――最終章
自身の頬に落ちた雫に、運命は目を見開いた。
霞む視界に映るのは、涙を流す記録者の少女。常の嘲笑うような顔ではない、初めて見る泣き顔だった。
(どうして、泣いてるの……?)
それは、意識が遠のいているからなのか、あるいは運命の在り方故なのか。自身の首を絞められ、殺されそうになって尚、彼女の思考はその整った容姿を涙でグチャグチャにする女の子へ向いてしまう。
涙を流しながら、記録者が叫んだ。
慟哭するような声だった。
「キミが、キミがそんな力を持っていなければ――『運命を確定する力』さえ持っていなければ、彼は――唯人が死ぬことなんてなかった! キミがそんな力を持ってさえいなければ、彼が死ぬ必要なんてなかったんだ!!」
泣き叫ぶ声と共に、締められる首。
更に苦しくなる意識はけれど、それでも泣いている少女へ向いてしまう。
どうして彼女は泣いているのだろう、と運命は思う。
そして、気付いた。
いや、ずっと運命は知っていたのだ。ただ、気付かなかっただけで。
だから、気付いてしまえば簡単なことだった。
彼女は、ただ――
(私と、一緒で……)
そっと、運命はその細い腕を上げた。
動かすだけでも思いその手が向かう先は――
記録者が、目を見開く。何故なら彼女の手が行ったのは自身の首を絞める記録者のそれではなく、涙を流すその頬へだったから。
「好き、だったんだね……」
運命が声を出せたのは、自身の首を絞める少女の力が弱まったから。
それが示すのは――動揺。
そして――同意。
「貴女も、唯人君が好きだったんだ……」
それは、あまりにも場違いな言葉だった。
少なくとも殺されかけている今、言うような言葉ではない。
それでも、言葉は紡がれて――
響いた声は、少女に届いた。
ふっと、記録者の腕から力が抜ける。
「けほっ、けほっ」と運命が咳き込む中、記録者は放心したように虚空を見据えていた。
「あぁ、そうさ……」
力のない声が、保健室に響く。
「私は、彼が好きだった……」
運命は知らない。記録者の悲しみを。
記録者として生きるということは、人として生きないことだ。
不老不死というわけではない。
寿命もあれば、病にだって罹る。
首を絞められれば苦しいし、心臓を射抜かれれば絶命する。
だけど、どこまでも――忘れられない。
例え死んでも、生まれ変わった彼女は前世の彼女の記憶を受け継いでいる。
それが示すのは、孤独。
人の人生は、たった一つしかない。
だからこそ、命は尊いのに――記録者にはそれが当てはまらないのだ。
だから、誰とも同じ時間を生きていけなかった。
一つの人生を経験して、達成して――生まれ変わったそこには、彼女を知る者がいないのだから。
そんな孤独が悲しくて、寂しくて、いつしか彼女は独りになった。
誰とも接しなければ、誰かと同じ時間を過ごさなければ、そんな寂しい想いをすることがないから。
だから、誰にも見つからない場所に閉じこもって。
閉鎖して――
引きこもって――
独りになった。
だけど、それでも、寂しさは消えてくれなかった。
慣れてしまえばいいのに――
忘れられない彼女は、少しだけあった幸福の記憶をいつも心の奥底に眠らせていた。
だけど、眠らせても、封じても、そこにある温もりは消えてくれなくて、忘れさせてくれなくて――いつしか心を閉じて、ただただ魔法のあるままに、記録者と言う自身の在り方だけを生きていく彼女を見つけてくれたのが――彼だった。
「たった一人で生きていた私を、誰かと接するのが怖くて――だけど誰かと生きていたいと願っていた私を見つけてくれたのが、彼だった」
それが例え、誰かのためだったとしても――
彼が他の誰かを思っていると知っても――
「それでも、私は……」
それでも、彼女は――
「嬉しかったんだ……救われ、たんだ……」
そんな彼を、助けたいと思った。
自身を見つけて、救ってくれた彼のためになりたいと、そう思った。
そう、彼女の願いは。
たった一つの、その想いは――
「私は、彼に笑って欲しかったんだ……」
見つけてくれて、救ってくれて、好きになってしまった彼のその笑顔を、彼女は見たかった。
記録者の願いは、ただ、それだけ。
「ははっ」と記録者は笑う。嘲るような、自嘲するような、そんな笑み。
「笑ってしまうよ。こんなこと、ただの責任転嫁だ」
