避暑地の高原に住んでいた親戚の遺品を整理に来たのは昨日のことだった。
大して物はないよ、と言われたとおり、小さな家に収められていた品物は多くなかった。
書き物机の引き出しの一番上に、古びた封筒に入った原稿用紙の束を見つけたのは今朝だった。
ひどく汚れ、鉛筆のあまり上手でない字で文章の書かれたそれは、少なからず作業に疲れていた俺の目を惹いた。
随分昔に書かれたと思しい、つたない手書きの、一人称の文章だ。
本人が自分のことを書いたものとは思えない。多分創作なのだろうな、と思えた。
それほど長くない文章だった。あまり良い出来が良いようにも思えない。
ただ、自分の生活の痕跡を殆ど処分してしまっていた人がこれを後生大事に抱えていた理由がなんとなく判るような気がして、捨てずに自宅に持ち帰る方に入れることにした。
題名も序文もないそれは、原稿用紙の一行目からいきなり書き始められ、当然のように作者の名前も何もなく終わっている。
たいした文章でもないのに気が惹かれるというのか、妙に気になって、何故かもう二度ばかり読み返してしまっていた。
多分、それは──
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あの小さな花が欲しいの、と、あの子は言った。
──大きな花じゃなくていいの、そのすぐ先に咲いてる、小さい花でいいの。きれいじゃなくてもいい、花を間近で見たいの。
僕は、だから、すぐに外に出て花を取ってきてやった。
そこに咲いている中で一番大きくて、きれいなやつを、すぐにしおれるといやだから根っこから取って、プラスチックのコップの中に土と一緒に入れて持っていった。
あの子はすごくよろこんだ。
ほんと、気の毒なくらいだった。僕は、あの子がそう言えば、もっときれいな花を、それこそ部屋いっぱいになるくらいたくさんたくさん持って行くのに、あの子は、たったそれだけでいいって言うんだもの。
すぐ目の前にあるのに、花が咲いている間、あの子は外に出られないんだ。
お父さんは何かむずかしい病気の名前を言ったけど、僕にはよくわかんなかった。僕が口をとがらせて、よくわかんないよって言ったら、お父さんは笑いながら、とっても肌が弱いんだよ、って言った。
「だから、直接お日様に当たると大変なんだ」
「ふうん……」
僕は、この間いとこのお姉ちゃんが教えてくれたお話を思い出した。
「吸血鬼なの? あの子」
お父さんは、どうしてなのかわかんないけど、少し悲しそうな顔をして、笑った。
「そうだね……吸血鬼みたいなものかもな」
それから、お父さんは、僕の頭をなでて、とってもまじめな顔で言った。
「でも、あの子はいい吸血鬼なんだ。だから、絶対に生きてる人間から血を吸ったりはしない」
僕は、うんうんってうなずいた。だって、ずっとあの子と話したり遊んだりしてたけど、あの子が血を吸ったりするところは見てないから。
「いいかい、あの子が吸血鬼だって知っているのは、お父さんとお前だけだ。そして、これは二人だけの秘密だぞ」
「うん……でも、どうして?」
「吸血鬼だってみんなが知ったら、みんな、あの子をいじめるからさ。吸血鬼は人間の敵ってことになっているからね」
「うん」
そうだ、お姉ちゃんは、吸血鬼のことを話してくれたとき、すごく恐い顔をしてたっけ。
「よし、じゃ、これからもずっとあの子に優しくしてあげなさい。なるべく話し相手になってあげたりするんだよ。あの子は、人間の友達がいなくて寂しがっているからね」
僕は、あごがのどの下の骨に当たるくらい大きくうなずいた。
雨が降っていた。
僕は学校が終わるとすぐ、あの子のところに行くことにした。
雨の日は、あの子はちょっとだけ元気になるんだ。いつも出て行かない窓ぎわまで行って、あじさいの花が雨に打たれているのをじっと見てるんだ。
でも、そういうときでも、あの子はたてものから出ない。きっと、吸血鬼だってことを人に知られちゃいけないから、外に出られないんだ。
だから、僕は行ってあげるんだ。僕が行けば、あの子はうれしそうな顔をしてくれるから。
今日のおみやげは、カニ。田んぼのところでよこばいしてたのをつかまえたんだ。卵をいっぱい抱えてた。友達がめずらしいって目をまんまるくしてた。
石を入れて水をちょっとだけ入れた水槽に入れて、僕はカニを持って行った。
あの子は、宝物を見るみたいに、お腹が黄色くふくらんだカニを見てた。
それから、急にさみしそうな目になって、
「かにさん、かわいそうね」
って、ちっちゃな声で言った。
なんで?
