目を開ける。
遮光カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。
「っ……!」
水面から出たときのような息をつく感覚がある。
絢子は目覚めてすぐにぱちぱちと瞬きした。
「こ、こんなの、ずっと続けたらきっと気が変になっちゃう」
両手で顔を覆う。
頭は先ほどまでの情事をはっきりと覚えているようで、まだ官能の波が残っていた。
しかし、心がついていかない。
今までは単なる夢だとばかり思っていたものが、ある意味現実以上に身に迫って来たのだ。
「私まだ清い身なのに……こんなんじゃお嫁に行けなくなっちゃう」
「嫁になら俺がもらってやるぜ」
はっとして横を見ると、音を一切立てずに布団からすっと身を起こした正臣がいた。
「おはよう絢子ちゃん」
「お、おはよう正臣」
正臣は夢での出来事なんてなかったかのように平然としている。
しかし彼は絢子の独り言を聞いていたようで、絢子に声をかけた。
「絢子ちゃん、俺、最初このアパートに来るときに言ったよね? 『毎日美味しく頂いてあげるから覚悟しな』って。あんたを壊すつもりは毛頭ない。だから夢の中でも気が変になる一歩手前で止めているだろ? あんたは狂わない。いいや、俺が狂わせない。だから安心して俺に抱かれてなよ」
「……正臣が気を配ってくれているのは感じます。でも、その、私苦しいんです」
絢子がおずおずと言うと、正臣は「ん?」と言葉を促した。
「どんなところが?」
「だって、私ばっかり変な風になって、正臣は全然余裕なんだもの」
「絢子ちゃん、それは俺にも気持ちよくなって欲しいっていうこと?」
「えっ? あの、そういうわけじゃ……」
「嬉しいな、相思相愛じゃん。これは絢子ちゃんから許可が出る日もそう遠くはないかな?」
「そんな日は来ません!」
思わず声を荒げる絢子。
そんな絢子にはお構いなく正臣は起き上がった。
「今日は引越しの準備をするからね。大体一週間ぐらいで向こうに移ろう。マンションの手続きなんかは直人がやってくれるから」
それを聞いた絢子はきょとんとした。
「そんなこと、いつ直人さんと話したんですか?」
「夢の中でね」
「直人さんの夢にも入ったんですか?」
「そのほうが手っ取り早く連絡をつけられるだろ」
そう言うと正臣はにやりと笑った。
それから一週間後、絢子と正臣は新しい職場の近くにあるマンションへと引越しをした。
ちなみに絢子の怪我はこの一週間ですっかり良くなっており、綺麗に治っていた。
夢では相変わらず狂う一歩手前の快楽を正臣から与えられている。だが、今まで抱かれ続けていた効果もあるのか、絢子は怖いという感情がだんだんと薄れてきた。
まだ最初はしり込みする絢子である。自分が何だかはしたない女になってしまったようで、乱れるのを怖がるのだ。
しかし正臣の絶妙な誘導により、程なくして心が解され、開放されていくのだ。
「このまま、万が一この快楽に溺れてしまったらどうしよう。そうしたら私は本当に正臣しか見られなくなってしまう」
今度は別の心配をする絢子であった。
2LDKの賃貸マンションは分譲だからか作りがしっかりしており、内装もお洒落だ。
広いリビングにある家具は一週間で取り寄せたものとは思わないほど充実していた。観葉植物も飾られている。
正臣に連れられてその部屋に入った絢子は驚いた。
「こんなに高そうなマンションだとは思わなかったわ。本当に私が住んでもいいのかしら? 家賃はいくらぐらいなの? 敷金礼金なんかの初期費用は?」
思わず聞いてしまった。
正臣は絢子と自分の荷物を両手に持ちながら部屋に入った。
「手続きなんかは大体直人がやってくれているから、何かあるのなら直人に聞いてもらえればいいよ。お金の出所は俺の給料。絢子ちゃんの荷物はもう運び込んであるからね、奥の部屋がそうだよ」
リビングの横にあるドアを開けると、アパートと変わらない風景がそこにはあった。
パイプベッド、こたつ机、箪笥、ハンガーラックなどなど。
綺麗に配置されているその家具は真新しい部屋に何とか馴染んでいた。
