プロローグ
平日の朝の時間は貴重だ。誰だってそう思うはず。後五分あったら、もう少し髪型を整えたりだとか。後三十分あったら、やり残していた宿題を片付けられるのに、とか。そう思うはずだ。私だってそう思う。
まあ、私は髪型とかはそれほど気にしないけど、人に見られて恥ずかしくない程度ならそれでいい。
南向きの窓からは眩しい朝日が入り込んできている。端に置かれている観葉植物が気持ちよさそうにそれを受けていた。自分で作った朝食をテーブルに並べてため息をつく。
誰も、起きてこない。
視線を動かして時計をてんとう虫型の時計を見る。時計の針はちょうど八時を指し示していた。お父さんは別に構わない。だって小説家だし、そういう時間とか気にしない職業だから。けど、兄さんはまずい。私と同じ学校に通っているくせに何なのだ、この危機感の無さは。
パンにマーガリンを塗ってかぶりつく。あんまり時間がない。適当に胃の中に詰め込んで立ち上がる。
「……はあ、めんどくさ」
時計の針の音が私を急かしているようだった。重い足取りで階段を上る。兄さんの部屋は階段を上ってすぐの部屋だ。時間がないので、ノックもせずドアを開け放つ。
「兄さん、朝ですよ。遅刻しますから」
「…………」
このパターンは知っていた。絶対狸寝入りだ。間違いない。
兄さんの部屋は、まあ普通の高校生男子の部屋、といったところだ。それほど綺麗なわけでもないし、そんなに汚くもない。八畳のフローリングのほとんどを、パイプベッドと足の短い机が占領しているせいで、いくら片付けてもこの部屋はいつでも少し窮屈だった。南向きの大きな窓には黒地のカーテンが掛かり、机の周りに無造作に置かれたクッションも、同じく真っ黒だ。壁に沿って二つ並べられた小さな本棚は白く、全体にモノクロでまとめられた部屋の中で、唯一、壁に掛けられた海外の映画のポスターだけが鮮やかな色彩を誇っている。
布団の中に包まる兄さんを無視して、私は部屋のカーテンを開け放った。眩しい光に思わず目を細める。
それでも兄さんは身動き一つしない。仕方なく私は丸まった布団を揺さぶることにする。
「起きてください、兄さん」
「…………」
あー、もうヤダ。何で私がこんなことを。いくら兄妹だからってこんなこと、私まで遅刻してしまう。
「……むにゃむにゃ、後五分」
いやいや、後五分欲しいのは私のほうですって。もういいか。私には関係ないし。
「ふう……ま、私には関係ありませんけど」
そう言って踵を返す私をベッドの揺れる音が呼び止めた。
「まていっ! 我が妹よっ」
布団を引っ剥がして兄さんが私に手を伸ばしていた。ほら、やっぱり起きてた。いっつもこうだ。
身長は百七十くらい。まあ、普通。綺麗な黒髪は寝癖が酷いが、奇跡的に作ったパーマっぽくなっている。顔も小さいし、そこまでかっこ悪いというわけではない。今は、の話だが。
「……何だ。やっぱり起きてたんじゃないですか」
「うさぎ、そこはもっとこう『お兄ちゃん、早く起きてよ~。うう~、お兄ちゃんが起きなかったら私どうすればいいの……』とか言って泣き寝入りをするのが普通だろうが」
一応言っておくが、うさぎというのはウサギ目に属する草食哺乳類の動物のことではない。私の名前だ。別にお父さんとお母さんがつけてくれた名前だから不満はないけれど、たまに考えることがある。
将来、社会人になって名前で呼ばれるとき、ちょっと恥ずかしいかもな、なんて。まあ、でも大体の人は江國っていう名字で呼ぶから問題はないのだろうけど。
「何で私が兄さんの妄想に付き合わなくちゃならないんですか?」
蔑んだ目で兄さんを見ながら私はそう言った。あんまりダメージはないようだけど。
「そして俺はこう言うわけだ。『ふふ、ごめんなうさぎ。やっぱりお前は泣き虫だな。俺が付いていなくちゃ、ダメだな』ってなっ!」
確かこういう得意げな顔のことのことをドヤ顔っていうらしい。兄さんのそれは確かにドヤ顔だ。正直気持ち悪い。
「……無視しないでください」