って僕は聞いた。僕もちょっと悲しかった。せっかく雨の中を取ってきたのに、どうしてそんなことを言うんだろう。
「うまく言えないけど、かわいそうだって思ったの」
あの子は首をかしげてそう言ってから、ちょっとうなずいて、今度は僕ににこっと笑った。
「ほら、元いたところに、このかにさんの家族がいるかもしれないでしょ?」
きっと、このカニの家族が、おなかの大きなこのカニを心配して探してるんじゃないかな、ってあの子は言った。
「だから、返してあげよう、ね」
「うん」
カニの家族がそんなことをするなんて思わなかったけど、僕はうなずいた。あの子のさみしそうな目を見るのはいやだったから。
でも、今日はもう暗くなっちゃったから、明日にしよう、って僕が言うと、あの子はこっくりうなずいた。
家にもって帰る途中に落としちゃったりしたら大変だから、カニはあの子の部屋に置いておくことにした。あの子の部屋は、午前中お父さんが回診するし、看護婦さんも見回ってるから、カニがどっかに行っちゃうなんてことはない。僕は安心して家に帰った。
その晩。
僕は、お父さんにゆすられて目を覚ました。お父さんの手は冷たかった。そでやすそからぽたぽた水がたれてた。
起きて見てみると、お父さんは、カッパを着て懐中電灯を左手に持ったままで、青い顔をしてた。青い顔のまま、お父さんは、あの子がいなくなったって言った。
「あの子が行きたそうにしていた場所とか、わかるかい?」
僕はうなずいて、あわててパジャマをぬいで服にきがえた。
「ねえ、カニいた?」
お父さんは首をひねった。あの子の部屋に水槽置いたの、いなくなってない?
って言うと、さっき見たときは水槽なんてなかったって言った。
それなら、きっと、あそこだ。カッパを着ながら、僕は一人でうんうんうなずいた。
渡り廊下のところで、僕は外を見た。雨がざあざあ降ってた。
普段は、昼間でも、こんな日に外に出ちゃいけないってお父さんは言うんだけど、今日のお父さんは何も言わなかった。僕は、なんとなくうれしくなった。
玄関には、看護婦さんたちと、病院の若い先生がいた。お父さんは若い先生の名前を呼んで、たずねた。
「いたかい?」
若い先生は首を振った。
「こんな、月も出ていない夜に……」
あ、そうか、と僕は気がついた。吸血鬼は、月が出ている晩の方が元気なんだっけ。
あの子は、月が出てる日みたいなつもりで外に出ちゃったのかもしれない。だったら大変だ。今日はこんなに雨が降ってて、空だって飛べないに違いない。
「取り敢えず、町の方は探してみたんですが……」
若い先生は、雨の音に負けないように大声で言った。大声なのに、元気のない声だった。
お父さんはうなずいて、そこにいた人を二人くらいずつに手分けさせた。
「僕はこの子と一緒に探すよ。何か心当たりがあるようだから」
若い先生ははいって言った。それから、僕の頭を、雨に当たって氷みたいに冷たくてぬれた手でくしゃってやった。
「がんばってくれよ、こっちも頑張るからな」
僕は、うんってうなずいた。
外はまっくらだった。町の方にはいくらか明かりがあるけど、このへんは、シーズンにならないと別荘に人が来ないから、ところどころで忘れたように街灯が点ってるだけだった。
いつも学校に通う道も、まっくらだとまるで別の道みたいだった。僕は道のはしっこを流れ始めてる雨水に気を付けながら、道を学校の方に降りていった。
お父さんはずっと僕の足元を照らしてくれてたけど、でも、僕は何度か水たまりに足を突っ込んで、いつのまにか靴下がびしょびしょになった。気持ち悪かったけど、でも、僕はがまんして歩き続けた。
