#『あ』アンテナ
ある日アパートの自室の窓から外を覗くと、アンテナがあった。
隣の家の屋根の上の、その中で一部分だけ平らな部分。そこにあった。
黒くて細長くて、先が三つに分かれてそれぞれ別の方角を指している。
妻が言った。
「いいわね、ああいうの。うちにも取り付けない?」
私は意味が分からず、その分からないことを考えるために、煙草を口にくわえた。
火は付けず、妻の言っていることを理解したならばライターを手に取ろうと決意する。
すると、そんな私の内心を慮らず妻は言葉を連ねた。
「BSかしらね」
「ああ、いや、そういうのじゃないと思う」
「テレビじゃないの?」
妻は私がアンテナ関係の仕事をしていることを知っているはずだったが、そんな私が隣の家につけられたアンテナを見て黙っている、そのことの意味までは分からなかったようだ。
なるほど意思の疎通が図れないはずであった。
私はしたり顔で頷いた。
「見たことない種類だよ」
「新しいやつなのかしらね」
「その可能性はあるが……」
しかしその言葉は、私が持つ仕事の情報が古いという屈辱を肯定してしまうことになるまいか。
私はなんとなくそれが腑に落ちず、煙草のフィルターを犬歯でぐしぐしと軋らせた。
「アンテナというものは、ある程度の形が決まってるものなんだよ」
「ふうん、そう」
「でも、あんな形のやつは見たことないなあ」
「だから、新しい形のやつなんでしょ?」
断定的に妻は言い、その言葉は私の言い訳がましい虚勢を遠慮なく跳ね返した。
これは不完全なマリッジイエローである、と私は思った。つまりそれはどういうことなのか。それを一番知りたいのは私である、という意味である。
「これからはあんな形のやつが増えるのかもしれないなあ」
「そう。あなたの仕事も早く増えれば良いわね」
「はは、全くだよ……」
煙草を落とさないように笑うことは容易い仕事だった。何故なら、苦笑いを浮かべるだけでよかったのだから。
人生とは長い苦悩の筒に二つの蓋があり、その二つの蓋こそが誕生と消滅であるという。その言葉の是非を考えるつもりは毛頭ないが、妻を養う立場にあるところの私が、妻との会話で心地好い気分をタール1mgほども得られない現実は、まさに延々と苦いだけの煙草であった。
「ああ、そうだ、今日は少し遅くなるかもしれない」
「そうなの? お仕事?」
「その通り。少し作業が長引きそうなんだ」
「じゃあ夕飯は冷蔵庫に入れておくわね」
日が昇り、日が落ちることと同じように、毎日私と妻はこの家で目覚め、眠りについている。
私はこれから仕事に向かう。
妻はこれから一眠りし、おざなりに家事をこなした後、昼間のワイドショーを観ながら昼寝に挑む。
変わらない日々だ。
これに幸せを感じていた時期もあったが、今にして思えばなんと鳩の糞のカスのような大衆迎合思想であったことだろうか。
変わらない日々だ。
隣の家に知らないアンテナができた。
変わらない日々だ。
妻にはなんだかんだと馬鹿にされる。
変わらない日々だ。
そんなとき、おもむろにアパートの自室の窓の外が光り輝き、そこに謎のシルエットが降り立った。
真っ白なフラッシュを延々と焚かれているいるかのような光景に私は思わず目を細めたが、見る限り、その光は隣の家にできた知らないアンテナから放たれていた。
そして、光を部分的に遮る、影。
『ф⊂±Й§ё』
形状的な描写に留めるとすれば、それはまさに二足歩行する蛙であったが、極めて主観的な描写を含むとすれば、そいつを宇宙人と言わなければ私自身納得できない。
私の隣で、妻がしりもちをついた。
「あ、あ、あ、う、う、う、うちゅうじ……!」
『Й§δΛБ‰、ΥЖΦ』
「あ、あなた、け、けいさつ! うちゅうじんっ、警察ぅっ!」
それにしても、不思議なものである。
幼少の頃から私の言い分が正しかったことなどなく、というよりも答えの出ない事柄において私の言い分が採用されたことなど記憶にないのだが、齢40を超えんとする今、やっと私の言い分が認められる時代が来ようとは。
まさに大器晩成の趣であった。
私は強烈な光を放つ窓の向こうのアンテナに背を向け、しりもちをついたまま口を泡々させている妻に向かって言った。
「それ見たことか。あれはなあ、宇宙人を呼び出すためのアンテナだったんだよ。宇宙人、宇宙人受信アンテナだ。私が知らなくても無理はないということだ。なんせ地球上では売っていない代物なんだからね。つまり、どうだ、私が知らない新しい形のアンテナなどはなかったということだよ! どうだい! ほら、どうだい」
「え、え? いや、そんなことより警察っ! 警察、電話っ、あなた、すぐにっ」
「これに懲りたら私の言葉を軽く見ることをやめ、ついでに私の帰宅が遅くなるからといって夕飯を冷蔵庫に入れたりせず、たまには私の帰宅を待って日頃の苦労を労うぐらいはするが良い。晩酌などあると、なお良いだろうなあ」
「あなたぁ……、そんな場合じゃないってぇっ、警察だってぇ!!!」
妻は私の要求に目を白黒させ、いつになく弱弱しい様子で意味の分からないことを叫ぶばかりだった。
しかし私としては、夫婦円満の秘訣はお互いの自主的な向上心だと信じるばかりだ。
妻には私の言った言葉を一つ一つ噛み締め、より良き妻になってほしいというわけだ。
心を鬼にして仕事に出かけた。
少しだけ気分の良い出社になった。
アパートの自室の扉を閉める直前、妻の甲高い悲鳴が聞こえたが、今更になって彼女は、妻としての自分の余りのふがいなさに気付いたのだろうか。少しばかり遅きに失した感はあるが、手遅れというほどではない。
今後の妻の向上に期待すると共に、そんな妻の夫として恥じない人間でいられるよう、これからも日々仕事に励もうと私は決意した。
変わらない日々である。
#『あ』アンテナ おしまい
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