それは、とても緩やかな時間だった。
泣きながら微笑む運命を、唯人が受け入れてくれる。
魔王との戦いの最中であることを忘れてしまいそうになるそれは、けれど永くは続いてくれない。
ずっとそうしていたいと運命が願っても、終わりはいつだって、そこにあるから。
――スッと、不意に唯人の温もりが離れた。終わりの合図だ。名残惜しさを感じながらも、運命はそっと彼から離れた。
唯人は、優しく微笑んでいる。
「運命さん、誰か使いを呼んでもらえますか?」
ほどなくして現れたメイドは、唯人に一言二言言われ、部屋を出て行った。だがそれも少しのことだ。そう時間をかけずに戻ってきたメイドの手には円柱型の何かがあって、持っていた四本のそれを、唯人に渡して退室する。
「唯人君……?」
目を丸くして運命が問えば、彼は優しく微笑んだ。先生が生徒を見る、優しい眼差し。
「皆さん、並んでもらえますか?」
『……?』
疑問に顔を見合せながらも、運命たちは唯人の前に並ぶ。右から心、御盾、運命、鞘呼の順だ。
そんな少女たちに、唯人が微笑みかける。
「……こんな時、何を言っていいのか分からないものですね」
苦笑にはどこかテレが見えた。
唯人の視線が、まずは心に向く。
「心王心さん。貴女は今まで多くの辛いことを経験してきましたね。それは生半可なことではなかったでしょう。恐らくは、自分の想像など軽く超えているのでしょうね」
「……」
「自分が初めて貴女を見た時、感じたのは仮面でした。貴女は終始笑っているのに、笑っていない。どこまでも誰かの心を暴いて、他者の自分に向けられる恐怖を嫌い、そんなことが見えてしまう自身を、もっと嫌っていました。そんな貴女が創った仮面を――心の壁を、自分は否定しません。否定はしませんが――少し、悲しく在りました」
「心さん」と唯人は呼ぶ。
「そんな貴女に問います。貴女は今――自分のことが嫌いですか?」
「いいえ」
答えに、迷いはなかった。
心の瞳が、運命に向いた。初めて運命が会った時から綺麗だと思っていた銀の視線。そこにあるのは、あの頃にあったどこか探るような迷子の色ではない、優しい温かな温もり。
「私のこの瞳を受け入れてくれた人がいます。だから私は、もう自分を嫌いになりません」
心のその言葉に、唯人は満足そうに頷く。
そして、黒の視線は次いで翠緑の少女へ向けられた。
「御盾さん。あなたずっと悲しんでいましたね。守るべきものを見つけられず、守ってくれていた姉を失い……あの雨の中の貴女は、ひどく寂しそうに見えました」
「……」
「ですが、今の貴女には迷いがありません。その澄んだ翠緑を見ればわかります。きっと、何よりも守る者が見つけられたのでしょう。自分はそれを、嬉しく思います。きっと無盾も、そう思ってくれているはずです」
「御盾さん」と唯人は微笑みを浮かべた。
「これからも、その翠緑で皆を守ってくださいますか?」
「はい――そのために、私はいます。そのことを、教えてくれた人がいますから」
そっと、御盾の手が運命の手を握った。翠緑の盾は、けれどもう、大切な人の温もりを拒絶しない。
そんな彼女を、唯人は優しく見ていた。
その微笑みが、鞘呼へ向けられる。
「鞘呼さん、貴女はずっと強さを追い求めてきましたね」
もう伝えることは伝えたように、短く、彼は問いかける。
「強さの意味は――わかりましたか?」
「当然でしょ?」
力強い笑みは、今と少し前では意味を異ならせる。
それほどまでに、今の鞘呼は『強かった』――本当の強さを、持っていた。
「力しか見てなかった馬鹿に、命をかけて諭してくれたやつがいるんだもの」
鞘呼の紅い髪が翻り、その視線が運命を映す。
三人の王の視線を受ける運命は、優しく微笑みかけた。
「運命さん」
そして最後に、唯人が、運命に言葉を贈る。
「自分は、この様でこれから貴女の隣りに立って、戦うことは出来ません。ですが、覚えていてください」
そっと黒の髪を揺らして、唯人は微笑んだ。
「貴女の周りには、こんなにも素晴らしい人たちがいるんです。だから、これからどんな辛いことが起きても、貴女は独りじゃない。だから――大丈夫です」
そう言って、唯人は一人一人に、円柱型の筒を渡していった。運命が首を傾げながらそれを開ける。
ポンと、場が和む音。
中から現れたのは、一枚の紙だった。
一枚一枚に別の人間の名が書かれた、唯人の字で綴られたそれ。
共通点は、最初の一行だけ。でも、それが全てを物語っていた。