橋のところまで来て見てみると、かにをつかまえた河原は、暗い中でも、そこだけぽっかり穴が空いたみたいにいっそう暗くしずんでいた。いつもちょろちょろしか流れてなかった川が、どうどうすごい音を立てていた。
雨が降ってるせいか、あの子は全然見えなかった。
「ここかい?」
僕はお父さんにうなずいた。
「昨日、ここでかに取ったって教えたから」
お父さんはうなずいて、いるといいな、って言った。それから、大きな声で、あの子の名前を呼んだ。
返事はなかった。
「河原には、降りられるかい?」
「うん」
お父さんは一瞬、すごく心配そうな顔をしてから、じゃ、いこうと言った。
僕たちは、丸石ばかりでつるつるすべる河原に降りていった。足元が見えないから、僕もお父さんも何度も転んだ。痛かったけど、僕はがまんした。
お父さんはその間もときどきあの子の名前を呼んでた。でも、返事はなかった。
「いないか……」
しばらく探し回ってから、お父さんはがっかりした声で言った。懐中電灯も、だんだん暗くなってきてた。
やっぱりいないのかもしれない。もしかしたら、流されちゃったのかも……。
「消防に連絡しなくちゃいけないか……」
お父さんがそう言って懐中電灯を大きく振ったとき、向こうの方で何かが動くのが見えた。
僕は走り出した。そのとたんにずるっとすべったけど、なんとか転ばないでいられた。
「どうした?」
「誰かいるっ」
河原の、どうどう音を立てて流れてるすぐ際のところだった。僕は50m走の時よりいっしょうけんめい走った。暗くて、足もともよく見えなかったけど、転ばないでそこまで行けた。
「……」
あの子だった。うずくまっていたみたいで、立ち上がってこっちを向くのが分かった。
「カニ、帰しに、来てたの?」
僕は息を切らしてたけど、がんばってきいた。
「……うん」
あの子はうなずいた。
「カニ、帰ってった?」
「……うん」
ほんとうは、そんなことどうでもよかった。一緒に帰ろう、って言いたかったんだ。
「家族、迎えに来てくれた?」
「……」
返事が聞こえなかった。僕はあの子の名前を呼んだ。
「……うん。来てたよ」
ためいきみたいな声で、あの子は答えた。
「カニも帰ったんだから、僕たちも帰ろうよ」
とうとう、僕は言った。
何でかわかんないけど、涙が出てきた。顔がぐじゃぐじゃになったけど、もともと雨でべちゃべちゃにぬれてたから、気にならなかった。
「みんな心配してるよ、帰ろうよ、一緒に帰ろうよ」
僕はあの子の方に歩き出した。ずるっと足がすべって、僕は転びそうになった。そこに手が伸びて、僕は後ろから抱きとめられた。
「帰ろう、この子の言うとおりだよ」
お父さんだった。お父さんは僕を抱えたまま、ゆっくりあの子に近づいて、あの子を僕といっしょに抱きしめた。
「外に出たかったんだね」
お父さんはやさしい声で言った。となりで、あの子がうなずいた。
「このままいなくなれればいいって思ったの」
泣いてるみたいな声だった。
「なにもできなくて、みんなに迷惑かけて……それに……」
泣いてるみたいなのに、どこか虚ろな声だった。僕はあの子をぎゅっとつかんだ。あの子のパジャマは、雨でぐしょぐしょだった。
僕は、いなくちゃっちゃやだ、一緒に帰ろう、って言った。それだけしか言えなかった。
なにか、他のことを言ったら、あの子が消えてしまうような気がして、僕はあの子にぎゅっと抱きついた。
「迷惑なんて思ってないよ」
月並みだけどね、とお父さんは、いつもの調子で言った。
「君が普通の身体でないことなんて、私たちは気にしていない。それに、サナトリウムにも、転地療養しているヒトだって他に何人もいるじゃないか。負い目に感じることはないんだよ。だから、帰ろう。ね」