「それが正しい妹の姿なんだよ、マイシスター」
「……気持ち悪いです」
「なあッ!」
兄さんは一人でかなりショックを受けているようだった。身体がわなわなと震えている。
「雨彦(あめひこ)兄さん、今回はキモイじゃないです。気持ち悪いです」
「ガーン……」
一人兄さんは項垂れる。
何でこう、兄さんは、雨彦兄さんは妹離れが出来ないんだろうといつも思う。そんなんだから彼女の一人も出来ないんだよ、きっと。ということは伏せておこう。再起不能になりそうだから。
「バカなこと言ってないで、急いで下さい。本当に遅刻しますから」
「バカなこととはなんだ、バカなこととはっ! お兄ちゃんは、お兄ちゃんはなあ、お前のことが可愛くて仕方がないんだよ」
「可愛くて仕方がないなら、あまり面倒かけないでください。ただでさえ朝は時間がないんですから。毎朝起こしに来ているだけでも大変なんですよ?」
「……うさぎ、時間って言うのはな、作りだすものじゃない。探し出すものなんだよ」
ああもうめんどくさい。ここは一喝するべきだ。
「だから、訳の分からないこと言ってないで急げッ!」
「ぎゃーッ! うさぎの言葉遣いがーッ!」
私の一括で寝ぼけてた(……と思いたい)兄さんもようやく目が覚めたようだ。口をわなわなと震わせている。
「私は行きますから、兄さんも急いで下さいね」
そう言って今度こそ踵を返す。ヤバい、本当にギリギリだ。
「うさぎ、待てってッ! ……あ」
振り返ると兄が私を呼び止めようとして、ベッドから身を乗り出して、そして足元をシーツに掬われて。
「…………え?」
私に向かって、兄さんが飛び込んできた。
「うわあッ!」
激しい激突音と痛み。
窓から零れる朝日の中で私は恐る恐る眼を開けた。
後数センチで唇が触れてしまいそうな至近距離。顔のすぐ近くには兄さんの左手があった。
小顔で鼻筋が高く整っている。男の子にしては綺麗な肌だ。本当に、何で彼女が出来ないのか謎過ぎる。まあ、いつもは変な丸メガネをかけているせいで魅力は七割減だろうけど。きっとそれが原因かな。
いや、そんなことよりも問題がある。
「……あの、兄さん」
私のまな板(Aカップ)の上に兄さんの右手が乗っかっている。
重い。早く退いて下さいよ。
「重いです」
「……うさぎよ」
「何ですか?」
「こんな時に、こいうことを言っていいものか分からないが」
「はあ……」
「お前のリアクションは間違っている。ここは拒絶すべきところであって、流すところでは」
「……セクハラは止めて下さい、兄さん」
とりあえず拒絶してみる。
「セクハラって……そんなことは……」
「どうでもいいですから、早く」
「――おい何だ、朝っぱらからうるせえ……」
兄さんの部屋の扉、つまり私がこんな状況になっているすぐ近くにお父さんの姿があった。パジャマを着たお父さんは無精ひげを生やしていて、いわゆる典型的なオヤジだ。そんなお父さんの頭をかいていた手がピタリと止まっていた。
「お父さん」
「…………」
整理してみよう。お父さんには今この状況がどう見えているだろうか。
押し倒された、かのように見える、娘。
押し倒している、かのように見える、その兄。
常識的に考えれば、そういうことだろう。
「……雨彦」
「あ、父さん、これは、その……」
お父さんは無言で首の骨をポキポキと鳴らしながら、まるで天使のような笑みを浮かべていた。だが、私にはそれが怒りから来るものだとすぐに分かった。
「残念だな、雨彦。俺は今までお前のことを息子だと思ってきたが、今日限りで、それも終わりだ」
「え……父さん、それは一体……」
「俺の可愛い娘に手を出すとは、殺される覚悟はできてんだろうなッ!」
「ぎゃあッ!」
兄の悲鳴だけが、家の中に轟いていた。
……こんな日常がいつも続いている。
兄さんと出会ったのは七年前だ。兄さんと私は実の兄弟じゃない。兄さんは私の従兄だ。兄さんの両親が亡くなって、お父さんが兄さんを養子として引きとることになった。
こんな日常が、永遠と続いているのだ。