何故ならそこに――卒業証書と書かれていたのだから。
「皆さん、全員そろって合格です」
運命は少しだけ目を丸くして、小さく微笑む。周りを見れば、三人も似たように笑っていた。
「運命さん?」
「唯人君、気が早いよ」
運命に続き、鞘呼が言う。
「そうよ。まだ魔王のあんにゃろうを倒してないんだから」
「これはそれが終わった後、渡すべきですよ」
「心殿の言う通りです――ですが」
四人は目を合わせて――そっと、その頭を下げた。
生徒が先生に御礼を言うように。
「ありがと」
「ありがとうございます」
「べ、別に嬉しくなんかないんですからね!?」
「「空気を読みやがれ心王」」
「はい……ありがとうございます!」
最後に、運命が微笑んだ。
「すっごく嬉しいよ、唯人君!」
唯人は、優しく微笑んで――不意にその顔に、眠気を含んだ。
無理もない。今でこそこうやって平気そうに話しているが、本来は怪我人なのだ。回復には未だ時間がかかるのだろう。
うとうとと、瞼を揺らす唯人。そんな彼を、運命がそっと抱きしめるようにベッドに寝かせた。
「運命さん……」
「髪、伸びたね……」
そっと、運命は彼の黒髪に触れる。三日に一度は斬らないと地面についてしまう彼の髪は、もう女性のそれと言われても頷けるほど伸びきっていた。
「帰ってきたら、切らせてね。唯人君」
それは、必ず勝って帰るという誓いの言葉。
唯人は、もう声を出すのも億劫なのだろう。小さく微笑んで――その瞳を閉じた。数瞬後、聞こえてくる眠りの吐息。
眠る唯人の頬をそっと撫でて、運命はもう一度呟く。
「絶対、皆で帰ってくるから」
皆で一緒に眠ろう――そう運命が提案すると、皆は笑顔で頷いてくれた。
寮室の一室。いつもなら二人で眠る場所に、今四人は並べたベッドの上で一緒に眠っている。既にライトは消されて、部屋に入る光源は月明かりのみだ。
それは、ひどく静かな夜だった。
銀色の淡い光が照らす部屋。四人は手を繋いで、天井を見つめる。
「運命、ホントにいいの?」
鞘呼の静かな問いかけに、運命は小さく「うん」と答えた。
「唯人君には、言わないで行く」
運命が知らないところで渡されていた魔王からの手紙。
それに書かれていたのは、ただ簡潔的なことだった。
決着をつけよう。時刻は明日。迎えを寄越す――その旨が記されたそれの存在を、運命は結局唯人には伝えなかった。
何故なら彼は――優しいから。
さっきは自分は一緒に戦えないと言っていたけれど、いざ魔王との戦いになれば彼は自身の身体を考えず運命たちの隣りに立とうとするはずだ。
運命のそばにずっといてくれた彼だから、運命にはそれが分かる。
だから――言わずに行くと決めた。
彼を守りたいから――
もう彼に、傷ついてほしくないから。
「運命さんがそう言うなら、私たちはその意思を尊重しますよ」
「えぇ、立派です。運命殿」
「ありがとう、皆」
ニコリと微笑む優しい顔は、月光に光に映えて、ひどく幻想的な雰囲気だった。
そうやって、静かに時は過ぎて行く。
部屋になるのは、少女たちの微かな吐息と時計が針を刻む音。
誰も、何も言わなかった。
決戦前夜――あるいは、皆緊張しているのかもしれない。
魔王は強敵――というにはあまりにも言葉が足りない相手なのだ。それでも、平和のためには彼を倒さなければいけない。
彼は、多くの民を滅ぼし、四人の前王を殺しつくした最『悪』なのだから。
ならば、何故彼は――
「なんで、魔王はこんなことをしてるのかな?」
ふと、思った疑問は言葉に出ていた。
最初に答えを返したのは、鞘呼だ。
「そりゃ、自分が王になりたいからじゃない?」
「あるいは世界征服が望みなのかもしれませんね。ラスボスの考えそうなことです」
続く心の言葉に、けれど運命はどこか納得できなかった。
「運命殿は、他に理由があると考えているのですか?」
「うん……その理由がなんなのか分からないんだけど……」
「……案外、復讐かもね」
ぽつりと、呟かれたその台詞は響きの割にひどく空気を重くした。
「四国の王――中立の正王はともかくとして、私たちの親は殺し合いをしていたわ。戦争だって日常茶飯事だった。だからもう麻痺しちゃったのかもしれないけど、ここに来て、平和で楽しい生活に身を置いて、気付いたことがある」
鞘呼の言葉に、誰も口を挟むものはいなかった。
「人が死ぬっていうのは――すごく、重いことなんだって」
鞘呼は、戦いの中で消えゆく命を数多く見てきた。