あの子はうなずいた。それを体の動きで感じながら、僕は、ああ、やっぱり吸血鬼だったんだな、って思った。
僕はそれから何日か学校を休んだ。熱が出たんだ。頭がぐらぐらして、部屋の中がぐるぐる回って見えるような気持ちの悪い事がつづいて、給食のパンを持ってきてくれた友達にあいさつもできなかった。
「吸血鬼にやられたのよ」
おみまいに来てくれたいとこのお姉ちゃんはそう言って笑った。
うそだい、あの子はそんなことしないよ、って口の中まで出かかったけど、がまんした。お父さんと約束してたんだもの。
「いいかい、今日のことは内緒だよ」
お父さんは、あの子と僕にシャワーを浴びせて、あの子を部屋に帰してからそう言った。
「吸血鬼だから?」
お父さんはまた、あの悲しそうな目になって、そうだよ、と言った。
「だから、これは私たちサナトリウムの職員と、お前だけの秘密だ。いいね」
僕はうなずいた。お父さんは僕の頭をぐりぐりした。
「お前は、あの子が好きなんだな」
僕はちょっと考えた。そうかもしれない。
「もしそうなら」
お父さんは僕の答えを待っていなかった。
「これからも、できる限り、ずっとあの子を見ていておあげ」
「うん」
僕はにっこりした。それなら、僕にだってできる。
「よし。じゃあ、指切りだぞ」
僕たちは、ゆびきりげんまんをした。
今日、熱が下がってから初めて、僕はあの子の部屋に行った。
何かむずかしい字の書いてある札がかかっていたけど、僕は気にしないで中に入った。
あの子はベッドで寝ていた。いつもみたいに点滴を受けて、ベッドから窓の外を見ていた。でも、僕が入っていくと、にっこりしてくれた。
「すごく、怒られちゃった」
あの子は舌を出して笑った。
僕は嬉しくなって、今度は何を見たい、ってきいた。
「……お日様の下で、あの川が見たいな……」
でも、無理だね、とあの子はほほえんだ。
無理なもんか。僕がまっくらな中であの子のことを見つけられたみたいに、あの子が昼間外に出る方法だってきっとある。
僕はいま、その方法をいっしょうけんめい考えている。
いつか、きっとそれは見つかるはずだ。
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HB辺りの鉛筆で書かれた原稿用紙が黒ずんでいるのは、何度も何度も擦れ、鉛筆の黒鉛が幾分紙に移っているからだ。
手垢も付いているし、紙全体が草臥れている。よほどよく読まれたのだろう。
主人公が方法を見つけられたかどうかは判らない。
しかし、吸血鬼扱いとは酷い話だ。それを助長させた主人公の親も、現代的な感覚では容認できないものに思える。
もっとも書かれていることが全て事実とは限らないから、話の演出としてそう書いただけなのかもしれない。今となっては判らない事だ。
俺にとって確かなのは、叔母は酷く虚弱で結婚することもなかったが、老境に差し掛かる今年の冬までは生きていたという事だけだ。
主人公に相当する人物は、恐らく本腰を入れて調査すれば判明するだろう。だが、そんなことをしてどれほどの意味があるとも思えない。
原稿用紙の束を元通り封筒に入れ、がらんとしてしまった部屋の真ん中にあるテーブルの上にそれを置く。
その上に花を置いてみる。
さっき汗を拭きながら取って来たコマツナギの花だ。
これといってどんな花とは書かれていなかったが、この小さな家の近くに咲いていたこれが丁度似合っているように思える。
腰を伸ばし、窓から高原の鮮やかな青と緑のコントラストを眺める。
二人の願いや望みもこの花言葉のように叶ってくれていれば良いのだが、などと考えてから、俺は残りの遺品の整理にかかった。
※4/24 チラシの裏から移動しました。