 以前の潤っていた肌は見る影もなく衰え、元々細かった手足は今や枯れ木の様になってしまっている。 それでも、『お爺ちゃん』と呼ぶより『お婆ちゃん』と呼ぶ方が合っている所はさすがだけどね。 最早、戦うどころか日常生活すら困難な有り様。 幻想郷有数の実力者も、時間の流れの前には無力なモノだわ。 ……人である事を辞めていれば、こんな結果にはならなかったのでしょうけど。 結局貴方は、最後まで人間で在り続けたわね。「はい、終わり。ふふ、綺麗になったわよ」 それでも、人間としては上等な終わり方なのでしょうね。 大切な記憶を失う事も無く、肉体の一部を欠ける事も無く、ゆっくりと静かに衰えていく。 私には拷問のような死に様にしか見えなくても、世間から見れば大往生なのだろう。 事実、今まで彼の口から人生を悔やむ言葉は無かった。 一人で部屋を出る事すらままならない姿になっても、晶は昔と変わらぬ笑みを浮かべ幻想郷を楽しんでいる。 「ねぇ晶……………今日の昼食は何が良いかしら?」 本当に、コレで良かったの? 思わず言いかけた下らない言葉を飲み込み、他愛のない話題でお茶を濁す。 まったく、らしくないわ。柄にもなくナイーブな気分になっているみたいね。 私は無言で晶に朝食を食べさせ、後ろめたさを誤魔化すように部屋を出て行った。 ……情けない。文や紫はとうに覚悟を決めていると言うのに、私だけが足踏みをしてしまっている。 大体、悩んでどうすると言うのか。今更違う結果を求めたとしても、もうどうしようも無いと言うのに。「ゆ、幽香さん!!」「――っ!?」 居間で一人自嘲していた私に、かつて聞きなれた――そしてとうに忘れてしまっていた声が聞こえてきた。 錆びついていた記憶が、新たな刺激を得てかつてあった光景を蘇らせる。 ああ、そうか。そういえば彼はこんな声をしていたわね。 懐かしさに惹かれ振り返ると、そこにはやはり以前良く見たメイドの姿があった。 そういえば、いつの間にかあの格好もしなくなっていたわね。あれはいつの話だったかしら。「分かります!? 僕の事、分かりますか!?」「……ええ、晶よね」「良かったー! 戻ってこれたー!! アイル・ビー・バック!」 ……思い出したわ、この底抜けた明るさと騒々しさ。 若い頃の晶は、動きも表情もコロコロと面白いくらい変わったのよね。 数十年ぶりに実感してみると、覚えていたよりも鬱陶しくて逆に笑えてくるわ。「貴方がどういう久遠晶なのか知らないけれど、ここが貴方の世界かと問われれば答えはノーよ」「ほへ? どういう事ですか?」「若すぎるのよ。私の知る久遠晶は、いつ死んでもおかしくない老人なのだから」「老人!? えっと、ちなみに僕が幻想郷に来てから何年くらい経ってますかね?」 笑顔の凍りついた晶に年数を答えると、ガックリと頭を下げた彼は思い切り地面に倒れ込んだ。 よほどショックだったのだろう。その姿に安堵を覚えた私は、苦笑しながら彼の分のティーカップを用意した。「落ち着きなさい。紅茶を入れてあげるから、まずは一息つきましょう?」「はーい……」 のそのそと起き上がり、弱々しい仕草ながらしっかりと席に座る久遠晶。 遥か昔にあった「いつも通りの光景」が、気のせいで無ければ私に力を与えている。 妖怪は精神に依るモノだと言う話は良く聞くが、ここまで分かりやすく実感できるとは思わなかった。 調子を狂わせてばかりね。……こんなにも不安定だったかしら、私は。「……幽香さん、大丈夫ですか?」「あら、それは私の台詞じゃないかしら」「そうなんですけど……なんだか幽香さん、元気が無い様な気がして」「生意気ねぇ。こんなにも上等な口を叩く子だったかしら」「ゆふふぁさぁーん」 そんな私の不安を一目で見抜いた晶が、上目遣いでこちらの様子を尋ねてくる。 それが嬉しくて、腹立たしくて、私はそれらの気持ちを隠すため晶の頬を軽く引っ張って話を誤魔化した。 本当に、昔の晶そのままだ。――けれど恐らく、彼は過去の久遠晶では無いのだろう。 私の知ってる晶よりも、格好が随分と趣味的になっているモノね。……紫か文の仕業かしら。 瞳を模した金色の首輪に、フリフリヒラヒラ度の増した服装。改めて観察するとメイドらしさはほとんど無いわね。 