「晶さん。貴方が居なくなってからは、幻想郷が随分と静かになっちゃいましたよ」「今、外の世界で何をしているのでしょうか」「妖怪であるこの身が……今だけは、歯痒いです」幻想郷覚書 序章「久遠再帰/幻想パラダイムシフト」 薄暗い室内に、女性のくぐもった吐息の音が響き渡った。 必要最低限の舗装すらされていない無機質な部屋の中には、不釣合な大きさのベッドだけが置かれている。 それは、この部屋の用途が一つしかないという証。 室内から漂う異臭が何か分からなくとも、何が原因で異臭がついたのかは誰の目にも明らかだった。 故に、理解しているからこそ、女性は無駄でしかない抵抗を繰り返す。 すでに縄で縛られた両手足は赤く擦れ上がり、僅かにだが血が滲み出ている。 それでも女性は、陰惨たる未来から逃れるため必死に足掻く。それが無駄な事だと半ば悟っていても。「ただいま~。ゴメンねぇ、元気してるかなぁお嬢ちゃん」「元気にしてくれないと困るんだけどねー。まぁ、無いなら無いで売りようはあるんだけどさぁ」 だが、僅かに残った希望も扉の開く音と共に儚く砕け散る。 下卑た笑みを浮かべながら、黒いスーツの男達が無遠慮に部屋の中へ入り込んできた。 必死に藻掻く女性の姿を確認し、男達は醜い笑顔をさらに醜悪に歪める。 「おーおー、元気で結構。こりゃ良い絵が撮れそうだな。おい、早くカメラ用意しろよ」「急かすなよ。へへへ、悪いねお嬢ちゃん。たーっぷり可愛がってやるから安心してくれや」「おいおい、そんな事言っちゃ余計ビビっちまうだろ? けけ、そっちの方が俺はソソるけどな」 完全に自分の事を『モノ』としか見ていない男達の視線に、女性は嫌悪と恐怖から身体を縮こませた。 しかしそれも、男達にとってはいつもの事である。 口調の軽さとは裏腹に、男達は手慣れた動きで‘撮影’の準備を整えていった。 会話の内容こそ下品で性的なモノばかりだが、全員の言葉にはどこか事務的な響きが含まれている。 そう、実際のところ男達には、彼女自身への興味が殆ど無いのである。 だからこそ、女性の恐怖心は加速していく。 何故なら男達は、幾らでも代わりのいる消耗品としてしか女性の事を見ていないのだから。 「さーて、そろそろ撮影開始だけど……準備はいいかなぁ、お嬢ちゃぁん」「いやぁ~、お嬢ちゃんには本当に同情するよ。ま、犬でも噛まれたと思って諦めてね! アハハハハッ」 どうして自分が。そんな女性の考えを見透かした男達が、その嘆きを嘲笑う。 理由など有りはしないのだ。偶々、本当に偶々都合が良かったから攫っただけの話に過ぎない。 そう、男達にとっては‘いつもの事’なのである。それを知って絶望する、今の女性の姿も含めて。 女性の身体からゆっくりと力が抜けていく。抵抗の意思を失いつつある彼女は、声にならない声で助けを求める。 救いを求める声は、誰にも届かない―――はずだった。「そこまでだっ!!」 荒々しい音と共に、唯一の入り口である扉が乱暴に開かれる。 本来現れるはずの無い闖入者へと、男達と女性の視線が一斉に向けられた。 そしてその姿を視認した瞬間、全員の思考が停止した。 ―――魔法少女だ。 突然やってきた「非現実」を、女性はそう評した。 袖の無い白いワイシャツの上にレースの付いた黒いベストを羽織っているため、腋が完全に露出している上半身。 薄桃色のティアードスカートの前面が開いたモノに、黒いプリーツスカートを組み合わせた下半身。 その両方を繋ぎ止めるための腰のコルセットと黄色い布。より腋を強調させる形になる別袖。蝶を模した顔を隠す仮面。 場違いな程可愛らしい、何度見てもそうとしか説明する事の出来ない魔法少女である。 首輪をしていたり頭襟を被っていたりと妙な所も随所に見受けられるが、存在そのものがおかしい現状ではそれも些細な問題に過ぎない。 むしろ違和感があるのは、その手に握られた無骨で飾り気の無い鉄棍だろう。 ファンシーに纏まった少女の外見で、唯一その‘凶器’だけが現実感に溢れていた。「女性を拉致監禁し、口にも出せぬ悍ましい行為を致そうとは言語道断! この華蝶仮面が成敗する!!」 「……へ、へへ」 そしてその違和感が、いち早く男達を正気へと引き戻した。 凶器と言う分り易い脅威と敵対を意味する台詞が、男達の世界の‘常識’とピッタリ噛み合ったためだ。 頭のおかしい自称正義の味方か何かだと当たりを付けた男達は、嘲笑と共に懐から黒光りする凶器を取り出す。 