「絢子ちゃんの家具をさ、一新しようかどうか迷ったんだけれど、使い慣れているもののほうがいいと思ってね。何にも手は加えていないよ」
「ありがとう、正臣」
やっとそれだけ言うと、絢子は新たな生活の予感に少しだけ身震いしたのであった。
――今日は新しい職場への初出勤の日である。
絢子は黒のスーツを着込み、新調したパンプスを履き、気合を入れて学園の門まで来た。
事前に学園には訪問しており、担当の司書教諭とは打ち合わせをしていたので、実際には二度目の訪問なのだが、気持ちは学園の門を初めてくぐるときと同じであった。
私立栗栖学園。
藤原グループ系列の学園で、「自立・国際交流」をモットーとしているエスカレーター式の学園である。
偏差値は上から数えたほうが早いせいか、生徒達の質は悪くない。
絢子はこの学園の中等部と高等部が利用する図書室の事務を担当することになったのだ。
「本日より図書室の事務として配属されました松永絢子と申します。よろしくお願い致します」
朝の打ち合わせの職員室で先生方に簡素な挨拶を済ませたあと、絢子は司書教諭の加藤妙子に連れられ、図書室へと入った。
加藤妙子はひっつめの髪、黒縁眼鏡をかけた長身細身の女性で、生徒達からは「妙子女史」と呼ばれ慕われているらしい。
妙子は黒縁眼鏡をくいっと持ち上げると、絢子を見た。
「松永さん、今日は図書の整理を手伝ってもらいます」
「はい。加藤さん、よろしくお願いします」
「これからは、私のことは妙子でいいわよ」
「はい、妙子さん。では私のことも絢子と呼んでください」
「わかったわ、絢子さん」
そうして二人で微笑むと、早速絢子と妙子は図書整理に精を出したのであった。
昼食は妙子と二人で、学食でとる事にした。
ガラス張りの学食は開放感があり、生徒達はわいわいと列に並んでいた。
「今日のおすすめは日替わりA定食ね」
「わあ、メインは油淋鶏なんですね」
二人でそれを頼むと、空いている席へとついた。
そこで食事を取っていると、食堂の一角が突然ざわっとし始めた。
「何かしら?」
絢子がそちらを見ると、人だかりができていた。
「ああ、あれね、この学園のアイドルよ」
「アイドル?」
しかもその人だかりはひとつではなく、離れたところにももうひとつあった。
取り巻いている年代層もばらばらだ。
ひとつの人だかりには主に高等部と思われる女生徒達が集まり、もうひとつの人だかりには主に中等部と思われる女生徒達が集まっている。
「この学園にはね、アイドルが二人いるのよ」
今の騒ぎを何でもないことのように言う妙子である。
「すごいですね、あれ、だれなんですか?」
「ああ、ひとりは鐘崎悠真、もうひとりは隠岐伊織(おきいおり)という生徒よ」
「鐘崎悠真?」
まさかこの栗栖学園に鐘崎悠真が入学しているとは思ってもいなかった絢子である。
「あら、絢子さんは知っていたのね、じゃあ鐘崎悠真が海外で有名なモデルだってことも知っている?」
「はい、ちょっとだけですけれど」
驚く絢子をよそに、妙子の解説は続く。
「鐘崎君は中等部のアイドル、隠岐君は高等部のアイドルなのよ。どちらもものすごい人気があって、学園内に親衛隊ができているぐらいなの。何だか漫画の中の世界みたいでしょ?」
妙子はそう言ってにこっと微笑んだ。黒縁眼鏡の奥が面白そうにきらりと光っている。
妙子女史はどうやら愛嬌のある人のようだ。
「そうですね、でも、鐘崎君のことを想像すると、そういう盛り上がりもあるような気がします」
「あら意外と冷静ね絢子さん」
妙子は少しだけ目を丸くすると油淋鶏を頬張った。
「うーん、多分まだ身近に感じていないからだと思います」
「そうよね、私達みたいな教員側の人間はある意味蚊帳の外ですものね」
そう言うと妙子は付け合せの味噌汁を飲み干したのであった。
割と早めに食事をし終わった二人は席を立った。
絢子は妙子に聞こうと思っていたことがあった。
「あの、私食べるの遅くなかったですか?」
「ううん、そんなことないわよ? どうして?」
不思議そうに言う妙子に絢子が告白する。