何より、彼の内側から感じる力が段違いだ。この年齢ですでに全盛期の晶に匹敵する力を身につけている。 同じ久遠晶である以上、根本となる能力も同じはず。 それでこれほど差があるという事は……どうやらこの晶は、私が知るよりも厄介な道筋を進んでいるようね。「確認したいのだけど、貴方は人間なのよね?」「この世界では普通に老けてるはずなのに、まさかの妖怪疑惑発生!? 僕は普通の人間ですよ!?」「徐々に妖怪化してるとか無いの?」「否定しづらい質問だけど、全力でノゥと答えます! 晶君は普通の子です!!」 半泣きで否定されるような質問だったかしら。……何だか私の知る晶より、若干必死さが増しているわね。 それにしても、これだけの力を得てまだ人間だなんて。 ふふっ。分かっていたつもりだけど、やっぱり晶は面白いわ。こんな些細な事でもこちらの想像を超えてくれる。 ――本気で戦ったなら、どうなるのかしら。 思いがけない『久遠晶』の登場に、諦めていた衝動が再び顔を出しはじめた。 これは虚しい代替行為だ。別世界の晶と戦った所で、それがこの世界の晶の代わりとなる事は無い。 けれど、けれどそれで私の心は満たされるかもしれない。 生まれかけている後悔の念も、消す事が出来るかもしれない。 ……全力で殺し合い、彼を殺す事が出来れば。「それにしても、老人になった自分って想像が出来ないなぁ。どんな風になってるんだろう」「隣の部屋で寝てるから、会おうと思えば会えるわよ? ……会ってみる?」「…………止めておきます。それで蓬莱の薬を求めるようになったら、色々と笑えませんから」「賢明ね。もっとも私の知る晶は老いが恐ろしくなるほど酷い衰え方はしていないから、会っても大丈夫だと思うけど」「はー、この世界の僕は幸せな人生を送ってきたわけですねー。……憎まれっ子世にはばかる?」「自分で言う事かしら。――それに、幸せだったかどうかは分からないわよ」 呑気な晶の感想に、思わず否定の言葉を重ねてしまった。 反射的な否定。けれど、だからこそその言葉には私の真意が含まれていた。 ……やっぱり不安なのね、私は。 しかし晶は、私の答えに心底不思議そうな顔で首を傾げ尋ねてきた。「えっと、ひょっとして誰かいなくなったり仲違いしたりしちゃったんですかね?」「いいえ? 天晶異変から面倒な輩が増えはしたけど、減った奴は一人もいないわね」「一人もですか? 本当に? 実はボッチになってたとかありません?」「本当よ、しつこいわね。何でそんなに疑うのよ」「いやだって、ずっと皆と一緒だったなら――不幸だったはずが無いじゃないですか」 本当に、本当に何でもない事のように答え、晶が愉快そうに笑った。 そこさえ違えなければ、そこが違っていないなら、何一つ問題は無いと言わんばかりに。 「あ、ひょっとして僕の側が変わったとか!? 年を取って価値観が変わって幻想郷嫌いになったとか!? まさかの二連続!?」「――ふふっ」 ああ、こんな簡単な事だったのか。 こんな単純な言葉が聞きたかったのか、私は。 ……馬鹿馬鹿しい。今までの自分があまりにも馬鹿馬鹿しすぎて、逆に笑えてくるわ。「えと、幽香さん?」「動揺しすぎよ。それだけ確信できているなら、もう少し落ち着きなさい」「あ、冗談でしたかそうでしたか。いやはやあはは、ちょっと過敏に構え過ぎてました」 気付けば、机の下で握っていた拳を緩めていた。 なんて事はない。私は本気で晶との戦いを望んでいたワケでは無かったのだ。 ただ、惨めに老いさらばえる前に彼を終わらせた方が良いのではと、そう血迷っただけだったのだ。 どうやら私は、自分で思っていた以上に彼へと入れ込んでいたらしい。 ……いや、今更か。そんな事はとうに分かっていた話だ。 認めていなかったのは私だけ。私だけが、晶をどれほど大切にしていたのか分かっていなかったのね。「……幽香さん? なんでいきなり頭を撫でるんで?」「ふふっ、貴方が滑稽で面白かったからよ」「わー、同情だったー。泣きたい」「晶は馬鹿でカワイイわねぇ」「馬鹿という代償で得た賛辞が不本意過ぎて二重に嬉しくない!?」「それで、貴方はこれからどうするの?」