それは、女性にとってテレビの中でしか馴染みのない、別の意味での「非現実」だった。 「そうかい。それはご苦労様だな」 男達の内の一人が、筒状の先端を少女に向ける。 拳銃――人類の発明した負の英知の存在を、男達は当然の様に受け入れていた。 その余裕の根源にあるのは、凶器を咎める者がいないと言う確信だ。 男はそのまま、無造作に拳銃のトリガーを引く。 消音器を取り付けられた銃口は、玩具の様な軽い音と共に鉛玉吐き出した。「――――っ!」 女性は、凄惨な光景から目を背ける様に顔を逸らす。 そんな彼女の耳に届いたのは、少女の絹を裂くよう悲鳴――では無く、何かが吹き飛ぶ様な激しい破砕音だった。 異変に気づいた女性は、ゆっくりと視線を前へと向ける。 するとそこには、彼女の想像を遙かに超えた光景が広がっていた。 先程まで拳銃を構えていた男は、壁際で項垂れ気を失っている。 その男が居た場所には、拳を突き出した姿勢で不敵に微笑む無傷の魔法少女の姿が。 何が起きたのか、理解出来たのは少女本人だけだっただろう。 ‘放たれた銃弾を避けながら、相手との距離を詰めて殴り飛ばす’等という芸当は、男達の「常識」にも女性の「常識」にも有りはしないのだから。 同時に他の男達との距離も詰めた少女が、手に持っていた鉄棍を振りかぶる。 辛うじて自らの「常識」と合致出来る行動に気づいた男達は、ほとんど反射的に懐の拳銃を抜き放った。 それは、先程の非現実を否定したいがための行動だったのかもしれない。 だがそんな男達の僅かな抵抗も、一瞬にして水泡に帰す事になる。「おっとっと、危ない危ない」「―――なっ!?」 少女が鉄棍を振り回すのとほぼ同じく、金属を弾く音が何度も室内に響き渡る。 今度は、女性にも何が起きたのか理解する事が出来た。 男達の放った弾丸を、少女が鉄棍で全て弾き返したのである。 否、そうとしか考える事が出来なかったのだ。 冗談のような事実だとしても、弾丸を受けたはずの少女には傷一つついていなかったのだから。 一方で男達は、未だに事態を少しも把握していなかった。 自らの価値観を、「常識」を、全て破壊する存在を許容することができなかった為だ。 故に男達は、戦っている相手が自分達と同じ‘常識’で動いていると己に言い聞かせたまま――不可視の速度で放たれた鉄棍に為す術無く倒されたのだった。 「ふっ、他愛のない奴らだ」 皮肉げな口調だが、少女の表情はあからさまに満足気だ。 本心で述べていると言うよりは、言うべき好機だったから口にした。といった様子である。 納得したように何度も頷いていた少女は、ふと何かに気が付いたように女性の方へ視線を向けた。 拘束されたままの女性の姿が、少女の瞳に映る。 「……失敬、勝ち誇るより先にやるべき事があったようだな」 苦笑いを浮かべながら女性に近づいた少女が、やけに透明なナイフで女性の手足を縛る縄を切っていく。 拘束を解かれた女性は、手足の調子を確認しながら自らを助けた少女に問うた。「ありがとう。その、貴女は?」「ふ、通りすがりの正義の味方――と言った所さ」 なんとも陳腐でお約束通りな会話だと、女性は内心で感嘆の声をあげた。 恐らくはそれも、目の前の少女のコテコテ過ぎる「正義の味方」演技の影響なのだろう。 彼女に関わる全ての事象が非常識なためか、女性も徐々に現在の状況へと馴染みつつあった。 冷静になった女性は、個人的な興味も込めて少女に抱いた疑問を尋ねようと口を開く。 しかし、女性が語ろうとした言葉はパトカーのサイレンに遮られてしまった。 少女は大袈裟に肩を竦めながら、賞賛の笑みを口元に浮かべる。「存外、日本の警察というのも優秀なのだな。連絡してからまだ十分も経っていないと思っていたが……」 顎に手を当て呟きながら、少女は窓際に歩いて行く。 女性の位置から見える範囲でも、この部屋が相当な高さにある事は分かるのだが。 少女は躊躇う事無く窓を開き、軽い仕草で窓枠に両足を乗っけた。「では、私はこの辺で。貴女の安全は警察が確保してくれる事だろう」「え、あ、その……」「何か?」「こっ、怖くない? そこから降りるの」 思わず口にした質問のあまりと言えばあまりの内容に、女性は思わず頭を抱える。 本気でそんな事が気になったワケではない。居なくなる前にとにかく何かを聞こうとして、咄嗟に思いつけた疑問がソレしかなかっただけだ。 