心は、自国の中で息を引き取る人間の心の最後を見てきた。
御盾は、誰よりも大切だった姉の死で、人の死を知った。
しんと静まり返った部屋。「もし」と運命は呟く。
「もし、鞘呼ちゃんの言ってる通りだったら――」
置かれる、一呼吸。
「悪は、私たちなのかな」
悪――それはあまりにも抽象的な言葉だった。
運命にとって悪とは悪い人だ。誰かを傷つける人。誰かを苦しめる人。魔王はまさにそれだった。だから、彼をこのままにしてはおけないと思った。
けれど――もし彼が犠牲者だったのだとしたら。
そんな彼を倒そうとする自身たちは、悪なのではないか――そう思った時。
「かも、知れないわね。でも――だからって、あいつの行為を許すわけにはいかないわ」
それは、揺るがない言葉だった。
運命は鞘呼を見る。紅い髪の彼女はその精悍とさえ言える顔つきに笑みを張り付けて行った。
「何が正しいとか、何が間違ってるとか、そんなことを私たちが深く考えたって仕方ないことよ。なら、思うままにやらないと。後悔なんて残さなくていいように、ね」
「流石鞘呼さんです。安直で安易で浅はかで能天気な素晴らしい考えですね!」
「オーケイ心。ちょっと表に出ましょうか……」
「死亡フラグキタコレ」
軽く笑い、「ですが」と心が言った。
「鞘呼さんの言う通りです。今は、私たちが信じる正義を貫きましょう」
「正義……」
正義。運命の正義は――思いだすのは、微笑む唯人。
「唯人殿が築いてくださった、私たちの関係です。唯人殿が積み重ねてきた、私たちの目的です。信じるのは、それだけで十分でしょう」
唯人がこうやって皆を集めたのは、魔王を倒すためだ。
でないと、運命が魔王に殺されてしまうから。
優しい唯人は、ずっと隣にいてくれた彼はきっと、そのためだけに頑張ってくれた。
そう思えば、運命は迷わずにいられる。
彼を誰よりも信じているのは、運命なのだから。
「うん!」
頷きに、返されるのは優しい微笑み。
「じゃ、悩みも消えたところで寝るわよ」
「え? 鞘呼さんって悩みあったんですか?」
「うん、心。あんたとは一度じっくり話し合う機会が必要みたいね」
「ね、ねっとり……!?」
「じっくりよ! どこをどう聞き間違えればそうなるんですかねぇ!?」
「では鞘呼殿、参考までに貴女の悩みとやらを聞かせてもらえませんか?」
「……」
「目を反らしましたね。それはもういっそ潔いほどに」
「ば、馬鹿にすんな! 悩みくらいあるわよ。そうね……乙女らしく恋の悩みとか……」
「乙女ww」
「恋の悩みww」
「「スイーツwwwwwwwwwww」」
「死ね! 二回死ね!」
「それで、鞘呼ちゃんは誰が好きなの?」
「運命!? 今までこれ系の話題に入ってこなかったあんたがどうしてこの場面で!?」
「えへ。だって大事に友達のことだもん。出来れば応援したいなって」
「運命……」
「そう言って、鞘呼は潤んだ瞳で運命を見つめた。それはひどく切ない、心の揺らぎ。間違っている、そう思っていても止まらない、心の衝動……」
「運命には好きな人がいる。そして自分は女なのだ。運命を幸せには出来ない――そう分かっているのに、あぁどうして、私の手は運命の頬に触れてしまうのだろう。その頬を引き寄せて、唇へ誘われてしまうのだろう」
「そっと近づく二人の――」
「無駄に文才発揮してんじゃないわよ馬鹿コンビ!」
「「ふひひ、サーセンww」」
「鞘呼ちゃん、ごめんね。でも、私唯人君のことが好きだから、鞘呼ちゃんの気持ちに応えてあげられない……」
「運命も本気にしないで――って心! 何カンペ運命に読ませてんのよ!?」
「百合は素晴らしいです!」
「いきなり何の宣言!? そしてすっごいどや顔がウザいんですけど!?」
「さて、ここから始まる鞘呼殿の怒涛のツッコミ百連発をお楽しみください」
「やんないわよ!? あと私が百回ツッコミするならあんたたちは百回ボケることになるんだけどね!?――はっ」
「はいまず一回いただきました」と御盾。
「数えんな!」
「二回目いただきました」と心。
「だからやめろと――」
「三回目ありがとうございます!」
「もう私が何言ってもツッコミにする気満々よねぇ!?」
「四回目ぇ!」
「なんか一昔前に流行った芸人のような言い方!?」
「グォレンダァ!」
「それマニアックすぎでしょ!? ちなみにこれは五連打って意味よ!」
少女たちの夜は、更けて行く。
決戦前夜――その夜としては、あまりにも笑顔に満ちた、そんな彼女たちらしい夜だった。