「あまつさえ普通に話を戻された! あ、えっと、とりあえず元の世界に戻りたいかなぁと思ってます」「それなら紫ね。アイツに頼めば何とかなると思うわよ」「……どこの世界でも、だいたいそう言う流れになるんですねぇ」 何やら悟りきった表情で、小さく苦笑を浮かべる晶。 まぁ、紫だものね。アイツに出来る仕事なんて便利屋か黒幕しか無いでしょう。「ちなみにこの世界の紫は晶を溺愛してるから、貴方が呼べば一瞬で現れると思うわ」「あー、僕の世界と同じノリで大丈夫って事ですか。了解しました」 晶は笑いながら立ち上がり、机から離れて右手を口元に添えた。 彼が大きく息を吸うのを確認して、私は両耳を手で塞ぐ。 ……別に大声で呼ぶ必要性は無いのに、何でどの晶も無駄に良い姿勢で大声を出すのかしら。「ゆっかりねーさまぁぁぁあ!!」「はーぁーいー!」 待っていたと言わんばかりのタイミングで、隙間から八雲紫が現れた。 そのまま、晶の身体に抱きつき思う存分撫で回し始める。「あぁん、晶だわー! 今の晶も落ち着いてて素敵だけど、昔の晶も可愛いわー!!」「いえ、厳密に言うと違うらしいのですが」「厳密に言わなければ同じよ! ちゃんとお家に返してあげるから、思う存分愛でさせなさい!!」「何故だろう、物凄い安い報酬なのに凄まじくボッタクられてる気がする」 少なくともしばらくの間は解放はされないでしょうね。まぁ、一生拘束される事は無いから安心なさい。 後は私が居なくても大丈夫だと判断した私は、晶に気取られないよう静かに立ち上がった。 ――その時ふと、紫のヤツと目が合う。 紫はこちらの様子に気付くと、馬鹿にするかのように笑ってみせた。 まったく、趣味の悪いスキマね。……覗き見のツケは、後でしっかり払って貰うわよ。 「とりあえず着せ替えしましょ、着せ替え! 実は、昔着せたかった衣装が結構あったのよねー」「エプロン? はて、僕ってエプロン付けた事ありませんでしたっけ」「まずは全裸になります」「え、ちょっと待って? 何で脱ぐの? エプロンは装飾品であって服ではありませんじょ?」「へっへっへ、大丈夫よ大丈夫。大事な所は全部エプロンで隠れるから」「いやいやいや、だいじょばないよソレ! 絶対にだいじょばないって!!」「ゆかりん、日本語は正しく使うべきだと思うの」「突っ込むべきポイントはソコじゃないと、あっきーは思います!」 馬鹿なやり取りをしている二人を横目で流して、私はその場を後にした。 その内烏天狗もやってきて、もっと騒がしくなるでしょうからね。 今の間に、やるべき事をやっておきましょうか。「おはよう、まだ生きているかしら」 朝と同じ挨拶をする私に、晶は優しい笑みで答えた。 普段は静かな部屋には、居間から聞こえてくる晶と紫のやり取りが響き渡っている。「今、別世界の貴方が来ているわよ。おかげで、久遠晶がどういう人間だったか良く思い出せたわ」 私の言葉に、晶はただ小さく苦笑した。 思ったよりも驚いていないのは、それだけ落ち着いたからなのか、単に『経験済み』だったからなのか。 ま、どちらでも良い事だわ。私も晶に笑いかけ、優しくその頭を撫でてやった。「ふふ、ちょっと昔を思い出してね。良いじゃないの、私から見れば今でも子供みたいなモノよ」 けれどこういう所は、何一つ変わっていないのね。 子供扱いされたと判断して恥ずかしそうに頬を染める晶の姿も、今なら素直に喜べるわ。 ……私が思っていたより、まだまだずっと子供なのかもしれないわね。 死の直前ですら幼さが抜けないと言うのだから、人間というのは本当に度し難い生き物だ。 だけどまぁ…………うん、嫌いでは無いわよ。「ねぇ晶。貴方はこれから死んで、何もかも綺麗に洗い流して別の何かになるのよね」「なら冥土の土産に、風見幽香一生ものの恥を持っていくつもりは無い?」「そう、恥よ。これほど屈辱的な告白をする事はもう無いでしょうね」「ふふふ、愛の告白じゃ無いわよ。意外だわ、貴方でもそう言う話を期待するのね」「……いえ、そうね。色恋の話では無いけれど、愛の話である事に違いは無いわ」「ねぇ晶、私はね――」 散っていく花をただ見守るのも悪くない。 それもまた、時間の有益な潰し方の一つだろう。 ――晶。貴方に会えて、良かった。