自己嫌悪で顔を真赤にした女性の姿に、ポカンとしていた少女は意地の悪そうな笑みを浮かべた。 少女は背中に‘氷で出来た’翼を生み出すと、軽く羽を揺らしながら答える。「―――大丈夫さ。正義の味方は、高い所とお友達だからね」 冗談とも本気とも聞こえる口調で、少女は窓から‘飛び立って’いく。 氷の羽根を残し、空の彼方へと消えていった少女を見送りながら、女性はこの事態を警察にどう説明したものかと頭を悩ませるのだった。 「お疲れ様、調子の方はどうだったかしら」「本気は出してないので、正直あまり分からなかったのですが……まぁ、本調子にはなったと思いますヨ」「あら。拳銃程度じゃ全力を出すまでも無いだなんて、随分と成長したのね」「自分でも結構驚いてます。鉛玉って超遅い」 人気の無い路地裏で、道士風の女性が先程の魔法少女を迎える。 蝶の仮面を外した‘彼’は、先程までの態度が嘘のようにヘラヘラと笑いながら肩を竦めた。 彼の名は久遠晶。魔法を使うワケでも無ければ少女でも無い、元外の世界の住人である。 「と言うか良かったんですか? 何かこう色々と」「それは、すでに幻想郷の住人である貴方を外に連れてきた事? それともこうやって、リハビリを兼ねて派手に暴れさせた事?」「全部っす。僕はもう二度と外には出られないと思っていたんですけどね。後、外で能力こんなに使っていいんですか?」「そんな貴方の疑問には、一言で答える事が出来るわね」「……その、一言とは?」「私は、身内贔屓をする女よっ!」「思いっきり権力を私的利用してたーっ!?」 呆れ顔の彼の表情をどう受け取ったのか、目の前の女性――八雲紫は自慢気に胸を張った。 彼女は幻想郷の管理者であり、同時に久遠晶の保護者でもある一種一妖の隙間妖怪だ。 ――天晶異変と呼ばれる、一人の少年が幻想郷に居場所を求めた騒動から一ヶ月。 瀕死の重傷から回復した久遠晶は、その八雲紫の勧めで少し前から外の世界に滞在していた。 目的は傷の療養と身辺整理。もちろん本来は出来るはずの無い事だが、本人も認めた通りこのスキマ妖怪、身内に対しては大甘なのである。 正論で彼女を止めようとした式を暴論で抑え込んだ八雲紫は、巻き込まれた久遠晶の方が何度も謝るほど軽い態度で外の世界へと出かけたのだった。 例え管理者と言えど、そこはやはり幻想郷の妖怪。根っこの部分は自分本位で自由気儘なのだ。 「なんだか申し訳ないなぁ。こんなにも優遇され過ぎてると……」 余りにも明け透けな八雲紫の態度に、久遠晶が困ったように頬をかいた。 八雲紫の‘身内贔屓’は、今回のコレに限った事ではない。 それを、久遠晶は身辺整理の最中にイヤというほど知る事となった。「昨日だって、退学の挨拶しに学校へ行ったら、普通に昨日の話をされて焦ったんですから」 「あら、それは私の話を信じていなかった貴方が悪いんじゃない」「いやいや、そりゃ信じられませんよ。外の世界では、僕は‘居なくなってすらいなかった’だなんて」 それは、彼が外の世界への帰還を望んだ時のための保険だったのだろう。 外では久遠晶は行方不明にならず、極普通に学校へと通っていた事になっていたらしい。 本当に‘久遠晶’が通っていたのか、皆がそう認識しているだけなのか、そこまでは八雲紫は語ってくれなかった。 しかしどちらにせよ、多大な手間がかかっている事に違いはない。 故に久遠晶は、手間を無為にした事も含めて申し訳無く思っているのである。 「うふふ、そんなに気にしなくてもいいのよ? 実はソレ、嫌がらせも兼ねたアリバイ工作だったから」「い、嫌がらせっすか?」「だって貴方、突然頭が悪くなった理由を説明なんて出来ないでしょう?」「―――あ」 なるほど、と久遠晶は思わず納得した。 外で‘久遠晶’が普通の日常を過ごしていたとしても、それが自身に返ってくるワケでは無いのだ。 数ヶ月の遅れを取り戻そうにも、対外的にはちゃんと授業に出ているのだから説明は難しい。 実は本物の久遠晶は行方不明になっていて、今まで学校に通っていたのはニセの久遠晶だった――等と説明しても、救急車を呼ばれるのが関の山だろう。「あの、紫ねーさま? 冷静に考えるとその嫌がらせ、人生が破滅するんですけど」 「どちらにせよ、貴方の通ってる学校で数ヶ月の遅れは致命的だったから一緒よ」「……それもそうですね。じゃ、この話はおしまいと言う事で」「構わないわよ。