崩れ落ちたビル、倒れた電柱と街灯。
割れてめくれ上がっているアスファルトに、見渡す限りの場所に溜まっている水。
災害の後のような、崩壊した街の光景の中に二人の少女の姿がある。
だが、少女のうちの一人は水の溜まった大地に仰向けに倒れ、もう一人はその傍らで膝をついて泣いていた。
二人とも年齢は十代半ば、胸元に赤いリボンをあしらった淡い色をした揃いの制服を身につけている。
倒れている少女の黒髪と胸元の赤いリボンが溜まっている水の動きにあわせて揺れているにも関わらず、彼女自身は身動ぎもしない。
その右手の中には、卵を思わせる金属のフレームと、砕けた宝石。
手のひらに収まる程度の大きさのそれは、完全な姿であれば非常に美しいものだっただろう。しかし、今は砕かれた無残な姿を晒すのみ。
膝下まで浸かるほどの深さの水の中に倒れているにもかかわらず、全く身動きしないその姿は既に息絶えていることを示している。
「ほむらちゃん……どうして……」
その傍らで赤みがかった淡い色の髪を短いツインテールにしている少女が嗚咽と共につぶやきを漏らす。
それは息絶えた少女に対する問いかけ。決して返答があるはずのない質問のはずだった。
「暁美ほむらは自らの願いを遂げたんだ。未練はあったかも知れない、けれど後悔はしていなかったんじゃないかな。あくまでも、推測にしか過ぎないけれど」
答える者がいないはずの問いに、答える者がいた。
いつからそこにいたのか、少女からやや離れた位置にある瓦礫のコンクリートの塊の上に『ソレ』は静かに座っている。
猫に似た白い体躯。だが、身体の大きさに対して尻尾はリスのように大きく、耳の付け根からは人の腕を思わせる毛の房のようなものが生えている。金色の金属の輪のようなものがその半ば辺りについていることが、その印象をより一層強めていた。
その顔には表情と呼べるものはなく、血を思わせる赤い瞳が可愛らしいとさえ言える姿に反して、どこか不気味な印象を醸し出している。
「キュゥべえ……」
少女はその存在の名を呼んだ。泣き腫らして赤くなった目が痛々しいが、キュゥべえはそれには何の反応も示さなかった。
「どういう……こと……? ほむらちゃんは、何を願ったの……?」
かけられた答えの意味を理解しきれなかったのか、少女がキュゥべえに泣きそうな声で問いかける。
わずかに間を置き、考えをまとめるかのように小さくうつむくような仕草をした後に彼は言葉を続ける。
「僕自身、暁美ほむらの願いが何であるのか、詳しくは知らない。彼女が契約を行ったのは、僕であって僕ではないからね。けれど、暁美ほむらは常に君が──鹿目まどかが魔法少女になることを阻止するべく動いていた。そして、彼女の魔術は時間操作。彼女自身が本来この時間軸の人間ではないことも確認している。強力な能力だから大きな制限を伴うだろうけれど時間遡行も可能だったはずだ。
これらの情報から導かれるのは──過去の改変。自身が望む結果へとたどり着くためのやり直し」
キュゥべえから淡々と語られるその内容は、鹿目まどかにとっては想像を絶するものだった。
その言葉の裏には、望む結果にならない限り何度でもやり直すであろうことを暗に匂わせていることが容易に想像できるからだ。
それは、どれほどの想いから生まれた能力なのか。理解は出来なくても、想像することは可能だった。
「それじゃ、ほむらちゃんは……」
「そう。彼女は自らの願いを遂げたんだろう。まどかは魔法少女にはならず、ワルプルギスの夜を打倒する。その為のやり直し。それが、おそらく暁美ほむらの願ったこと」
涙声のまどかの問い掛けに、キュゥべえは変わらず淡々と自らの考えを告げていく。
「じゃあ…… なんでほむらちゃんは……! 自分で……!」
心のなかの何かが壊れたかのように声を荒げ、最後まで言えぬまままどかはその場で泣き崩れた。
暁美ほむらは鹿目まどかの目の前で黒く濁った自らのソウルジェムを砕き息絶えた。寂しそうな微笑を浮かべながら、最後に一言「ごめんね」と呟いて。
小さな波の音と嗚咽だけが響く時間が流れる。その間、キュゥべえは無言のまままどかの姿を見つめていた。