「私いつも食べるのが遅くって友人を待たしてしまうんです。だから、妙子さんを待たせてしまったんじゃないかって思って」
絢子がそう言うと妙子はふわっと微笑んだ。
「何だか絢子さんって私の親友に似てるわ。私の親友もね、ご飯食べるのが遅くって、いつも私にごめんねって謝るのよ。私は待たされるのなんて全然気にしていないのにね」
そのとき、絢子の背後から声がかかった。
「絢子、会いたかったよ!」
はっとして振り向く暇もなく、何かが絢子の背後から抱きついてきた。
「きゃあ!」
背後から意外に強い力でぎゅうっと抱き締められた。
「僕、今日は絢子にいつ会えるかなあとわくわくしてたんだ! こんなところにいたんだね」
まさか、と振り向くと、そこにいたのはルネサンス絵画から抜け出たような美貌の鐘崎悠真だった。
ふわふわの金髪、きらきらとした灰色の瞳、小ぶりの鼻に、ピンク色の少しアヒル口の唇は女性的な魅力さえあった。
周囲からざわめきが聞こえる。
「ゆ、悠真君! こんなところでどうしたの?」
しどろもどろになる絢子にお構いなく、悠真はにこにこしている。
「昼休みにね、絢子に会いに図書室へ行こうと思っていたんだ。そしたらこんなところで会えちゃったよ。僕ってツイてる!」
変声期前のアルトの声が弾んでいる。
「ねーえー、これからは僕とずーっと一緒にいようよー」
そう言って悠真は絢子の腕に自分の腕を絡めた。
また周囲から今度はどよめきが起こる。
このとき絢子は正臣が言っていた「ほかの三人も絢子の事を手に入れたがっている」という話を思い出していた。
でもまさかこんな可愛い美少年が自分のことを好きになるはずなんかなかろう。なにせ歳だって九歳も離れているのだから。
きっと十四歳とは言えど、まだ甘えたい盛りなのだろう。
そう思うとすとんと何かが納得できた。
このまま甘やかそうか。
だがそこで、教師を目指している絢子には大学で受けた教職課程の発達段階の授業内容が頭をよぎった。講師の先生は何と言っていただろうか。確か、今ここで単に甘やかしてもその子のためにはならない。特に中学生からは一大人として、対等に接しなければならない、ということを言っていなかっただろうか。
それを思い出すと、絢子は悠真の腕の中から自分の腕を優しく取り戻した。
「悠真君、気持ちはありがたいのだけれども、ここは学校よ? もし悠真君が自分のことを子供じゃないと言うのならば、公の場では対等に接することもできるはずよね。私は、悠真君ならそれができると思うのだけれども」
絢子の言葉を聞いた悠真はぽかんとした。
しばらくそのままでいたあと、悠真は突如花が咲いたようににっこりと微笑んだ。
「僕のこと、ちゃんと一人前として扱ってくれたの、絢子が初めてだ。うん、わかった。絢子の言う通りにするよ」
そう言って悠真は絢子の頬に素早くキスをした。
周囲からは悲鳴にも似た歓声が上がる。
「今日はここで絢子に会えたからもう十分。初日のお仕事を邪魔しないようにするね。明日またここで会おうね!」
そう言うと悠真は風のように去っていったのであった。
「絢子さん、これはどういうこと?」
妙子女史が面白そうな顔をして聞いてくる。
「知らなかったわ、あなたが鐘崎君とそんなに親しい間柄だったなんて。水臭いわねえ」
「えっ、あの、これにはいろいろと事情がありまして……」
「その事情、仕事が終わったらあとで詳しく聞かせてもらうわよ」
「えーと……」
そんな風に困惑している絢子の横を、すっと通り過ぎる影があった。
その人物の身長は百七十五センチぐらいか。均整の取れた体、漆黒の艶やかな髪の毛、その瞳は気だるげな雰囲気を醸し出している。
通り過ぎるとき、絢子はその瞳と目が合った。
互いに認識したとき、相手の気だるげな目が一瞬驚いたように見開かれた。
しかし相手はそれ以上の興味を示さず、何事もなかったかのように絢子の横を通り過ぎていった。
「絢子さん、今のが隠岐伊織よ」
「隠岐伊織、ですか」
「彼がもうひとりのアイドルよ。まさか彼のことも知っているって言うんじゃないでしょうね?」
「いえさすがにそれはないです」
手をぶんぶんと振って全力で否定する絢子であった。