なら次は新しいメイド服の着心地を教えてもらおうかしら」「その話もおしまいと言う事でっ!」「だぁめ」「………らじゃぁ」 からかう様な、それでいて瞳の奥に強い意思を湛えた八雲紫の笑みを受け、久遠晶はがっくりと肩を下ろした。 彼のメイド服は、女装趣味の無い彼に常備させるためもう一人の姉――射命丸文が用意した特別製だ。 様々な経緯で多数の人物の手が加わったこの服は、幻想郷でも五本の指に入る程の防具である。 しかし、天晶異変で久遠晶が使った『反則』の前には、さしものメイド服も耐える事が出来なかった。 原型を止めない程ボロボロになった服の修繕を申し出たのは、‘ある意味’破損の直接的な原因となった八雲紫であった。 「私、烏天狗と仲良くする気は欠片も無いけど――彼女が貴方にメイド服を着させた事だけは評価してるの」「評価しないでください、お願いだから」「ちなみに、スカートのヒラヒラは私とお揃いよ。後ついでにサービスで花の妖怪とお揃いのベストも用意したわ、柄は違うけど」「僕に対するサービスじゃないですよね、ソレ」 項垂れながら文句を言われても、八雲紫の不遜さは変わらない。 それは、己の絶対的な優位を確信しているが故の態度だった。 「で、着心地はどうだったの?」「……完璧でございました」 専用である事を前提に仕立てられたメイド服は、彼の動きを最大限に活かす造りになっている。 そのため、修繕しただけでも性能的には何の問題も無いのだが。 八雲紫は気付いていた。その服が想定していたのは、あくまでも‘以前の’彼なのだと。 幻想郷で多くの戦いを経験し、真の己を知った久遠晶と服の間には、誤差では済まない齟齬が生まれていた。 今回の修繕はただのデザインチェンジではなく、その齟齬を埋めるための‘調整’でもあったのだ。 もっとも、八雲紫はその事を明言する気等ないし、久遠晶も全く気づいていないのだが。「ふふっ、なら問題無いわね。幻想郷に戻りましょうか?」「そうですねぇ。皆への挨拶も済んだし、身体の方も完治したみたいですし、そろそろ帰りますか」 八雲紫の言葉に、あっさりと久遠晶は同意した。 ともすればこれが、外の世界への最後の滞在となるにも関わらずだ。 その淡泊とも言える態度に、八雲紫は嬉しそうな、しかし苦笑にも見える笑みを浮かべる。 外の世界への未練は、異変の際に全て切り捨ててしまったのだろう。 久遠晶は、それが出来る人間だ。 人並みに執着心はあるし、情も深い。けれどその本質は博麗の巫女と同じ――何者にも縛られない。 今後も久遠晶は普通に外の世界の話をするだろうし、過去を振り返る事もするだろう。 だがそれだけだ。故郷への郷愁を感じる事も無ければ、後悔する事も無い。 どんな出来事も彼の中では、ただの思い出としてただの記憶として、時間の流れに乗って消化されていくのだろう。 恐らく、幻想郷を去る決断を下していた場合でも。「……貴方が幻想郷を愛してくれた事を、私は感謝するべきなのでしょうね」「ほへ? 何か言いましたか?」「ふふふっ、帰った後の貴方はいったい何をしでかすのかしら。って言ったのよ」「しでかすって……酷いなぁ。僕は、初心に帰って幻想郷を隅々まで見回ろうと思ってたんですよ?」「そして行く先々で、色々と問題を起こすわけね」「はっはっは、否定はしません」「楽しそうで良いわねぇ。だけどその前に、決着はつけてもらわないと困るわよ」「……決着?」 首を傾げる久遠晶の前に、人一人が入れる程度の空間の隙間が開く。 無数の目が監視するかの様に見つめてくる空間の向こう側には、幻想と現実の境目たる神社の姿が広がっていた。「天晶異変。――貴方の起こした異変の決着よ」おまけ1「晶さぁん、帰ってきてくださいよぉ~」「……今日もやってるの、あの烏天狗」「そうなんだよ。一応仕事はしてくれるんだけどさ、暇があるとすぐあんな感じで」「しょうがないわね。ちょっと私が活を入れてきてあげるわ」「程々にお願い。……ところで幽香、ここの所ほぼ毎日妖怪の山に来てないかい?」「………………気のせいよ」おまけ2「蓮子! 良かった、無事だったのね!!」「何とかねー。……ごめんメリー、心配かけちゃって」「蓮子が元気ならそれでいいわ。でも、本当に大丈夫なの?」「ぜーんぜん平気よ! あ、そうだメリー、聞いて聞いて」「なぁに?」「実は私さ。―――正義の味方に会ったんだ!」