力なく、記録者は言葉を紡ぐ。
「この結果は言うなれば彼が望んだモノだ。それを私が納得いかないからと言ってキミに全て押しつけた。――はっ、何がキミのせいだ。何もかも、私が至らなかっただけじゃないか」
そう言って、自虐の笑みを浮かべたまま、その視線が運命へ向いた。
「笑いたければ笑うといいさ。惨めな私を。何もかも人のせいにしてキミを殺そうとして滑稽な私――」
声が、止まった。
記録者が、息を飲む。
唖然とする呼吸を耳元で感じながら、運命はそっと、その細い彼女の身体を抱きしめていた。
「笑わ、ないよ……」
声が震えるのはどうしてだろうと、運命は思う。
だけど、紡ぐ言葉は途絶えはしない。
「分かったような言い方だけど、私、貴女の気持ちが分かる……」
だって、運命もまた――彼女と同じ人を、好きになったのだから。
「大好きな人の力になりたいって、そう思うことはおかしなことでも、滑稽なことでもないモノ……」
「それはね」と運命は真っ直ぐに記録者を見つめた。
「大切なことで、特別な気持ちなんだよ?」
「っ……!」
記録者は、何も言わなかった。
ただ、涙を流して、俯いて。
そんな彼女を、運命はそっと抱きしめた。
自身を弾劾して、自身を殺そうとした少女。
だけど、彼女は――運命と同じ人を好きになった、ただそれだけの女の子でしかないから。
二人の少女は抱きしめ合う。
そこに、言葉はなかった。
どれほどそうしていたのだろう。
保健室の窓から見える太陽はもう茜色になり、どこか鞘呼の千剣を思わせた。
そんな中、小さく、
「たった一つだけ、方法がある」
紡がれた言葉に「え?」と運命が目を丸くすれば、記録者は常の皮肉るような笑みではない、真剣な表情を浮かべた。
「方法って……もしかして!」
「あぁ――唯人を生き返らせる方法だ」
言葉に、思わず運命を立ち上がってしまった。
唯人が生き返る――そう思うだけで涙が出て変な声が出そうになる。
だが、そんな喜びも難しい顔をする記録者を見て怪訝に変わった。
「どうしたの?」
「……キミは、『死』とは何だと思う?」
質問に返される質問。
目を丸くして首を捻る運命の答えを待たず、記録者は続けた。
「それは、数少ない『絶対』の一つだ」
「絶対……」
「あぁ。絶対――例外もなければ異例もありはしない、そう、例えキミの魔法――『不確定なる運命を確定させる力』を以てしても変えられないモノだ」
「私が何が言いたいのか分かるかい?」と問うて来る記録者に、運命は数秒考え、頷く。
「人を生き返らせることは、出来ないってこと?」
「あぁ」
「だったら――」
つい詰め寄ってしまう運命を記録者は手で制す。
「言いたいことは分かる。だが私もぬか喜びさせてキミをいじめるほど性格は……まぁ悪くないわけではないが時と場合と場所くらい選ぶさ」
「え? 貴女は良い人だよ?」
「……キミの天然については後で剣王にでもツッコミを入れてもらいたまえ。ともあれ私が言いたいことは唯人はまだ、『完全に死んではいない』ということだ」
「説明するよ」と記録者は続けた。
「キミは、魔王――唯人が死ぬ瞬間を見たね?」
「……うん」
最後の箱舟での爆発。人の許容できる限度を超えた魔力爆発をやって生きていられる人間などいはしないのだ。
「だが、おかしなことにその直後、唯人は心中しようとする私のもとに来ていた」
「そのせいで死ねなかったのだけどね」と自嘲するように笑う記録者。
「あの時は気付かなかったが、思い起こせば彼はその時、全身を崩れさせていた」
「……唯人君の魔法は時間操作。そう考えると、唯人君は爆発する自分の時を止めて、その間に貴女を助けたってことだよね?」
「思いの外頭の回転は速いようだね。犬以下だと思っていたよ」
「えへへ~」
「褒めてない、というかもしもこの場に読者と言う名の第三者がいたのなら『テンプレか!』というツッコミが入りそうな会話だったね。それはそうと、私はその時の彼を『記録』している」
これには運命も良く意味が分からず首を傾げてしまう。
記録者は小さく肩を竦めた。
「分からないのは仕方ないさ。まぁ要するにだ。パソコンで言うなれば彼は今ゴミ箱に入っているということだよ」
「た、唯人君はゴミなんかじゃないよ!」