「……仕方が無いよ。あのままだと暁美ほむらは魔女に成るしかなかった。仮にグリーフシードがあってソウルジェムを浄化できたとしても、彼女が魔法少女で在り続ける限り、他の時間軸の過去へと戻ってやり直しを続けることになっていたんじゃないかな」
その言葉に、まどかは疑問を浮かべた。願いを遂げたのなら、それ以上続ける必要はないはずではないのか、と。
その疑問に対するキュゥべえの返答は、彼女にとってひどく残酷なものだった。
先程の推測で話した内容には複数の願いが含まれること。暁美ほむらの魔術が時間に関係するものである以上、高い確率でやり直しこそが彼女の願いであろうこと。そして、やり直しそれ自体が願いであった場合、結果に関係なく延々とやり直しを繰り返すことになるであろうこと。
「だから、彼女は自分のソウルジェムを砕いて死を選んだ。魔女となるか、永遠に繰り返しを続けるか。この二つ以外の選択肢は、それしか無いからね」
口調を変えることなく、キュゥべえは無慈悲に宣告した。
「そんな……」
あまりにも救われないその内容に、まどかは再びほむらの亡骸にすがりついて泣き崩れる。
すすり泣く声と、時折聞こえる小さな波の音。それだけが聞こえる時間が静かに過ぎてゆく。その間、キュゥべえは無言のまま、じっとまどかの姿を見つめていた。
「……ねぇ、キュゥべえ」
ある程度泣いて落ち着いたのか、身体を起こしながらまどかは唐突にキュゥべえに問いかける。
「なんだい?」
そんなまどかの様子に動揺することもなく、当たり前のようにキュゥべえは返答した。
「教えて。あなたは以前、こう言ったよね。わたしが魔法少女になれば、宇宙の法則さえもねじ曲げられるって。それは、本当なの?」
「もちろんさ。確かに、いくつかの事情を鑑みて伝えなかった情報があるのは事実だけど、完全な虚偽の情報を提示したことなんて一度もないよ」
態度を変えることなく、しかし見る者が見れば分かる程度の僅かな喜びと思しきものを垣間見せながらの返答に、まどかは顔を俯かせ、何事かを考えるように自らの手のひらに視線を落とした。
「それじゃ、こういうことは出来るの?」
瞬きをする程度の沈黙の後、再び彼女は問いかけた。その瞳に、ある覚悟を映しながら。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
小さな水音だけが響く中、まどかとキュゥべぇは一言も言葉を発さぬまま向かい合っていた。
両者の間には奇妙な緊迫感が張り詰めている。
「それがまどかの偽らざる願いであるのなら、不可能じゃない。けれど……」
無感動で無表情が常であるキュゥべぇが、珍しく言葉を濁す。
口調こそ普段と変わることは無いが、困惑しているであろう事が見て取れる。
「わかってる。そこに、わたしはいないんだよね? そうでないと、おかしいもの」
はっきりと、覚悟を決めた者の口調でまどかは言い切った。
そこには、恐怖も困惑も感じられない。そうであることを受け入れた、穏やかな表情で苦笑いのようなものを浮かべている。
「ごめんね。ほむらちゃんは、こんなこと望んでないかもしれない。けど、わたしはこのままで終わる事なんてできない。わたしだけが助かっても、意味が無いから。だから……」
顔に浮かべた穏やかな笑みをそのままに、まどかはほむらの亡骸へと語りかけた。
そのまま、思い出を語るかのようにいくつかつぶやきをこぼした後、改めてキュゥべえへと向き直る。
「もう、いいのかい?」
確認をしてくるキュゥべえにまどかは無言のままに頷いて肯定した。
その視線に迷いはなく、ただまっすぐにキュゥべえを見つめている。
「なら、改めて問わせてもらうよ。鹿目まどか、君はこれまでの事実を知ってなお、その願いに魂を差し出す覚悟があるのかい?」
表情を変えぬままに、キュゥべえが問いかける。どこか愛らしさのある姿に似合わぬ壮絶な内容だが、今の彼らにとっては最も似合っている言葉でもあった。
一瞬の間。そして、一度小さく唾を飲み込んでから、まどかは口を開いた。
「わたしは────」