「デスクトップにゴミ箱のアイコンがあるだろう? つまりはアレさ。コンピュータに疎い人間は勘違いしがちだが、ゴミ箱にデータを捨てても消去される訳ではない。ただそこにデータが行くだけなんだ。データを完全に消去するにはそこから更にデータの消去作業を行わなければならないんだよ」
「厳密にはもっと細かいことが必要だけどね」と記録者は続け、
「ここまで言えば分かるかい?」
「……つまり、今の唯人君はゴミ箱に入ったデータってこと?」
「イエス」と記録者は笑う。
「そしてその段階ならば――キミの魔法で彼を救いだすことが出来る」
「……!」
目を見開く運命。
「そ、それはどうすればいいの!?」
「簡単な話、と言いたいところだがね、正王。キミの魔法ははっきり言って万能だ。剣王以上に強力で、盾王以上に強固で、心王以上に繊細で、そして私以上に多才」
「正王」と真剣な声はどこか呆れが混じっていた。
「運命を確定させる力――唯人がキミに最後まで隠し通したかった力とは、そういうモノなんだ」
「……?」
記録者の言葉の意味が良く分からず運命は首を傾げる。目の前の少女は小さく苦笑を洩らした。
「要するに、キミは『キミがそう思えば現実にそうなる力』を持っているというわけさ」
その言葉に、シンと空気が静まり返った。
運命は、彼女の言葉を反復する。
(私がそう思えば現実にそうなる、力……)
それが本当だとするなら、確かに記録者の言う通り運命の魔法は万能だ。何しろ『思えば』いいだけなのだから。
けれどそれは――運命が思っただけで魔法が発動するということで。
つまり、全てのことが魔法によって決定されてきたということ。
運命は思った。
鞘呼と、御盾と、心と友達になりたいと。
心に心自身を好きになってもらいたかった。
御盾に自身の魔法を受け入れてもらいたかった。
鞘呼に彼女の持つ本当の強さを知ってもらいたかった。
運命はそう思って、彼女達と共にいた。
そして大切な友達は、運命の願った通り皆、自分の大切なモノに気付いてくれた。
だけどもし――それが運命の魔法によるものだったのだとしたら。
そこに、彼女達の意思はあるのだろうか。
それは――運命が魔法で彼女の願いを押しつけてしまっただけではないのか。
あぁ、と運命は思う。
(だから、唯人君は私の魔法を隠そうとしたんだ……)
知ってしまえば、もう戻れない。
圧倒的な力はもはや暴力のそれだ。それが制御できないモノならばなおのこと。
「絶望したかい?」
問うて来る記録者はけれど、その目を丸くする。
そこに、困ったような笑みを浮かべた運命がいたから。
「ちょっとだけ、びっくりしちゃった……」
「だけどね」と運命は言いかけ「ううん」と首を振る。
「これは、唯人君に直接言うことにする」
「そうかい?」
「うん」
「そうか……」
記録者は、それ以上運命の魔法について追及してこなかった。
ただ、話だけは進めていく。
「先ほどコンピュータに例えたが、現実の唯人の状況はかなり危うい場所にある。言うなれば時間制限ありの無理ゲーさ。チートでもしなければ攻略は難しかった」
語尾が過去形になっているということはつまり――
運命は、自身の手の平を見る。知らず溢れる白の魔力が、記録者の言う『チート』なのだろう。
「私の力が」
「そう、唯人を助けるために必要になる」
「正王」と記録者の真摯な瞳が運命を見据えた。
「キミは――世界を敵にする覚悟はあるかい?」
答えは――即答だった。
そんなこと、考えるまでもないから。
唯人とまた会える。その微笑みをまた向けてもらえる。
それならば、運命はどんな困難にだって向かっていける。
何よりも――運命が思いだすのは、記録者に見せられた最後の唯人の記憶。
――だけど、もしたった一つだけ願えるのなら。
――運命さん。
――僕は、もっと、ずっと。
――貴女と一緒に――生きたかった。
彼が、そう望んでくれたのだ。
運命が迷うはず――なかった。
「うん!」
頷かれるのは、笑みに満ちた顔。
そんな運命を見て、記録者の顔が小さく歪む。
どうしたのだろう、と運命は思い尋ねようとするが、まるでそれを気のせいと言うように彼女は小さく微笑んだ。
「いい返事だ、流石は正義の味方と言ったところかな。私では絶対に無理な表情だよ」
「そんなことないよ! だって貴女はいい人だもの!」
「さて、具体的な案だが」
ここに鞘呼がいれな『華麗なるスルー!』とツッコミが来そうな会話だった。
「キミにはゴミ箱に行ってもらう」
「……」
「念のため言うが比喩だよ? ゴミ箱――つまりは今、唯人がいる場所さ。生と死の境目、境界線と言ったところかな? 今、彼はそこにいる。そもそも私の記録というのは言うなれば魂の形であってね、脳にある電気信号のようなものではないんだよ。だからこそ、最後の最後で間に合った」
「我ながら無茶をしたものだよ」と記録者が苦笑する。
「そして、正王。キミにはそこに行ってもらう。勿論そこは生身で行けるような場所ではないから私の魔法でキミの魂の記憶をそこに送るという形になるがね」
「うん」
「あぁ、安心したまえ。魔法は十全に使えるさ。むしろ身体がない分いつも以上に勝手がいいだろう」
「さて」とそこで一息。
「正王、残念ながら私の魔法では『境目』へキミ一人を送ることしか出来ない。それほどまでに生と死の境は危ういところなんだ。あるいは、下手をしてキミが死んでしまうかもしれない」
「……」
「しかも、それを行うのは私だ。正王――キミの命は一時とはいえ私の手の中にあることになる」
記録者が何を言いたいのか。
つまりは、裏切りの話をしているのだ。
無防備な運命をいつでも殺せる――彼女は暗にそう言っている。
「それでも私を――」
言葉は、最後まで続かなかった。
「信じるよ」
真っ直ぐに、真摯に、向けられた黒の瞳と優しい声。
小さく目を見開く記録者に、運命は微笑みを浮かべる。
「私は、貴女を信じる」
「……どう、して……」
記録者には分からないのだろう。どうしてそこまで運命が彼女を信じられるのか。
だけど、運命にとってそれはひどく当たり前なことだった。
「だって」と運命は目の前に少女の手をそっと握る。
「貴女は、唯人君を好きになった人だもの」
「……!」
同じ人を好きになった。
同じ人に恋して愛した。
運命が記録者を信じる理由なんて、それだけで十分だった。
「唯人君のために一生懸命頑張って、唯人君のために涙を流してくれた貴女だもの」
運命は、二コリを微笑む。
心の底から、それは温かくなる笑顔だった。
「信じられないわけ、ないよ」
「……キミは、お人好しなんだね」
苦笑するように、何か眩しいものを見るように目を細める記録者に運命は笑った。
「正王」と記録者が運命の手を取った。そのまま彼女は運命を抱き寄せると、その額にそっと指をあてる。
「今からキミを、境目に送る。そこにはキミが今まで戦ったことがないほど強い敵がいるはずだ。あるいはキミの魔法を以てしても敵わないかもしれない」
「うん」
「それでも、行ってくれるんだね?」
「うん」
「なら、もう私からいう言葉はないよ」
そう言って魔法を発動させようとする記録者に向けて、
「あ、あの!」
「うん? なんだい?」
「あなたの名前、何て言うの?」
それは、記録者にとっても予想外の言葉だったのだろう。
目を白黒させる記録者に、運命は「だってね」と説明する。
「私たちは、もうお友達でしょう?」
「友達……」
「だったら私は、貴女のことをちゃんと名前で呼びたいな」
それは、複雑な表情だった。
初めは目を丸くし、次いで苦笑、そしてどこか自嘲気味な笑みを記録者は浮かべていく。
そして、
「キミは、本当に変な娘だよ」
「そうかな?」
「あぁ」
「えへへ」
「――メモリア」
「――え?」
「それが私の名前だよ」
そう言って苦笑する記録者――メモリアに、運命は満面の笑みを浮かべた。
「メモリア――メモリア、いい名前だね!」
「そうかい?」
「うん! 私は正王運命」
「知ってる」
「だけど、呼んでもらったことないよ?」
首を傾げて運命が言えば、メモリアは降参と言うように肩を竦めて、
「……運命」
「――うん!」
そう頷いて、運命は優しく微笑んだ。
自身の胸にそっと体重を預けてくる正王――運命をメモリアは床に横たえた。
彼女の顔に、先までの微笑みはない。
ただ無表情に、自身を友達とそう呼び、唯人を助けに境目へ送った少女を見下ろす。
「すまない、とは言わないよ――正王」
あえて名前ではなく称号を呼ぶその意味はいったい何なのか。
「私は、例えキミを世界の生贄にしてでも――彼を助けてみせる」
静かに保健室に響くその声を、聞くモノは誰も――いなかった。